翻訳 & 編集・序文
ヴィーダ・ダットン・スカダー
ロンドン、ニューヨーク:J.M. Dent and E.P. Dutton、1905年
本形式をパブリックドメインで公開しているサイト:
onlinebooks.library.upenn.edu
目次
書簡の宛先一覧
書簡に見るシエナの聖カタリナ
聖カタリナの生涯の主な出来事
同時代の社会の主な出来事の概略
(My Catholic Lifeの小伝もご覧ください)
書簡:
書簡の宛先一覧
書簡の宛先一覧
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カタリナ・ベニンカーサの書簡
書簡に見るシエナの聖カタリナ
I
シエナの聖カタリナとして広く知られるカタリナ・ベニンカーサの書簡は、イタリアの古典となっています。けれども、読者がまず心を引かれるのは、その文学的な技巧とは無縁な性格かもしれません。この書簡の価値が分かるのは、学問を身につけていない一人の庶民の娘であり、しかも天才であり聖人でもあった女性の心と精神から、ほとばしるようにあふれ出る言葉に耳を傾けたいと願う人だけでしょう。十四世紀イタリアのほかの偉大な作家であるダンテ、ペトラルカ、ボッカッチョは、いずれも何らかの形で言葉を選び抜くことに心を砕いています。カタリナが心を砕くのは、伝えたいことを相手の心に深く届かせることだけです。その書簡は、書かれたというよりも語られたものでした。彼女が字を書くことを覚えたのは、死のわずか三年前のことです。その後も、秘書を務める貴族の若者たちに手紙を口述するのを常とし、ときには二通、三通の手紙を同時に口述することさえありました。
この熱のこもった語りに耳を傾ける現代の読者は、初めのうち疲れを感じるかもしれません。言葉の多さに息苦しくなり、たびたび現れる粗削りな表現や混乱した比喩に抵抗を覚えて、その思想を幼稚と呼び、語調を感情過多と評したくなることさえあるでしょう。けれども、どうか根気よく読み進めてください。目的や状況に目を留めながら、これらの書簡を自伝の各章として読み、その行間から、さほど難しくなく読み取れる書き手の体験をくみ取ってみてください。やがて、生きた一人の女性の声の響きそのものが耳に届くでしょう。友や過ちを犯した人に熱心に訴えかける声、巣立ち前のひなのような魂を母鳥さながらに優しく包む声、教会と世界の罪を嘆いてすすり泣きに途切れる声が聞こえてきます。また、回復と刷新を告げる預言を高らかに歌い上げ、あるいは畏れに満ちた低い声で内的生活の聖なる神秘を語る声も聞こえてくるでしょう。ダンテの描く貞潔の天使は、巡礼の山で旅人を「わたしたちの声よりも、はるかに生き生きとした声で」迎えます。聖人の声は、天使の声と同じく、わたしたちの声よりも生き生きとしています。これらの書簡には、幾世紀もの隔たりを越えて、書き手のいるところへとわたしたちを引き寄せるほどの、強烈な生命力が満ちています。
列聖された聖人たちを思い浮かべると、初期のモザイクに描かれたおとめたちや証聖者たちのように、厳粛な姿で一列に並び、単調で変化のない礼拝の身振りをしている姿を想像しがちです。けれども実際には、列聖された人々は、正義を求めて励む同時代の男女の中でも、最も際立った個性の持ち主でした。確かに、皆きわめて善良な人々でした。しかし、それとは反対の奇妙な先入観があるとはいえ、善は悪よりも多様なあり方を許し、より興味深い人物を生み出します。カタリナ・ベニンカーサは、おそらく十四世紀で最も傑出した女性であり、その書簡は、外に現れた生涯と内面の生活の両方を伝える、貴重な個人的記録です。透き通るような素朴さと中世ならではの古風な趣があり、ときに庶民的で粗削りな言い回しが見られながらも、そこには実に多面的で、しかも気高い人柄が表れています。そのため、感受性豊かな読者は、シエナの染物職人の娘を、偉大な時代を代表する最も重要な著述家の一人と見なす彼女の同胞たちの評価に、賛同せずにはいられません。
II
優れた書簡の書き手のすべてではないにせよ、その多くがそうであるように、カタリナも主として他者との関わりを通して自らを明らかにしています。確かに、その書簡の中には、宗教や政治について綿密に論じたものもあり、一見すると個人的な色合いはほとんどないように思えます。それでも、そうした書簡に込められた霊的な美しさと知恵を余すところなく受け取れるのは、それが書かれるに至った状況と、宛先となった人々を知っているときだけです。書簡集の索引に目を通すだけでも、彼女が同時代の人々といかに幅広く関わっていたかが分かります。彼女は人間的な魅力を備え、熱い共感を驚くほど広く注ぐ女性でした。他の国々の人々と結んだ数多くのつながりは言うまでもなく、イタリアのあらゆる社会階層から、友や弟子たちをその周りに集めました。彼女は、囚人や社会から排斥された人々に、大貴族やごく普通の商人に、医師、法律家、傭兵隊長に、王や女王、枢機卿や教皇に手紙を書きました。また、至福直観を追い求める隠修者にも、肉の欲に浸り、この世の生活への高慢に支配されている世俗の男女にも書き送りました。ページを繰るにつれ、十四世紀の社会が次々と目の前を通り過ぎていきます。
カタリナは、こうした人々すべてに、同じ飾り気のない心で手紙を書きました。誰とでも気兼ねなく接することができたのは、彼女にとって皆が、単なる形式的な呼び名ではなく、まさしく「キリスト・イエスにおける最愛の兄弟姉妹」だったからです。この女性の恐れを知らない率直さと、相手に応じる見事な柔軟さの、どちらにより深く心を打たれるべきか分かりません。彼女は当時の最もおぞましい罪を、飾らず単刀直入に取り上げることもできれば、霊的体験の最も捉えがたい諸相を、繊細な洞察をもって扱うこともできました。幻を見つめるまなざしを持つ若いドミニコ会の女性と、サー・ジョン・ホークウッドのような男との隔たりほど、大きな隔たりは想像できません。彼は向こう見ずな傭兵で、最も高い報酬を出す者に屈託のない熱意で剣を売り、時代の混乱に乗じて私腹を肥やしていました。カタリナは、彼とも心を通わせられることをこの上なく穏やかに当然のこととして手紙を書き、彼が生来持つ情熱や好みを捉え、彼が愛する軍人としての生活を聖化しようと努めます。同じ修道生活を送る姉妹たちに対しては、その方法が変わります。彼女は繊細な想像力を自由に羽ばたかせ、自然の美しさや、優しく身近なもの、女性ならではの穏やかな技や本能から比喩を引き出します。気弱な教皇グレゴリウスに語りかけるときはどうでしょうか。その言葉は、奮い立たせるラッパの響きとなります。その後継者で、厳しいウルバヌスに対してはどうでしょうか。細やかな配慮を尽くして、自制と穏健な方策を勧めます。彼女の書簡には、あらゆる気質の人々が登場します。「思考の混乱」に悩み、それが深まって憂鬱に陥る繊細な詩人、明るく喜びに満ちた姿のうちに彼女が超自然の恵みの芽を見いだす無鉄砲な少年、激情に駆られる罪人、おびえる聖人、独善に欺かれた隠修者、そして地道な務めに敬虔に忠実である実務家たちです。カタリナは、一人ひとりの内面に分け入ります。私たちは概して、非常に清らかで霊的な女性には、たとえ修道院に閉じこもっていなくても、どこか現実感覚に欠けるところがあると思いがちです。その繊細さという美しい花がしおれないようにと、彼女たちを大切にし、世の荒々しさに触れないよう守ろうとします。しかし、カタリナに対してそのように感じた人はいなかったようです。彼女の「霊魂への愛」は、この表現から私たちが時に連想する、冷たい電灯の明かりのようなものではありませんでした。それは、現実に生きる男女に向けられた、温かく理解に満ちた優しさでした。世の中と人の心を彼女がどれほどよく知っていたかは、どれほど強調しても、しすぎることはないでしょう。
それでも時に、カタリナは厳格で、求めることの多い人に見えます。非難するときには容赦がなく、愛する人々への要求にも譲るところがありません。彼女の手紙の多くには、勧告が次第に叱責へと高まっていく調子があります。最初に受ける印象は、快いものではありません。この変わることのない率直さを、あら探しのように感じてしまいがちです。教皇に宛てるときも枢機卿に宛てるときも変わらず明瞭な、権威を帯びた口調に反感を覚え、一言で言えば、カタリナ自身が、私たち哀れな人間にはふさわしくないと絶えず戒めている、まさにその裁く態度を取っているのではないかと疑いたくなるのです。そして、寛容と忍耐を求める訴えがあまりに頻繁であることは、彼女自身が弱さを自覚していたことを示しているのかもしれません。才気と情熱にあふれる人の多くがそうであるように、彼女もおそらく生来、批判的で気の短い性分だったのでしょう。そのうえ、彼女は平民の出でした。人々が悪魔の側についていると確信するときには、持ち前の率直さを存分に発揮することがあります。その結果が驚くべきものであることは、認めざるをえません。それでも、息をのむその瞬間にさえ、彼女の言葉にはおそらく正当な理由があったのだと気づきます。彼女が向き合った罪がいかにむき出しの醜悪なものだったかを心に留めることは、現代の私たちには難しいことです。誰もが外見上は同じ程度に品行方正であるかのようになり、偉大な聖性も劇的な罪深さも、ともに目立つことがまれになった今日、私たちは中世の激しい対照を忘れています。福音的勧告が求める高い完徳を目指す清らかな「修道者」たちは、道徳的にむごたらしい行いがなされるただ中で日常を送り、大胆で力強い言葉を語ることは、実際上の義務だったのです。カタリナは、当時の最も甚だしい悪を避けることなく取り上げました。そして、ただ率直に向き合う力によって彼女が人々の心を捉えたその影響力は、まさに並外れたものでした。
カタリナの歯に衣着せぬ物言いが反感を買わなかった理由は、容易に分かります。彼女が叱責から始めることは、めったにありません。まず響くのは謙遜の調べです。彼女はいつも「イエス・キリストのしもべたちに仕える、しもべであり奴隷」なのです。そこからしばしば、ある特定の主題についての熱い黙想へと進みます。神の愛の、この上なく驚くべきありよう、祈りの務め、従順の本質などです。私たちは世を超えて、天の光と甘美さに満ちた領域へと引き上げられます。ところが突然――渾身の一撃です!――はっとするほどの衝撃とともに、地上へ引き戻されます。カタリナは、聖性の美しさを観想する私たちの向きを素早く変え、それに相反する罪に向き合わせたのです。「その人は、あなたです!」痛みを帯びた鋭い言葉が幾つか続くと、天上へと高められていた魂は目を覚まし、あれほど美しいものすべてに矛盾するものを、自らの内に見いだします。カタリナは、その魂とともに闇の領域へと入っていきます。罪を犯したのは「あなた」ではなく、「私たち」なのです。彼女はその罪深い心を自分の心にあまりに近く抱き寄せるので、二つの鼓動は一つに重なります。その言葉は時として、自ら体験して知るはずもない罪について、身を震わせるほどの、自分自身の悔恨を表します。人々と一つであるという彼女の感覚は、いかなる兄弟愛の理論よりも深いところに根ざしています。彼女は、自分も兄弟たちの罪を負う者だと、まぎれもない現実として感じているのです。その体験は、清らかさだけが完全な悔い改めを知りうるという、深遠な真理を示しています。
こうしてカタリナは、手紙の相手に驚くほど深く自分を重ね合わせることによって、ファリサイ派的な態度に少しも陥らずにいます。しかし、彼女の姿勢を理解するには、さらに深く見ていかなければなりません。というのも、彼女は悪を非難するだけで立ち止まることが決してないからです。魂は自分の罪を認めさえすれば、それを憎み、そこから永遠に抜け出すことができるという確信に満ちて、彼女はすぐさま熱烈な呼びかけへと進みます。その言葉には、最も頑なな人に書き送るときにさえ揺らぐことのない、人間への信頼が息づいています。罪に対する妥協のない憎しみと、罪人との気負いのない交わり、そして徳への呼びかけにその人が応えるという揺るぎない信頼とを両立させるのは難しいことですが、彼女はそれをまれに見るほど見事に成し遂げました。彼女が生きた時代を考えると、この広やかで心を打つ信頼は、わたしたちの目には信仰の勝利と映ります。それが単なる本能ではなく、決然と選び取り、保ち続けた姿勢であったことは、愛と寛容について彼女が繰り返し論じていることから明らかです。その一部は、この選集にも収められています。彼女は絶えず弟子たちに、隣人の行いをできるかぎり善意に解釈するよう勧めています。また、「わたしの父の家には、住む所がたくさんある」という言葉を美しく適用し、神の家には気質や性格、実践のさまざまなあり方が共存しうることを認めるよう説いています。彼女の教えの中で、これほど繰り返し語られる点はほかにありません。
カタリナは困難な教訓を学んでいました。彼女は人間のうちに、その人が成し遂げたことではなく、その人の可能性を見ていました。ですから、彼女は積極的な方法によって悔い改めを呼び覚ましました。悪を病的に分析するのでも、罪のもたらす結果をおどろおどろしく描くのでもなく、ひとたび目にすれば憧れずにはいられない聖性の輝かしい姿で、魂を満たしたのです。彼女は、どれほど堕落した人のうちにも、やがて真の聖性に至るしるしである「聖なる望み」の炎を燃え立たせることを、決してあきらめませんでした。彼女はハッカやクミンにこだわることや、過度に思い悩みながら自分を吟味することには、もどかしさを覚えていました。ある相手への手紙には、「あなたの聖なる望みが増し加わるように努めなさい。そして、そうしたほかのことはすべて、そのままにしておきなさい」と書いています。「わたしカタリナは、望みをもって、あなたに書き送ります」。彼女の手紙はすべて、このように始まります。聖なる望み。それは彼女の教えの合言葉であるだけでなく、その人となりを理解する真の鍵でもあるのです。
III
ここまでわたしたちは、魂の友であり導き手であるカタリナについて詳しく見てきました。しかし、時代を超えて人々が畏敬のうちに頭を垂れるのは、神秘家カタリナ、神の友カタリナの前です。彼女の手紙の究極的な価値は、ほかの人々の魂に彼女がどのように関わったかではなく、神が彼女自身の魂にどのように関わられたかを明かしていることにあります。
しかし、こうした深い体験の記録を前にしては、言葉を重ねるよりも沈黙するほうがよいのです。実際、わたしたちの大半にとって、沈黙こそが唯一取りうる姿勢です。以下の手紙には、それ自体に語ってもらわなければなりません。カタリナが、最も高揚した瞬間にさえ常に保っていた明晰な精神と、最も神聖な体験を大切な人々と分かち合いたいという愛に満ちた熱意は、彼女に豊かな表現力を与えました。そこから生まれた文章は、心理学者にとっても信仰者にとっても、この上なく興味深く、価値あるものです。さらに、これは心に留めておきたいことですが、彼女の手紙を通してわたしたちは、こうした崇高な出来事を体験した彼女の、生来の人柄や気質を、ひときわ恵まれた親しさのうちに知ることができます。勢いよくほとばしる言葉そのものの調子、すばやく劇的な展開、優しさと雄々しさの見事な融合のうちに、これらの手紙は一人の女性としての彼女を示しています。とりわけ家族や友人に宛てた手紙の中には、ほとんど子どものような素朴さと、飾らない魅力を備えたものがあります。また、この種の手紙の中でも特によく知られたものには、神秘的な体験、あるいはそう呼ぶならば超自然的な体験を扱ったものもあります。そのいずれにも、わたしたちは自分の心に通じる心を感じます。ただし、その心はわたしたちのものよりも広く、優しいのです。
カタリナの本性の中心にあったのは、神の愛こそ宇宙における至高の実在であると、我を忘れるほど深く、揺るぎなく捉えていたことでした。創造と贖い、そして聖体の秘跡のうちに現されたこの愛が、彼女の絶えざる黙想の主題です。叙情的な切実さに満ちた短い一節が、繰り返し歌のように響き、普段は落ち着いた彼女の散文を照らしています。「愛がそこにお引き留めしていなければ、釘が、神であり人である方を十字架につなぎ留めることはできなかったでしょう。」彼女の捉え方は否定的ではなく肯定的であり、喜びに満ちた礼拝こそが、その信仰の本質なのです。
しかし、これらの書簡は、この信仰が激しい闘いなしに勝ち取られたのでも、保たれたのでもないことを示しています。そこに描かれているのは、わたしたち「死すべき者の道徳的な葛藤」を超え、変わることのない神の眺めを享受する静かな高みに安住した、穏やかな魂ではありません。書簡から分かるように、カタリナはさまざまな心の動きを見せる、きわめて繊細で、愛情深い女性です。愛する人々に心を寄せて頼る姿には胸を打たれますが、その人々を理想化する根深い癖があり、そのために幾度となく幻滅を味わいます。大きなことにも小さなことにも、並々ならぬ熱意とひたむきさで向き合います。暮らしの細部にまで心を配るその真剣さは、まことに女性らしいものです。この地上の生活に鋭く、また人間味あふれる関心を抱いており、この点では、いつも_ほかに選ぶものがないから仕方なく_現世に耐えているように見える一部の列聖された人々とは異なっています。そして、夢の中に閉じこもることを拒む繊細な人には誰にでも起こるように、彼女にとって人生は厳しいものでした。体は弱く、苦痛を抱え、心は翻弄され、悩みに満ちていました。友の家で傷つけられ、難題に取り囲まれ、世界とキリストの教会が目の前に示す光景に、疑いと恐れで揺さぶられていたのです。書簡は、こうした悲しみや誘惑が信仰生活から切り離されたものではなく、その真の一部であったこと、彼女がそれらを神のみ前に携えていったこと、そしてそこでどれほど深い安心を与えられたかを語っています。わたしたち普通の人間は、超自然的な体験によって、聖人たちが理解しがたいほど遠い存在になると考えがちです。しかしカタリナの場合、その記録を学ぶにつれ、そうした体験がかえって彼女をわたしたちの近くへと引き寄せていることに気づきます。これらの体験は、彼女の外的な生活から独立しているどころか、それときわめて密接に結びついているからです。最も高く神秘的な体験でさえ、また、その象徴表現が現代人の心から最も遠く隔たって見える体験でさえ、心理学者なら難なく現代の言葉に置き換えることができます。それらは彼女の活動的な生活が抱える問題から生まれ、実際の務めを果たすための新たな力と知恵をもたらします。わたしたちの時代のように、すぐさま行いとなって現れる聖性のあり方をとりわけ重んじ、価値あるものとする時代は、カタリナ・ベニンカーサに特別な敬意を抱くはずです。彼女は最も純粋な観想者の一人です。今日のわたしたちがあまりにも忘れがちなこと、すなわち、神を仰ぎ見ることなしには務めを果たせないということを知っています。しかし、その務めは神を仰ぎ見ることから直ちに続くものであり、この中世の偉大な神秘家は、その時代で最も実行力に富む人物の一人なのです。
IV
カタリナの高く羽ばたく想像力は、彼女を純粋に個人的な関心の範囲から引き上げ、当時の公的な諸問題において、歴史に名を残すほどの影響力を持つ存在にしました。彼女は、女性としての魅力によってではなく、信念と知性の力によって、政治家にも比すべき影響力を発揮した、ごく少数の女性の一人です。当時、公の舞台で繰り広げられていた出来事についていくらか知ることなしに、彼女の書簡を理解することはできません。
中世をとらえていたのは、二つの偉大な統一の理念でした。一つはローマに、もう一つはキリスト教に起源を持つものでした。その力によって、各地を移動する蛮族の群れに秩序がもたらされ、西ヨーロッパは、人間同士の連帯をいくらかでも理解するように育まれてきました。この二つの統合の力のうち、帝国という理念は、カタリナの時代にはすでに命脈が尽きかけていました。本来生まれるべき時より五十年遅く生まれたダンテでさえ、それを保ち続けることはできなかったでしょう。残されたのは普遍的な教会という理念でした。全人類を包み込む平和な共同体へのこの最後の希望に、理想を抱く人々は必死にすがっていたのです。
しかし、現実が理論を偽りだと突きつけるとき、理想を抱く人々の信念は、なんと悲しいことでしょう。この時代、教会における人類の一致とは、形ばかりの仮説にすぎなかったのではないでしょうか。すべてを包み込む教会のアーチの要石は、教皇職でした。しかし教皇は、もはやカエサルたちの後継者として使徒たちの座に着いてはいませんでした。七十年もの間、快適なプロヴァンスで暮らし、事実上、フランス王に従属していたのです。ダンテの痛烈な非難も、ペトラルカの雄弁も、聖なる人々の警告も、歴代の教皇を説き動かしてイタリアへ帰還させ、キリスト教の夢と明らかに矛盾する、この目に余るつまずきに終止符を打たせることはできませんでした。その間にも、カエサルたちの都は荒れ果て、無秩序に陥っていました。聖職者たちの腐敗はほとんど信じがたいほどに達し、恐れられていたトルコ勢力は兵力を集結させ、キリスト教世界そのものへの脅威となっていました。まさに悪い時代でした。そして、今と同じく当時も決して少なくなかった「神のしもべ」たちの大半は、心の中で、あるいは実際に世を離れて隠遁し、修道院や森の庵の静けさのうちに、自分自身の魂にかかわる事柄に専念していたのです。
しかし、カタリナ・ベニンカーサはそうではありませんでした。彼女はその誘惑を知り、それに打ち勝っていました。ドミニコ会の第三会員として迎えられた後、並外れた決意をもって三年間の隠修生活を送りました。それも、修道院の守られた静けさの中ではなく、二十四人の兄弟姉妹のうちかなりの数がまだ暮らしていたと思われる、騒がしく人のひしめく実家の自室でのことでした。その年月は計り知れないほど貴重なものでしたが、人々への愛から生じる抑えがたい促しを通して語られた神の命令によって、終わりを迎えました。愛する方と二人きりで長く過ごしてきた神秘的な隠遁生活から、彼女は世の中へと踏み出しました。そして驚くべきことに、目の前の現実に、いかなる点でもひるむことがなかったのです。彼女は「人生をまっすぐに見据え、その全体に向き合いました」。眼前には、不和に荒らされたヨーロッパがありました。また、高位聖職者たちの忌まわしい世俗性によっても、ペトロの座を無関心のうちに見捨てていることによっても、その高邁な理念を自ら裏切る教会がありました。この痛ましい光景を超えて、カタリナの精神はまっすぐに高い境地へと舞い上がりました。そこでは、同時代の最も偉大な精神の持ち主たちだけが彼女の仲間でした。同じ町の人々は、自分たちの町の内で市民同士が平和に暮らすという考えさえ抱けずにいましたが、彼女の大きな心を燃え立たせていたのは、イタリア全土に対する愛国の献身でした。そればかりか、連帯を求める内なる感覚に突き動かされ、世界を包み込む兄弟愛へと思いを向けずにはいられませんでした。彼女が希望を託したのは、ダンテのようにカエサルたちの後継者である皇帝ではなく、キリストの後継者である教皇でした。恐怖を覚えて身を引くほどの腐敗にも、アヴィニョンでのバビロン捕囚にもかかわらず、彼女はカトリック教会のうちに、あらゆる時代の最も気高いカトリック信者たちが大切にしてきた、清らかで普遍的な交わりの姿を見ていました。それゆえ、彼女の生涯は教会への奉仕にささげられました。彼女にとって教会は、すべての国民が一致して住まうべき、和解の聖なる家でした。そして、イタリアの苦難は、その権威に従うことによってのみ癒やされるのでした。
公の問題についてカタリナが書いた手紙は、重要性を広く認められた歴史資料であり、そこから彼女の具体的な行動計画が分かります。その計画は、彼女がいつも「精神の目」と呼んでいた信仰の光のもとで形づくられました。短い政治活動の年月の間に、彼女は三つの主要な問題に向き合うよう求められました。教皇がイタリアを離れていたこと、フィレンツェを筆頭とするトスカーナの諸都市が教皇の権威に反旗を翻したこと、そして後には、ウルバノ六世のもとで勃発した大分裂です。生涯の最後の五年間、彼女は教会の諸問題に没頭しました。直接の目標のうち、達成できたものもあれば、果たせなかったものもありました。その成功と失敗のどちらに、より大きな悲劇が伴っていたかを言うのは難しいでしょう。というのも、こうした目標すべての背後には、実現することのない、さらに大きな理想があったからです。それは教会の徹底的な改革という夢であり、カタリナ・ベニンカーサは、サヴォナローラやルターに劣らぬ情熱をもって、その夢を抱いていました。軽薄な文化と優美な華やかさに包まれたアヴィニョンで、この大いなる大義を訴えるカタリナ。自分でもほとんど敬意を抱くことのできなかった教皇の正当な権利を、ローマで最後の息に至るまで擁護するカタリナ。しかも彼女は、その教皇の主張がきわめて疑わしい手段によって擁護されているのを目にしていました。その姿は、英雄的であると同時に痛ましいものでした。霊的な実りを得るために、目に見える目標の達成へと全力を尽くし、それを達成してなお、望んだ実りが以前と変わらず遠くにあると知ることほど、つらい悲しみはめったにありません。カタリナが味わったのは、この悲しみでした。彼女が勝ち取った外面的な成功は、歴史に名を残すに十分なほどのものでしたが、その働きが目指していた、より大きな目的を前進させるには、何の役にも立ちませんでした。確かにグレゴリオ十一世は、彼女の人を引きつける感化を受けて力を奮い起こし、個人的な犠牲を払ってローマへ帰還しました。しかし、根本的な改革に取り組めるほどの器量はなく、イタリアに住むようになっても、キリスト者たちの心を引き裂いていた目に余る弊害は、何一つ正されませんでした。一方、その後継者は、実際に聖職者の改革に着手しました。しかし、その手法はあまりにも性急で思慮を欠いていたため、恐ろしく、当惑させられる結果をもたらしました。そこに生じた事態の皮肉を余すところなく見抜くことができたのは、カトリックの理想を追い求める人だけでした。それはほかでもない教会分裂、縫い目のないキリストの衣を引き裂くことだったのです。
希望が薄れ、人間の闘いの複雑さをますます身をもって知るようになっても、カタリナは最後まで自らの目標を手放しませんでした。その英雄的な精神には、いささかの臆病さもありませんでした。深い敬意をもって最後の二年間の手紙を読み進め、その衰えない鋭敏さと活力、献身と自制を貫く揺るぎない調子に触れると、彼女の精神が悲劇を引き受けることにささげられていたのだと分かります。精神の力は絶えず増していました。確かに彼女はなお、近くにいる弟子にも遠くにいる弟子にも、霊的な助言を与える、長く優しい手紙を書いていました。そこでの信仰生活の分析は、以前のものと同じく、静かに深く本質を見抜くものでした。しかし、政治に関わる書簡の量は増えていきました。そこには緊張がみなぎり、切迫感があり、雄々しい力がありました。震えるような情熱と厳粛な力が息づいており、それは張り裂けそうな心のしるしでした。カタリナは一瞬たりとも力を緩めませんでした。アヴィニョンへ赴いた1376年から、一度か二度の短い中断を除いて、実務に忙しく奔走する女性としての生活を送りました。しかし、激しい努力を重ねながらも、たいていはその志を阻まれる、こうした外面的な活動の内側では、もう一つの生活が続いていました。そこには失敗というものはありえませんでした。なぜなら、失敗を通してこそ、あがないが成し遂げられるからです。
1375年、ピサで聖痕を受けた日々から、カタリナは、自分が何か特別な意味でキリストの受難にあずかり、聖なる教会の罪のために自らをいけにえとしてささげるよう定められていると確信していました。今や、この思いは深まり、彼女のすべてを占めるようになりました。生命力が衰えてゆくことを十分に自覚し、近づく死を待ちながら、周囲の罪を償うために、心身の苦しみをささげたのです。彼女は言葉で、また胸の張り裂けるような切実さに満ちた手紙で、愛するすべての人に、この聖なる奉献に加わるよう呼びかけました。カタリナの信仰は、現代の私たちにはなじみのないものです。それでも、人類が精神的に一つにつながっていることは、単に感情によって直観される事柄にとどまらず、確立された科学的事実となりつつあります。私たちの運命を左右する諸力が、その起源においていかに未知であり、相互の浸透においていかに密接であるかをわきまえた現代の社会学者や心理学者ならば、彼女を嘲笑して済ますことはできません。彼女は、目に見える形での殉教を、言葉に尽くせないほど切望していました。それは彼女に与えられませんでしたが、それでも彼女は、まことに自らの命をいけにえの祭壇にささげたのです。時代の悪、とりわけ教会の悪は、その清らかな霊のうちに、耐えがたいほどの罪の重みを生じさせていました。他者の罪責を自らのものとして引き受けようとする、彼女の絶えざる内なる衝動は、この最後の奉献において、荘厳な頂点と成就に達したのです。
生涯の最後の数か月、それは同時代の人々が生々しく描き伝えている、激しい肉体の苦しみに満ちた数か月でしたが、その間も、彼女の高潔さと知恵、すばやく心を寄せる優しい共感は、いつもと変わらず、それを求めるすべての人に向けられていました。彼女はなお、揺るぎない力をもって真理のために働き続けました。この最後の数か月における霊的・身体的な状態を考えると、彼女がヨーロッパの多くの権力者たちに送り続けていた、巧みに書かれ、明晰な構想を備えた実際的な手紙に、驚かずにはいられません。彼女は、彼らがウルバノの側に忠実にとどまるよう努めていたのです。しかし、その間も彼女の霊は永遠の領域に住んでいました。そこにも確かに時代の痛ましい闘いは映っていましたが、それは天使たちの知性が見るような、本質的な意味において映っていたのです。この選集の最後に収められた、畏れに満ちた、彼女の聴罪司祭である修道士ライモンド宛ての手紙は、彼女の内的体験を正確に書きとどめたものです。それらはまさしく、彼女が命をささげた教会の、貴重な遺産です。カタリナ・ベニンカーサは、心の張り裂ける思いのうちに亡くなりました。それでも、意識の奥底には喜びがありました。神が彼女に、ご自分の花嫁である教会は「人々に命をもたらし」、「その内に、人の誰にも滅ぼすことのできない命を宿している」と啓示されたからです。「いとしいわが娘よ、お前に見えるとおり、教会は不純と自己愛によってその顔を汚し、その懐で養われる者たちの高慢と貪欲によって思い上がっている。だが、わたしの神的な愛の泉から、お前の涙と汗をくみ取り、それによって教会の顔を清めなさい。わたしはお前に約束する。教会の美しさは、剣によっても、残虐さや戦争によっても取り戻されることはなく、平和によって、また、わたしの僕たちの悲しみに満ちた願いから注ぎ出される、へりくだった絶えざる祈りと涙と汗によって取り戻される。こうして、お前の願いは、長く忍耐して待つうちにかなえられ、わたしの摂理は決して損なわれることがない。」
V
心理的な面でも、時代の上でも、聖カタリナは聖フランシスコと聖テレジアの間に位置しています。彼女の著作はルネサンスではなく中世に属しますが、そこには中世という一日のたそがれが表れています。それらは、キリスト教世界がまだ分裂していなかった最後の時代に生き、その時代特有の問題に全生涯を注いだ一人の女性の、闘いと霊的な達成を明らかにしています。しかし、これらの問題は、最も深い意味ではいつの時代にも続くものであり、それに向き合った彼女の姿勢は、今なお示唆に富んでいます。
カタリナが一世紀半後に生きていたなら、プロテスタントになっていただろう、と言われてきました。このような仮説を論じるのは、いつでも実りのないことです。しかし、彼女の著作を注意深く学ぶ人には、この見解は到底受け入れがたいものです。もっとも、こうした見方が生まれるのも無理はありません。彼女は教会の腐敗を、ルターのいかなる言葉にも劣らぬ広がりと鋭さをもって糾弾し、教皇たちを驚くほど鋭く率直に批判し、絶えず改革を訴えていたからです。彼女の著作のこうした要素すべてが持つ痛烈さは、ざっと読むだけの人にも感じ取れます。しかし、カトリックの哲学者の考えでは、目に見える教会に対する誠実で力強い批判は、司祭職を基盤とする教会観への忠実さと完全に両立することを、決して忘れてはなりません。気高いもどかしさから伝統と決別し、永遠で、いかなる像にも収まらない真理を、ひとときでも示唆する新たな象徴を大胆に求める、高貴な理想主義があります。しかし、神の目にはおそらくそれ以上に高貴であり、自然と歴史における神の働き方に、確かによりかなっているのは、現実というくびきに忍耐強く身をかがめ、天上の幻にも不完全な地上の形にも同時に忠実であり続ける苦悩に耐える、もう一つの理想主義でしょう。古びた制度や腐敗した制度を打ち壊そうとする熱意は、私たちの安易な熱狂に火をつけます。しかし、しるしと、それが表すものとの隔たりにひるまず耐え、そのしるしを捨て去るのではなく、回復し清めるために力を尽くす霊的な情熱をも、認めようではありませんか。カタリナの情熱は、そのようなものでした。彼女の人格を最も際立たせていたのは、周囲の生活と社会の様相がことごとく、ある理想的な真理を偽りだと告げているように見えるときでさえ、揺るぎない忠実さをもってその真理にすがり続ける力でした。目に見える教会と、神から与えられたキリストの代理者の権威への信仰を持たない彼女を想像することは、別の女性を想像することです。思想史においてシエナのカタリナが並ぶのは、ルターではなく、サヴォナローラなのです。
カタリナが直面したのは、自らと敵対する人類であり、この世の姿に倣う教会でした。対外的な働きかけによって、これらの悪を正そうとした彼女の方策は、力を発揮できませんでした。教皇たちがアヴィニョンから帰還しても、キリスト教世界に平和がもたらされることも、教会の改革が実現することもありませんでした。彼女がその始まりを目にした教会大分裂は、キリスト者の一致という理念をむしばみ、やがてシエナの聖女の思想に、自然な成り行きとしてルターの思想が続くに至りました。外面的に見れば、彼女の生涯は見込みのない大義のための労苦に費やされ、その大義は後の歴史の動きによって正当性を失ったのでした。しかし、この現実の悲劇は、霊的には勝利でした。それは、彼女自身の魂のうちで信仰が勝利したからだけでなく、彼女が立てた証しに価値があったからです。中世を支配した二つの偉大な一致の理念は、いずれも近代の民主主義的な理念と同一ではありませんでした。それでも、両者、とりわけ教会についての理念は、その方向を指し示していました。キリスト教の幾世紀もの歩みを通じて、人々が徐々に目覚めてきた、全世界を包む兄弟愛という理想こそ、カタリナの心を支配していた理想でした。彼女は、神が定めた一人の頭のもとで平和と一致へと導かれた、組織あるキリスト教世界を手段として、そのような兄弟愛が実現することを望みました。わたしたちの中には、歴史はこの気高い夢を退けたと考える者もいます。人間の精神が抱き続ける不滅の希望、すなわち正義と愛によって形づくられる社会は、教会権力の中央集権化という道筋では、およそ実現しそうにないことが、わたしたちには見えてきたように思われます。しかし、手段についての考えが変わったとしても、同じ目標が今なおわたしたちの前に輝いています。カタリナがそのために生き、そのために死んだ、キリストの名における人類の交わりという展望は、諸国の民がいやされるための唯一の希望であり続けています。
聖カタリナの生涯における主な出来事
1347. 3月25日、シエナのフォンテブランダの泉の近く、ストラーダ・デル・オーカで、カタリナと双子の姉妹が生まれますが、姉妹は生後まもなく亡くなります。カタリナは、染物職人ヤコポ・ベニンカーサとその妻ラパの25人の子どもの末っ子です。
1353-4. 幼いカタリナは、ひときわ明るく愛らしい子どもです。6歳のとき、聖ドミニコ教会の上方に、司祭の祭服をまとったキリストの幻を見ます。砂漠の教父たちの生き方に倣いたいという願いに駆り立てられ、さまざまな苦行を始めます。7歳のとき、生涯の貞潔を誓います。創立者が人々の魂の救いに注いだ熱意に心を引かれ、ドミニコ会にひかれるようになります。
1359-1363. 彼女の禁欲的な修行は、家族の激しい反対に遭います。美しく着飾って結婚するよう迫られ、自分だけの部屋を与えられず、家の下働きをさせられるなどします。しかし、やがてその忍耐が実を結び、父と家族は彼女の望みを認めるようになります。
1363-1364. 聖ドミニコの黒と白の修道服を受け、マンテラーテ、すなわちドミニコ会第三会員の一人となります。彼女たちは、自宅で修道規則に従って暮らす信心深い女性たちです。
1364-1367. 自宅の自室で、聴罪司祭とのみ言葉を交わす、隠修者としての生活を送ります。神秘体験と信仰の黙想に深く没頭します。この間に、文字を読むことを学びます。この時期は、1367年の謝肉祭の最終日にキリストとの婚約を結ぶことで終わりを迎えます。
1367-1370. 神の命令に従い、また人々への愛に促されて、徐々に家庭生活と社会生活に戻ります。聖体に対する彼女の特別な信心は、この時から始まります。喜んで家事に身をささげ、病者や困窮者に奉仕する生活を送ります。1368年に父が亡くなり、革命によってベニンカーサ家の繁栄は終わりを告げ、一家は離散します。カタリナは、最後まで母ラパの世話を続けたようです。1370年、神秘的に死を経験した後、魂を救うために世に出ていくよう命じられて、再び生に戻ります。
1370-1374. 彼女の名声と影響力が高まります。その周りには弟子たちが集まります。文通の範囲は徐々に広がり、平和をもたらす人として知られるようになります。同時に、その脱魂状態と並外れた生活様式は、批判や疑いを引き起こします。1374年5月、フィレンツェを訪れます。おそらく、修道会内の一部の人々が彼女に向けた非難に答えるために、そこへ召喚されたのでしょう。その後、シエナに戻り、ペストに苦しむ人々の世話をします。このころ、後に彼女の聴罪司祭となり、伝記を書くことになるカプアのライモンド修道士と出会います。公の問題に徐々に関わるようになるにつれて、教会の腐敗に対する悲しみも深まっていきます。
1375. ピエトロ・ガンバコルタの招きで、カタリナはピサを訪れます。その目的は、ピサとルッカが、教皇に対抗するトスカーナ諸都市の同盟に加わるのを防ぐことです。キプロス女王の使節と会い、十字軍の大義を推進するために熱心に尽力します。4月1日、サンタ・クリスティーナ教会で聖痕を受けますが、その傷痕は、彼女の願いによって目に見えないままとなります。教会大分裂を予言します。ルッカを短期間訪問します。
1376年。カタリナはステファノ・マコーニを弟子として受け入れ、彼の求めに応じてマコーニ家とトロメイ家の争いを和解へと導きます。書簡を通じて、教皇グレゴリオ十一世とフィレンツェの人々との和解を図ります。4月1日、幻のうちに、争う双方にオリーブの枝を携えて行くという神からの使命を授かります。5月、フィレンツェの人々の要請に応じて同市に赴きます。彼らの代表としてアヴィニョンに派遣され、6月18日に到着します。グレゴリオは彼女に和平交渉を委ねます。しかし、フィレンツェの使節たちは到着を遅らせ、到着してからも彼女への権限付与を承認しようとしません。この方面での道を阻まれた彼女は、教皇にローマへ戻るよう説得することに全力を注ぎ、あらゆる障害を乗り越えて成功します。9月13日に帰途に就きますが、ジェノヴァのマドンナ・オリエッタ・スコッタの家に1か月とどまることになります。ピサに短期間立ち寄った後、12月または1月にシエナに到着します。
1377年。カタリナは、所有者から譲り受けたベルカーロ城を修道院にします。サリンベーニ家の内紛を収めるため、ロッカ・ドルチャにある同家の領主の城を訪れます。滞在中、奇跡的に文字を書くことを身につけます。また、サンタンティモとモンテプルチャーノも訪れます。
1378年。健康が衰えつつあったグレゴリオは、おそらくローマに戻ったことを後悔していたためか、カタリナと疎遠になります。それでも彼女をフィレンツェに派遣し、彼女は聖ジョルジョの丘のふもとにニッコロ・ソデリーニが自分のために建てた家に滞在します。聖務停止令が守られるようにすることには成功しますが、民衆の暴動で命を落としかけ、殉教の冠を得られなかったことを深く惜しみます。グレゴリオの死後、教皇ウルバノによって待望の和平が実現すると、カタリナはシエナに戻り、『対話』の執筆に専念します。教会分裂が起こると、アヴィニョンで面識を得ていたウルバノが彼女をローマに呼び寄せます。彼女は気が進まないながらも従い、11月28日、大勢の弟子たち、すなわち彼女の「ファミリア」とともにローマに居を定めます。彼らは共に暮らし、施しによって生活します。この時から、カタリナはウルバノを支えるために全力を尽くします。彼女は教皇から信頼される助言者となり、一方ではその性急な気性を抑え、他方ではヨーロッパの君主たちが教皇への忠誠を保つよう、熱心に努めます。教皇のために、フランスとハンガリーの王、ナポリのジョヴァンナ女王、イタリア諸都市の政務官、教会分裂に加わったイタリアの枢機卿たち、その他の人々に書簡を送ります。彼女が悲しみと高揚をもってフランスへ送り出した修道士ライモンドは、臆病さからその使命を回避し、彼女をひどく落胆させますが、彼女の死後までローマには戻りません。もともと虚弱だったカタリナの健康は、絶え間ない労苦と大きな悲しみによって損なわれていきます。
1380年。カタリナは、ウルバノに対するローマ市民の反乱を鎮めることに成功します。教会とローマの人々の罪を償うため、自らをいけにえとしてささげます。六旬節の主日、サン・ピエトロで見た幻のうちに、教会という船の重荷が彼女の肩にのしかかります。肉体の苦しみは増し、4月30日、弟子たちに見守られて息を引き取ります。
同時代の主な社会的出来事の略年表
1368-1369年。シエナで政治革命が起こります。妥協によるリフォルマトーリ政権が成立します。革命に敗れた党派は、一部の貴族と手を結び、皇帝カール五世を市に招きます。皇帝は69年1月に到着しますが、民衆の蜂起によって撤退を余儀なくされます。貴族たちは主要な権力の座から排除され、互いの争いによって疲弊します。
1372年。グレゴリオ十一世はミラノのベルナボ・ヴィスコンティに宣戦し、イングランドの傭兵隊長サー・ジョン・ホークウッドを雇い入れます。ボローニャの教皇特使に任命されたピエール・デスタンは、ベルナボと休戦協定を結びます。しかしベルナボは、ひそかにトスカーナを扇動し、教皇に反抗するよう働きかけ続けます。教皇特使たちの専横な政策、とりわけシエナで騒動を起こす貴族サリンベーニ家の要求を支持する教皇使節ジェラール・デュ・ピュイの政策に対する、トスカーナの人々の憤りをあおります。カタリナはデスタンともデュ・ピュイとも文通しています。4月22日、グレゴリオは枢機卿会議の全体会合で、ローマに戻る意向を表明します。
1373年。イタリアは小規模な争いによって荒廃します。「この時代には、ある惑星が支配し、世に次のような影響を及ぼしていたかのように思われる。聖アウグスチノ会の修道士たちはサンタントニオで自分たちの管区長を刃物で殺し、シエナでは争いが絶えなかった。アッシジでは小さき兄弟会の修道士たちが争い、刃物で14人を殺した。ローザの修道士たちも争い、6人を追い出した。また、チェルトーザの修道士たちの間にも大きな不和があり、総長が来て全員を配置換えした。このように、どこでもすべての修道者が互いに争い、不和を抱えているように見えた。そして、どの会則に従う修道者も皆、世間から圧迫され、侮辱された。血を分けた兄弟の間でも同じで、いとこ、妻、親族、隣人との間も同様だった。全世界の至るところに分裂があるかのようだった。シエナでは、誠実を尽くすことは唱えられもせず、実行もされなかった。貴族たちは仲間同士にも外部の者にも誠実を示さず、九人会も仲間同士にも外部の者にもそうせず、十二人会も同様だった。民衆は自分たちの指導者と意見が合わず、ほかの誰とも十分には一致しなかった。こうして全世界が影に覆われた場所となっていた。」――_ネーリ・ディ・ドナートの年代記_。
教皇が十字軍を公に布告します。
1374年。疫病と飢饉がトスカーナを荒廃させます。教皇特使ギヨーム・ド・ノエレは、教皇領からトスカーナへの穀物の搬入を認めません。ホークウッドは、おそらく彼にそそのかされて地方を荒らし回り、フィレンツェの町をも脅かします。激怒したフィレンツェは教皇に反旗を翻し、ギベリン派の中から新たな政務機関を選任します。これが戦争八人委員会です。その間にも、チオーネ・デ・サリンベーニがシエナ周辺の地方を襲撃しています。マレンマを通る街道は平穏に暮らす人々にとって危険となり、農民たちは疫病に襲われた町へ避難せざるをえなくなります。
1375年。イタリアの80の都市が、「異国のくびきを振り捨てよ」を合言葉に、フィレンツェを盟主とする反教皇同盟に加わります。
1376年。グレゴリウスは戦争八人委員会に使節を派遣しますが、委員会はその提案を一蹴します。フィレンツェはボローニャを扇動して反乱を起こさせ、教皇特使は逃亡します。フィレンツェの街頭では教皇使節が生きたまま皮を剝がされます。この町には聖務停止が科されます。アヴィニョンに使節が派遣され、町の不満を雄弁に訴えますが、何の効果もありません。教皇はフィレンツェに宣戦し、ジュネーヴ伯ロベールが傭兵軍を率いてイタリアへ派遣されます。ロベール伯はボローニャの領土を荒らし、ホークウッドに援軍を求め、チェゼーナで凄惨な虐殺を行います。アヴィニョンに派遣されたカタリナは、和平の実現を果たせません。グレゴリウスは彼女の進言に心を動かされてイタリアへ戻り、困難な旅の末、1377年1月17日にローマに到着します。
1378年。イタリアで続く不和に疲れ果て、失望したグレゴリウスが3月に死去します。バーリの大司教が後継者に選ばれ、ウルバヌス六世を名乗ります。7月にはフィレンツェとの和平が成立し、町に科された聖務停止が解除されます。聖職者に対するウルバヌスの厳しい措置は、激しい反感を引き起こします。6月、枢機卿たちは選挙の有効性に疑いを投げかける噂を広め始め、9月20日には、恐怖によって強いられた選挙であったため無効であると正式に宣言し、ジュネーヴのロベール枢機卿を教皇に選びます。彼はクレメンス七世を名乗ります。
1379-1380年。大シスマがヨーロッパを分裂させます。イングランドはウルバヌスへの忠誠を保ち、フランスとナポリは、ためらった末にクレメンス支持を表明します。二人の教皇の間で戦争が激化します。離教派の軍勢はローマのサンタンジェロ城を占領しますが、ウルバヌスの軍勢に追い払われます。ウルバヌスは感謝のしるしに、サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂からサン・ピエトロ大聖堂まで、裸足で荘厳な行列を進みます。しかし後にローマの町はウルバヌスに反乱を起こしますが、カタリナの尽力もあって彼と和解します。ナポリ女王ジョヴァンナは、ウルバヌスの暗殺を企てたため破門されます。 ページの先頭へ
書簡
モンナ・アレッサ・デイ・サラチーニへ
この手紙を宛てられた貴族の家柄の若い未亡人は、カタリナの女性の友人たちの中で、最も大切にされていた人でした。熱烈で力強い気質の人が選ぶ伴侶によく見られるように、彼女もまた、素朴で愛すべき、穏やかな知恵を備えた人だったようです。夫の死後、聖ドミニコの修道服をまとった彼女は、カタリナの勧めに従って財産を貧しい人々に分け与えましたが、シエナの自宅は手元に残していたようです。この家は、人であふれるベニンカーサ家を離れて聖女がたびたび身を寄せる場所となり、聖女伝が語る彼女の生涯の愛すべき逸話の、幾つもの舞台となりました。というのも、マンテラーテ、すなわち聖ドミニコの第三会員たちは、修道院にこもって暮らしていたわけでも、修道誓願を立てていたわけでもなく、それぞれの家で、特別に信心に励む生活を送っていたからです。
カタリナは臨終の床で、自らの霊的家族の世話をアレッサに託しました。この親密な短い手紙は、二人の友情の初期に書かれたものです。その身近で実践的な知恵にも、穏やかでありながら気高い語り口にも、救いの道を共に歩むよう導こうとする人々の日常の細部にまで心を配った、カタリナの注意深く愛に満ちた配慮が表れています。彼女が示す吟味の基準は、当時と同じく今日も、人の心を鋭く見抜くものです。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しきイエス・キリストにおいて、最愛の娘へ。あなたの貧しくふさわしくない母であるわたしカタリナは、神があなたを選んで招いてくださった、その完全さにあなたが達することを願っています。そのように完全さに達したいと望む人は、節度を欠くことなく、節度をもって歩むべきだと、わたしには思われます。けれども、わたしたちの行いはすべて、節度を設けずに、また節度をもってなされるべきです。神を愛するには節度を設けず、その愛に限界も尺度も規則も置かず、計り知れないほどに神を愛するのがふさわしいのです。そして、愛の完全さに達したいのであれば、自分の生活を整えるのがふさわしいことです。第一の心得は、愛のわざに必要な場合を除いて、単に話をするためだけなら、誰との語らいも避けることです。ただし、人々を大いに愛し、語り合う相手は少なくしなさい。また、霊的な愛をもって愛している人々とさえ、節度をもって語り合うすべを心得ていなさい。そうしなければ、あなたと神との間に有限な被造物を置くことによって、神に対して抱くべき限りない愛に、気づかぬうちに限界を設けてしまうことになると、よく考えなさい。神に向けるべき愛を被造物に向け、節度なくそれを愛することになるからです。そして、それはあなたが完全さに達する妨げとなります。ですから、被造物を霊的に、節度を守って愛するべきです。
泉のほとりで水を満たし、その泉のほとりで水を飲む器となりなさい。たとえ生ける水の源である神から愛を汲んだとしても、神のうちで絶えず飲み続けなければ、あなたの器は空のままです。そして、愛するもののために苦しむとき、それは、あなたがひたすら神のうちで飲んでいるのではないというしるしとなります。その苦しみは、交わした何らかの会話によることもあれば、いつも受けていた慰めを奪われたためであることも、その他の偶発的な原因によることもあります。ですから、こうしたことや、神に対する不義以外の何かのために苦しむなら、それは、この愛がまだ不完全であり、源から遠く離れたところで汲まれているという明らかなしるしです。それでは、不完全なものを完全にするには、どのような道があるのでしょうか。それは、真に自分を知り、自分の不完全さを憎み、嫌うことによって、心の動きを正し、戒める道です。あなたはそれほど粗野にも、すべて神にささげるべき愛を被造物に与え、被造物を限りなく愛しながら、神への愛には限りを設けているのです。神への愛には限りがあってはならず、被造物への愛は、霊的であれ現世的であれ、自分の慰めを尺度とするのではなく、神への愛を尺度とすべきだからです。ですから、すべてを神のうちに愛するようにし、秩序を失った愛着を一つ残らず正しなさい。
私の娘よ、自分のために二つの住まいを造りなさい。一つは、あなたの修道室という実際の住まいです。必要のため、修道院長への従順のため、あるいは愛のためでなければ、あちこち走り回らないようにしなさい。もう一つは、いつも携えていくべき霊的な住まい、すなわち真に自分を知るという修道室です。そこであなたは、自分の内に神のいつくしみを知ることを見いだすでしょう。この二つの修道室は一つであり、一方にとどまるときには、もう一方にもとどまらなければなりません。そうしなければ、魂は混乱か思い上がりのどちらかに陥ってしまいます。自分を知ることだけにとどまれば、心に混乱が生じますし、神を知ることだけにとどまれば、思い上がりに陥るからです。ですから、この二つは共に築かれ、同じ一つのものとされなければなりません。そうすれば、あなたは完全さに達するでしょう。自分を知ることから、自分の肉的なあり方への憎しみを得るからです。そして、その憎しみによって裁く者となり、自分の良心の裁きの座に着いて判決を下すようになります。そして、過ちに対して判決を下さずに見過ごすことはなくなるでしょう。
このような認識から謙遜の流れが生まれます。その謙遜は、単なるうわさに飛びつくことも、何かに腹を立てることもなく、あらゆる侮辱、慰めの喪失、悲しみを、それがどこから来ようとも、喜びをもって忍耐強く耐え忍びます。恥辱は栄光に、大きな迫害は憩いに見えます。そして、自分の肢体のうちにあって絶えず神に逆らう、我意というよこしまな法則のために罰せられているのだと悟り、すべてを喜びます。また、道であり、真理の教えである、十字架につけられたキリスト・イエスに似た者とされていることを悟るのです。
神を知ることのうちに、あなたは神の愛の火を見いだすでしょう。どこで喜びを得るのでしょうか。汚れなき小羊と共に十字架の上で、絶え間ない謙遜な祈りを通して、その方の誉れと人々の魂の救いを求めることによってです。私たちの完全さのすべては、まさにここにあります。ほかにも多くのことがありますが、これが最も大切なことであり、ここから私たちは豊かな光を受けるので、それに続く小さな業においても道を誤ることがありません。
私の娘よ、キリストの恥辱にあずかり、その姿に似た者となることを喜びなさい。そして、舌の衝動を見張り、心の衝動に舌がいつも応じてしまわないようにしなさい。むしろ、自分自身への憎しみと嫌悪をもって、心の内にあることをよくかみしめなさい。最も小さい者の中でも最も小さい者となり、神のために、謙遜と忍耐をもってすべての被造物に従いなさい。言い訳をせず、「過ちは私にあります」と言いなさい。こうして、謙遜という徳によって、あなたの魂のうちでも、あなたがそのように語りかける相手の魂のうちでも、悪徳は打ち負かされるのです。
時間を秩序正しく用いなさい。体に必要な睡眠を取った後は、夜を徹夜の祈りにあて、朝は教会で甘美な祈りをささげなさい。定められた時刻になるまで、おしゃべりをして朝を過ごしてはなりません。すでに述べたように、必要、従順、愛のほかは、何ものによっても、この務めやほかの務めから離れないようにしなさい。食事の後は、しばらく心を静め、それから必要に応じて手仕事をしなさい。晩の祈りの時刻には、出かけて行って静かにしていなさい。そして、聖霊があなたに命じられるだけのことを行いなさい。それから戻って、年老いた母親の世話を怠らず、必要なものを整えてあげなさい。この重荷をあなたが担いなさい。続きは、私が戻ったときに話しましょう。私の願いを果たせるようにしなさい。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまりなさい。甘美なイエス、愛なるイエス。 ページの先頭へ
フィレンツェに滞在していた兄ベニンカーザへ
カタリナの兄は、伝記作者を通してわたしたちが知ることになった事実を知っていたなら、聖女である妹の訓戒を喜んで受け入れたでしょうか。カタリナは、家族のこの世での繁栄が彼らにとってわなになると感じ、一家が貧しくなるよう熱心に祈っていたのです。その願いは速やかに聞き入れられました。1368年のシエナの革命に続いて、一家は財産を失い、兄弟のうち二人はフィレンツェへと去りました。こうした生活の変化には、家族間の行き違いも伴ったようです。ここに掲げる最初の手紙で、カタリナは母モンナ・ラパを顧みない兄をたしなめています。その言葉がどのような効果をもたらしたかは分かりません。しかし、24人の大家族の中で、母の暮らしを支える責任を担っていたのは、カタリナ自身のほかには誰もいなかったようです。彼女は初めは隠遁生活を送り、後には社会の諸事に忙しく携わる身でありながら、その責任を果たしていました。母はたいてい、この偉大な娘とともに暮らしていました。ただし、公共の務めのためにカタリナが家を離れるときは別でした。気の毒なモンナ・ラパは、そのような留守にはどうしても納得できなかったのです。
二通目の短い手紙で、カタリナは兄をたいへん優しく慰めています。おそらく、財産を失ったことを慰めているのでしょう。しかし、兄に語りかけられた考察の内容から判断するなら、ベニンカーザが役立てることのできた霊的な教えは、ごく初歩的なものだったようです。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
キリスト・イエスにおける最愛の兄上。役に立たないはしためであるわたしカタリナは、兄上を慰め、祝福し、甘美でいとも聖なる忍耐へとお招きします。忍耐なしには、わたしたちは神に喜ばれることができないからです。ですから、苦難の実りを受け取ることができるよう、忍耐という武具を身に着けてくださるようお願いします。多くの苦しみに耐えることがあまりにもつらく思われるなら、いっそう忍耐強く耐えられるよう、三つのことを心に留めてください。第一に、自分に与えられた時がいかに短いかを考えていただきたいのです。今日という日に、明日があるという確かな保証はないからです。実際、わたしたちが苦しみを感じるのは、過ぎ去った時でも、これから来る時でもなく、今いるこの瞬間だけだと言えるでしょう。そうであるなら、時はこれほど短いのですから、わたしたちは忍耐強く耐えるべきです。第二に、苦しみの後にもたらされる実りを考えてください。聖パウロが、わたしたちの苦しみは、天上の栄光という実りと報いに比べることはできないと言っているからです。第三に、怒りと苛立ちを抱いて耐える人々が被る損失を考えてください。そのような態度には、この世での損失が続き、魂には永遠の罰が続くからです。
ですから、最愛の兄上、どうかあらゆることを忍耐強く耐え忍んでください。そして、自分の恩知らずな態度と、母に対して負っている務めを顧みないことを改めなければならないと、忘れずにいてほしいのです。それは神の掟によって果たすべき務めです。兄上の恩知らずな態度は募るばかりで、母に対して当然なすべき援助さえしていないのを、わたしは見てきました。確かに、この点では、できなかったのだからと弁護することもできます。けれども、できたとしても、果たしてそうしたかどうか、わたしには分かりません。母には言葉さえろくにかけずにいるからです。ああ、何という恩知らずでしょう。母が出産のときに味わった苦痛も、その乳房から与えてくれた乳も、兄上やほかの皆のために重ねてきた多くの苦労も、考えたことがないのでしょうか。もし、母はわたしたちを思いやってくれなかったと言うなら、わたしは、そうではないと答えます。母は兄上にも、もう一人の兄弟にも、深い思いやりを注ぎ、そのために大きな代償を払っているからです。けれども、たとえその言い分が本当だったとしても、母に対して義務を負っているのは兄上であって、母が兄上に義務を負っているのではありません。母は兄上から肉体を受けたのではなく、自分の肉体を兄上に与えたのです。この過ちと、ほかの過ちも改め、わたしの無知を赦してくださるようお願いします。兄上の魂を愛していなければ、わたしはこのようなことを申し上げなかったでしょう。兄上もご家族の皆も、告解を忘れないでください。これ以上は申し上げません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。優しいイエス、愛であるイエス。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
キリスト・イエスにおける、最愛の、こよなく愛する兄上。イエス・キリストのしもべたちに仕える僕であり奴隷であるわたしカタリナは、神の御子の尊い御血によって兄上を慰めます。兄上が神のみ旨にまったく一致し、それによって造り変えられる姿を見たいと願っています。それは、あらゆる苦さを甘さに変える、甘美で聖なるくびきだと知っているからです。神の甘美なみ旨という、このいとも聖なるくびきの下では、どれほど重い荷も軽くなります。このくびきがなければ、神に喜ばれることはできず、かえって地獄の前味を知ることになるでしょう。最愛の兄上、どうか心を強く持ってください、心を強く持ってください。神からのこの懲らしめの下で気落ちせず、人間の助けが尽きるときには神の助けが近いのだと信頼してください。神は兄上のために備えてくださいます。ヨブが財産も息子たちも健康も失ったことを思い巡らしてください。妻だけは絶え間なく彼を打つ鞭として残されました。そして神は、彼の忍耐を試された後、すべてを二倍にして返し、最後には永遠の命をお与えになりました。忍耐強いヨブは決して心を乱さず、常に聖なる忍耐の徳を実践して、こう言うのでした。「神がわたしに与え、神がわたしから取り去られた。神のみ名はたたえられますように。」最愛の兄上にも、そうしていただきたいのです。聖なる忍耐をもって徳を愛する者となり、たびたび告解をしてください。そのたびに、苦難に耐える助けが与えられるでしょう。そして、申し上げます。神はその慈愛といつくしみを示し、神への愛のために耐え忍んだ苦難の一つひとつに報いてくださいます。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。優しいイエス、愛であるイエス。 ページの先頭へ
「湖畔の森」の聖アウグスチヌス隠修修道会の尊敬すべき修道者、ニッツァのアントニオ修道士へ
カタリナ自身の内的体験を最もはっきりと読み取ることができるのは、奉献生活を送る人々に宛てた手紙です。彼らに警告を与え、慰めるとき、彼女は自分自身に語りかけているのです。この名もない娘は、この世の偉大な人々に、さらにはキリスト教世界の教父ともいうべき人々にさえ、教師が幼い心に徳の明白な初歩を教えるような、率直で飾り気のない筆致で手紙を書いていました。高位の人々に宛てた手紙では、聖性に根ざした良識こそが、しばしば最も際立っています。ところが、聖なる隠修者に語りかけるとき、その調子は変わります。道徳生活の基本的な事柄は、すでに心得ているものとされるか、もはや論じられません。彼女が語りかけるのは、外に起こるあらゆる出来事について、すでに自分の意志を神のみ旨に一致させていると思われる魂であり、彼女はそれを、ささやかで容易なこととして、静かに当然のことと見なしています。そこから、さらに微妙で、さらに心を引く誘惑の分析へと進みます。人格の奥深く、我意が潜む最も遠い隠れ場にまでそれを追い詰める力において、カタリナに勝る宗教思想家はほとんどいません。修道士アントニオのような人々に宛てた手紙の中で、彼女はしばしば、ここに見られるように、主との交わりの貴重な記録を私たちに伝えています。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
キリスト・イエスにおける、最愛の、いとも親愛なる父であり兄弟であるあなたへ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべであり奴隷である私カタリナは、神の御子の尊い御血に自らをゆだねつつ、この手紙を書き送ります。あなたが神の愛の炉の中で火をつけられ、燃え立ち、あなた自身の我意、すなわち私たちからあらゆるいのちを奪う意志が、その中で焼き尽くされるのを見たいと願っています。親愛なる兄弟よ、目を開きましょう。私たちには二つの意志があるからです。一つは感覚に属する意志で、感覚的なものを求めます。もう一つは霊の我意で、徳の姿を装い、徳を口実として、自分のやり方に固執します。それが明らかになるのは、自分に都合のよい場所や時期や慰めを選ぼうとして、「もっと十全に神をわがものとするために、私はこうしたいのです」と言うときです。これは大きな欺きであり、悪魔の惑わしです。神のしもべたちは、感覚的な事柄に関する限り、すでに第一の意志を抑えているので、悪魔はそれを通して彼らを欺くことができません。そこで、霊的な事柄を用い、ひそかに彼らの第二の意志を捕らえるのです。こうして魂は、しばしば慰めを受けた後、やがて神によってそれを取り去られたと感じます。そして、別の体験が魂を苦しめますが、それは慰めこそ少なくても、より多くの実りをもたらすものです。すると、甘美さを与えるものに励まされていた魂は、それを取り去られると苦しみ、いらだちを覚えます。なぜいらだつのでしょうか。取り去られることを望まないからです。魂はこう言います。「あのようにするよりも、このようにするほうが、私はもっと神を愛しているように思えます。一方からは、何らかの実を結んでいると感じるのに、もう一方からは、苦痛と、しばしば多くの葛藤のほかには、何の実りも認められません。それで、神に対して過ちを犯しているように思えるのです。」キリスト・イエスにおけるわが子、わが兄弟よ、私は言います。この魂は自分の我意に欺かれています。甘美さを取り去られることを望まないからです。悪魔はこの餌で魂を捕らえるのです。人はしばしば、自分の都合に合う時を待ち望んで、時を失います。今与えられている時を、苦しみと憂いのうちに過ごすばかりだからです。
ある時、わたしたちの優しい救い主は、深く愛するご自分の娘にこう言われました。「慰めと甘美さと喜びのうちにわたしの望みを果たそうとする人々が、どのように振る舞うか、あなたは知っているか。そうしたものを奪われると、彼らは、善いことを行い、罪を避けようとしているつもりで、わたしの望みから離れようとする。しかし、彼らの内には偽りに満ちた感覚的な欲求が潜んでいて、苦痛を逃れようとするあまり、気づかぬうちに罪に陥る。だが、魂が賢く、その内にわたしの望みの光を持っているなら、甘美さではなく、実りに目を向けるだろう。魂の実りとは何か。自分自身を憎み、わたしを愛することである。この憎しみと愛は、自己を知ることから生まれる。そうして魂は、欠点だらけの自分が無にすぎないことを知り、自分の意志を善く保ってくださるわたしの善を、自分の内に見る。そして、より完全にわたしに仕えることができるように、わたしが自分をどのような者として造ったかを見て、わたしが最善をもって、自分自身の最大の善のために造ったのだと判断する。最愛の娘よ、このような人は、自分に都合のよい時が来ることを望まない。謙遜を学んだからである。自分の弱さを知り、自分の願いを頼みとせず、わたしに忠実である。わたしの至高にして永遠の望みを身にまとう。わたしが何かを与えるのも取り去るのも、ただあなたがたを聖なる者とするためであり、あなたがたに甘美さを与え、それを取り去るようわたしを動かすのは、ただ愛だけだと分かっているからである。このため、この人は、悪魔によってであれ、同じ被造物である他者によってであれ、内的にも外的にも、どのような慰めが取り去られようと、それを嘆くことがない。それがその人の善のためでなければ、わたしは許さないと分かっているからである。だから、この人は喜ぶ。内にも外にも光があり、その光に照らされているので、悪魔がその心を惑わそうと闇をもって近づき、『これはお前の罪のためだ』と言う時にも、苦しみを恐れない者のように、こう答える。『闇の時にわたしを心に留め、限りある時のうちに苦痛をもってわたしを罰してくださる創造主に感謝します。限りない未来にわたしを罰することのない、この愛は、なんと大きいことでしょう。』ああ、この魂には、なんという心の平安があることか。嵐をもたらす我意から解き放たれたからである。しかし、内に我意がなお生き、自分のやり方で物事を求める人は、そうではない。その人は、自分に何が必要かを、わたしよりもよく知っていると思っているようだからである。その人は幾度となくこう言う。『このことで、わたしは神に背いているように思えます。わたしを罪から解き放ち、神の望まれることが行われるようにしてください。』あなたが罪から解き放たれているしるしは、自分の内に、神に背くことを望まない善い意志と、罪を嫌う心があると認められることである。そこにこそ、希望を見いだすべきである。外に向かうあらゆる働きも、内的な慰めも失われようと、神に喜ばれたいという善い意志を、いつもしっかり保ちなさい。この岩の上に、恵みは据えられる。あなたが、『わたしには、その善い意志がないように思えます』と言うなら、わたしは、それは違うと言おう。もしそれがなければ、神に背くことを恐れはしないからである。しかし、物事をそのように見せかけているのは悪魔である。魂を混乱と秩序を失った悲しみに陥れ、慰めも時も季節も自分の思いどおりになることを望ませて、我意に固執させるためである。最愛の娘よ、悪魔を信じてはならない。神がどのような形で苦しみをお与えになろうと、それに耐える用意を、いつも魂に整えておきなさい。そうでなければ、あなたは、手に明かりを持って戸口に立ち、その手を外に伸ばして外を照らしながら、内側は暗いままにしておく人と同じことをするだろう。世を軽んじ、外的な事柄ではすでに神の望みと結ばれていながら、内側では、霊的な我意が徳の装いに覆われてなお生きている人とは、そのような人である。」神は、先に述べたご自分のはしために、このように語られました。
ですから、わたしは、あなたの意志が神の内に吸収され、変えられることを願い、望んでいると申しました。同時に、神がどのような形で苦痛や労苦を送ることをお選びになろうと、わたしたちはいつも、それに耐える用意をしていなければなりません。そうすれば、わたしたちは闇から解き放たれ、光のうちにとどまるでしょう。アーメン。十字架につけられたイエス・キリストと、優しいマリアが賛美されますように。 ページの先頭へ
メッセル・オルソ・マラヴォルティの妻であったモンナ・アニェーゼへ
カタリナは、世の中もまた、森の中の庵と同じように、聖性を学ぶ真の学びやとなりうることをよく心得ています。貴婦人モンナ・アニェーゼ・マラヴォルティに宛てた手紙も、アントニオ修道士に宛てたものとよく似た調子で書かれています。実際、霊的な我意の危険は、ワーグナーの音楽のモチーフのように、彼女の書簡全体を貫いて繰り返し現れる主題の一つです。いつも同じでありながら、絶えず新しい調和の中に織り込まれているのです。
しかし、この手紙の全体をなす主題は、シエナの庶民が今なおしばしば呼び求める「いとも聖なる忍耐」であり、カタリナの分析はその奥深くにまで及びます。忍耐は、この勇敢な精神を持つ女性にとって、生来とりわけ身近な徳の一つだったとは言い難いでしょう。その鋭く厳粛な黙想からは、「焼きながらも焼き尽くすことのない」、そして「魂を、自分自身に耐えられないものとする」罪の、苦く、内側からむしばむ力を、彼女自身が知っていたことが感じられます。彼女は、忍耐の欠如を、滅びた者たちの永続する状態として、説得力に満ちた熱意をもって余すところなく描いています。人間関係における忍耐の欠如と、ないがしろにされているという思いに荒らされた魂が頼る「高慢な謙遜」についての短い考察にも、きわめて個人的な響きがあります。しかし、この手紙でいっそう明らかなのは、カタリナが、神の望みがそうであるならば、「平穏な心よりも、落ち着かない心を、いっそうの畏敬をもって耐え忍ぶ」ことのできる、鍛えられた性質を身につけ、柔和な人々を待ち受ける喜びのうちに深く入っていたということです。
モンナ・アニェーゼには、これらの心を打つ勧めが、とりわけ必要だったに違いありません。彼女は悲しみに満ちた試練を受けていたのです。息子は1372年に、極めて重い罪への罰として斬首され、今また、たった一人の娘も亡くなっていました。このことについてカタリナは、彼女ならではの独特な言い回しで、こう書いています。「そのことを、わたしは聖なるあわれみを抱きつつ、心からよしとして受け止めています。」
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおいて、最愛の娘よ。イエス・キリストのしもべたちの仕え女であり奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたが真の忍耐にしっかりと根ざすことを願って、この手紙を書きます。忍耐なしには神に喜ばれることはできないと考えるからです。忍耐のなさは、悪魔と自分自身の低次の本性を大いに喜ばせ、その本性が望むものを得られないと、ただ怒りにふけりますが、それとまさに同じように、神には大いに喜ばれないものです。怒りと忍耐のなさが悪魔をこれほど喜ばせるのは、それらが高慢のまさに芯であり樹液だからです。忍耐のなさは、自らの労苦の実りを失わせ、霊魂から神を奪います。それはまず地獄を先取りして味わうことから始まり、やがて人を永遠の滅びへと導きます。地獄では、悪くゆがんだ意志が、怒りと憎しみと忍耐のなさに燃えているからです。それは燃えても燃え尽きず、絶えず新たになります。つまり、決して弱まることがないので、燃え尽きないと言うのです。確かに、それは滅びた者たちの霊魂のうちにある恵みを焼き尽くしました。しかし、先ほど述べたように、彼らの存在そのものを焼き尽くしたのではありません。それゆえ、その罰は永遠に続くのです。聖人たちは、永遠の罰を受ける者たちが死を求めても、それを得られないと言っています。霊魂は決して死なないからです。確かに、霊魂は大罪によって恵みに対して死にますが、存在しなくなるわけではありません。この世の生活において、怒りと忍耐のなさほど、人に地獄を先取りして味わわせる罪も悪もありません。このような心は神に憎まれ、隣人を嫌い、その欠点を忍び、寛容に受け止めるすべも知らず、そうしようとも望みません。また、自分に向けて何が言われ、何がなされても、たちまちそれを毒に変え、その衝動は風に吹かれる木の葉のように揺れ動きます。その心は自分自身にも耐えられなくなります。ゆがんだ意志が絶えず自分をさいなみ、手に入らないものを渇望するからです。それは神のみ旨とも、自らの霊魂の理性的な部分とも調和しません。これらはすべて、高慢という木から生じます。その木から、怒りと忍耐のなさという樹液がにじみ出るのです。その人は肉体をまとった悪魔となります。このような目に見える悪魔と闘うことは、目に見えない悪魔と闘うことよりも、はるかに困難です。ですから、理性を備えたすべての者は、必ずこの罪を避けなければなりません。
ただし、忍耐のなさには二つの源があることに注意してください。この世の普通の人々が抱く、ありふれた忍耐のなさがあります。それは、自分自身とこの世のものに対する秩序を欠いた愛から生じます。彼らはそれらを神から切り離して愛するため、それらを得るためなら、自分の霊魂を失い、悪魔たちの手に渡すこともいといません。自分自身を知り、どれほど神に背いたかを悟って、霊魂のうちに愛を生み出す真の謙遜という剣で、その高慢の木を切り倒さないかぎり、これは救いようがありません。というのも、愛という木があり、その芯は忍耐と隣人への善意だからです。忍耐のなさは、ほかのどの罪よりも明らかに、霊魂が神を失っていることを示します。その芯がある以上、高慢の木も必ずそこにあることが、すぐに明らかになるからです。それと同じように、忍耐は、ほかのどの徳よりもよく、より完全に、神が恵みによって霊魂のうちにおられることを示します。わたしが言うのは、愛の木の奥深くにある忍耐のことです。その木は、創造主への愛のためにこの世を取るに足りないものとし、どこから来る侮辱をも愛するのです。
わたしは、怒りと、忍耐を欠くことには、一般的なものと特別なものの二種類があると述べていました。一般的なものについては、すでにお話ししました。今は、より特別なものについてお話しします。それは、すでに世を軽んじながらも、自分の望む仕方で十字架につけられたキリストのしもべになろうとする人々、つまり、キリストのうちに喜びと慰めを見いだせる限りでそうなろうとする人々の、忍耐の欠如です。これは、その人々のうちで霊的な我意がまだ死んでいないためです。それゆえ、その人々は、神の望まれる仕方ではなく、自分の望む仕方で慰めや苦難を与えるよう、神に高圧的に要求します。そして、自分の霊的な我意が望むこととは反対のものを受けると、忍耐を失うのです。これは傲慢から出た小さなひこばえであり、まさしく傲慢から芽生えたものです。木がその傍らに小さな木を芽生えさせると、その小さな木は元の木から離れているように見えますが、それでも、自分がそこから生じた元の木から養分を受けています。それと同じことです。自分の望む仕方で神に仕えることを選ぶ魂の我意も、このようなものです。その仕方で事が運ばなくなると、魂は苦しみ、その苦しみによって忍耐を失い、自分自身にも耐えられなくなり、神にも隣人にも、喜んで仕えることができなくなります。それどころか、誰かが慰めや助けを求めて近づいてきても、その人をただ責めるばかりで、その必要に忍耐強く向き合うすべを知りません。これらすべては、切り倒されても根こそぎにはされなかった傲慢の木から生える、感覚に左右される霊的な我意から生じます。魂が自分の望みを世のものよりも高く引き上げ、神に結びつけるとき、この木は切り倒されますが、その結びつきはまだ不完全なのです。傲慢の根は残っていたので、その傍らにひこばえを伸ばし、霊的な事柄のうちに姿を現したのです。それゆえ、神からの慰めを得られず、その心が乾き、不毛なままでいると、魂はたちまち動揺し、落ち込みます。そして、自分は神を奪われていると思い、徳を装いながら、不平を言い始め、神に指図をするのです。しかし、真に謙遜であり、自分自身を真に憎み、真に知っているならば、自分は魂への神の訪れにふさわしくなく、また、自分が受けている苦しみに値すると考えるでしょう。その苦しみとは、魂のうちにある神の恵みを奪われることではなく、その慰めを奪われることによる苦しみです。ですから、魂は、鎖につながれたまま働かなければならないために苦しむのです。そうです、霊的な我意は、自分が神に対して過ちを犯しているのだという思い違いのもとで苦しみますが、実際の問題は、その魂自身の低い本性にあるのです。
ですから、熱烈な愛をもって自ら進んで高慢の根を引き抜いた謙遜な魂は、自分の意志を無にし、常に神の誉れと人々の救いを求めます。苦しみを意に介さず、心が穏やかなときにもまして深い畏敬をもって、心の落ち着かなさに耐えます。それは、神が自分の善のために、不完全さから完全さへと立ち上がることができるように、これを与え、お許しになるのだと、聖なる畏敬をもって知っているからです。これこそ、魂を完全さに至らせる道です。なぜなら、魂はそれによって、自分の欠点と神の恵みをいっそうよく認めるからです。その恵みは、自らの大罪を憎むようにと神から与えられた善い意志のうちに見いだされます。また、過去と現在の自らの欠点や過ちを黙想することによって、魂は自分自身への憎しみと、神の至高にして永遠のみ旨への愛を抱くようになりました。ですから、これらのことに畏敬をもって耐え、神がどのような形でお許しになろうとも、内面的にも外面的にも、甘んじて耐え忍びます。神のみ旨の甘美さに満たされ、それを身にまとうことができさえすれば、魂はすべてを喜びます。そして、先に述べた神からの慰めであれ、仲間からの慰めであれ、自分の愛するものを奪われていると分かれば分かるほど、いっそう喜ばしくなるのです。というのも、魂が霊的な愛を抱くことはしばしばありますが、愛する相手から望むような慰めや満足が得られなかったり、自分よりもほかの人のほうが多くの愛や満足を与えられているのではないかと疑ったりすると、苦しみや心の落ち込み、隣人への非難や誤った裁きに陥り、神のしもべたち、とりわけ自分に苦しみを与える人々の心や意図を裁いてしまうからです。そこから魂は忍耐を失い、考えるべきでないことを考え、口にすべきでないことを口にします。このような苦しみの中で、魂は高慢な謙遜に頼ろうとしがちです。それは謙遜の姿をしていますが、実際には高慢の傍らから生え出た枝なのです。そして、自分にこう言います。「もうこの人たちを気にかけるのはやめよう。この人たちのことで、これ以上思い煩うのもやめよう。自分だけで過ごそう。自分も、あの人たちも傷つけたくはないのだから。」こうして魂は、ゆがんだ軽蔑をもって自分を卑しめます。しかし、心に感じる裁きへの衝動と、口から出る不平によって、これが軽蔑であることに気づくべきです。ですから、そのようにしてはなりません。このようなやり方では、高慢の根を決して取り除くことができず、その傍らにいる小さな息子を断ち切ることもできないからです。この息子が、魂が目指してきた完全さに達するのを妨げているのです。むしろ魂は、いとも聖なる十字架の食卓にひざまずき、自由な心と、自分自身への聖なる憎しみと、燃えるような望みをもって、神の誉れと人々の救いという糧を受けるべきです。神からであれ仲間からであれ、自分だけの慰めによってではなく、苦しみと汗によって徳を得ようと努め、十字架につけられたキリストの足跡と教えに従い、自分を厳しく戒めて、こう言うのです。「わたしの魂よ、あなたはその体の一部なのだから、頭である方とは別の道を歩んではなりません。茨の冠をかぶった頭のもとで、手足だけが柔弱なままでいるのは、ふさわしくありません。」自分の弱さや悪魔の策略、あるいは風のように心を揺さぶる数々の衝動によって、このような習慣が根づいてしまったなら、魂は自らの良心の裁きの座に上り、自分自身とよく論じ合い、何一つ、罰と懲らしめを与えずに、また自分自身への憎しみと嫌悪を抱かずに、見過ごしてはなりません。こうして根は引き抜かれ、自分自身への不快によって、魂は隣人への不快を追い払うでしょう。そして、仲間から受けるかもしれない苦しみや、彼らが加えるかもしれないどのような侮辱や煩わしさよりも、自分の心と思いの秩序を失った衝動を、いっそう深く嘆くようになるのです。
これこそ、キリストの霊感に余すところなく導かれる人々が守る、優しく聖なるあり方です。このようにして、その人々はゆがんだ高慢と、苛立ちの根を抜き去ったのです。この苛立ちについては、あらゆる罪の始まりとなり、きっかけとなるため、悪魔を大いに喜ばせると先に述べました。そして逆に、悪魔を大いに喜ばせるだけ、それだけ神を大いに悲しませるのです。高慢は神を悲しませ、謙遜は神を喜ばせます。マリアの謙遜の徳は、あまりにも深く神をお喜ばせしたので、神はご自分のひとり子であるみことばをマリアにお与えにならずにはいられませんでした。そしてマリアは、その御子をわたしたちに与えてくださった優しい母となったのです。このことをよく心に留めてください。マリアが「ご覧ください、わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と語り、その言葉によって自らの謙遜と清い意志を示すまでは、神の子はまだマリアのうちに受肉しておられませんでした。しかし、マリアがこう言ったとき、その身に、愛すべき汚れのない小羊を宿したのです。愛に満ちた、万物の根源である真理は、こうして、この小さな徳がいかに優れているか、また、自らの意志を謙遜のうちに創造主に差し出し、ささげる魂が、いかに多くのものを受けるかをお示しになりました。ですから、労苦と迫害のとき、隣人から侮辱され、傷つけられるとき、また、創造主あるいは被造物によって、心の葛藤や霊的な慰めの欠如を味わうときにも、そうなのです。(創造主は、その優しさのうちに、心から実感を取り去られることがあります。そのため、苦しみと葛藤があまりに多く、まるで魂のうちに神がおられないかのように思われるのです。また、同じ被造物である人々との会話や楽しみの中でも、あるいは、自分が愛されている以上に相手を愛していると魂が思うときにも、同じことが起こります。)こうしたすべてのことの中で、謙遜によって完全にされた魂は、このように言うのです。「わたしの主よ、ご覧ください、あなたのはしためです。わたしの感覚が望むとおりではなく、あなたのお言葉どおり、この身になりますように。」こうして魂は、創造主と、同じ被造物である人々と、自分自身との間に、忍耐の香りを放ちます。その心には平和と静けさがあり、戦いのただ中で平和を見いだしています。高慢に根ざした我意を遠く追い払い、魂のうちに神の恵みを宿したからです。そして心の懐に十字架につけられたキリストを抱き、十字架につけられたキリストの傷を喜び、十字架につけられたキリストのほかには何も知るまいと求めます。その寝床は、十字架につけられたキリストの十字架です。そこで魂は自分自身の意志を無にして、謙遜で従順なものとなるのです。
謙遜なしに従順はなく、愛なしに謙遜はないからです。このことを、みことばがお示しになっています。みことばは御父に従い、謙遜のうちに、恥辱に満ちた十字架の死へと走り向かわれました。愛は、その釘と絆でみことばを釘づけにし、縛りました。そしてみことばは、嘆きの声一つ聞こえないほどの忍耐をもって耐え忍ばれました。愛がそこに引き留めていなかったなら、神であり人である方を十字架に釘づけにし、つなぎ留めるには、釘だけでは足りなかったでしょう。魂はこのことを感じ取るのだと、わたしは言いたいのです。ですから魂は、十字架につけられたキリストと共にいるのでなければ、喜ぼうとはしません。たとえ苦しむことなしに徳に至り、地獄を免れ、永遠のいのちを得て、この世で霊的な慰めも現世的な慰めも得られるとしても、魂はそれらを望まないでしょう。むしろ、ほかの道で永遠のいのちを得るよりも、死に至るまで耐え忍び、苦しむことを望みます。ただ、十字架につけられたキリストに似たものとなり、その恥辱と苦しみを身にまとうことだけを願うのです。魂は、汚れのない小羊の食卓を見いだしたのです。
ああ、栄光に満ちた徳よ! あなたを得たいと願うなら、誰が幾千たびも自らを死に渡し、どのような苦しみにも耐えずにいられるでしょうか。あなたは全世界をその手に収める女王です。あなたは永遠に続くいのちのうちに住んでいます。あなたを身にまとう魂がまだ死すべきものである間にも、愛の力によって、その魂を不死なる者たちと共に住まわせるからです。ですから、この徳がこれほど優れ、神に喜ばれ、わたしたちに益をもたらし、隣人を救いへと導くものである以上、最愛の娘よ、怠慢と無知の眠りから起き上がってください。心の弱さともろさを地に投げ捨て、神がわたしたちにお許しになるどのようなことにも、心が苦痛や苛立ちを覚えないようにしてください。そうして、先に述べた、一般的な苛立ちにも、特別な苛立ちにも陥らず、心の自由と、真に完全な忍耐をもって、わたしたちの優しい救い主に勇敢に仕えましょう。そうしなければ、第一の種類の苛立ちによって恵みを失い、第二の種類の苛立ちによって完全な境地への歩みを妨げることになります。そしてあなたは、神から招かれている境地に達することができなくなるでしょう。
神はあなたを、大いなる完全さへと招いておられるように思われます。わたしがそう感じるのは、あなたのうちでその妨げとなりうるあらゆる絆を、神が取り去っておられるからです。聞くところによると、外の世界との最後の絆であったあなたの娘を、神はご自分のもとに召されたようですね。神がこうしてあなたを自由にし、娘を労苦から解き放ってくださったことを、わたしは聖なる憐れみを抱きつつ、心から喜んでいます。ですから今、わたしは、あなたが自分自身の意志を完全に打ち砕き、十字架につけられたキリスト以外の何ものにも執着しないようにと望みます。このようにして、あなたは神のみ旨とわたしの願いをかなえることになるでしょう。それをかなえるための道を、わたしはほかに知りません。それゆえ、あなたが真実で聖なる忍耐のうちにしっかりと立つ姿を見たいとお伝えしたのです。この忍耐なしには、わたしたちの慕わしい目標に到達することはできないからです。これ以上は申しません。神の聖なる優しい恵みのうちにとどまってください。優しいイエス、愛なるイエス。 ページの先頭へ
モンテプルチャーノの聖アグネス修道院にいる姪、シスター・エウジェニアへ
バルトロ・ベニンカーサの娘である二人の姪は、モンテプルチャーノの修道院の修道女でした。次の手紙は、そのうちの一人に宛てたものです。行間からは、深い気遣いが伝わってきます。カタリナ自身は修道院にこもる生活を送ったことはありませんでしたが、修道院とは親密な関わりを持ち、その最善の面も最悪の面も知っていました。崇高な生活を送るために修道院が与えてくれる機会を、心から変わらぬ敬意をもって大切にしており、この聖アグネス修道院にはとりわけ愛着を抱いていました。同時に、この手紙以外の手紙にも示されているように、当時は最も優れた修道院でさえ、あからさまなものであれ繊細なものであれ、感情にまつわる誘惑から若い娘たちを守るには、ほとんど役立たないことをよく承知していました。姪への戒めには、心配ゆえの毅然とした響きがあります。エウジェニアがそれを心に留め、カタリナの望む規律ある生活を送ることによって、手紙の後半をなす祈りについての洞察に満ちた黙想を受け入れ、その美しさを余すところなく理解するにふさわしい者となったことを願いましょう。この黙想の思想は、カタリナの手紙に見られるほかの多くの思想と同様に、彼女の『対話』の中でさらに詳しく展開されています。これは神と彼女の魂との対話であり、1378年に脱魂状態のうちに構想され、口述されたものです。次の引用は、手紙の中の興味深い一節を明らかにしてくれます。
「このように、口祷は魂の益となり、わたしを喜ばせるものとなり得ます。そして魂は、たゆまず実践することによって、不完全な口祷から完全な念祷へと進むことができます。しかし、ただ(主の祈りを)決めた回数唱え終えることだけを目指したり、口祷のために念祷を捨てたりするなら、決して完全には至りません。魂が祈りを一定の回数唱えようと決心しているとき、わたしは時に、その心をさまざまな仕方で訪れることがあります。あるときは、自分自身を知る光と、自らの軽薄さに対する痛悔をもって、またあるときは、わたしの豊かな愛をもって訪れます。またあるときは、わたしの望むままに、またその魂が切に願っていたであろうことに応じて、さまざまな仕方で、わたしの真理の現存をその心に示します。それなのに魂は、あまりにも無知なため、始めたことをやめるのはよくないという良心のとがめにとらわれ、決めた回数を唱え終えるために、わたしの訪れに背を向けてしまいます。そのようにしてはなりません。それは悪魔の策略だからです。むしろ、先に述べたように、どのような仕方であれ、わたしの訪れを受け入れる用意が心にできたと感じたら、すぐに口祷をやめるべきです。その後、念祷が終わって、時間があるなら、唱えるつもりだった口祷を再開してもかまいません。しかし時間がなければ、そのことを気にかけたり、悩んだり、戸惑ったりしてはなりません。」
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
甘美なイエス・キリストにおいて、最愛の娘へ。イエス・キリストのしもべたちのしもべであり、奴隷であるわたしカタリナは、あなたが天使の糧を味わうのを見たいとの望みをもって、主の尊い御血のうちに、あなたに手紙を書きます。あなたは、ほかならぬこの目的のために造られたからです。そして、あなたがそれを味わうことができるように、神は独り子の御血をもってあなたを買い取られました。しかし、最愛の娘よ、よく考えてください。この糧をいただくのは地上ではなく、高いところにおいてです。それゆえ神の御子は、わたしたちが高く掲げられたこの食卓でこの糧をいただけるように、いとも聖なる十字架の木に上げられることをお選びになりました。けれども、あなたはわたしにこう尋ねるでしょう。「この天使の糧とは何ですか。」わたしはこう答えます。それは神の望みです。その望みが魂の奥底にある望みを自らに引き寄せ、両者は一つになるのです。
これは、わたしたちがこの世で旅人である間、神の愛の火によって調えられ、十字架の食卓でいただく、真実で誠実な徳の香りを自らに引き寄せる糧です。すなわち、徳は、自分の肉的な本性を打ち倒し、苦しみと労苦を通して獲得されます。魂の王国は、忍耐によってその内に神を隠す(_cela_)ので天(_cielo_)と呼ばれますが、この王国は力と激しさをもって奪い取られるのです。これこそ魂を天使のようにする糧であり、それゆえ天使の糧と呼ばれます。また、体から離れた魂が、神をその本質的な存在において味わうからでもあります。神は魂を満たしてくださるので、魂はほかの何ものをも慕わず、この糧をより完全に保ち、増し加える助けとなるもの以外は何も望むことができず、それに反するものを憎むようになります。それゆえ魂は、思慮深い人のように、心の目に宿るいとも聖なる信仰の光によって、自分にとって何が有害で何が有益かを見極めます。そして、見極めたとおりに愛し、退けます。つまり、自分の肉的な本性と、そこから生じるあらゆる悪徳を縛り、自らの愛情の足の下に置くのです。魂は、悪徳へと傾かせたり、完全に至るのを妨げたりするあらゆる原因から逃れます。こうして、あらゆる悪の原因である我意を無にし、聖なる従順のくびきに従わせます。それは、修道会とその長に対してだけでなく、神のために、どんなに小さな被造物に対してもそうするのです。魂はあらゆる栄誉と人間的な安逸を避け、十字架につけられたキリストの恥辱と苦しみだけを誇りとします。侮辱、暴虐、嘲笑、危害は、魂にとって乳となります。十字架につけられた花婿キリストと同じ姿になるために、魂はそれらを喜ぶのです。人との交わりが、しばしばわたしたちと創造主との間を隔てるのを見て、魂はそうした交わりを断ち、実際の小部屋へ、また心の小部屋へと逃れます。
このことへと、わたしはあなたとほかの人々を招きます。そして、わたしの最愛の娘よ、あなたに命じます。いつまでも自己認識という内なる小部屋にとどまりなさい。そこには、神がわたしたちに向けておられる切なる望みという、天使の糧が見いだされます。また、実際の自室にもとどまり、目を覚まし、へりくだり、信仰に満ちた絶え間ない祈りをもって、心と思いからあらゆる被造物を脱ぎ捨て、十字架につけられたキリストを着なさい。そうしなければ、あなたは地の上で食べることになりますが、そこで食べてはならないことは、すでにあなたに話しました。あなたの花婿であるキリスト、優しいイエスは、あなたとご自分との間に何ものも介在することを望まず、強くねたまれる方であることを、よく考えなさい。ですから、ご自分を離れてあなたが何かを愛しているとご覧になれば、すぐにあなたのもとを去られ、あなたは獣の糧を食べるのにふさわしい者となってしまうでしょう。創造主を捨てて被造物を選び、無限の善を捨てて、風のように過ぎ去る有限ではかないものを選び、光を捨てて闇を、いのちを捨てて死を選ぶなら、あなたはまことに獣となり、獣の餌食となるのではありませんか。従順という留め金と、生きた信仰、堅い希望、完全な愛という真珠をもって、あなたに義の太陽をまとわせてくださる方を捨てて、それらをあなたから奪う者を選ぶなら、そうなるのではありませんか。また、完全な清さを与えてくださる方を離れて、しばしば不純の悪臭を放ち、心と体を汚す者たちのもとへ行くなら、あなたはまことに愚かな者ではありませんか。その方に固く結ばれれば結ばれるほど、あなたの処女性の花はいよいよ清められるのです。神が、その限りないいつくしみによって、そうした者たちをあなたから遠ざけてくださいますように。
そして、そのようなことが決してあなたに起こらないよう、よく警戒しなさい。修道者であれ信徒であれ、男性と二人きりの会話を交わすという不幸に陥ってはなりません。もしわたしがそのことを知ったり耳にしたりすれば、今よりはるか遠くにいたとしても、あなたが一生忘れないほどの懲戒を与えるでしょう。誰がそばにいようと構いません。必要な場合を除いて、何かを与えることも受け取ることもないように気をつけ、内外のすべての人を分け隔てなく助けなさい。自分自身をしっかりと保ち、思慮深くありなさい。十分に気を配り、姉妹たち、とりわけ助けを必要としていると分かる人々に、優しく仕えなさい。訪問客が立ち寄って面会窓の格子越しにあなたを呼んでも、平安のうちにとどまり、出て行ってはなりません。あなたに言いたかったことは院長に話してもらいなさい。ただし、院長が従順の務めとして出て行くよう命じた場合は別です。その場合は、頭を垂れ、ハリネズミのようにとげとげしくしていなさい。あの栄光あるおとめ聖アグネスが、自分の娘たちに守らせた振る舞いを心に留めなさい。告解に行って、自分に必要なことを告げ、償いを受けたら、すぐに立ち去りなさい。また、あなたを育ててきた男性たちを聴罪司祭としないように気をつけなさい。わたしがこのように話すことを不思議に思ってはなりません。あなたはわたしがこう言うのを何度も聞いたことでしょうし、それは真実だからです。いわゆる信心深い男女の、堕落した表現に満ちた会話は、修道者の魂と、その生活習慣や実践を損なうのです。十字架につけられたキリスト以外の誰にも心を結びつけないよう、気をつけなさい。そうしなければ、心を解き放ちたいと願っても、そうできない時が来て、あなたは大変な苦しみを味わうことになるでしょう。わたしが言いたいのは、天使の糧を味わった魂は、今話していたこのことやほかのことが、自分とその糧との間の妨げになると光のうちに悟ったので、この上ない熱意をもってそれらを避ける、ということです。その魂は、この糧を増し加え、保つものを愛し、求めるのです。そして、自己認識のうちにささげる祈りによって、この糧をいっそうよく味わえると悟ったので、神により固く結ばれることのできるあらゆる方法で、絶えずその祈りに励むのです。
祈りには三つの種類があります。一つは絶えざる祈りです。それは、何をしているときにも神の御前で祈る、聖なる絶えざる望みのことです。この望みは、霊的なものであれ身体的なものであれ、あなたのすべての行いを神の誉れへと向けるので、絶えざる祈りと呼ばれます。栄光ある聖パウロが「絶えず祈りなさい」と言ったとき、このことについて語っていたように思われます。もう一つは口祷で、教会の祈りやほかの祈りを声に出して唱えることです。これは第三の祈り、すなわち念祷に至るために定められています。あなたの魂が、思慮深くへりくだって口祷を行い、舌が語っている間も心が神から遠く離れないようにするとき、この念祷に至ります。しかし、神の愛の力のうちに自分の心をとどめ、しっかりと据えるよう努めなければなりません。そして、神が自分の心を訪れてくださり、何らかの仕方で創造主について考えるよう引き寄せられていると感じるときはいつでも、口祷をやめ、神が訪れてくださっていると認めるそのことに、愛の力をもって心を集中させるべきです。その後、この訪れが終わったら、時間があれば再び口祷を始め、心がいつも満たされ、空しくならないようにすべきです。また、祈りのうちにさまざまな闘いが数多く生じ、心が暗くなって大いに混乱し、悪魔が、その祈りは神に喜ばれていないと魂に感じさせたとしても、そうした闘いや闇のために祈りをやめてはなりません。むしろ、勇気をもって堅く立ち、長く忍耐し続けるべきです。悪魔がそのようにするのは、母である祈りから魂を引き離すためであり、神がそれをお許しになるのは、その魂の勇気と不動の心を試すためだと考えなさい。また、神がそれをお許しになるのは、そうした闘いや闇によって、魂が自分は無であると知り、自分の内に保たれていると感じる善い意志によって、神の善を知るためでもあります。神は、善く聖なる意志を与え、それを保ってくださる方です。そのような意志は、それを望むすべての人に授けられるわけではありません。
こうして魂は、第三の、そして最後の祈りである念祷に至ります。そこで、不完全な口祷のうちに耐え忍んだ労苦への報いを受けます。そのとき、魂は信仰に満ちた祈りの乳を味わいます。自分自身を超えて、すなわち感覚の粗野な衝動を超えて高められ、天使のような心で、愛の力によって神と結ばれます。そして思いの光によって見、知り、真理を身にまといます。魂は天使たちの姉妹とされ、十字架につけられた望みの食卓で花婿とともにとどまり、神の誉れと人々の救いを喜んで求めます。永遠の花婿がまさにこのために、恥辱に満ちた十字架の死へと走り、こうして御父への従順とわたしたちの救いを成し遂げられたことを、魂はよく分かっているからです。この祈りは、まことに母です。神への愛によって徳を宿し、隣人への愛のうちにそれらを生み出します。あなたはどこで愛と信仰と希望、そして謙遜を示すのでしょうか。祈りのうちにです。愛していないものを求めて労苦をいとわないことなど、決してないでしょう。けれども、愛する人は、自分の愛するもの、すなわち神と、いつも一つでありたいと願うものです。祈りによって、あなたは必要なものを神に願い求めます。自分自身を知ること、すなわち真の祈りの土台となる認識によって、自分が大きな助けを必要としていると分かるからです。あなたは敵に囲まれていると感じます。侮辱を加え、むなしい快楽を思い起こさせる世、多くの誘惑を仕掛ける悪魔、霊に激しく反抗して争う肉に囲まれているのです。そして、自分自身では存在するものではないことを悟ります。存在するものでない以上、自分を助けることはできません。それゆえ、あなたは信仰のうちに、存在する方、あらゆる必要においてあなたを助けることができ、また助けようと望んでおられる方のもとへ急ぎ、希望をもってその助けを願い、待ち望むのです。待ち望んでいるものを得たいなら、このように祈らなければなりません。このようにして神のいつくしみに願うなら、正しい願いが拒まれることは決してありません。しかし、ほかの仕方で祈るなら、得られる実りはわずかです。あなたはどこで良心の痛みを覚えるのでしょうか。祈りのうちにです。侮辱やほかの苦しみに遭うとき、あなたを忍耐できなくさせる自己愛をどこで脱ぎ捨て、あなたに忍耐を与える神の愛を身にまとい、十字架につけられたキリストの十字架を誇るようになるのでしょうか。祈りのうちにです。あなたはどこで、おとめの清さの香りと殉教への渇望を息づかせ、神の誉れと人々の救いのために自分の命を差し出す用意を整えるのでしょうか。この優しい母である祈りのうちにです。祈りは、あなたを会則に忠実な者にします。修道誓願の際に立てた三つの盛式誓願を、あなたの心と精神に刻み、死に至るまでそれらを守りたいという望みの跡を残します。祈りは、あなたをほかの被造物との語らいから解き放ち、創造主との語らいを与えます。あなたの心という器を、へりくだる小羊の血で満たし、炎をその冠とします。その血は、愛の炎とともに流されたからです。
魂は、天使の糧、すなわち神への聖なる真の望みによって自らを養う度合いに応じて、この母である祈りを、より完全に、あるいはそれほど完全ではない仕方で受け入れ、味わいます。そして、先に述べたように、高く上げられ、いとも甘美な十字架の食卓でその糧を受けます。ですから私は、あなたが天使の糧で養われる姿を見たいと申し上げたのです。それ以外の仕方で、あなたが聖なる修道生活のうちに十字架につけられたキリストに奉献され、その真の花嫁となれるとは思えないからです。ですから、神の目に尊い宝石となったあなたの姿を、私に見せてください。あれこれと時間を無駄にしてはいけません。花婿の甘美な血に身を浸し、そのうちに沈んでください。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。甘美なイエス、愛なるイエス。 ページの先頭へ
フィレンツェにいる、ベニンカーサの娘でカタリナの姪にあたる幼い少女ナンナへ
子どもらしく素朴な想像と、穏やかながらも諭すような口調に彩られた、この優しく遊び心のある短い手紙を読むと、カタリナは叔母であることの喜びを存分に味わっていたのだろうと思われます。年を重ねるにつれて彼女を結びつけていった多くの霊的な絆が、肉親への愛情の絆を少しも弱めなかったことを示す手がかりは、ほかにもあります。実際、カタリナは可能なかぎり、肉親との一つひとつの絆を霊的な絆として新たに結び直しました。これは、決してありふれたことではありません。大所帯のベニンカーサ家では、間違いなく多くの子どもたちが彼女の周りで育ったことでしょう。1374年にペストが流行した当時、ラーパが自分の家で11人の孫を育てていたことが分かっています。そのうち8人が疫病の犠牲となりました。カタリナが自らの手で子どもたちを埋葬し、一人ひとりを安らかな眠りにつかせながら、「少なくとも、この子を失うことはないでしょう」と語る姿が、わずかながら伝えられています。この手紙の宛先である幼いナンナについては、すでに見たようにフィレンツェへ移り住んでいた兄の子であること以外、何も分かっていません。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにある最愛の娘へ。イエス・キリストの僕たちの僕であり奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたにこの手紙を書きます。十字架につけられたキリストのまことの花嫁となり、この優しく栄光に満ちた花婿を得る妨げとなりうるすべてのものから逃れるあなたの姿を見たいと願っているからです。しかし、油の入ったともし火を持ち、その中に光をともしていた、キリストに奉献された賢いおとめたちの一人でなければ、そうすることはできません。ですから、キリストの花嫁になりたいと望むなら、ともし火と油と光がなければならないのです。わたしの娘よ、これが何を意味するか分かりますか。ともし火が表すのは、わたしたちの心です。心はともし火のように形づくられるべきだからです。ともし火の器は上が広く、下が狭くなっているでしょう。心もそのように造られています。それは、聖なる思いと聖なる想像、絶え間ない祈りによって、いつも心を上に向かって広く開いておくべきことを表しています。そして神の恵み、とりわけ、わたしたちをあがなってくださった御血の恵みを、いつも心に留めておくのです。わたしの娘よ、祝福されたキリストは、金や銀や真珠、あるいはほかの宝石でわたしたちをあがなわれたのではありません。そうではなく、ご自分の尊い御血によってあがなわれたのです。ですから、これほど大きな恵みを決して忘れず、聖なる甘美な感謝のうちに、いつも目の前に置いておきたいものです。そして、神がどれほど計り知れない愛をもってわたしたちを愛してくださるかを見つめるのです。神は、わたしたちに恵みのいのちを与えるために、ご自分の独り子を十字架の辱めに満ちた死に渡すことさえ、ためらわれなかったのです。
ともし火の器は下が狭く、わたしたちの心もそうであると言いました。それは、心がこの地上のものに対しては狭くあるべきことを表しています。つまり、地上のものをむやみに欲したり愛したりしてはならず、神が与えようと望まれる以上のものを渇望してもならないのです。むしろ、わたしたちに何一つ欠けることのないよう、神がどれほど優しく心を配ってくださるかを見つめ、いつも神に感謝しなければなりません。
こうして、わたしたちの心は本当にともし火となります。しかし、わたしの娘よ、考えてみてください。中に油がなければ、それだけでは十分ではありません。油が表すのは、あの優しく小さな徳、深い謙遜です。キリストの花嫁には、謙遜で、柔和で、忍耐強くあることがふさわしいからです。忍耐強いほど謙遜になり、謙遜なほど忍耐強くなります。しかし、自分自身を真に知ることなしに、この謙遜の徳を得ることはできません。自分の惨めさと弱さを知り、自分の力だけでは、どんな善い行いもできず、どんな葛藤や苦痛からも逃れられないことを知る必要があります。体に病があるときも、心に苦痛や葛藤があるときも、わたしたちはそれを逃れたり取り除いたりすることができないからです。もしできるなら、すぐさまそれから逃れるはずです。ですから、わたしたちは自分自身においては、不名誉、惨めさ、悪臭、弱さ、そして罪にほかならないというのは、まったく真実です。それゆえ、いつも低くへりくだっていなければなりません。しかし、このように自分を知ることだけにとどまるのはよくありません。魂は疲れ果て、混乱に陥り、その混乱から絶望へと落ちてしまうからです。ですから悪魔にとって、わたしたちを混乱に陥れ、その後で絶望へと追いやることほど好ましいことはないのです。そこでわたしたちは、神ご自身の善を知ることのうちにとどまるべきです。神がご自分の似姿にかたどってわたしたちを造り、人となられた優しい主であるその独り子の御血によって、恵みのうちに新たに造り直してくださったことを悟り、神の善がどれほど絶えずわたしたちのうちに働いているかを思い巡らすのです。しかし、よく考えてください。このように神を知ることだけにとどまるのもよくありません。魂が思い上がりと高慢に陥ってしまうからです。ですから、わたしたちには、この二つを合わせ持つことがふさわしいのです。すなわち、神の善を知る聖なる認識のうちにとどまると同時に、自分自身を知ることのうちにもとどまるのです。そうすれば、わたしたちは謙遜で、忍耐強く、柔和になり、こうして、ともし火の中に油を持つことになります。
さて、さらに光がなければなりません。そうでなければ、まだ十分ではありません。この光は、いとも聖なる信仰の光でなければなりません。しかし、聖人たちは、行いのない信仰は死んでいると言っています。ですから、わたしたちの信仰も、生きたものでも聖なるものでもなく、死んだものになっているかもしれません。それゆえ、わたしたちはいつも徳を実践することに励み、幼稚さと虚栄を捨て、もはや世俗的な娘たちのように振る舞うのではなく、十字架につけられたキリストに奉献された忠実な花嫁として振る舞わなければなりません。こうして、わたしたちはともし火と油と光を持つことになるのです。
福音は、この賢いおとめたちが五人であったと語っています。ですから、わたしはあなたに言います。わたしたち一人ひとりのうちにも、この五人がいなければなりません。そうでなければ、永遠のいのちの婚宴に入ることはできません。
この五人が意味しているのは、わたしたちが体の五感を従わせ、抑制しなければならないということです。五感のすべて、あるいはそのいずれかを通して、節度を欠いた快楽や喜びを求め、それらによって罪を犯すことが決してないようにするのです。このように、五感を従わせたとき、わたしたちは五人となるのです。
しかし、心に留めてください。あの優しい花婿キリストは、ご自分の花嫁たちに対して、わたしには語り尽くせないほど深いやきもちをお持ちなのです。ですから、あなたがご自分よりも誰かを愛しているのをご覧になれば、すぐにお怒りになるでしょう。そして、あなたが自分を改めなければ、汚れのない小羊キリストがすべての忠実な者のために催される婚宴の扉は、あなたには開かれないでしょう。それどころか、わたしたちは悪い女たちのように追い払われるでしょう。あの五人の愚かなおとめたちもそうでした。彼女たちはただ、体の清さと処女性をむなしく誇るばかりで、五感の堕落によって魂の処女性を失いました。謙遜の油を携えていなかったため、ともし火が消えてしまったのです。それで、彼女たちはこう告げられました。「ここから出て行って、油を買いなさい。」ここでこの油が意味するのは、人々のへつらいと称賛です。世のへつらう者、褒めそやす者は皆、この油を売っているからです。それは、彼女たちにこう言われたも同然です。「あなたがたは、自分の処女性と善い行いによって永遠のいのちを買おうとはしなかった。そうではなく、人々の称賛を買おうとし、人々の称賛を得るために行動してきた。今こそ出て行って、称賛を買いなさい。あなたがたはここに入ることはできないのだから。」ですから、わたしの娘よ、人々の称賛に気をつけてください。どのような行いをしても、称賛を望んではなりません。そうすれば、後になって永遠のいのちの扉があなたに開かれないことになるからです。
ですから、これが最善の道だと考えて、わたしは、あなたが十字架につけられたキリストの真の花嫁となる姿を見たいと申し上げたのです。そして、そのようになるために力を尽くすよう、あなたに願い、また命じます。これ以上は何も申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。優しいイエス、愛なるイエス。 ページの先頭へ
奉献生活についての手紙
カタリナは、教会の偉大な禁欲家の一人として歴史に知られています。これらの手紙は、肉体の苦行に対する彼女の内なる姿勢を示しています。彼女は、神の召しと生来の資質に促されて、人々に自らの罪を悟らせるという危険な務めを絶えず引き受けた女性でした。これらの手紙から、その務めを果たすうえで必要な備えを彼女がどのように考えていたかが分かります。
二通の手紙はいずれも修道者に宛てられたものです。ウィリアム・フリート神父はイングランド人で、若いころイタリアを旅するうちにその地に魅了され、残りの生涯をレッチェートの森にある隠修者の庵で過ごしました。当時の年代記には、彼の人物像を垣間見せる興味深い逸話も記されています。厳しい苦行と聖なる生活で名高かった一方、彼は非常に気が短く、いささか不寛容な人でもあり、仲間の隠修者たちのあら探しをしがちでした。カタリナは彼への手紙で、禁欲生活に潜む危険を容赦なく分析しています。その鋭い言葉を読んだ後では、人の独善はほとんど残りえないだろうと感じられます。しかし、やがて彼女は、完全な生の熱烈な観想へと、彼を自分とともに引き上げます。神の真のしもべが、あらゆる種類、あらゆる境遇の人々を見つめるときの、寛大で愛情深く、人を批判せず、謙遜で喜びに満ちた姿勢を、彼女はひときわ美しい言葉で描いています。「そのような人は、どのような人を見ても喜び、こう言います。永遠の御父よ、あなたの家に多くの住まいがあることを感謝いたします。……彼は、人々が皆同じ道を歩むのを見るよりも、人々の違いをいっそう喜びます。そうすることで、神の善の偉大さが、よりはっきりと見えるからです。彼はあらゆるものから、ばらの香りを受け取るのです。」
シスター・ダニエラへの手紙で、カタリナはこれらの考えをさらに深めています。この「神の偉大なしもべ」については、彼女に宛てたカタリナの手紙が伝えること以外、何も分かっていません。偉大なカタリナが、霊的に対等な相手として手紙を書き送った数少ない人々の一人であるという事実から、幾らかは推し量ることができるでしょう。カタリナはダニエラに、ウィリアム神父への手紙の内容を繰り返しています。実際、このような戒めは、奉献生活を送るすべての人に必要なものです。そして、ここに掲載されている手紙の残りの部分では、愛がその働きを完全に成し遂げた、さらに高い完成の境地について論じています。カタリナは、自分とダニエラが二つのことを守るよう望んでいます。第一は、批判的な思いを慎むことです。「神だけが裁くべき、わたしたちと同じ被造物である人々の心を裁く」ことをやめましょう。ここで彼女は、多くの魂を導く大きな務めにおける、自らの方法の鍵を示しています。「神が他人の欠点をわたしたちに示しておられるように思えるときは、より慎重な態度を保ってください。あなたの判断が誤っているかもしれないからです。唇には沈黙を守らせなさい。そして、他人にあると思うどのような悪徳も、真の謙遜をもって、その人だけでなく自分自身にもあると、すぐに認めなさい。その悪徳が本当にその人にあるならば、自分がこれほど優しく理解されていると分かることで、よりよく自分を改め、あなたが言おうとしていたことを、自ら口にするでしょう。」カタリナがダニエラに強調するもう一つの点は、苦行の生活の重要性は二次的なものだということです。二人ともその生活へと召されていると、彼女は固く信じていました。「償いのわざも、肉体を厳しく戒めることも善いものです。しかし、それらをすべての人の規則として、わたしに示してはなりません。自分自身のためであれ、他人のためであれ、償いのわざを土台に据えるならば……わたしたちは無知な者となり、批判的な態度に陥り、疲れ果て、ひどくとげとげしくなるでしょう。なぜなら、無限の愛であり、わたしたちにはただ限りない望みだけを求めておられる神に、完成したわざを差し出そうと努めることになるからです。」確かに、この最後の思いにおいて、カタリナは一瞬にして、崇高な霊的洞察に達しています。
心霊研究の諸協会がテレパシーに熱心な関心を寄せるはるか以前から、聖人たちはそれをよく知っていました。カタリナが落ち着いた筆致で記した一節を読めば、現代の心理学者の中には驚く人もいるかもしれません。カタリナは、執り成しの祈りをささげる神のはしためなら誰でも、祈りの対象となる人々の状態を神秘的かつ直接的に知っていることを当然の前提としています。そのうえでダニエラに、そのような知識をどこまで信頼してよいのかについて、用語こそ異なるものの、現代人に劣らぬ的確さで注意を促しているのです。
この一群の書簡を締めくくる短い手紙は、高名な隠修女ではなく、ある仕立屋の妻に宛てられています。素朴な人々に対して、カタリナもまた素朴に接しました。しかしモンナ・アニェーゼも、シスター・ダニエラに劣らず、神にささげられた生活を送るべきなのです。カタリナが前者に日々の暮らしについて与える平明な指針には、後者への勧告と同じ明晰さと冷静さが表れています。また、宗教的な実践に伴う高揚と、真に神に身をささげることとを、ほぼ同じ仕方で見分けています。 ページの先頭へ
聖アウグスチノ隠修修道会のイングランドのブラザー・ウィリアムへ
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける、最愛の息子へ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるはしためであり、その奴隷である私カタリナは、あなたが真の光のうちにあるのを見たいと願い、主の尊い御血のうちに、あなたに書き送ります。光がなければ、私たちは真理の道を歩むことができず、闇の中を歩むことになるからです。二つの光が必要です。まず、この世の移ろいゆくものを知るために、照らされなければなりません。それらは皆、風のように過ぎ去ります。しかし、自分自身の弱さを知らなければ、これらを正しく知ることはできません。私たちの五体に結びついた邪悪な法則によって、自分がどれほど創造主に逆らいやすいかを知らなければならないのです。この光は、理性を持つすべての被造物が、どのような身分にあっても、神の恵みを受け、汚れのない小羊の御血の祝福にあずかりたいと願うなら、必要なものです。これは、すべての人が等しく持つべき共通の光です。これを持たない者は誰でも、断罪の状態にあるからです。その理由は、光を持たないために、恵みの状態にないということです。悪い行いの邪悪さも、その原因となる者も知らない人は、それを避けることも、その原因を憎むこともできません。同じように、善と、その善の原因である徳を知らない人は、その善を愛することも望むこともできないのです。
魂は、共通の光を得るに至ったからといって、満足してとどまっていてはなりません。むしろ、あらゆる熱意をもって完全な光へと進むべきです。人は初めから完全なのではなく、不完全なのですから、光のうちに進み、完全さへと向かうべきだからです。この完全な光のうちを歩む、完全な人々には二つの種類があります。ある人々は、非常に厳しい償いの業を行い、自分の体を徹底して打ち懲らすことに身をささげます。そして、肉が理性に逆らわないように、自分の我意を滅ぼすことよりも、体を抑制することに、むしろ願いのすべてを向けています。この人々は悔い改めの食卓で養われ、善良で完全な人々です。しかし、深い謙遜を備え、人の意志ではなく神のみ旨に従って判断するよう、自らをすっかり整えていないかぎり、自分と同じ道を歩まない人々を裁く者となって、しばしば自分自身の完徳を損ないます。
このようなことが起こるのは、彼らが自分の我意を滅ぼすことよりも、体を抑制することに、多くの思いと願いを向けてきたからです。このような人々は、いつも時と場所、心の慰めを自分の好みに合わせて選ぼうとします。この世での苦難や悪魔との戦いについても同じです。そして、霊的な我意と呼ばれる自分自身の意志に惑わされ、自分を欺いて、こう言います。「私が望むのはこの慰めであって、このような襲撃や悪魔との戦いではありません。自分のためではなく、神に喜ばれ、神をいっそう豊かに自分のものとするためです。あの仕方よりもこの仕方のほうが、神をよりよく自分のものとしているように思えるからです。」このようにして、魂は幾度となく苦しみと疲れに陥り、そのために自分自身に耐えられなくなり、こうして自らの完徳の境地を損ないます。高慢の臭いがまとわりついているのに、それに気づかないのです。もし魂が真に謙遜で、思い上がっていなければ、優しい根源の真理である神が、私たちの完成に必要なことに応じて、また魂が選ばれて招かれた完全さをその魂のうちに成し遂げるために、境遇、時と場所、慰めと苦難をお与えになることを、よく悟るでしょう。すべてが愛によって、それゆえ愛をもって与えられることを悟るでしょう。
すべてのことは、敬虔な心で受け入れるべきです。第二の種類の人々は、そのようにしています。この人々は、この甘美で栄光に満ちた光のうちにとどまり、どのような境遇にあっても完全であり、神がお許しになるかぎり、すべてをふさわしい敬虔さをもって受け止めます。そして、自分はこの世で苦しみやつまずきに遭い、慰めを失うに値する者だと考えます。自分は苦しみに値すると考える一方で、苦しみの後に続く報いには値しない者だと考えます。この人々は、光のうちに神の永遠のみ旨を知り、味わいました。そのみ旨は、ただ私たちの善と、私たちが神のうちに聖なる者とされることだけを望み、それゆえに賜物をお与えになるのです。魂は、このみ旨を知ると、それを身にまとい、神の御名の栄光と賛美のために、どのように成長し、自らの境地を完全に保つことができるかを見極めることのほかは、何も心にかけなくなります。それゆえ、魂は知性の目を開き、その目指す方、十字架につけられたキリストに向けます。キリストは、完全な者にも不完全な者にも、規範であり、道であり、教えである方です。そして魂は、愛に満ちた小羊を見ます。この方が魂に完全さの教えを与えてくださるのであり、魂はその教えを見て、愛するのです。
完全さとは、こういうことです。みことばである神の御子は、神の誉れとわたしたちの救いを求める聖なる望みの食卓で養われ、その望みに燃えて、大きな熱意をもって十字架上の恥辱の死へと走って行かれました。労苦も骨折りも避けず、その恵みを認めなかったわたしたち人間の忘恩と無知にも、ユダヤ人からの迫害にも、人々の嘲笑、侮辱、非難にもひるむことなく、そのすべてを耐え忍ばれたのです。わたしたちの指揮官、まことの騎士として来られた御子は、ご自分の道と規範と教えをわたしたちに示し、燃える愛と罪への憎しみをもって流された尊い御血を鍵として、扉を開いてくださいました。この優しく愛に満ちたみことばは、こう語られます。「見よ、わたしはあなたがたのために道を備え、わたしの血によって扉を開いた。だから、その道をたどることを怠ってはならない。自己愛の中に座り込み、無知のためにその道を知ろうとせず、道を備えたわたしの仕方によらず、自分の流儀で思い上がって道を選ぼうとしてはならない。さあ、立ち上がり、わたしに従いなさい。わたしを通らなければ、だれも御父のもとに行くことはできないからである。わたしは道であり、門である。」
そのとき、愛に心を奪われ、愛に苦しむ魂は、聖なる望みの食卓へと走ります。そして、霊的なものであれ、この世のものであれ、自分だけの慰めを求めて、自分自身のうちに自分を見つめることはありません。むしろ、この光と認識のうちに自分の意志をすっかり滅ぼした者として、どこから来る労苦も拒みません。それどころか、苦しみや痛み、悪魔からの多くの攻撃や人々からの非難の中で、十字架の食卓に、神の誉れと人々の救いという糧を求めます。また、神からも、同じ被造物である人々からも、報いを求めません。このような人々は、自分の喜びのためではなく神に仕え、自分の意志や利益のためではなく、純粋な愛から隣人に仕えます。古い人、すなわち肉の欲望を脱ぎ捨て、新しい人であるキリスト、優しいイエスを身にまとい、勇敢にその後に従って、自分自身を失うのです。この人々こそ、聖なる望みの食卓で養われる人々であり、体を打ちたたき苦行を課すことよりも、我意を滅ぼすことにいっそう熱心です。確かに体にも苦行を課していますが、それを主な目的としているのではありません。体を、本来そうであるように、我意を滅ぼす助けとなる道具として扱っているのです。なぜなら、人の主な目的は、自分の意志を滅ぼすことであるべきであり、実際そうだからです。それは、十字架につけられたキリストに従い、そのみ名の誉れと栄光、そして魂の救いを求めることのほか、何も求めず、何も望まなくなるためです。このような人々は、いつも平和と静けさのうちにとどまります。だれも彼らを憤慨させることはできません。憤りを生むもの、すなわち我意を捨て去ったからです。世と悪魔が加えうるあらゆる迫害は、彼らの足の下を流れ去ります。彼らは水の中に立ち、熱烈な望みの小枝にしっかりとつかまって、沈むことがありません。このような人は、すべてのことを喜びます。神の僕たちをも、理性を備えたどの被造物をも、自分が裁く者にはなりません。むしろ、目にするあらゆる境遇、あらゆるあり方を喜び、こう言います。「永遠の御父よ、あなたの家には多くの住まいがあることを感謝します。」そして、すべての人が同じ道を歩むのを見るよりも、さまざまな人々を見ることをいっそう喜びます。そのようにして、神のいつくしみの大きさが、よりはっきりと見えるからです。何事をも喜び、そこからばらの香りを受け取ります。明らかに罪だと見て取れることについてさえ、裁く者として振る舞わず、むしろ聖なる真の憐れみをもって見つめ、こう言います。「今日はあなたの番ですが、明日はわたしの番です。わたしを守ってくださる神の恵みがなければ、そうなるのです。」
ああ、聖なる望みの食卓で養われる聖なる心を持つ人々よ。あなたがたは、大いなる光のうちに、聖なる糧で養われるところにまで至り、小羊の愛という甘美な衣を身にまとっています。あなたがたは、神の僕についてであれ、世の僕についてであれ、誤った判断を受け入れることに時を費やしません。自分に向けられたものであれ、他の人に向けられたものであれ、どのような非難にも憤慨しません。神と隣人へのあなたがたの愛は、よく秩序づけられており、無秩序ではありません。そして、愛する息子よ、その愛が秩序づけられているからこそ、このような人々は、自分の愛する人々に決して憤慨しないのです。彼らにとって外見はもはや力を持たず、人間ではなく、ただ聖霊にのみ導かれるよう、自分をゆだねているからです。ですから、ご覧なさい。この人々は、この世の生において、永遠のいのちの保証を味わっているのです。
わたしは、あなたと、ほかの無知な息子たちに、この光に至ってほしいと願っています。あなたにも、ほかの人々にも、この完全さが欠けているのが見えるからです。もし欠けていなければ、ある人が創造主の意志ではなく、被造物の意志に導かれ、支配されていると言い、そう信じるほどの非難や憤り、誤った判断に陥ることはなかったでしょう。愛を口実に、徳の香りを漂わせながら、神があなたを招いておられる完全さをあなたが損なっているのを見て、わたしの魂と心は悲しんでいます。それでも、これらは悪魔が主の畑にまいた毒麦です。悪魔がこうしたのは、あなたがたの畑にまかれた聖なる望みと教えの種を覆いふさぐためでした。ですから、もうそのようなことをしないと決意してください。神は恵みによって、あなたがたに大きな光を与えてくださったからです。第一は、世を軽んじること、第二は、体に苦行を課すこと、第三は、神の誉れを求めることです。霊的な我意によって、この完全さを損なってはなりません。むしろ、償いの食卓から立ち上がり、神を求める望みの食卓へと進んでください。そこで魂は、自分の意志に対して完全に死に、神の誉れと魂の救いを糧として苦しむことなく養われ、完全さを損なうことなく、その完全さのうちに成長していくのです。
ですから、この境地には光なしには至れないことを思い、あなたがその光を持っていなかったのを見て、わたしは、あなたが真実で完全な光のうちにいる姿を見たいと望んでいたし、今も望んでいると言ったのです。それゆえ、十字架につけられたキリストの愛にかけて、あなたにも、アントニオ修道士にも、ほかのすべての方々にもお願いします。その光を得るために励んでください。そうして、不完全な人々の中ではなく、完全な人々の中に数えられる者となってください。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。わたし自身を皆さんにおゆだねします。十字架につけられたキリストの御血に身を浸してください。甘美なイエス、愛なるイエス。 ページ上部へ
聖ドミニコの修道服をまとうオルヴィエートのダニエラへ
ですから、このような人々は、この世で永遠のいのちの手付けを味わっていることが分かるでしょう。彼らが受け取るのは、報いそのものではなく、その手付けです。それを受け取るのに、永続するいのちに至るまで待つのではありません。そのいのちには、死のない生、嫌気のささない満たし、苦痛のない飢えがあります。望むものを完全に持っているので、飢えの苦痛は遠く離れています。また、それはいささかも欠けるところのないいのちの糧ですから、満たされることから生じる嫌気も遠く離れています。確かに、この世で人はその手付けを味わい始めます。それは、魂が、神の誉れと人々の救いという糧に飢え始めるという仕方によってです。飢えれば飢えるほど、魂はそれを食べて養われます。そうです、魂は、飢えるように求める隣人への愛によって、自らを養うのです。それは、それによって養われる人々を決して満腹にしない糧です。決して飽くことがないので、飢えはいつまでも続きます。手付けとは、人にまず与えられる保証であり、人はそれによって報いを受け取ることを期待します。手付けそのものが完全なのではなく、信頼を通して、成就の時が来るという確信を与えるのです。それと同じように、キリストに恋い慕い、この世ですでに神と隣人への愛という手付けを受け取った魂も、それ自体で完全なのではなく、不滅のいのちにおける完成を待ち望んでいます。この手付けは完全ではない、とわたしは言います。つまり、それを味わう魂は、自分自身についても他者についても、苦しみを感じなくなるほどの完全さには、まだ達していないのです。自分自身については、わたしたちの体の各部に結びついている邪悪な法則のために、自らが神に対して犯す過ちによって苦しみ、他者については、隣人の過ちによって苦しみます。確かに、その魂は恵みにおいて完全ですが、先に述べたように、永遠のいのちのうちにいる聖人たちの完全さは持っていません。聖人たちの望みには苦しみが伴いませんが、わたしたちの望みには苦しみが伴うからです。聖なる望みの食卓で自らを養う、神の真のしもべがどのような者であるか、あなたは知っていますか。その人は、至聖なる十字架の木にかけられた神の御子と同じように、至福のうちにありながら悲しんでいます。キリストの肉は悲しみ、責め苦を受けていましたが、その魂は、神の本性との一致によって至福のうちにあったからです。同じように、わたしたちも、自らの望みが神と一致することによって、至福のうちにあり、神の甘美なみ旨をまとっているべきです。そして、隣人へのあわれみのゆえに悲しみ、感覚的な喜びや慰めを捨て、自らの肉を抑制すべきなのです。
けれども、わたしの娘、そして最愛の姉妹よ、聞いてください。これまでは、あなたとわたしに向けて一般的なことを語ってきましたが、今度は、あなたとわたしについて具体的に語りましょう。わたしたちには、特に二つのことを実行してほしいのです。それは、神がわたしたちを招いておられる完成への道を、無知が妨げることのないためであり、また、悪魔が徳と隣人愛を装って、わたしたちの魂の中に思い上がりの根を育てることのないためです。というのも、そこからわたしたちは誤った判断に陥るからです。自分では正しく判断しているつもりで、ゆがんだ判断を下してしまうのです。もし自分の印象に従うなら、悪魔はしばしば、多くの真実をわたしたちに見せて、偽りへと導くでしょう。こうなるのは、神だけが裁くべき、同じく造られた者である隣人の心を、わたしたちが自ら裁く者となってしまうからです。
これは、わたしたちが完全に解き放たれるようにとわたしが願っている、二つの事柄のうちの一つです。しかし、この教えは分別をもって学んでほしいと思います。その分別ある道とは、次のようなものです。神が、一度や二度だけでなく、さらにたびたび、隣人の過ちをわたしたちの心にはっきりと示されるとしても、決してその当人に、その過ちを個別に告げてはなりません。むしろ、わたしたちが判断する立場に置かれているすべての人の悪徳を、共通の事柄として正し、優しく慈しみ深く徳を植えつけるべきです。必要に応じて、その慈しみのうちに厳しさもなければなりません。また、神が他の人の過ちを繰り返し示されたように思われても、先に述べたような特別な啓示がないかぎり、より安全な道を守ってください。それは、悪魔の欺きと悪意から逃れるためです。悪魔は、この望みを釣り針として、わたしたちを捕らえようとするからです。ですから、あなたの唇には沈黙を保ち、徳についての聖なる語らいと、悪徳への嫌悪を宿らせてください。そして、他の人のうちに何らかの悪徳を認めたように思うときには、常に真の謙遜をもって、それがその人たちにも自分自身にもあると、ただちに受け止めてください。その悪徳が本当にその人のうちにあるなら、その人は、自分がこれほど優しく理解されているのを見て、いっそうよく自らを正し、あなたがその人に言おうとしていたことを、かえってあなたに語るでしょう。こうしてあなたは安全に守られ、悪魔の入り込む道を閉ざすことになります。悪魔はわたしたちを欺くことも、あなたの魂が完全に至るのを妨げることもできなくなるでしょう。わたしたちは、どのような外見にも頼らず、それらを背後に退け、ただ自分自身を見つめ、知ることにとどまるべきだと心得てください。また、同じく神に造られたある人々のために、特に祈っているとき、祈りのうちに、その一人には恵みの光が見え、もう一人にはそれが見えないことがあったとしても、その人も神の僕であるのに、その心が卑しめられ、実りを失っているように見えたとしても、それゆえに、その人のうちに重大な過ちや欠けがあると決めつけてはなりません。あなたの見方が誤っているかもしれないからです。同じ人のために祈っていても、あるときには、その人が神の前で豊かな光と聖なる望みのうちにいるのが見え、その人の幸いによって、祈る者の魂まで豊かに養われるように思われることがあります。ところが別のときには、その人の魂が神から遠く離れ、闇と誘惑に満ちているように見え、その人を神の前に保つことが、祈る者にとって苦労となることもあるのです。これは時として、祈られている人の過ちによって起こることもあります。しかし、多くの場合、それは過ちのためではなく、神がその魂からご自身を隠されたためです。つまり、恵みを取り去られたのではなく、甘美さや慰めを感じさせなくなったということです。そのため、その魂は実りを失い、乾き、苦しみに満ちた状態にとどまっているのであり、神は、その人のために祈っている魂に、そのことを悟らせてくださるのです。神がこうなさるのは、祈りを受ける魂へのいつくしみからであり、あなたが神を助けて、その雲を払いのけることができるためです。ですから、愛する姉妹よ、ただこうした外見から、その魂のうちに悪徳があると判断するなら、わたしたちの見方がいかに無知で、叱責に値するものとなるか、お分かりでしょう。したがって、その魂から奪われていたのは恵みではなく、神の現存を感じる甘美さだけであったと、わたしたちがすでに見て知っているのに、神がその魂を、これほど苦しみ、闇に覆われた姿で示してくださったのであれば、どうか、あなたも、わたしも、そして神のすべての僕も、自分自身を余すところなく知ることに努めようではありませんか。そうして、神の善をいっそう完全に知ることができますように。また、その光に照らされて、隣人を裁くことを捨て、真のあわれみの心を抱くことができますように。そして、先に述べた仕方で、自分自身と隣人の双方において、徳をたたえ、罪を戒めることを、切に求めることができますように。
一つのことについてはすでにお話ししましたので、今度はもう一つのことをお伝えします。それは、わたしたち自身のうちで戒めていただきたいことです。時として、悪魔や、物事についてのわたしたち自身のひどく邪悪な解釈が、神のしもべたちを皆、自分と同じ道に進ませたい、あるいは歩んでいてほしいという思いによって、わたしたちを苦しめることがあります。というのも、大きな苦行によって自分が進歩していると感じる魂は、すべての人をその同じ道に進ませたいと望むことがよくあるからです。そして、人々がその道を歩んでいないのを見ると、不満を抱いて衝撃を受け、彼らは正しいことをしていないと感じるのです。しかし実際には、その人がそれほど多くの苦行をしていなくても、批判する人よりもよい行いをし、徳においてもまさっていることがあります。完全さは、体を苛み、あるいは殺すことにではなく、わたしたちのゆがんだ我意を殺すことにあるからです。そして、我意を滅ぼし、神のいつくしみ深いみ旨に従わせるこの道を、すべての人が歩むようにと、わたしたちは確かに望むべきです。苦行も体を苛むこともよいものです。けれども、それらをすべての人に当てはまる規則として、わたしに示さないでください。すべての人の体が同じではありませんし、また、さまざまな不測の事態が起こって、始めた苦行をやめなければならなくなることもよくあるからです。ですから、もし自分自身や他の人に、苦行を土台として築かせるなら、それは何にもならず、あまりに不完全なものとなって、魂から慰めと徳が失われてしまうかもしれません。魂は、自分が愛し、何よりも大切にしていたものを奪われると、神を奪われたかのように思い、そのために倦怠と非常に深い悲しみ、苦々しさに陥り、その苦々しさのうちに、それまで続けてきた働きや熱心な祈りを失ってしまうからです。このように、苦行だけを第一の関心事とすることから、どのような悪が生じるか、お分かりでしょう。わたしたちは無知になり、人を批判する態度に陥り、疲れ果て、ひどく苦々しい思いを抱くようになるでしょう。そして、わたしたちに無限の望みを求めておられる無限の善である神に、ただ仕上がった業だけをささげようと努めることになるでしょう。ですから、わたしたちは、自分自身のゆがんだ意志を殺し、滅ぼすことを土台とすべきです。その意志を神のみ旨に従わせて、神の誉れと霊魂の救いのために、甘美で、飢え渇くような、無限の望みをささげるのです。こうしてわたしたちは、自分自身にも隣人にも決して腹を立てず、あらゆることのうちに喜びと実りを見いだす、あの聖なる望みの食卓で養われるでしょう。惨めな女であるわたしは、この真実の教えに一度も従わなかったことを嘆いています。それどころか、反対のことをしてきました。そのため、しばしば苛立ちに陥り、隣人を裁く態度を取ってきたと感じています。ですから、十字架につけられたキリストの愛にかけて、あなたにお願いします。この弱さと、わたしのほかのあらゆる弱さに、癒やしが見いだされますように。そして、あなたとわたしが今日から真理の道を歩み始め、光に照らされて、外見や印象に頼るのではなく、聖なる望みの上に真の土台を築くことができますように。そうして、思いやりから、あるいは一般的な戒めとして行う場合を除き、軽々しく自分を顧みることを怠って隣人の過ちを裁くことがありませんように。
聖なる望みの食卓で自らを養うなら、わたしたちはこれを行うことができます。そうでなければ、できません。望みから光が生まれ、光はわたしたちに望みを与えるからです。こうして、一方が他方を養うのです。ですから、あなたが真の光のうちにいる姿を見たいと望んでいる、とわたしは言ったのです。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。甘美なイエスよ、愛なるイエスよ。 ページ上部へ
フィレンツェの仕立屋フランチェスコの妻、モンナ・アニェーゼへ
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
甘美なイエス・キリストにおいて、最愛の娘へ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべ、また奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたが真実で完全な謙遜を身にまとう姿を見たいと望みながら、お便りします。謙遜は、神のいつくしみ深いまなざしのうちに、わたしたちを偉大な者とする小さな徳だからです。この徳こそ、神を強く動かし、その心を傾けさせて、最も甘美な御子をマリアの胎内で受肉させるに至らせたものです。高慢な者が低くされるのと同じほどに、この徳は高められます。それは神と人々の前で輝き、悪人の手を縛り、魂を神と結び、わたしたちの罪の汚れを清めて洗い流し、いつくしみを示してくださるよう神に呼び求めます。ですから、いとしい娘よ、わたしはあなたに、この栄光ある徳を抱き締めるよう努めてほしいのです。そうすれば、嵐にも危険にも遭うことなく、この世の荒れ狂う海を渡ることができるでしょう。
今は、この甘美で誠実な徳のうちに慰めを得て、十字架につけられたキリストの御血に身を浸してください。そして、祈りのために時間を空けることができるときには、どうかそうしてください。また、理性を持つすべての存在を、優しく愛してください。それから、聖なる教会が定める日に、できる場合を除いては、断食をしないよう、あなたに願い、命じます。その日にも、断食するだけの力がないと感じるときは、守らないでください。それ以外のときには、土曜日に、できると感じる場合を除いて、断食をしないでください。この暑さが過ぎたら、できるなら聖母マリアの祝日に断食をしてください。それ以上はしないでください。また、毎日、水以外のものも何か飲んでください。聖なる望みを増すために懸命に努め、これからは、こうしたほかのことはそのままにしておきなさい。わたしたちのことで心配したり、気落ちしたりしないでください。皆、元気にしています。いつくしみ深い神がお望みになるときに、またお会いしましょう。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。わたしのいとしい娘たち、ウルスラとジネヴラを慰めてあげてください。甘美なイエスよ、愛なるイエスよ。 ページ上部へ
いくつかの批判に応える書簡
カタリナには、前の一群の手紙で彼女がたしなめた、世間で立派とされる人々の手厳しく批判したがる性向によって苦しむ機会が、十分にありました。彼女の生き方には、慣習にとらわれない熱意に満ちた振る舞いが多く、同じ信仰を持つ人々や同郷の人々から、しばしば不信を招いていました。次の短い手紙を宛てられた忠実な友人たちが、具体的に何に憤ったのかは分かりません。しかし、自分に向けられるどのような批判をも甘んじて受け入れるようにという難しい勧めを、カタリナがどれほど清新で純粋な謙遜の心で彼女たちに与えているかを、味わうことができます。
後に彼女の聖性の証しと見なされるようになる事柄そのものが、生前には疑いの根拠とされていました。彼女の並外れた節食についての話を聞いて思い悩んだ、名の知られていないある人は、どうやら、今日ならいささか無礼とも思われるやり方で、彼女に諫めの手紙を書き送ったようです。カタリナがほかの人々と同じだけ食べられなかったこと、あるいは食べようとしなかったことは、当時の素朴な人々にとって、彼女の生涯に見られた最も興味深い驚異の一つでした。中世の慣習に従って幼いころから自らの肉体に課していた厳しい苦行も一因となり、彼女の身体の状態が若くしてまったく通常とは異なるものになっていたことは明らかです。彼女の食事は、事実上、生野菜と水だけでした。詳しく知りたい方は、伝記作者たちが記した豊富な詳細をご覧ください。一方、この手紙は、この件について彼女自身がいかに理にかなった姿勢を持っていたかを示しています。また、どれほど穏やかな品位をもって批判を受け止めたかも示しています。終わりのほうにある「神の御前で確かに照らされているのでなければ、軽々しく判断なさらないようにお願いします」という短い一言だけが、反感を抱くという自然な衝動をほのめかしています。ただし、そう読みたくもなるのですが、手紙の冒頭にかすかな皮肉を読み取らないかぎりは、ということです。 ページ上部へ
バルトロ・ウジンバルディの妻モンナ・オルサと、フィレンツェの仕立屋フランチェスコ・ディ・ピピノの妻モンナ・アニェーゼへ
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおいて、最愛の娘よ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべであり奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたに書き送ります。あなたが聖なる望みのうちに堅忍し、決して後ろを振り返ることのないようにと願っています。そうでなければ、あなたは報いを受けられず、畝を見ようと振り返ってはならないという救い主の言葉に背くことになるからです。ですから、堅忍し、すでになしたことではなく、これからなすべきことを見つめてください。では、わたしたちは何をなすべきでしょうか。絶えず心の思いを神に向け直し、この世とそのあらゆる喜びを軽んじ、徳を愛し、神がその慈しみのうちにお許しになることを真の忍耐をもって耐え忍ぶことです。そして、神がお与えになるものはすべて、わたしたちが神のうちに聖なる者とされるよう、わたしたちの益のために与えられるのだと考えることです。御血のうちに、真実がそのとおりであることを見いだすでしょう。ですから、これほど優しい真実を示してくださるこの栄光に満ちた御血で、わたしたちの記憶を満たし、ひとときもそれを忘れることのないようにすべきです。最愛の娘たちよ、わたしはあなたがたに、このようにしてほしいと願っています。この世で死に至るまで堅忍し、生涯の終わりに、永遠に神を仰ぎ見る恵みを受けるためです。ここでは、これ以上申し上げません。
わたしの最愛のいとしい娘よ、あなたをたしなめます。わたしについて何か好ましくないと思われることを言う人がいても、言い返してはならないと伝えたのに、あなたはそれを心に留めていなかったからです。これからは、もうそのようなことをしないでほしいのです。むしろ、わたしの欠点をあなたがたに語る人には、二人ともこう答えてほしいと思います。その人たちが語っている欠点は、さらに多くを語る余地がないほど多いわけではない、と。その人たちには、口先では憐れみを示しているように見えるのですから、神の御前で心の内にも憐れみを抱き、慈しみ深い神がわたしの生き方を正してくださるよう、わたしのために熱心に祈ってくださるようにと伝えてください。それから、わたしのあらゆる過ちを罰し、ご自分の御名のために忍ばれるあらゆる労苦に報いてくださるのは、至高の審判者であると伝えてください。モンナ・パオラについては、あなたに少しも腹を立ててほしくありません。むしろ、娘に徳があるかどうかを確かめようとする、よい母親のように振る舞っているのだと考えてください。わたし自身には、ほとんど進歩が見られないことを、正直に認めます。それでも、わたしを正し、生き方を改めさせてくださる創造主に希望を置いています。慰めを得て、もう思い悩まないでください。わたしたちは神の愛の炎のうちに結ばれるのですから。その結びつきは、悪魔によっても、いかなる被造物によっても、わたしたちから奪われることはありません。これ以上は申し上げません。神の聖なる優しい恵みのうちにとどまってください。優しいイエスよ、愛なるイエスよ。 ページ上部へ
カタリナの苦行に衝撃を受けたフィレンツェのある修道者へ
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
甘美なイエス・キリストにおける、最愛の、こよなく敬愛する神父様。イエス・キリストの役に立たないしもべであるわたしカタリナは、あなたに自分を委ねます。わたしたちの内にあるあらゆる偽りと虚言を打ち砕く、あの甘美で永遠の純粋な真理のうちに、わたしたちが一つに結ばれ、造り変えられることを願っております。最愛の神父様、わたしの魂に寄せてくださる聖なる熱意と、ひたすら守ろうとしてくださるお心に、心から感謝いたします。わたしの生活について耳にされたことを、大変案じておられるご様子だからです。あなたの心を動かしているのは、神の誉れとわたしの救いへの願いだけであり、そのために悪魔どもの攻撃や惑わしを恐れておられるのだと、わたしは確信しています。神父様がとりわけ心配しておられる、食べることに関するわたしの振る舞いについては、驚きません。確かに申し上げますが、あなただけでなく、わたし自身も悪魔の策略を恐れて震えているからです。神の善良さに信頼し、自分自身には信頼を置かず、自分の内には頼りにできるものが何もないと知っていなければ、なおさらのことです。というのも、あなたは人を通して、わたしが自分も欺かれるかもしれないと思っているかどうかを尋ね、もしそう思っていないなら、それこそ悪魔の策略だとおっしゃったからです。お答えいたします。肉体の本性を超えるこのことについてだけでなく、わたしのほかのあらゆる行いについても、わたしは自分の弱さと悪魔の狡猾さのために、いつも恐れを抱き、欺かれているかもしれないと考えています。悪魔は至福を失いはしましたが、知恵を失ったわけではないことを、わたしはよく承知しているからです。そして、申し上げたとおり、悪魔がその知恵をもってわたしを欺きうることも認めています。けれどもそのとき、わたしは向き直り、十字架につけられたキリストの、いとも聖なる十字架の木に身を寄せ、そこにしっかりと自分を結びつけます。そして、愛と深い謙遜によって、キリストとともに釘づけにされ、その方とともにとどまるなら、悪魔どもはわたしに対して何の力も持たないと、わたしは疑いません。それはわたしの徳によるのではなく、十字架につけられたキリストの徳によるのです。
あなたは、わたしが食べられるように、特にそのことを神に祈るよう、言葉を寄せてくださいました。神父様、わたしはあなたに申し上げます。そして神の御前で申し上げます。わたしはいつも、力の及ぶあらゆる手段を尽くして、一日に一度か二度は、無理にでも食物を取るようにしてきました。また絶えず祈ってきましたし、今も神に祈り、これからも祈り続けます。この食べることについて、もしみ旨であるなら、ほかの被造物と同じように生きる恵みを与えてくださるようにと。それがわたし自身の願いだからです。申し上げますが、できることを尽くした後、わたしは幾度となく自分の内に入り、自分の弱さを認め、また、この上なく特別な恵みによって、わたしに大食の罪を改めさせてくださった神を認めます。自分のこの惨めな過ちを、愛によって改めてこなかったことを、わたしは深く悲しんでいます。わたし自身には、ほかにどのような手立てを取ればよいのか分かりません。ただ、いと高き永遠の真理である方に祈ってくださるよう、あなたにお願いするばかりです。もしそのほうがいっそう神の誉れとわたしの魂の救いのためになるのであれば、み心にかなうなら、わたしが食物を取れるようになる恵みを与えてくださいますように。そして、神はその善良さゆえに、あなたの祈りを退けられないと確信しています。何か手立てが見つかりましたら、どうか手紙でお知らせください。それが神の誉れのためになるのであれば、わたしは喜んで受け入れます。また、神の御前ではっきりと照らされておられないのであれば、軽々しくお裁きにならないようお願いいたします。これ以上は申し上げません。神の聖なる甘美な恵みのうちにおとどまりください。甘美なイエスよ、愛なるイエスよ。 ページ上部へ
説教者修道会のバルトロメオ・ドミニチ修道士へ――フィレンツェで聖書講師を務めていたときに
カタリナにとって、来るべき怒りへの信仰は十分に現実味のあるものであり、当時広まっていた悪魔についての考え方も、ごく自然に彼女の口をついて出てきます。これらのことを、彼女は受け継いだままに受け入れていました。しかし、彼女の霊がその中で息づいているのは、神の愛を感じ取る世界です。創造から聖霊の到来へ、そして祭壇の秘跡によって魂が絶えず支えられることへと続く、人類の霊的な歴史は、彼女にとって、すべてを包む唯一の愛の啓示なのです。その愛は、人類の運命が進んでいく各段階で、新たな豊かさをもって、新たな形のもとに注ぎ出されます。
こうしてカタリナは、この短い手紙の中で、「神は愛」という言葉のうちに見いだされる「穏やかで深い海」へ、自分とともに入るよう私たちを招いています。ほかにも、『対話』やマッテオ・トロメイ修道士に宛てた手紙の中で、贖われた人類が愛に満ちた神と結びうる関係を、鋭い洞察をもって分析しています。恐れから従うしもべが、感謝と霊的な祝福への望みから従う友となりうること、そして、これらの低い段階の愛が、聖霊の働きによって、神ご自身のために、「何も間に置かずに」神を求める子の愛へと変えられうることを語っています。では、人間の愛は、この境地に達したとき、「人の働きも、ご自分の賜物も必要とされない」方の愛を、どのように映し出すのでしょうか。どうすれば、ただ受け取るだけでなく、行動し、創造する愛となるのでしょうか。カタリナは、キリスト者としての簡明な答えを示しています。「神は、愛されることなく私たちを愛してくださいました。しかし私たちは、愛されているからこそ神を愛します。……私たちは神に何の益ももたらすことができず、この先立つ愛をもって神を愛することもできません。それでも神は、ご自分が何の思惑もなく私たちを愛してくださったように、私たちからも愛されることをお求めになります。では、神がそれを私たちに求めておられるのに、私たちにはおささげできないとすれば、どうすればよいのでしょうか。お話ししましょう。神は、私たちが自分の利益を少しも顧みず、無償で神を愛することのできる手だてを設けてくださいました。それによって、私たちは神に役立つことはできなくても――それは不可能なことです――隣人の役に立つことができます。……神への愛を示すために、私たちは理性を備えたすべての被造物に仕え、愛さなければなりません。……すべての徳は愛からいのちを受け、愛は愛のうちに得られます。つまり、心の目を上げて、私たちがどれほど神に愛されているかを見つめることによって得られるのです。自分が愛されていると知れば、愛さずにはいられません。……こうして、私たちは神によって徳を身ごもり、隣人のためにそれを産み出すのだと、あなたにもお分かりになるでしょう。」
このように、カタリナの最も高遠な黙想は、実践へと促す言葉で結ばれます。ここでも、ほかの箇所でも、彼女の根本的な考えは、聖ベルナルドの思想と驚くほどよく似ています。自分自身のためではなく、神のために自分を愛しなさい、と彼女は絶えず繰り返します。同じ趣旨で、ベルナルドは、魂が最高の段階に至るまでの歩みを詳しく描いています。その段階では、自己愛はすっかり姿を消し、感謝さえも後に残され、人はただ神のためだけに、自分自身と神を愛するのです。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
この上なく甘美な秘跡への畏敬のゆえに、最愛の、親愛なる父であり、キリスト・イエスにおける子であるあなたへ。イエス・キリストのしもべたちのしもべ、また奴隷である私カタリナは、主の尊い御血のうちに慰めを送り、この手紙を書きます。あなたが主の燃え盛る愛に火をつけられ、燃え立ち、その愛に焼き尽くされるのを見たいと願っています。この愛に燃え、焼き尽くされる人は、自分自身を見つめないと知っているからです。ですから、あなたにこうしていただきたいのです。この燃え盛る愛を通って、穏やかで深い海へと入るよう、あなたを招きます。私は今しがた、「神は愛」という言葉のうちに、この海を新たに見いだしました。海が新しいのではなく、私の魂の実感として新しいのです。そして、この言葉のうちに、鏡が人の顔を映し、太陽が地上にその光を照らすように、神のみ業はことごとく愛そのものであるということが、私の魂に映し出されます。神のみ業は、愛以外の何ものからもなされないからです。それゆえ神は、「神であるわたしは愛である」と言われます。ここから、人となられたみことばの、究め尽くすことのできない神秘に光が注がれます。みことばは愛の力によって、これほどのへりくだりのうちに与えられたので、私の高慢は打ち砕かれます。そして私たちは、そのみ業ではなく、私たちに与えられたみことばの燃えるような献身に目を向けるよう教えられます。神は、愛する人がするように、私たちもすべきだと言われます。その人は、友が贈り物を持って来るとき、持参した贈り物を見ようとしてその手に目を向けるのではなく、愛の目を開き、友の心と愛情を見つめます。同じように、何ものにもまして甘美な、神のいと高く永遠の善が私たちの魂を訪れるとき、私たちにもそうすることを神は望んでおられます。その善は、計り知れない恵みをもって私たちを訪れます。記憶を速やかに働かせて、神の愛に込められた意向を受け止めましょう。そして意志をこの上なく熱い望みとともに立ち上がらせ、与え主である優しく善いイエスの、いけにえとしてささげられた心を受け入れ、見つめましょう。そうすれば、あなたは自分に火がつけられ、炎と、神の御子の御血という賜物とに包まれていることに気づき、あらゆる苦しみと病から解き放たれるでしょう。聖なる弟子たちがマリアからも互いからも離れなければならなかったとき、彼らから苦しみを取り去ったのは、まさにこれでした。そして彼らは神の言葉をまくために、喜んでその別離に耐えたのです。ですから、走りなさい、走りなさい、走りなさい。
ベニンカーサの件については、シエナにいなければお返事できません。ニコラオ殿があの人たちに示してくださった愛に、感謝をお伝えください。アレッサと私とチェッカ、この貧しい女たちは、幾千幾万回もあなたに自分たちをお委ねします。神がいつもあなたの魂のうちにおられますように。アーメン。イエスよ、イエスよ。
神のしもべたちのしもべ、カタリナ。 ページ上部へ
説教者修道会のマッテオ・ディ・フランチェスコ・トロメイ修道士へ
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
甘美なイエス・キリストにおける最愛の息子よ。イエス・キリストのしもべたちのしもべであり、奴隷であるわたしカタリナは、あなたが自分自身の肉的な思いや、ほかのいかなる被造物をも介さず、真実に神を求めるようになることを願い、主の尊い御血のうちにあなたに書き送ります。何かを間に介しては、わたしたちは神に喜ばれることができないからです。神は、ご自身の利益を顧みることなく、独り子であるみことばをわたしたちに与えてくださいました。わたしたちが神に何の利益ももたらすことができないのは確かです。しかし、その逆は当てはまりません。わたしたちは自分の利益のために神に仕えるのではありませんが、それでもやはり益を受けるからです。誉れの花は神のものであり、益という実はわたしたちのものです。神は愛されることなくわたしたちを愛してくださり、わたしたちは愛されているから愛するのです。神は無償でわたしたちを愛してくださり、わたしたちは義務として神を愛します。神を愛する義務があるからです。わたしたちが神に何の利益ももたらすことができないのと同じように、何の義務も負わず、無償で神を愛することもできません。わたしたちは神に対して義務を負っていますが、神はわたしたちに対して義務を負ってはおられないからです。神は愛される前にわたしたちを愛し、それゆえ、ご自分のかたちに、ご自分に似せてわたしたちをお造りになりました。つまり、わたしたちは神に何の利益ももたらすことができず、このような、先に愛する愛をもって神を愛することもできないのです。それでも、わたしはこう言います。神は、何の思惑もなくわたしたちを愛してくださったのと同じように、わたしたちからも愛されることを求めておられます。では、神がそれをわたしたちに求めておられるのに、わたしたちがそれをおささげできないのであれば、どうすればよいのでしょうか。お答えしましょう。神ご自身が定められた手段によってです。その手段によって、わたしたちは自分の利益を少しも顧みることなく、自由に神を愛することができます。つまり、神のお役に立つことは不可能ですが、隣人の役に立つことはできるのです。この手段によって、わたしたちは神の御名の栄光と賛美のために、神が求めておられることに従うことができます。神への愛を示すために、わたしたちは理性を持つすべての被造物に仕え、これを愛し、善人にも悪人にも、あらゆる人に愛を広げなければなりません。わたしたちに害を与え、わたしたちを非難する人にも、仕えてくれる人と同じように愛を注ぐのです。神は人を分け隔てすることなく、その聖なる望みを顧みられ、その愛は正しい人にも罪人にも及ぶからです。
確かに、神はある人を息子として、ある人を友として、またある人をしもべとして、そしてまたある人を、ご自分から離れ去り、その帰りを待ち焦がれている者として愛しておられます。この最後の人々とは、恵みを失っている、悪を行う罪人たちのことです。では、至高の御父は、どのようなことにおいて、この人々への愛をお示しになるのでしょうか。それは、彼らに時間を貸し与えることにおいてです。そして、その時間の中で、御父は彼らに多くの機会をお与えになります。思うままに悪を行う場と力を彼らから奪うことで、罪を悔い改める機会をお与えになることもあれば、ほかのさまざまな方法によって、悪徳を憎み、徳を愛するように導かれることもあります。徳への愛は、罪を犯したいという望みを取り去ります。こうして、神が愛をもって与えてくださった時間を通して、彼らは敵から友へと変えられ、恵みを受け、御父の相続人となるにふさわしい者となるのです。
神は、奴隷のような恐れを少しも抱かず、真実にご自分に仕える人々を、子として愛されます。その人々は、自分の意志を無にして死なせ、神によって、理性を備えたすべての被造物に死に至るまで従順である人々です。彼らは、自分の利益のために神に仕える雇い人ではなく、子なのです。彼らは慰めを軽んじ、苦難のうちに喜び、ただ、どうすれば十字架につけられたキリストに自分を似たものとし、その受けられた辱めと労苦と悲しみを自らの糧にできるかを求めます。このような人々は、神や同じ被造物である人から受ける、霊的あるいは現世的な甘美さや慰めのために、神を求めたり、神に仕えたりはしません。自分自身のために神や隣人を求めるのではなく、神は愛されるにふさわしい方であるがゆえに、神のために神を求め、また、神のため、そのみ名の栄光と賛美のために自分自身を求めます。そして、神のために隣人に仕え、できるかぎり神のお役に立とうとします。これらの人々は御父の足跡に従い、隣人への愛のうちに心から喜び、創造主を愛するその愛をもって、神に仕える人々を愛します。また、不完全な人々が完全さに達するようにと願う愛をもって彼らを愛し、その人々のために聖なる望みと絶え間ない祈りをささげます。大罪による死のうちに横たわる悪人たちをも愛します。それは、その人々も理性を備えた存在であり、神によって造られ、自分たちと同じ血によって買い取られた者だからです。それゆえ、彼らが断罪されることを嘆き、その人々を救うためなら、自らの肉体のいのちを差し出そうとさえします。自分たちにつまずき、迫害し、中傷し、裁く人々についても、先に述べたように、その人々が神の被造物であるから愛するだけでなく、その人々が、自分たちの徳を試し、完全さに至る助けとなる手段であり、原因でもあるから愛するのです。とりわけ、徳の中でも王者たる忍耐においてそうです。忍耐は甘美な徳であり、どのような逆風にも、人からのどのような嫌がらせにも、決して気分を害したり、心を乱したり、打ちひしがれたりしません。このような人々こそ、何ものも間に置かずに神を求め、愛される正当な子として、真実に神を愛する人々です。神もまた、まことの父として彼らを愛し、ご自分の愛の奥義を示し、永遠の王国を受け継ぐ者としてくださいます。それゆえ彼らは、キリストの血によって力を新たにされ、神の愛の火に燃え立ち、その愛によって完全に照らされて走ります。このような人々は、自分流のやり方で徳の道を走るのではありません。そうではなく、十字架につけられたキリストのやり方に倣い、その足跡に従って走るのです。たとえ労苦なしに神に仕え、徳を得ることができたとしても、彼らはそれを望まないでしょう。これらの人々は、第二の種類に属する人々、すなわち友や僕のようには振る舞いません。というのも、後者の人々の奉仕には、何らかの別の思惑があるからです。時には、それが自分自身の利益に向けられています。自分が助けを必要としていることを知り、また、自分を助けることができ、助けようとしてくれる恩人を知るとき、人はこのような仕方でも深い友情に至ることができます。しかし、初めはその人も僕でした。自分の犯した悪と、それに続く罰を知ったからです。それで、罰への恐れから罪を追い払い、愛をもって徳を抱き締め、自分が背いた主に仕えます。そして、主は罪人が死ぬことではなく、回心して生きることを望んでおられるのだと考え、その慈愛から希望をくみ取り始めます。もしその人が恐れのうちにとどまるだけなら、それだけではいのちを与えられるには足りず、主の十分な恵みを得ることもできません。その人は雇われた僕にとどまるでしょう。また、友とされた後も、主から受けるかもしれない実りや慰めを愛するだけにとどまってはなりません。この種の愛は強くなく、甘美さや慰め、心の喜びを奪われたり、迫害や悪魔からの誘惑という逆風に打たれたりすれば、力を失ってしまうからです。そのとき、この愛はたちまち、悪魔の誘惑や肉の煩いに屈してしまいます。こうして、心の慰めを奪われることによって混乱に陥り、同じ被造物である人々から迫害や侮辱を受けると、忍耐を失ってしまうのです。
ですから、この種の愛が強くないことが分かります。実際、この愛をもって愛する人は、聖ペトロと同じように振る舞います。ペトロは受難の前、キリストを心から慕っていました。しかし、強くはなかったので、十字架の時に挫折しました。けれどもその後、聖霊が来られると、甘美さを愛する心から離れ、恐れを失い、多くの苦難の火の中で試された、強い愛に達したのです。こうして子としての愛に達したペトロは、そのようなすべての苦難を、まことの忍耐をもって耐え忍びました。いえ、そればかりか、苦しみにではなく婚宴に赴くかのように、大きな喜びをもって苦難のただ中を走ったのです。それは、彼が子とされていたからでした。しかし、もしペトロが、キリストの受難の時とその後に感じていた甘美さと恐れに心を奪われたままでいたなら、聖なる教会の子、またその擁護者となり、人々の魂を愛し求める者となるほどの完全さには達しなかったでしょう。けれども、ペトロと他の弟子たちが、奴隷のような恐れと慰めへの愛着を捨てる力を得て、甘美な、万物の根源である真理なる方が約束されたとおりに聖霊を受けるために、どのような道を歩んだかに注目してください。それゆえ聖書は、彼らが家に閉じこもり、そこで目を覚まして絶えず祈り続けたと述べています。彼らは十日間そこにとどまり、その後、聖霊が来られたのです。
さて、わたしたちも、理性を備えたすべての被造物も受け入れるべき教えは、これです。家の中に閉じこもり、目を覚まし、絶えず祈り続けることです。十日間そこにとどまるなら、聖霊の満ちあふれる恵みを受けるでしょう。聖霊が来られたとき、弟子たちは真理によって照らされ、みことばの計り知れない愛の神秘と、わたしたちの聖化のみを望まれる御父のみ旨を悟りました。このことは、優しく、愛に燃えるみことばの血によって、わたしたちに示されています。このみことばは、聖霊が満ちあふれるほどに降られたとき、弟子たちのもとに戻られました。御父の力、御子の知恵、聖霊のいつくしみと寛容をもって来られたのです。こうして、キリストが弟子たちに語られた真理が成就しました。「わたしは去り、そしてあなたがたのもとに戻って来る。」そのとき、キリストは確かに戻って来られました。聖霊は御子と御父と一つであられるので、御子と御父を伴わずに来られることはありえなかったからです。このように、先に述べたとおり、御父に帰せられる力と、御子に帰せられる知恵と、聖霊に帰せられる慈愛と愛をもって来られたのです。使徒たちは、このことをよく示しました。愛によって、たちまち恐れを失ったからです。こうして、真の知恵のうちに真理を知り、大いなる力をもって、信仰を持たない人々に立ち向かいました。偶像を地に投げ倒し、悪霊を追い出したのです。これは、この世の力や肉体の強さによるものではなく、神の恵みによって受けた霊の強さと神の力によるものでした。さて、大罪の汚れとこの世の惨めさから立ち上がり、最高善である神を味わい、その甘美さに心を引かれ始める人々にも、同じことが起こります。しかし、先に述べたように、恐れだけにとどまっていては、地獄を免れることはできません。それでは、絞首台を恐れるために盗みをしない盗人と同じです。その盗人は、罰を受ける見込みがなければ、盗みを控えることはないでしょう。神を愛することの甘美さゆえに神を愛する人も、まさに同じです。つまり、その人は強く完全な者ではなく、弱く不完全な者なのです。
完全さに至る道は、先に述べたように、弟子たちの歩んだ道です。つまり、ペトロとほかの弟子たちが家の中に閉じこもったように、御父への愛に達し、その子となった人々も、そうしてきましたし、そうするべきなのです。この境地に達したいと望む人は、家に入り、そこに閉じこもるべきです。その家とは、自分自身を知るという家、魂が住まうべき小部屋のことです。この小部屋の中には、もう一つの小部屋があります。それは、神ご自身の善を知るという小部屋です。このように、魂は自己認識から、自らの造り主に対して犯した悪への聖なる憎しみを伴う真の謙遜を引き出し、それによって真の聖なる忍耐に至ります。また、自らの内に見いだす神の認識から、きわめて熱烈な愛の徳を得て、そこから聖なる、愛に満ちた望みを引き出します。このようにして魂は、目を覚まし、絶えず祈ることを見いだします。すなわち、自分自身と神とを知るという、これほど甘美で栄光に満ちたものの内に閉じこもっている間に、そうなるのです。わたしが目を覚ましていると言うのは、肉体の目だけでなく、魂の目でも目を覚ましているということです。つまり、知性の目は決して閉じることなく、その見つめる方、言い表せない愛である十字架につけられたキリストに向かって開かれ続けます。そして、そこに愛と、自らの罪を見いだします。その罪のために、キリストはご自分の血をわたしたちに与えてくださいました。すると魂は、きわめて深い信心をもって自らを高め、神が愛されるものを愛し、神が憎まれるものを憎むようになります。そして、すべての行いを神のうちに方向づけ、すべてをみ名の栄光と賛美のために行います。これが、パウロの言う「絶えず祈りなさい」という、絶え間ない祈りです。さて、これこそ、単にしもべであり友であるだけの状態から、すなわち、奴隷的な恐れと、自分自身の慰めをいとおしむ愛から立ち上がり、真のしもべ、真の友、真の子となる道です。真に子とされたからといって、しもべであることや真の友であることを失うわけではありません。むしろ、自分自身のことにも、ただ神に喜ばれること以外の何ものにも心を向けることなく、真実にしもべであり、友であるのです。
彼らが十日間とどまり、その後、聖霊が来られたと申しました。同じように、この完全さに達することを望む魂は、十日間を守らなければなりません。すなわち、律法の十戒を守るのです。そして、律法の掟とともに、福音的勧告をも守ることになります。両者は結びついており、一方を守らずに他方を守ることはできないからです。確かに、世にある人々は、聖なる望みをもって心のうちで勧告を守らなければならず、世を離れた人々は、心のうちでも実際の行いにおいても、それを守らなければなりません。このように、魂が聖霊の豊かさを受け、真実で完全な光と認識に基づく真の知恵を授かり、あらゆる戦いで自らを強める勇気と力を授かるなら、何よりも自分自身に対して強くなり、自らの肉的な本性を治めるようになります。しかし、あちらこちらを歩き回り、おしゃべりに多くの時を費やし、修道室から遠ざかり、聖歌隊席をおろそかにしていては、このすべてを行うことはできません。そこで、このことを考え、あなたがわたしのもとを去るとき、おしゃべりを避けて修道室に足を運ぶよう努め、できるかぎり聖歌隊席にも食堂にも欠かさず行き、へりくだった祈りをもって目を覚ましているようにと申しました。そうして、何ものも間に置かず、真実に神を求めるあなたを見たいと告げた、わたしの望みをかなえてほしいのです。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。甘美なイエス、愛なるイエス。 先頭へ
聖ドミニコのマンテッラータ、カタリナ・ディ・シェットへ
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
甘美なイエス・キリストにおける、最愛の姉妹であり娘であるあなたへ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべであり奴隷であるわたしカタリナは、あなたが十字架につけられたキリストの真のしもべ、花嫁となる姿を見たいと望み、キリストの尊い御血のうちに、あなたに書き送ります。わたしたちは、その御血によって買い取られたのですから、しもべでなければなりません。しかし、わたしたちの奉仕によって、キリストに何か益をもたらすことができるとは思えません。ですから、わたしたちは隣人の益となるべきです。隣人こそ、わたしたちが徳を試し、身につけるための手だてだからです。すべての徳が愛から命を受けることを、あなたは知っています。そして、愛は愛のうちに得られます。すなわち、心の目を上げ、わたしたちがどれほど神に愛されているかを見つめることによってです。自分が愛されていると知れば、愛さずにはいられません。神を愛するなら、わたしたちは愛の力によって徳を抱きしめ、悪徳を憎んで退けるようになります。
このように、わたしたちは神によって徳を胎に宿し、隣人のためにそれを産み出すのだと分かります。あなたもよく知っているとおり、隣人の必要に応えるために、あなたは魂のうちに宿る愛という子を産み出し、隣人から受ける不当な仕打ちの中で忍耐を産み出します。あなたは隣人のために祈り、とりわけ自分に不当な仕打ちをした人々のために祈ります。わたしたちは、そのようにしなければなりません。人々がわたしたちに不実であっても、わたしたちはその人々に誠実であり、忠実にその救いを求めなければなりません。見返りを求めず、無償で愛するのです。つまり、自分の利益のために隣人を愛することのないよう、気をつけてください。それは忠実な愛ではなく、神があなたに注いでおられる愛に応えることにもならないからです。神はあなたを無償で愛してくださったのですから、この愛を神に返すことのできないあなたが、それを隣人に返すことを望んでおられます。先ほど申したように、見返りを求めず、無償で隣人を愛するのです。不当な仕打ちを受けても、また、自分に向けられる愛や、自分の喜びや利益が減ったと感じても、隣人への愛を減らしたり、出し惜しみしたりしてはなりません。むしろ、隣人の欠点を忍び、耐えながら、優しく愛してください。そして、深い慰めと敬意をもって、神のしもべたちを見つめてください。
神のしもべたちの行いや習慣を調べ上げ、裁こうとする、分別のない愚かな人々のようにならないよう、気をつけてください。そのようなことをする人は、厳しい叱責を受けて当然です。神のしもべたちを皆、自分と同じ道に歩ませようと望むなら、それは聖霊に掟や規則を課すのと変わりないことを知ってください。そのようなことは、決してできません。この種の裁きに傾く魂は、高慢の根がまだ抜かれておらず、隣人への真の愛、すなわち、見返りを求めず無償で隣人を愛する心が、まだ植えられていないのだと考えるべきです。それゆえ、神のしもべたちを愛し、裁かないようにしましょう。いえ、わたしたちは、理性を備えたあらゆる被造物を分け隔てなく愛するべきです。恵みの外にある人々については、その過ちを悲しみ、心を痛めながら愛さなければなりません。その人々は、神と自らの魂を損なっているからです。そうすれば、あなたは、悲しむ人とともに悲しみ、喜ぶ人とともに喜ぶ、あの優しく愛に燃えるパウロと心を一つにするでしょう。神の誉れと人々の救いを願うがゆえに、悲しみのうちにある人々とともに悲しみ、優しい愛によって神を自らのものとし、喜びのうちにある神のしもべたちとともに喜ぶようになるでしょう。
ですから、神への愛によってわたしたちは徳を宿し、隣人への愛によってその徳を生み出すのだと分かるでしょう。このように、愛にも心にも偽りなく、霊的にも現世的にも自分の利益をいっさい顧みず、惜しみなく、心から隣人を愛するなら、あなたは真のしもべとなり、隣人を通して、創造主があなたに注がれる愛に応えることになります。あなたは不実な花嫁ではなく、忠実な花嫁となるのです。花嫁が花婿への忠実を失うのは、花婿に尽くすべき誠実を、ほかの被造物に与えるときです。あなたは花嫁です。キリストは割礼をお受けになったとき、人類をご自分の花嫁とするお望みをお示しになったからです。これほど言い表しようのない愛を仰ぎ見るあなたは、神から離れた何ものにも頼ることなく、キリストを愛するべきです。こうしてあなたは隣人のしもべとなり、自分の力の及ぶかぎり、あらゆることにおいて隣人に仕えるのです。まことに、あなたはキリストの花嫁であり、隣人のしもべであるべきです。もしあなたが忠実な花嫁であるなら、わたしたちは神を愛することによって神に益をもたらすことも、お役に立つこともできないのですから、先に述べたように、真実な、心からの愛をもって隣人に仕えるべきです。それ以外のいかなる方法によっても、神に仕えることはできません。それゆえ、十字架につけられたキリストの真のしもべ、真の花嫁となったあなたを見たいと、わたしは言ったのです。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。優しいイエス、愛なるイエス。 ページの先頭へ
ネーリ・ディ・ランドッチョ・デイ・パリアレージへの手紙
ネーリ・ディ・ランドッチョ・デイ・パリアレージは、ステファノ・マコーニやバルドゥッチョ・カニジャーニも名を連ねる、カタリナの魅力あふれる秘書たちの一人です。高貴な家に生まれ、上品に育てられたトスカーナの三人の青年が、世を離れることも修道誓願を立てることもなく、清らかで熱烈な献身をもって「庶民の福女」その人に付き従い、時間も力も彼女に仕えるためにささげ、その理想の炎を受け継ぎ、彼女の死後には自分たちの将来についての彼女の望みに従ったことを思うと、そこには、いかにもイタリア的で中世的な、実に心を引かれるものがあります。少し後の時代の、ボッティチェッリの『東方三博士の礼拝』のような絵画に描かれた顔立ちを見ると、この青年たちがどのような人々であったかを思い描く助けになります。
三人の秘書のうち、最初にカタリナに仕え始めたのはネーリでした。後に彼女の弟子となった人々の大半を彼女に紹介したのは彼であり、今も残る仲間たちからの多くの手紙は、この小さな集いの人々が彼を深く愛していたことを示しています。彼は繊細で、感じ方が細やかで、気落ちしやすい気質の持ち主でした。ダンテの愛読者で、自らも詩人であり、自分を責めさいなむ傾向があり、後年の生涯が示すように、憂うつに陥りがちな人でもありました。それでも、機転と実行力があり、おそらく人を引きつける魅力も備えていたに違いありません。というのも、カタリナは幾度となく彼を重要な使節として遣わしているからです。一度は、自分が赴くことをあらかじめ知らせるため、アヴィニョンの教皇グレゴリオのもとへ、また後には、腐敗しながらも華やかなナポリのジョヴァンナ女王の宮廷へと遣わしました。彼の必要をよく理解していたと思われる霊的な母の臨終の願いに従い、彼は彼女の死後、隠修者となりました。
カタリナは、この優れた、しかし恐れにおびえる魂に、この上なく細やかな優しさをもって書き送っています。人を動けなくする悲しみや無力感を伴う「心の混乱」は、この世のあらゆる悪の中でも、明晰で、決断力に富み、直観の鋭い彼女の気質にとって、最も忌まわしいものでした。彼女は、彼につきまとうこの危険から、愛する弟子を守ろうと、いつもの力強さを余すところなく注ぎます。これまで見てきたように、カタリナの教えの主眼は、常に神の怒りよりも神の愛にありました。神のいつくしみの測り知れない深みを鋭く見通し、「神の真実とは、わたしたちに永遠のいのちを与えるために、わたしたちをお造りになったということです」と確信をもって記すこの箇所ほど、彼女がその愛を熱心に説いたことはありません。その言葉は、心の視野がどれほど暗くなっている人にも、確かな安心をもたらしたに違いありません。また、彼女自身とはまったく異なる誘惑や霊的な危険にさらされていた人に宛てた、ひときわ優しいこれらの手紙ほど、彼女の実際的な助言が個人の必要に即していたこともありません。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
キリスト、優しいイエスにある最愛の息子よ。イエス・キリストのしもべたちのしもべであり、はしためであるわたしカタリナは、その尊い御血のうちに、あなたに書き送ります。あなたが真の光のうちにいるのを見たいと願っています。その光のうちに、あなたの創造主の真実が知られるためです。神の真実とは、わたしたちに永遠のいのちを与えるために、わたしたちをお造りになったということです。しかし、人間が神に背いたため、この真実は成就しませんでした。それゆえ神は、神性がわたしたちの人性という衣をまとったとき、降ることのできる最も深いところにまで降られたのです。ですから、わたしたちはこの栄光に満ちた光のうちに、神が人となられたことを見ます。神がそうなさったのは、ご自分の真実をわたしたちのうちに成就するためでした。そして、愛なるみことばの御血によって、まことにそのことをわたしたちにお示しになりました。わたしたちが信仰によって受け止めていたことが、その御血という代価によって、わたしたちに確証されたのです。理性を備えた被造物は、これが真実であることを否定できません。
ですから、あなたの心の混乱が、御血への希望と、神の計り知れない愛の火の中で焼き尽くされて消え去り、ただ自分自身についての真の認識だけが残ることを願います。その認識のうちに、あなたはへりくだり、成長し、魂の中に光を育むのです。神は、わたしたちが罪を犯そうとする以上に、進んで赦そうとしておられるのではありませんか。また、神は医者であり、わたしたちは病人であって、神こそわたしたちの不義を担ってくださる方ではありませんか。そして神は、心の混乱を、ほかのどの過ちよりも悪いものと見なしておられるのではありませんか。まことに、そのとおりです。ですから、最愛の息子よ、いとも聖なる信仰の光の中で知性の目を開き、自分がどれほど神に愛されているかを見つめなさい。そして、神の愛と、自分の心の無知や冷たさを見つめても、混乱に陥ってはなりません。むしろ、先に述べたように、真の認識と謙遜をもって、聖なる望みの炎をいっそう燃え立たせなさい。創造主があなたに示してくださったこれほど大きな恵みに、自分が応えてこなかったと分かれば分かるほど、ますますへりくだり、聖なる決意をもってこう言いなさい。「今日、まだしていなかったことを、今こそ行います」。心の混乱が、これまで常にあなたに与えられてきた教えとまったく相いれないことを、あなたは知っています。それは魂と体を干からびさせる重い皮膚病であり、絶えず両者を苦しめ、聖なる望みの腕を縛り、人が望むことを行えなくします。また、魂を自分自身に耐えられなくさせ、心を葛藤やさまざまな妄想へと向かわせます。それは魂から超自然の光を奪い、その自然の光をも暗くします。こうして人は、神がわたしたちを造られたときの真理、すなわち、永遠のいのちを与えるために、まことにわたしたちを造られたという真理を知らないために、深い不信仰に陥るのです。ですから、生きた信仰と聖なる望み、そしてキリストの御血への希望をもって、混乱をもたらす悪魔を打ち負かしましょう。
これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまりなさい。神があなたに甘美な祝福をお与えくださるよう祈ります。甘美なイエスよ、愛なるイエスよ。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
甘美なイエス・キリストにある、最愛の、いとしい息子よ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべ、また奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたに書き送ります。あなたのうちに、いとも聖なる信仰の光が見られることを願っています。それは、あなたが身に起こるどのようなことにも決して動揺せず、神のあらゆる神秘について心の平安を保つためです。そのために、神がご自分のうちから理性ある被造物を生み出し、わたしたちにご自分の姿と似姿を与え、謙遜で汚れのない小羊の御血によってわたしたちを買い取ってくださるようにと神を動かした、言い表しようのない愛を見つめなさい。そうすれば、あなたに起こるすべてのことを、ふさわしい畏敬をもって受け止めることができます。そして、心を占める多くの事柄や甘美な肉体の苦痛のために、ときとして悪魔の惑わしによって物事の釣り合いが崩れて見えるときにも、真の謙遜のうちに、単なる見かけを退けることができるでしょう。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまりなさい。祝福されたキリストが、あなたに永遠の祝福をお与えくださいますように。甘美なイエスよ、愛なるイエスよ。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
甘美なイエス・キリストにある、最愛の、いとしい息子よ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべ、また奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたに書き送ります。あなたが徳から徳へと絶えず成長し、ついには、神から引き離されることをもはや決して恐れなくてよい、あの平和の海へと帰る姿を見ることを願っています。霊に逆らって戦う、汚れたよこしまな法則は地上に残され、地に返すべきものを返し終えているからです。いとしいわが息子よ、あなたがこの世に生きる間、あらゆる我意に死んで生きるよう努めることを願います。その死のうちに、あなたは徳を得るでしょう。このように生きるなら、よこしまな欲望の法則を地に返すことができます。そうすれば、神があの人にお許しになったことを自分にもお許しになるのではないかと恐れることもなく、また、あなたの人間的な部分がしばらくの間、わたしや家族のほかの者たちから離されるからといって、苦しむこともないでしょう。慰めを得なさい。そして、真理である方が語られること、すなわち、その御手から一人も失われることはないということを、心にとどめなさい。わたしが「その御手から」と言うのは、すべてのものがその方のものだからです。多くの言葉を重ねなくても、あなたはわたしの言うことを理解してくれると分かっています。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまりなさい。甘美なイエスよ、愛なるイエスよ。 ページの先頭へ
モンナ・ジョヴァンナと、シエナにいる彼女のほかの娘たちへ
「主よ、わたしたちを教え、聖人や天使の生き方に倣って生きることができるようにしてください」とニューマン枢機卿は叫びました。ダンテが描く、煉獄にいる祝福された魂たちの「主の祈り」には、カタリナの祈りと美しく響き合う箇所があります。
「あなたの天使たちが、ホザンナと歌いながら、自らの意志をいけにえとしてあなたにささげるように、人々も自らの意志をそのようにささげますように。」
この手紙の冒頭にある、抵抗しないことについての穏やかな思索から、カタリナは、突然でありながら見事な転換によって、聖なる魂を手綱のない馬になぞらえる鮮やかな比喩へと移ります。その魂は「恵みから恵みへ、徳から徳へ」と、この上なく速く駆けてゆくのです。魂を御者になぞらえる比喩は、ブラウニングの『クロワジックの二人の詩人』を挙げるまでもなく、プラトンによってよく知られています。カタリナの比喩はそれほどなじみ深くはありませんが、その力強さにおいて劣るものではありません。彼女にとって、意志は清いときにのみ自由なのです。汚れた罪深い欲望は、自由のしるしどころか、神に向かって燃えるように駆ける意志を妨げる、くつわと手綱なのです。同じ考えは、表現の鮮やかさこそ及ばないものの、近代の神学者モバリー博士にも見られます。彼はこう記しています。「道徳的な人格であれ、不道徳な人格であれ、それが真に完成するなら、自由意志の判断基準として提示されていた曖昧さは排除されるでしょう。……罪を犯す十分な能力が、自由への鍵なのではありません。それどころか、悪を行う内在的な能力はすべて、自由意志の現実性を直接に損なうものです。……自由意志とは、被造物が独立していることではなく、むしろ完全な依存のうちに自己を実現することです。自由とは、自己が善と一致していることなのです。」
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける、いとしく、こよなく愛する娘たちへ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべであり下僕であり、キリストにおけるあなたがたの母であるわたしカタリナは、神の御子の尊い御血のうちに、あなたがたに手紙を書き、慰めを送ります。御子は、優しく、汚れのない小羊であり、釘や槍の力によってではなく、ご自分の被造物に対して抱いておられ、今も抱いておられる愛と限りない慈愛の力によって、屠られた方です。ああ、わたしたちの神の、言い表せない愛よ。いとも優しい愛であるあなたは、わたしに教え、示してくださいました。それは言葉だけによってではありません。あなたは、多くの言葉を喜ぶのではないとおっしゃるからです。むしろ、あなたが喜びとし、しもべたちに求めるとおっしゃる行いによって、教え、示してくださったのです。造られざる愛よ、あなたはわたしに何を教えてくださったのでしょうか。厳しい言葉だけでなく、激しく容赦のない打撃や、危害や損失さえも、小羊のように忍耐して耐えることを教えてくださいました。そして、それとともに、わたしが罪なく汚れなくあり、隣人や兄弟のだれにも害を与えないことを望んでおられます。それは、わたしたちを迫害しない人々に対してだけでなく、危害を加える人々に対しても同じです。あなたは、わたしたちに善い大きな益をもたらしてくれる特別な友のために祈るように、その人々のために祈ることを望んでおられます。また、危害やこの世の損失に対してだけでなく、わたしの意志に反するあらゆることにおいて、例外なく、わたしたちが忍耐強く柔和であることを望んでおられます。あなたご自身も、どのようなことにおいても、ご自分の意志ではなく、御父のみ旨が行われることを望まれたからです。それなのに、どうしてわたしたちは、ゆがんだ自分の意志が実現することを願って、神のいつくしみに逆らい、頭をもたげることができるでしょうか。どうして神のみ旨が実現することを望まずにいられるでしょうか。
イエスよ、いとも優しい愛よ、天であなたの天使たちと聖人たちによってみ旨が行われているように、わたしたちのうちにも、いつもみ旨が行われるようにしてください。キリストにおける、わたしのいとしい娘よ、これこそ、わたしたちの優しい救い主が、わたしたちのうちに見いだしたいと望まれる柔和さです。すなわち、まったく平和で穏やかな心をもって、わたしたちについて主が計画し、行われることのすべてに満足し、時も季節も、自分の思いどおりではなく、ただ主のみ旨のとおりであることを願うのです。こうして、自らのあらゆる望みを脱ぎ捨て、神のみ旨を身にまとった魂は、神に大いに喜ばれます。手綱を解かれた馬のように、その魂は、恵みから恵みへ、徳から徳へと、この上なく速く駆けてゆきます。魂を引き止めたり、駆けるのを妨げたりする手綱がないからです。自分の我意から生じる、秩序を欠いた欲求や衝動をすべて、自ら切り離したのです。それらこそ、霊的に生きる人々の魂が駆けるのを許さない、縛めと手綱なのです。
十字軍のことは、絶えずますます順調に進み、神の誉れは日ごとに増しています。絶えず徳を深め、あなたがたの魂という船を整えてください。わたしたちの時が近づいているからです。イエス・キリストとわたしからの慰めと祝福を、フランチェスカに伝えてください。そして、わたしが戻るとき、徳をいっそう深めた彼女に会えるよう、熱心に励むようにと伝えてください。キリストにおけるわたしの息子たち皆に、祝福と慰めを与えてください。ちょうど今日、キプロスの女王の使節が来て、わたしと話しました。彼は、聖なる十字軍のことについて働きかけるため、地上のキリストである教皇様のもとへ向かっています。さらに教皇様も、同じことについて働きかけるため、ジェノヴァに使いを送られました。
わたしたちの優しい救い主が、あなたがたに永遠の祝福をお与えくださいますように。神の聖なる優しい恵みのうちにとどまってください。優しいイエスよ、愛であるイエスよ。 ページの先頭へ
飢饉の時に到来した傭兵隊の隊長である傭兵、メッセール・ジョンへ
_この手紙は信任状であり、カプアの修道士ライモンドが彼に語ることはすべて信頼してよいと保証するものです。そこで、この修道士ライモンドは、他の者たちが出陣することになった場合には、彼らも赴いて異教徒と戦うよう説得するため、このメッセール・ジョンと他の隊長たちのもとへ行きました。そして立ち去る前に、彼らとメッセール・ジョンから、出陣するという約束を秘跡にかけて取りつけました。彼らはその約束に自らの手で署名し、それぞれの印章を押しました。_
この手紙に付された古い見出しには、そう記されています。カタリナが、あのひときわ異彩を放つ人物、ジョン・ホークウッド卿に筆を執る姿を思い浮かべると、興味深いものがあります。この大胆不敵な傭兵に対する、親しく、ほとんど姉妹のような共感は、最後の一文で、いつもの「神の栄誉と霊魂の救い」という定型句に、珍しく「栄光」という言葉を添えていることにも表れています。この手紙とライモンド修道士は実際に深い感銘を与えたと伝えられています。ホークウッドは十字軍への参加を誓ったばかりでなく、結局その十字軍が実現しなかったため、それ以後は正規の戦争でしか武器を取らなかったといいます。このイングランド人のその後の歩みをたどる人は、彼が「正規の戦争」をどのような意味に受け取っていたのか、少々首をかしげるかもしれません。それでも、ホークウッドがチェゼーナの虐殺に抗議したことは、彼の名誉のために心に留めておきましょう。彼の人柄に騎士道の光が一瞬きらめいたのは、この時だけではありませんでした。かつて彼がその城門に恐怖と狼狽をもたらしたにもかかわらず、恨みを抱くことなく、ついには盛大な葬儀を執り行い、誉れある息子たちとともに葬ることを決めた町、フィレンツェ。その大聖堂に、彼の遺骨が安らかに憩いますように。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
キリスト・イエスにおける、深く愛する大切な兄弟の皆様へ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべ、はしためである私カタリナは、主の尊い御血のうちに書き送ります。あなたがキリストの真の子、真の騎士となり、甘美で善良なイエスに仕えるためなら、必要とあらば千回でも命をささげたいと望む、そのような姿を見たいと願っています。これは、私たちが救い主に対して犯したすべての罪を償う贈り物となるでしょう。キリスト・イエスにおける、いとしく大切な兄弟よ、今しばらく自分の内に退き、悪魔に仕え、その報酬を受けることで、どれほど大きな苦痛と苦悩に耐えてきたかを考え、思い巡らすなら、どれほどよいことでしょう。今、私の魂は、あなたが生き方を改め、あなたも、あなたに従う者も仲間たちも皆、十字架につけられたキリストの報酬と十字架を受け取ることを願っています。そうしてキリストの一隊となり、甘美なる根源の真理である方が憩い、私たちのために死と苦しみを耐え忍ばれた、私たちの聖地を占領する異教徒の犬どもに向かって進軍するのです。それゆえ、キリスト・イエスにおいて穏やかにお願いします。神も教皇聖下も異教徒に対する十字軍を命じられ、また、あなたは戦争と戦闘をこれほど好んでいるのですから、もはやキリスト者に対して戦争を仕掛けないでください。それは神に対する不正だからです。むしろ、異教徒に向かって進んでください。キリスト者であり、聖なる教会という体に結ばれた肢体である私たちが、互いを迫害するのは、実に残酷なことだからです。私たちはそのようなことをしてはなりません。そうではなく、十全な熱意をもって立ち上がり、あらゆる悪しき思いを超えて、自らを高めなければなりません。
この聖なる十字軍に加わり、キリストのために命をささげに行く意志があると約束なさったと聞いていますのに、あなたがこの地方で戦争をしようとしていることに、私は大いに驚いています。これほど聖なる、尊ぶべき地へ赴くのであれば、そのような心構えは、神があなたに求めておられる聖なる心構えではありません。私たちと、キリストのために命をささげる用意のあるほかの人々に、その時が訪れるまで、今この時に、あなたは徳を身につけるよう心を整えるべきだと私には思われます。そうすれば、勇敢で真の騎士であることを示すことになるでしょう。
私の父であり子でもあるライモンド修道士が、この手紙を携えてあなたのもとに参ります。彼の語ることを信頼してください。彼は神の真実で忠実なしもべであり、神の栄誉と、あなたの魂の安全と栄光に役立つこと以外には、何も助言したり語ったりしないからです。これ以上は申しません。いとしい兄弟よ、あなたに残された時の短さを忘れないよう、お願いします。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。甘美なイエスよ、愛なるイエスよ。 ページの先頭へ
ルッカのモンナ・コロンバへ
軽薄なモンナ・コロンバが、カタリナの穏やかながらもきわめて明確な勧告に耳を傾け、軽はずみな振る舞いから離れたことを願いましょう。もし彼女にユーモアの心があったなら――浮ついた心の年配の寡婦たちに、それは決して珍しいものではありません――青白い顔のこのおとめが、自分自身を「ぜいたくと快楽の道を歩む」者たち、また「自らを罪と虚栄の手本として示す」者たちの仲間に数えているのを、ほほえましく、愛情をもって面白がったに違いありません。しかし、この箇所でカタリナが一人称を用いているのは、いかにも無理があるように見えても、叱責の厳しさを和らげるための単なる言葉のあやではありません。伝記によれば、彼女は十二歳の時、姉に身を任せて美しく着飾らせ、当時の流行にならって髪の色を明るくさせたことを、生涯の終わりまで涙とともに深く悔い続けたといいます。聴罪司祭に語ったところでは、この恐ろしい過ちに陥った理由は、ただ美しいものを喜ぶ心にあったのですが、彼女はそれを振り返るたびに、いつも恐れおののいたのでした。
この手紙で、神殿でキリストを見いだす出来事を当てはめている仕方は風変わりですが、そこには趣もあります。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
甘美なイエス・キリストにおける、いとしい姉妹、娘であるあなたへ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべ、はしためである私カタリナは、主の尊い御血のうちに書き送ります。あなたが神のことばの種を受け入れ、自分自身とほかの人々のために実を結ぶ、豊かな畑となる姿を見たいと願っています。今や老年に差しかかり、この世の絆から自由になっているあなたが、夫との絆によってなおこの世に結ばれている、より若い女性たちにとって、徳の模範となる姿を見たいのです。
ああ、なんと悲しいことでしょう。わたしたちは実を結ばない土地なのだと分かります。この世への節度を失った愛着や欲望によって神のことばを覆いふさがせ、創造主よりも人々を喜ばせようと努めながら、この世のぜいたくと快楽の道を歩んでいるからです。しかも、さらに惨めなことがあります。わたしたちは自分が悪を行うだけでは満足せず、徳と慎みの模範となるべきところで、罪と虚栄の模範となっているのです。悪魔が自分一人で堕落することを望まず、多くの仲間を道連れにしたがったように、わたしたちも、自分がふけっているのと同じ虚栄や遊興へと、ほかの人々を誘い込んでいます。あなたは徳と自らの救いを愛するがゆえに、むなしい気晴らしや世俗的な婚礼の宴から身を引くべきです。それらはあなたの身分にふさわしくないからです。また、そこに行きたがるほかの人々も、近づけないように努めるべきです。それなのに、あなたはよくないことを口にし、そうしたことが神に背く行いだと分かって、徳を愛するがゆえに出かけるのをやめようとしている若い女性たちを、誘っているのです。それでは実が現れなくても不思議ではありません。先ほど述べたように、種が覆いふさがれているからです。あるいは、あなたはこう言って言い訳をしようとするかもしれません。「それでも、友人や親族がわたしに腹を立てたり、いらだったりしないように、こうして相手に合わせなければならないのです。」このように、恐れとゆがんだ自己満足は、わたしたちのいのちをむしばみ、しばしばわたしたちを死に至らせ、神がわたしたちを選んで招いてくださる完成を奪います。この言い訳は神に受け入れられません。神と自分の魂を損なう事柄で、人に合わせるべきではないからです。また、神から来る、わたしたちの身分にふさわしい事柄においてでなければ、人を愛し、仕えるべきではありません。
ああ、なんと惨めなわたしでしょう。わたしたちを買い取ってくださったのは、親族や友人、あるいはほかの誰かだったでしょうか。いいえ、十字架につけられたキリストだけが、計り知れない愛をもってご自分の体をいけにえとしてささげ、わたしたちの清め、いやし、糧、衣、そしてわたしたちが憩う寝床となってくださった小羊です。ご自分への愛にも肉の喜びにも心を向けず、苦しみのうちにへりくだり、恥辱と侮りを耐え忍び、御父の誉れとわたしたちの救いを求められました。貧しく惨めな人間であるわたしたちが、優しい根源の真理である方の歩まれた道とは別の道に固執するのは、まことにふさわしくありません。
神はぜいたくや快楽の中には見いだされないことを、あなたは知っています。わたしたちの救い主が祭りに行かれた折、神殿で行方が分からなくなられたとき、マリアは友人や親族の間にその方を見つけることができず、神殿で学者たちと論じ合っておられるところを見つけたことから、それが分かります。救い主がこうなさったのは、わたしたちに模範を示すためでした。その方はわたしたちの規範であり、わたしたちが従うべき道だからです。祭りに行かれたときに行方が分からなくなられた、と記されていることに心を留めてください。最愛の姉妹よ、先ほど述べたとおり、神は宴会や舞踏会、遊戯や婚礼の宴、娯楽の場には見いだされないことを知ってください。それどころか、そこへ行くことは、神を見失い、多くの罪や過ち、節度を失った軽薄な自己満足に陥る、きわめて確実な手段なのです。これが、恵みによって結ばれていた神をわたしたちが失う原因であるなら、再び神を見いだす道はあるのでしょうか。あります。マリアに伴うことです。人々の意向に合わせるために創造主に背いて犯した過ちを、苦く痛ましく感じ、忌み嫌いつつ、マリアとともに神を探しましょう。そうして神殿に行くことこそ、わたしたちにふさわしく、そこで神は見いだされます。この苦しみを伴侶として、わたしたちの心も、思いも、望みも高く上げ、自分の魂の神殿に行きましょう。そこで、わたしたちは自分を知るでしょう。そのとき魂は、自らが存在する者ではないと認め、存在する方である神が、自分に示してくださる慈しみを認めるでしょう。そのとき意志は熱意をもって高められ、神が愛されるものを愛し、神が憎まれるものを憎むようになるでしょう。そして魂は、自らと理を尽くして語り合う中で、この世の楽しみや快楽をとどめながら、これほど燃える愛をもってご自身を与えてくださった神の恵みと賜物、偉大な恩恵をとどめも保ちもしなかった記憶を、とがめるでしょう。また、創造主のみ旨よりも、同じ被造物である人々の意向や、この世の見せかけや慣行を理解することに専念した知性を、とがめるでしょう。そのために、意志と肉的な愛は、記憶と知性を、風のように過ぎ去る感覚的で粗野なものを愛し、望むことへと向かわせたのです。魂はそのようにするのではなく、神のみ旨に心を留め、それを知るべきです。神のみ旨は、わたしたちが聖なる者となることだけを求め、望んでおられ、そのためにこそ、わたしたちにいのちを与えてくださったのです。
神はあなたをこの世から解き放ってはおられません。あなたは愛着と節度を失った欲望によって、この世に覆いふさがれ、おぼれているからです。さて、あなたには魂が二つ以上あるのでしょうか。いいえ。もし二つあれば、一つを神に、もう一つをこの世に与えることもできるでしょう。体も一つしかありません。しかも、この体は、ほんのささいなことでも疲れてしまうのです。
あなたのこの世の財産を、貧しい人々に分かち与えてください。聖なる真の従順という軛に身を委ねてください。自分の意志を殺し、殺してください。それが親族にそれほど縛られることのないようにするためです。また、自分の体を抑制し、贅沢な暮らしでそれほど甘やかさないでください。自分自身をさげすみ、身分にも富にも重きを置かないでください。わたしたちを高貴な者とするのは徳だけであり、この世の富も、神から離れた秩序を欠く愛をもって所有するなら、最も惨めな貧しさとなるからです。このことについて、栄光に輝くヒエロニモが述べたことを思い起こしてください。それは幾度繰り返しても足りないほどの教えです。ヒエロニモは、やもめが贅沢三昧に暮らしたり、顔に香油を塗り続けたり、上等で華美な衣服をまとったりすることを禁じています。また、虚栄心の強い、あるいは身持ちの悪い若い女性たちと交わるのではなく、自室にとどまるべきだとしています。伴侶が死ぬといつまでも嘆き、ひとりで過ごして、ほかの相手を求めない山鳩のようにすべきなのです。最愛の、心からいとしい姉妹よ、あなたの交わりを、十字架につけられたキリストだけに限ってください。辱めと真の謙遜の道を通って、柔和にキリストに従うことに愛情と望みを向け、愛の絆で自分を小羊に結びつけてください。
わたしの魂が望むのは、あなたが真の娘となり、キリストに奉献された花嫁となり、不毛な畑ではなく、真の徳の甘美な実に満ちた豊かな畑となることです。急いでください、急いでください。時は短く、道は長いのですから。たとえこの世で持っているものをすべて差し出しても、時はあなたのために歩みを止めてはくれません。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。言葉が多すぎたなら、どうかおゆるしください。あなたの救いを願う愛と熱意が、わたしにこれらの言葉を語らせたのです。ただ話すよりも、あなたのために何かをすることを、わたしがはるかに望んでいると知ってください。神がこの上なく甘美な恵みであなたを満たしてくださいますように。甘美なイエスよ、愛なるイエスよ。 ページ上部へ
説教者会の兄弟、カプアのライモンドへ
以下に掲げるのは、世界でも名高い手紙の一つです。ここに描かれた場面は、美術や文学に記録され、それらがなければカタリナの人となりについてごく漠然としか知らなかったであろう多くの人々に、彼女のことを伝えてきました。この手紙は幾度も翻訳されてきましたが、ほとんどの翻訳者は、驚くほど錯綜し、現代のわたしたちの感覚にはほとんど衝撃的とさえ映る比喩を含む、冒頭と末尾の段落を避けてきました。しかし、わたしたちはやはり、カタリナがあふれるままに書きつづった、その全体を読みたいのではないでしょうか。激しい興奮に満ち、考えよりも感情のほうが鮮明で、美的感覚も論理も意味をなさない領域へと引き上げられた彼女は、自らが記す出来事によって呼び覚まされた、言い表しようのない思いを伝えるために、商業に囲まれた暮らしから自然に浮かんでくるような、この上なく日常的な比喩を用いています。そもそも、現代の会衆も、何の抵抗もなく次のように歌うのです。
「イエスよ、なおもわたしをとどまらせてください。あなたのみ心と、傷ついた脇腹のうちに。」
ここで血の比喩が繰り返されるのは、心理的に避けがたいことです。カタリナは、中世の処刑で命を奪われた人と間近に接し、その震えがまだ収まらないまま、この手紙を書いているのです。
ペルージャ出身のニッコロ・トゥルドという若い貴族が、シエナ政府を批判する発言をしたために死刑を宣告されました。彼は本格的な政治的陰謀家だったわけではなく、単に貴族階級に共感するあまり、思慮を欠いて高慢な、あるいは辛辣な言葉を口にした若者だったようです。しかし、_成り上がりの_政府というものは、いつも神経をとがらせているものです。当時、リフォルマトーリの一人を宴に招かなかったという理由で、ある男が死刑を宣告され、処刑されたと伝えられています。
当時は、いともたやすく死刑が科されました。けれども、それを受ける苦しみは、おそらく現代より軽いものではなかったでしょう。ニッコロ・トゥルドが判決を受けたときの、信じられないという思いを伝える生々しい記録が残っています。その思いは恐怖へ、怒りへ、反抗へ、そして暗黒の絶望へと変わっていきました。そこへカタリナが彼を訪れました。その後のことは、彼女自身の言葉が語っています。慰めをもたらす彼女の存在が生んだ驚くべき変化を読み、恐れにおののいていた若者が静けさと落ち着きを取り戻し、このか弱い女性の霊的な強さに切々とすがり、最後には彼女の穏やかな従順の精神ばかりか、その高揚の幾分かをさえ受け取っていく姿を見ると、別の一場面を思い起こさずにはいられません。それは、ジョージ・エリオットが『アダム・ビード』の中で、牢獄のヘティに尽くすダイナの姿を描いた、あの見事な場面です。しかし、こちらは現実の場面であり、あちらは想像上のものにすぎません。そしてここでは、第三者ではなく、慰めを与えた本人が、その体験が自分自身の魂にとって何を意味したのかを明かしているのです。
ニッコロ・トゥルドは、裁きの場を聖なるものと認め、神のみ旨に完全に一致して死ぬほどに、光に照らされた最期を迎えました。彼をそこへと導くことで、カタリナは、キリスト教だけが成し遂げうる大いなる驚くべき業を成し遂げたのです。すなわち、信仰を揺るがす、一見何の意味もない残酷な運命の出来事の一つを、世界の贖いという有機的な業と一つになるまでに高めたのです。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
キリスト・イエスにおける、最愛の、心から慕う父、そしてわたしの愛する息子よ。イエス・キリストのしもべたちのしもべ、また奴隷であるわたしカタリナは、神の御子の尊い御血のうちに、自分をあなたに委ね、この手紙を書いています。御子のこの上なく熱烈な愛の火と混じり合った、その最も甘美な御血のうちに、あなたが燃え立ち、沈められるのを見たいと願っています。わたしの魂が望むのは、あなたとナンニ、そしてわたしの息子ヤコポが、その御血のうちにいるのを見ることです。わたしたちに必要な、あの主要な徳に達するために、ほかの手立ては見当たりません。この上なく愛する父よ、あなたの魂は、わたしの糧となってくれました。これほどまでに燃える愛をもってほふられた甘美な小羊の食卓で、わたしがこの糧を受けない時は一瞬たりともありません。そのあなたの魂も、御血のうちに沈められなければ、小さな徳である真の謙遜に達することはない、とわたしは言うのです。この徳は憎しみから生まれ、憎しみは愛から生まれます。こうして魂は、炉から清められて出てくる鉄のように、この上なく完全な清さをもって生まれるのです。
ですから、神の御子の開かれた脇腹のうちに、あなたが身を閉じ込めてくださるよう願います。そこは開かれた宝の蔵で、芳香に満ち、そこでは罪さえも芳しくなるほどです。そこでは、愛しい花嫁が火と血の床に憩っています。そこでは、神の御子のみ心の秘密が見られ、示されます。ああ、流れあふれる泉よ。飲むものを与え、愛に満ちたあらゆる望みをかき立て、喜びを与え、すべての知性を照らし、あなたに心を留めるすべての記憶を満たす泉よ。それゆえ、この優しく善いイエスのほかには、何ものをも心に抱くことも、思うことも、愛することもできなくなるのです。血と火、計り知れない愛よ。このようにあなたがその中に沈み尽くすのを見ることは、わたしの魂の幸いとなるのですから、桶で水をくみ上げ、それをほかのものに注ぐ人のようにしてくださるよう願います。そのように、聖なる望みの水を、あなたの兄弟たちの頭に注いでください。彼らはわたしたちの体の一部であり、愛しい花嫁の体のうちに、わたしたちと結ばれているのです。そして、悪魔どもの惑わしによっても――彼らがあなたを苦しめてきたこと、またこれからも苦しめることを、わたしは知っています――、あるいは、ほかの人の言葉によっても、決して退くことのないよう注意してください。むしろ、すべてが最も冷えきって見えるときにも、いつも忍耐してください。甘美な、愛に燃える望みのうちに血が流されるのを、わたしたちが目にするまで。
さあ、立ち上がってください、わたしの最愛の父よ。もう眠っているのはやめましょう。わたしはこのような知らせを聞いて、もはや安らぎの床も、この世の地位も望まなくなりました。たった今、わたしは両手に一つの首を受け止めました。それがわたしにもたらした甘美さは、心には思い描けず、舌には語れず、目には見えず、耳には聞こえないほどでした。それに先立って行われたほかの神秘を通して、神のみ旨は進められていましたが、長くなりすぎるので、それについては語りません。わたしは、あなたもご存じのあの人を訪ねました。それによって彼は大きな慰めと励ましを受け、告解をし、十分に心の準備をしました。そして彼は、神への愛にかけて、刑が執行されるときにはそばにいてほしいと、わたしに約束させました。そこでわたしは約束し、そのとおりにしました。その朝、鐘が鳴る前に彼のもとに行くと、彼は大きな慰めを受けました。わたしは彼をミサに連れて行き、彼はそれまで一度も受けたことのなかった聖体拝領をしました。彼の意志は神のみ旨と一致し、それに従っていました。ただ一つ、最後の瞬間に強くいられないのではないかという恐れだけが残っていました。しかし、計り知れず、燃えるような神のいつくしみは彼を欺き、神を慕い求めるうちに、これほどの思いと愛を彼の中に生み出したので、彼は神なしにどう生きればよいのか分からなくなり、こう言いました。「そばにいて、わたしを見捨てないでください。そうすれば、わたしは必ず大丈夫です。満ち足りて死ぬことができます。」そして彼は、わたしの胸に頭を預けました。そのとき、わたしは喜びの声を聞き、彼の血の芳香を吸い込みました。そこには、愛しい花婿イエスのために流したいと望む、わたし自身の血の芳香もありました。そして、わたしの魂の中で望みが募り、彼の恐れを感じながら、わたしは言いました。「安心してください、愛しい兄弟よ。わたしたちは間もなく婚宴に着くのですから。あなたは、神の御子の甘美な御血に洗われ、甘美なイエスのみ名とともに、そこへ行くのです。そのみ名を、決してあなたの記憶から離れさせたくありません。そして、わたしは刑場であなたを待っています。」父であり子でもあるあなたよ、考えてみてください。そのとき彼の心から恐れはすべて消え去り、顔は悲しみから喜びへと変わりました。彼は喜び、歓喜して、こう言いました。「わたしの魂の喜びであるあなたが、聖なる刑場で待っていてくださるとは、これほどの恵みがどうしてわたしに与えられるのでしょう。」ご覧なさい。彼はこれほどの光に照らされていたので、刑場を聖なる場所と呼んだのです。そして言いました。「わたしは喜びに満ち、強くなって行きます。あなたがそこで待っていてくださると思うと、着くまでが千年にも感じられるでしょう。」そして彼は、神のいつくしみについて、聞く者の胸が張り裂けるほど甘美な言葉を語りました。
そこでわたしは刑場で彼を待ちました。マリアと、おとめ殉教者カタリナの前で、絶えず祈りながら待っていました。しかし、そこに至る前に、わたしはひれ伏し、処刑台に首を差し伸べました。けれども、わたしの望みはそこには至りませんでした。自分自身への意識が、あまりにも強く残っていたからです。それから、身を起こしました。わたしは祈り、マリアに強く迫り、「マリア!」と叫びました。彼が死を迎える瞬間に、マリアがその心に光と平和を与えてくださり、そして彼が目的地に達するのをわたしが見届けられるという、この恵みを望んでいたからです。そのとき、わたしになされた甘美な約束によって、わたしの魂はあまりにも満たされたので、そこには大勢の人がいたにもかかわらず、人の姿は一つも目に入りませんでした。
やがて彼は、おとなしい小羊のようにやって来ました。わたしを見るとほほえみ始め、十字架のしるしをしてほしいと願いました。そのしるしを受けた彼に、わたしは言いました。「身を伏せてください。婚宴へ行くのです、最愛の兄弟よ。あなたは間もなく、永遠に続くいのちのうちにいるのですから。」彼はとても穏やかに身を伏せ、わたしはその首を伸ばしました。そして身をかがめ、小羊の御血を思い起こさせました。彼の唇は、「イエス!」、そして「カタリナ!」とだけ唱えていました。その言葉とともに、わたしは彼の首を両手に受け止め、神のいつくしみのうちに目を閉じて、「わたしは望みます!」と言いました。
そのとき、神であり人であるお方が、太陽の輝きが見えるようにはっきりと見えました。その方は傷を負ったまま立ち、その血を受け入れられました。その血のうちには、恵みによって魂に与えられ、秘められた聖なる望みの火がありました。その方は、ご自分の神的な愛の火のうちに、それを受け入れられたのです。彼の血と望みを受け入れると、その方は彼の魂も受け入れ、いつくしみに満ちた、ご自分の脇腹の開かれた宝蔵に納められました。根源の真理であるその方は、ただ恵みといつくしみによってその魂を受け入れたのであって、ほかのいかなる行いのゆえでもないことを示されたのです。ああ、神の善を目にすることは、何と甘美で、言葉に尽くせないことだったでしょう。肉体を離れたその魂を、その方は何と優しく、愛をこめて待っておられたことでしょう。その魂が、神の御子の血によって効力を得た血に洗われ、その方の脇腹の内に入ろうとしたとき、その方はいつくしみのまなざしを向けられました。こうして彼は神の力によって受け入れられました。その方は、行う力をお持ちなのです。また御子、すなわち知恵であり、受肉したみことばである方は、ご自分が十字架につけられた愛を彼に与え、それにあずからせてくださいました。それは、人類の善のために御父に示された従順によって、苦しみと辱めに満ちた死を受け入れられた、その愛です。そして聖霊のみ手が彼をその内に閉じ込めました。
けれども彼は、千もの心を引きつけるほど優しいしぐさをしました。わたしはそれを不思議には思いません。彼はすでに、神の甘美さを味わっていたのですから。彼は、花婿の家の敷居にたどり着いた花嫁のように振り返りました。花嫁は頭とまなざしを後ろに向け、付き添ってきた人々に頭を下げ、そのしぐさで感謝を表すのです。
彼が安らぎに入ると、わたしの魂も平和と静けさのうちに憩いました。血の芳香があまりにも豊かだったので、彼からわたしの上に降りかかった血を、どうしても拭い去る気にはなれませんでした。
ああ、惨めなわたし。もうこれ以上は語りません。わたしはこの上なくうらやましく思いながら、地上にとどまりました。そして、最初の新しい石は、もう据えられたように思えます。ですから、神の御子の脇腹から注がれる血と炎の中に自分たちが浸されているのを見ること、それ以外は何もあなたがたに求めないとしても、不思議に思わないでください。さあ、いとしいわが子らよ、もう怠ってはなりません。血は流れ始め、命を受け始めているのですから。優しいイエス、愛であるイエス。 ページの先頭へ
グレゴリウス十一世へ
これは、グレゴリウスに宛てた書簡のうち、今日まで伝わる最初のものです。カタリナが彼に書いた最初の書簡だったかどうかは分かりません。それ以前にも彼と関わりがあったことは、かなり確かなようです。すでに1372年には、教皇の親族で、トスカーナの教皇特使であったジェラール・デュ・ピュイに、彼女が手紙を書いていたことが分かります。この書簡は明らかに返書であり、デュ・ピュイを通してグレゴリウスにも伝わることを、彼女が期待していたと思われる箇所を含んでいます。おそらくグレゴリウスは、いとこを通して彼女に接触を図っていたのでしょう。世事に通じた人でありながら、へりくだった男女に対して心からの敬意を保っていた教会の高位聖職者が、そのように行動したとしても、当時としては何ら不自然なことではありませんでした。
いずれにせよ、カタリナはジェラール・デュ・ピュイへの書簡で、教会のありさまについて、死ぬまで抱き続けることになる憤りを帯びた悲しみをもって、こう書いています。「あなたがお尋ねになった三つのことのうち、最初のことにお答えします。地上のわたしたちの優しいキリストは、キリストの花嫁を荒らす二つのことを、完全に取り除くべきだと、わたしは信じています。第一は、親族への度を越した愛着と気遣いです。これは徹底して克服されるべきものです。もう一つは、過度のあわれみに基づく、度を越したお人よしの態度です….キリストは、不潔、貪欲、そして思い上がった傲慢という三つの悪徳を、とりわけ悪いものと見ておられます。これらはキリストの花嫁の内で、ぜいたくと栄誉と莫大な富のことしか心にかけない高位聖職者たちの間に君臨しています。彼らを正すには、強い正義が必要です。度を越した情けは、最大の残酷さだからです。もう一つのご質問については、こう申し上げます。聖なる教会のために労苦すべきだとあなたにお伝えしたとき、わたしが考えていたのは、あなたが世俗の事柄について引き受けるべき働きだけではありません。何よりも、あなたと教皇様とが労苦し、食べることと立派な宮殿と大きな馬のことしか心にかけない、狼のような牧者たちを取り除くために、できる限りのことをなさるべきだということでした。ああ、キリストが十字架の木の上で勝ち取られたものが、娼婦たちのために費やされているのです。たとえそのために命を落とすことになろうとも、そのような不義を終わらせてくださるよう、教皇様にお伝えくださることを願います。そして、司祭や枢機卿を任命するときには、へつらいや金銭や聖職売買によって選ばれることがありませんように。むしろ、その人に徳があり、善良で聖なる人としての評判があるかどうか、よく見極めてくださるよう、できる限りお願いしてください。また、商人よりも貴族を優先なさいませんように。人を高貴にするのは、徳なのですから。」サヴォナローラでさえ、これ以上のことはほとんど言えなかったでしょう。
この書簡は1375年のものに違いありません。執筆当時、トスカーナ諸都市の反乱が勢いを増しつつあったからです。この時点でカタリナがまだ教皇に直接会ったことがなかったのは明らかです。しかし、伝え聞いた話から、その人柄をかなり的確に把握していたのでしょう。現存する彼女の書簡の中でも、とりわけ念入りに書かれたこの手紙には、率直さと威厳と勇気をもって、しかも並外れた心配りをもって教皇に語りかける姿が見られます。ジェラール・デュ・ピュイを通じて自分の思いを率直に伝えることと、キリスト教世界の首長に直接語りかけることとは、まったく別だったに違いありません。カタリナがいかにその務めを果たしたかは、読者の判断に委ねましょう。信者たちの父である「地上の優しいキリスト」には自己認識が欠けているというほのめかしは、相手が気分を害する余地もないほど繊細になされています。それでも、筆が進むにつれ、その遠回しな示唆の意味は紛れもなく明らかになります。グレゴリウスは、自分への甘さによって聖なる正義が死んでいるか、死にかけている、あの弱い高位聖職者なのです。人当たりがよく穏便を好み、不興を買うのを避けるために、教会の腐敗と司祭たちの罪に目をつぶる人であり、焼灼すべきときに軟膏を塗る怠惰な医師なのです。教皇の心に受け入れる備えができたと見るや、彼女は率直に言い切ります。「尊敬するわたしの父よ、神のいつくしみによって、あなたがご自分のうちにあるこの[自己愛]を消し去り、ご自分自身も、隣人も、神も、ご自分のために愛することがなくなりますようにと願っています。」また彼女は、「友人や親族」の利益への肩入れや、世俗の政策上の配慮のために教皇を取り巻いている危険について、さらに具体的に言及することもためらいません。
ここでも、いつものように、カタリナが暗黙の、あるいは明白な批判から、高い熱意に満ちた語り口へと移ると、読む者はほっとします。彼女はその熱意によって、魂に潜む雄々しさを余すところなく呼び覚まそうとするのです。偉大な先任者たちの記憶に訴える力強い呼びかけによって、グレゴリウスを励まします。それにもまして、彼らが力を汲み取った、神の愛といけにえの神秘を熱烈に思い起こさせることによって、励ますのです。彼らに可能だったことはすべて、彼にも可能です。「あのときおられたのと同じ神が、今もおられるのですから」。「そして、これまでわたしたちがあまり堅く立ってこなかったとしても」と、彼女はいつものように、責めようとする弱さを自分自身のものともして語ります。「残された時を雄々しく生き、あなたがその代理者であるキリストに従ってくださるよう、わたしは心から願い、祈っています。」手紙の残りの部分には、優しい励ましと、ほとんど母親のような、独特の慈しみを帯びた調子が行き渡っています。グレゴリウスが直面していた政治情勢を扱うにあたって、カタリナは包み隠さず語ります。手紙の結びにある実務上の提案は明快で、的を射ています。全体として、ヤコポ・ベニンカーザの娘がキリスト教世界の首長に送り届けたこの書簡は、見事な文書です。これを読めば、後の経緯が示すとおり、弱さはあっても繊細で信仰深かったグレゴリウス11世の心に、彼女がなぜ影響を及ぼすようになったのか、容易に理解できます。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
キリスト・イエスにおいて、最も尊敬し、敬愛する父であるあなたに、イエス・キリストのしもべたちのしもべであり奴隷である、ふさわしからぬ、貧しく惨めな娘カタリナが、キリストの尊い御血のうちに書き送ります。あなたが、甘く熟した実を豊かにつけ、肥沃な大地に植えられた、実り豊かな木となるのを見たいと願っています。木は大地を離れていれば、枯れて実を結ばないからです。その大地とは、真に自分を知ることです。自分を知る魂は、誇るべきものが何もないと分かるので、自らを低くします。そして、自らのうちに神の限りないいつくしみを認め、燃えるように熱い愛の甘い実を熟させます。また、自らは無であると悟り、自らの存在のすべてを、存在する方に帰します。こうして魂は、神が愛されるものを愛し、神が憎まれるものを憎まずにはいられなくなるように思われます。
ああ、甘美で真実な自己認識よ。あなたは憎しみの刃を携え、聖なる望みの手を伸ばして、この憎しみによって自己愛という虫を引きずり出し、殺すのです。この虫は、わたしたちという木の根を損ない、かじり、そのため木は命の実を何一つ結べず、枯れ、その緑も長くは続きません。自分を愛する人のうちには、その身分が高位聖職者であろうと、その下にある者であろうと、あらゆる悪の頭であり源である、ゆがんだ高慢が生きているからです。自分だけを愛する人、すなわち、神のためではなく自分のために自分を愛する人は、悪を行うほかなく、その人のうちではあらゆる徳が死んでいます。そのような人は、死んだ息子たちを産む女のようです。実際、そのとおりなのです。その人は自らのうちに愛の命を持たず、神のみ名ではなく、称賛と自分の栄光だけを求めてきたからです。ですから、わたしは言います。その人が高位聖職者であるなら、悪を行っています。なぜなら、人々の不興を買わないようにするため、つまり、自分への甘さによって縛られている自己愛のために、その人のうちで聖なる正義が死んでしまうからです。自分のもとにある人々が過ちや罪を犯すのを見ながら、見ないふりをして正さないのです。あるいは正すとしても、あまりに冷淡で生ぬるいため、何も成し遂げず、悪徳を上塗りして覆うだけです。そして、相手を不快にさせたり、争いになったりすることをいつも恐れています。これらはすべて、自分を愛しているためです。このような人々は、ただ穏便な手段だけで物事を進めようとすることがあります。わたしは言います。これこそ、人が示しうる最悪の残酷さです。傷を必要なときに焼灼したり刃物で切除したりせず、ただ軟膏で覆うだけなら、その傷は癒えないばかりか、全体に感染を広げ、そこから死に至ることも少なくありません。
ああ、ああ、わたしのこの上なく慕わしい「お父さま」! 配下の人々が皆、不潔と不義によって堕落しているのは、このためなのです。ああ、わたしは涙ながらに申し上げます! 先ほどお話ししたあの虫は、なんと危険なのでしょう! それは牧者に死をもたらすばかりでなく、そのためにほかのすべての人も病に陥り、死に至るのです。なぜその牧者は、それほど多くの軟膏を塗り続けるのでしょうか。そのために自分が苦しむことはないからです! 病人に軟膏を塗っても、誰からも不快に思われず、悪意も向けられません。相手の意に逆らうことは何もしていないからです。相手は軟膏を望んでいたので、軟膏を与えられるのです。ああ、人間の惨めさよ! 自分に何が必要かを知らない病人は盲目であり、人を喜ばせることと自分の利益しか顧みない、医者である牧者もまた盲目です。その利益を失わないために、正義の刃も、燃える愛の火も用いようとしないのですから! こうした人々は、キリストが言われるとおりのことをしています。盲人が盲人を導けば、二人とも穴に落ちるのです。病人も医者も地獄に落ちます。そのような者こそ、まさしく雇い人の牧者です。狼の手から羊を引き離すどころか、自ら羊を食い尽くすのですから。これらすべての原因は、神から離れて自分を愛していることにあります。そのために、自分の羊のために命をお与えになった真の牧者、優しいイエスに従わないのです。ですから、このゆがんだ愛は、まことに自分にも他の人々にも危険であり、まことに避けなければならないものです。あらゆる世代の人々に、あまりにも大きな害を及ぼすからです。わたしの敬愛するお父さま、神の慈しみによって、あなたがご自分のうちにあるこの愛を消し去り、ご自分のためにご自分を愛することも、ご自分のために隣人や神を愛することもなさらないようにと願っています。そうではなく、神がこの上なく永遠の善であり、愛されるにふさわしい方であるゆえに神を愛し、また、イエスの優しいみ名の誉れと栄光のために、ご自分と隣人を愛してくださいますように。ですから、わたしが望むのは、あなたがまことに真実で善い牧者となり、たとえ十万の命を持っていたとしても、神の誉れと、神がお造りになった者たちの救いのために、そのすべてを進んでささげられるようになることです。ああ、わたしの「お父さま」、地上の優しいキリストよ、あの優しいグレゴリオ(大教皇)に倣ってください! 彼に可能であったように、あなたにもすべてが可能となるでしょう。彼もあなたと異なる肉体を持っていたわけではなく、当時おられた神は今もおられるのですから。わたしたちに欠けているのは、徳と、霊魂の救いを渇望する心だけです。しかし、お父さま、これには癒やしの道があります。先に述べた、神から離れて自分やあらゆる被造物に向ける愛から逃れることです。もはや友人や両親、この世での自分の必要に心を向けるのではなく、ただ徳と、霊的な事柄を高めることだけに心を向けてください。この世の事柄があなたのもとで立ち行かなくなっているのは、霊的な事柄をおろそかにしていること以外の何ものにもよらないのですから。
それでは、わたしたちは、かつての聖なる真の牧者たちが抱いていた、あの栄光に満ちた飢えを抱き、自分のうちにある自己愛の火を消したいと望むでしょうか。火によって火を消した彼らに倣いましょう。彼らの心と魂に燃えていた、計り知れない熱烈な愛の火はそれほど大きく、彼らは霊魂を味わうことを求めて飢え、飢えにあえいでいたのです。ああ、甘美で栄光に満ちた火よ、その力はあまりに大きく、火を消し、あらゆる秩序を欠いた喜びや快楽、そして一切の自己愛を焼き尽くします。この自己愛は、炉の中でたちまち消え去る一滴の水のようなものです! わたしたちは確かに、それ自体では実を結ばない木なのですから、どうして彼らはその甘美な火と飢えを得ることができたのかと尋ねる人がいるなら、わたしはこう答えます。彼らは、この上なく聖なる甘美な十字架という、実り豊かな木に自らを接ぎ木したのです。そこで彼らは、わたしたちの救いのために、満たされることを知らないかのような愛の火に燃えて、ほふられた小羊を見いだしました。主は今もなお、渇いていると叫んでおられます。それは、あたかもこう言われるかのようです。「わたしが成し遂げた受難によってあなたがたに示している以上に、わたしはあなたがたの救いへの熱情と望みと渇きを抱いている。」ああ、優しく善いイエスよ! わたしたちの造り主が示してくださる、これほど豊かな寛大さと慈しみ、言い表しようのない愛を前にして、教皇たちも、牧者たちも、ほかのすべての被造物も、わたしたちの無知と傲慢と放縦を恥じるべきです! 主は、甘く熟した実を豊かに結ぶ木として、わたしたちと同じ人間の本性のうちにご自身を現してくださいました。それは、野生の木であるわたしたちが、主に自らを接ぎ木するためです。さて、愛に燃えるあのグレゴリオも、ほかの善い牧者たちも、このように行いました。自分自身のうちには何の徳もないことを知り、わたしたちの木であるみことばを見つめ、愛の絆に結ばれ、つながれて、主に自らを接ぎ木したのです。目に映るものが美しく善いものであれば、目はそれを喜ぶからです。こうして彼らは見つめ、見つめることで自らを固く結びつけ、もはや自分自身を見るのではなく、神のうちにすべてを見、味わうようになりました。そして、風も、雹も、悪霊も、被造物も、彼らが手入れの行き届いた実を結ぶのを妨げることはできませんでした。彼らは、わたしたちの木であるイエスの本体に接ぎ木されていたからです。こうして彼らは、自分たちがそのうちに結ばれていた甘美な愛そのものから、実を結びました。そして、ほかに道はないのです。
これこそ、わたしがあなたに望む姿です。そして、これまでわたしたちが十分に揺るぎなく立ってこなかったとしても、残されたわずかな時を、あなたがその代理者であるキリストに従い、強い人として勇敢に生きられますよう、心から願い、祈ります。お父様、今あなたに激しく吹きつけている嵐の風、すなわち、あなたに反逆した腐りゆく肢体から、どのようなことが起ころうとも、恐れないでください。恐れないでください。神の助けは近くにあります。霊的な事柄だけに心を配り、あなたの諸都市によい牧者、よい統治者を置くよう努めてください。悪い牧者や統治者のために、あなたは反逆に遭われたのですから。ですから、わたしたちに救済の手立てをお与えください。そして、キリスト・イエスにおいて心を強め、恐れないでください。前に進み、ご帰還と、聖なる喜ばしい十字軍について、聖なる決意をもって始められたことを、真の熱意と聖なる心をもって成し遂げてください。もはや遅らせないでください。遅れによって多くの困難が生じましたし、悪魔も、自らの損失を悟り、これらが実現するのを妨げようと立ち上がっているからです。さあ、お父様、立ち上がってください。もはや怠ることのないように。いとも聖なる十字架の旗を掲げてください。十字架の香りによって、あなたは平和を勝ち取られるでしょう。あなたに反逆した人々を聖なる平和へと招き、すべての戦いが異教徒に向けられるようにしてくださることを、切に願います。神がその限りない善によって、速やかに助けを送ってくださることを願っています。心を強めてください、心を強めてください。そして、おいでください、おいでください。貧しい者たち、神のしもべたち、あなたの子であるわたしたちを慰めるために。わたしたちは、切なる愛の望みをもって、あなたをお待ちしています。お父様、これほど多くの言葉を申し上げたことをおゆるしください。ご存じのように、口は心に満ちあふれることを語るのです。わたしが望むような木にあなたがなられるなら、何ものもあなたを妨げることはできないと、確信しています。
神がお示しくださるとおりに、ルッカとピサに父としての提案を送り、できる限り彼らを支え、揺るがず忍耐強くあり続けるよう呼びかけてくださることを、切に願います。わたしはこれまでピサとルッカに滞在し、あなたに反逆している腐りゆく肢体と同盟を結ばないよう、できる限り働きかけてきました。しかし、彼らは大いに困惑しています。あなたから何の励ましも得られず、反対側からは絶えず同盟を結ぶよう迫られ、脅されているからです。それでも、今のところ、彼らは全面的な同意には至っていません。また、ピエロ殿にも、はっきりとしたお手紙を書いてくださるようお願いします。熱意をもって、遅れることなくそうしてください。これ以上は申し上げません。
あなたが枢機卿たちを任命されたことを、ここで耳にしました。いつも徳のある人々を任命するよう心を配ってくだされば、神の誉れとなり、わたしたちにとっても、より大きな益になると信じています。もしその反対のことがなされれば、それは神に対する大きな侮辱となり、聖なる教会に災いをもたらすでしょう。後になって神がわたしたちに懲らしめと鞭をお送りになっても、驚かないようにしましょう。それは正当なことなのですから。なすべきことを、勇敢に、神への畏れをもって行ってくださるよう、切に願います。
わたしたちの修道会の総長に、別の聖職禄を与えて昇任させるおつもりだと伺いました。ですから、十字架につけられたキリストの愛にかけてお願いいたします。もしそうであれば、わたしたちによい、徳のある総長代理を与えるよう、お力を尽くしてください。修道会は、そのような方を必要としています。あまりにも規律を失ってしまったからです。このことについては、ニッコラ・ダ・オージモ殿とトロント大司教にお話しくださって結構です。わたしからも、お二人にこの件について手紙を書きます。
神の甘美で聖なる恵みのうちにとどまってください。謹んで、あなたの祝福をお願いいたします。あえてお手紙を差し上げるこの不遜をおゆるしください。甘美なイエス、愛なるイエス。 ページの先頭へ
グレゴリウス十一世へ
ここでは、グレゴリウスへの最初の手紙ほど形式張ってはいません。カタリナは教皇に手紙を書くうちに、ほどなく、地上の父の家にいる子どものように、くつろいだ気持ちになっていました。彼女がいつも教皇を呼ぶときに用いる愛称「バッボ」は、英語では「ダディー」としか訳せません。しかし、それは英語の耳にはあまりに奇異に響くため、イタリア語のままにしておくのが最善と思われます。このような呼び名に表れる、子どものように伸びやかな心には、ほほえましさとともに、胸を打つものがあります。
反教皇同盟は、不穏な現実となっていました。支配者である高位聖職者たちの、キリスト者にふさわしくない華美と傲慢、飢饉のさなかに教皇領からトスカーナへの穀物の搬入を認めなかったウィリアム・オブ・ノエレの卑劣な残酷さ、そして、意に沿わない子らに対するグレゴリウスの政策の厳しさと配慮の欠如。これらはどれも、教会に反抗することによって宗教上の罪を犯しているという強い自覚を、反逆者たちのうちから失わせる大きな力となっていました。カタリナは、両者の間に仲介者として立ちます。彼女の目には実に忌まわしいものであった反逆の罪を、一瞬たりとも容認することはありませんでした。それでも、この騒乱の主な原因が、フィレンツェの人々が教皇使節たちから受けてきた不正で邪悪な仕打ちにあることを、教皇に忘れさせようとはしません。その使節たちについて、彼女は庶民らしい力強く率直な言葉でこう書いています。「あなたご自身がご存じの者たち」、すなわち「悪魔の化身であると、あなたご自身がご存じの者たち」なのだと。それゆえ、神の代理者は神の愛を示し、反逆する人間に対する神の態度のうちに、反逆する諸都市に対して自らが取るべき態度の模範を見いだすべきなのです。彼女にとって、和解こそ唯一の知恵です。別の手紙にある次の言葉には、実際的な洞察が見られます。「お父様、慈愛をもってお進みください。理性を備えたすべての被造物は、ほかの何ものによるよりも、愛と慈愛によって、いっそう容易に心を動かされるものだと知ってください。とりわけ、この地方のわたしたちイタリア人はそうなのです。それ以外に彼らの心をつかむ道があるとは、わたしには思えません。しかし、そうなされば、彼らに望むことは何でもしてもらえるでしょう。」
したがって、創造と贖いに示された神の愛についての美しい冒頭の黙想は、単なる一般的な序言ではなく、手紙の後半と緊密で劇的な一体をなしています。アウグスティヌスの神学は、現代のわたしたちの思考様式からはどれほど隔たっていようとも、彼女が述べるとおり、見過ごすことのできない気高さを備えています。ここでは簡潔に、またダンテの『_天国篇_』第七歌ではいっそう壮大に示されているこの神学は、無限の愛の働き方を言い表そうとする、法を重んじるラテン教会の精神の、この上ない努力を表しています。「馬上試合」という風変わりな比喩には、中世の想像力に特有の戯れが見られます。ラングランドは、少し違った形で次のように述べています。
「そのとき〈信仰〉は窓辺に立ち、叫んだ。『ああ、ダビデの子よ!』と。勇士が馬上試合に赴くときの紋章官さながらに。エルサレムの老いたユダヤ人たちは、喜びのあまり歌った。『主の名によって来られる方に、祝福があるように。』そこでわたしは〈信仰〉に尋ねた。この騒ぎはいったい何を意味し、誰がエルサレムで馬上試合をするのかと。彼は言った。『イエスだ。悪魔が自分のものだと主張するもの、農夫ピアズの実りを取り戻しに来られるのだ。』『ピアズはここにいるのか』とわたしが言うと、彼はわたしに目配せした。――『このイエスは、その気高さゆえに、ピアズの武具をまとって馬上試合に臨まれる。その兜と鎖かたびら、すなわち人間の本性をまとって。』」
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
イエス・キリストにおける、いとも聖なる、いとも尊敬すべきわたしの父よ。キリストのしもべたちのしもべ、また奴隷である、あなたの貧しくふさわしくない娘カタリナは、あなたがよい牧者となられることを願い、キリストの尊い御血のうちに、この手紙を書き送ります。愛するわたしの「パパ」よ、狼があなたの羊をさらっているのに、助ける者が誰も見当たらないことを思うからです。それゆえ、わたしたちの父、わたしたちの牧者であるあなたのもとへと急ぎ、十字架につけられたキリストの名によって、キリストに学んでくださるよう願います。キリストは、失われた羊である人類を悪霊たちの手から救い出すために、燃え盛る愛をもって、いとも聖なる十字架の辱めに満ちた死にご自身をお渡しになりました。人間が神に背いたために、悪霊たちは人類を自分たちの所有物として捕らえていたのです。
そこへ神の限りない善が訪れ、この羊たちの惨めなありさま、喪失と破滅をご覧になり、怒りや戦いによっては彼らを取り戻すことができないと見て取られます。それゆえ、彼らによって傷つけられたにもかかわらず――人間は神に逆らい背いたために、無限の罰に値したのですが――、いと高く永遠の知恵は、そのような手段をお取りになりません。むしろ、見いだしうる限り最も優しく、最も愛に満ちた、人の心を引き寄せる道を見いだされます。人間は愛によって造られたので、何にもまして愛によってその心が引き寄せられることを、ご存じだからです。人間がこれほどまでに愛するのは、魂も体も、ただ愛によってのみ造られたからだと思われます。神は愛によって人間をご自分のかたどり、ご自分に似たものとして創造され、また父と母も愛によって子を宿し、産むことで、その子に体を与えたからです。そこで神は、人間がこれほど愛に向かいやすいことをご覧になり、愛の書を人間に向かってまっすぐに投げかけられます。すなわち、大いなる和解を成し遂げるためにわたしたちの人性をお取りになる、みことばである御独り子を、人間にお与えになるのです。しかし正義は、神に対して犯された不正に報いがなされることを求めます。そこで神のいつくしみと言い尽くせない愛が現れ、正義といつくしみを満たすために、御子にわたしたちの人性、すなわち罪を犯したアダムの土をまとわせたうえで、御子を死に定めます。こうして御父は、御子の身に正義を行われ、その死によって御怒りを鎮められます。こうして正義を満たすとともに、いつくしみをも満たし、人類を悪霊たちの手から解き放たれたのです。この優しいみことばは、いとも聖なる十字架の木の上で、ご自分の武具をまとって馬上試合をなさいました。死はいのちと、いのちは死と試合をしたのです。こうしてご自分の死によってわたしたちの死を滅ぼし、わたしたちにいのちを与えるために、ご自分の体のいのちをいけにえとしてささげられました。このように、愛をもってわたしたちを引き寄せ、ご自分の慈しみ深さによってわたしたちの悪意に打ち勝たれたので、すべての心はこの方に引き寄せられるはずです。友のために自分のいのちを与えること以上に大きな愛を示すことは、誰にもできないからです。これは、この方ご自身がおっしゃったことです。そして、友のために自分のいのちを与える愛をこの方が称賛されるのなら、敵のために自分のいのちを与えた、あの燃え盛る完全な愛について、わたしたちは何と言えばよいのでしょうか。わたしたちは罪によって神の敵となっていたのですから。ああ、優しく、愛に満ちたみことばよ。あなたは愛によって再びご自分の群れを見いだし、愛によってそのためにいのちを与え、彼らが失った恵みを回復させて、囲いの中へと連れ戻してくださいました。
この上なく聖なる、私の愛しい「お父さま」、あなたに従わず、父であるあなたに服することもせず、反逆して聖なる教会の囲いを離れた羊たちを取り戻すには、私たちにはほかに道も助けもないと思います。ですから、十字架につけられたキリストの名においてお願いします。どうかこの願いをかなえてくださり、あなたの慈愛によって彼らの悪意に打ち勝ってください。父よ、私たちはあなたのものです。彼らが皆、自分たちの過ちを感じていることを、私は知り、認めています。彼らの悪い行いには弁解の余地がありません。それでも、悪い牧者や統治者から多くの苦しみと、不正でよこしまな仕打ちを受けてきたために、ほかにどうすることもできないと彼らには思えたのです。あなたご自身も悪魔の化身だと知っておられる多くの支配者たちの生き方から立ちのぼる悪臭を吸い込み、彼らは恐怖のどん底に陥りました。そして、統治権を失わないためにキリストを殺したピラトと同じことをしたのです。彼らもまた、国を失わないためにあなたを迫害しました。ですから、父よ、彼らにいつくしみを示してくださるようお願いします。あなたの息子たちの無知や高慢に目を留めず、愛と慈愛を糧として与え、聖下のお心にかなう優しい戒めと慈愛に満ちた叱責によって、過ちを犯した私たちみじめな子どもに平和を取り戻してください。地上の優しいキリストよ、天におられるキリストの名において申し上げます。そうしてくだされば、争いも嵐も起こることなく、彼らは皆、自分たちの犯した過ちを嘆きながらやって来て、あなたの懐に頭を寄せるでしょう。そのとき、あなたは喜び、私たちも喜ぶでしょう。あなたが愛によって、迷える羊たちを聖なる教会の囲いに連れ戻してくださったからです。そして、私の愛しい「お父さま」、そのとき、聖なる十字軍を起こすことによって、あなたの聖なる望みと神のみ旨を実現なさるでしょう。神の名において、速やかに、怠ることなくこれを行ってくださるよう、私はあなたに呼びかけます。彼らは大いなる熱意をもってこれに向かうでしょう。彼らには、キリストのために命をささげる覚悟があります。ああ、神よ、優しい愛よ。「お父さま」、この上なく聖なる十字架の旗を速やかに掲げてください。そうすれば、狼が小羊に変わるのをご覧になるでしょう。平和を、平和を、平和を。この幸いな時が戦争によって遅れることのないように。けれども、もしあなたが報復し、正義の裁きを下そうとなさるなら、哀れな私にそれを向けてください。お望みの苦痛も責め苦も、死に至るまで、どのようなものでも私にお与えください。私の不義の悪臭のために、多くの悪、多くの災難や不和が生じたのだと信じています。ですから、あなたの哀れな娘である私に、お望みの報復をすべてお加えください。ああ、父よ、私は悲しみのあまり死ぬほどでありながら、死ぬこともできません。おいでください、おいでください。あなたを呼び求める神のみ旨に、もはや逆らわないでください。飢えた羊たちは、あなたの先任者であり擁護者である使徒ペトロの座を受け継ぎ、そこを占めるために、あなたが来られるのを待っています。あなたはキリストの代理者として、ご自身の座にとどまるべきなのです。ですから、おいでください、おいでください。これ以上遅れないでください。心を安らかにし、何が起ころうとも恐れないでください。神があなたとともにいてくださるからです。私と私のすべての息子たちのために、謹んで祝福を願います。また、私の差し出がましさをおゆるしくださるよう、お願い申し上げます。これ以上は申しません。神の聖なる優しい恵みのうちにとどまってください。優しいイエスよ、愛なるイエスよ。 ページ上部へ
グレゴリウス十一世へ
「ああ、コンスタンティヌスよ、どれほど多くの災いの母となったことか。あなたの回心ではなく、最初に富を得た教皇があなたから受け取った、あの贈り物が!」
「聖なる教会が霊的な事柄よりも地上の事柄を重んじるようになって以来、事態は悪化の一途をたどってきたのです。」教会の罪を悲しみつつ糾弾するカタリナの言葉は、ダンテの思想、ペトラルカの思想を思い起こさせます。それはまた、キリスト教の歴史を通じて、自分たちの霊的な母の至らなさに、言葉では言い尽くせない悲しみを抱いてきた、すべての偉大な聖人、先見者、忠実なカトリック信者の思想でもあります。聖なる教会を庭園として捉える美しいイメージは、聖書から借りたものではありますが、彼女はそれを繰り返し用いることで、自分ならではのものにしました。そこには、香り高い花を編んで花輪を作ったり、野原や森を散策したりすることに、いつも心の安らぎを見いだしていたと伝えられる彼女の、女性らしい想像力がうかがえます。
カタリナはこの手紙の中で、教会の改革、ローマへの帰還、十字軍の開始という三つの方針を明確に示しています。ジョン・ホークウッド卿に宛てた短い手紙からも、彼女がこの最後の事柄に心を注いでいたことは、すでに見たとおりです。十四世紀に十字軍が実現することはありませんでした。それでも、カタリナがこの件ほど政治的な知恵を示したことはなく、しかもこれは、彼女が生涯に目指した事柄の中で、完全な失敗に終わった唯一のものでした。『レジェンダ・ミノーレ』には、この件についてグレゴリウスと直接会見した際の、生き生きとした記述があり、そこで彼女は説得力のある見解を示しています。イタリアを荒らし回り、「戦争そのものの原因となり、それを養う糧ともなっている」傭兵たちは、喜んで異教徒に武器を向けるだろうと、彼女は鋭く指摘しました。「というのも、自分の好みにふけることで神に仕えるのを望まないほど、悪い人はほとんどいないからです。誰もが、自分の楽しむことをしながら罪を償えるなら、喜んでそうするでしょう。」しかし、こうした政策上のあらゆる考慮の背後には、明らかに、異教徒が救われることへの強い願いがありました。そして、それは彼ら自身のためだけではありませんでした。キリスト教徒たちの世俗性と、かつての信仰や熱意から遠く隔たった姿を見て、絶望と寂寥に沈みながらも、カタリナはあえて一つの夢を抱きました。闇の中に座していた諸民族から新たに信仰へと導かれた人々が、若々しい純粋さに力づけられた霊的な情熱を注ぎ込み、キリスト教世界の霊的生活をよみがえらせるかもしれない、という夢です。彼女はグレゴリウスにこう書いています。「ああ、キリスト教徒が異教徒を回心へと導くのを見ることができたなら、どれほどの喜びでしょう。一度光を受けたなら、彼らは大いなる完全さに達するかもしれません。信仰のない冬の寒さを逃れ、聖霊の温かさと光の中で枝葉を広げる若木のように、聖なる教会の神秘体の中で、徳の花を咲かせ、実を結ぶかもしれません。そうして彼らの徳の香りが、今日キリスト教徒の間、とりわけ聖なる教会で高い地位にある人々の間にはびこる罪と悪徳、傲慢と不純を、わたしたちが追い払う助けとなるかもしれません。」
それは不思議な夢であり、実現の望みのない夢でした。しかし、それは一人の聖人の夢だったのです。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
キリスト、優しいイエスにおいて、いとも聖なる、敬愛する優しい父よ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべであり、奴隷である、あなたのふさわしくない娘カタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたにお手紙を書きます。神の恵みがあなたのうちに満ちあふれ、その恵みによって、あなたが全世界に平和をもたらす器となられることを、わたしは切に願ってきました。それゆえ、わたしの優しい父よ、神の平和と誉れ、そして霊魂の救いを熱心に、飢えるほどに求めつつ、ご自分の権能と徳を手段として用いてくださるよう、お願いいたします。父よ、もしあなたが、「世界はこれほど荒れ果てている。どうすれば平和を実現できようか」とおっしゃるなら、わたしは十字架につけられたキリストに代わって申し上げます。あなたは、ご自分の権能によって、三つの主要な事柄を成し遂げるべきです。聖なる教会の園から、不純と貪欲に満ち、傲慢に膨れ上がった、悪臭を放つ花々を根こそぎ取り除いてください。それは、この園に毒をまき、腐らせる悪い司祭や指導者たちのことです。ああ、わたしたちを治める方よ、ご自分の権能を用いて、その花々を引き抜いてください。彼らを捨て去り、もはや統治させないでください。聖なる善い生活のうちに、まず自分自身を治めるよう努めることを、彼らに強く求めてください。この園に、香り高い花々を植えてください。すなわち、イエス・キリストの真のしもべであり、神の誉れと霊魂の救い以外は何も気にかけず、貧しい人々の父となる司祭や指導者たちです。ああ、これは何という混乱でしょう。自発的な清貧の模範となり、小羊のように柔和で、聖なる教会の財産を貧しい人々に分け与えるべき人々が、実際には、何という贅沢、威儀、華美、世俗の虚栄をまとって姿を現していることでしょう。まるでその財産を千回も世俗のために費やしたとしても、なお及ばないほどです。それどころか、善い聖なる生活を送る多くの世俗の人々が、彼らを恥じ入らせています。しかし、いと高く永遠なる善そのものである神は、愛によってなされないことを、力によって成し遂げさせておられるように見えます。ご自分の花嫁から高い地位と贅沢が取り去られるのを、お許しになっているようです。それはあたかも、聖なる教会が初めの姿へと立ち帰るべきことを示しておられるかのようです。人々が神の誉れと霊魂の救いだけに心を留め、この世のことではなく霊的なことを大切にしていた、あの聖なる時代のように、貧しく、へりくだり、柔和な姿へと立ち帰るのです。教会が霊的なことよりもこの世のことを目指すようになって以来、事態は悪くなるばかりでした。ですから、神が裁きのうちに、多くの迫害と苦難が教会に降りかかるのをお許しになったことを、心に留めてください。しかし父よ、勇気を出し、何が起ころうとも恐れないでください。神がこれをなさるのは、教会のあり方を再び完全なものとし、その園で小羊たちが草を食むことができるようにするためです。神に帰すべき誉れを奪って自分自身に帰し、それを食い尽くす狼たちのためではありません。キリスト、優しいイエスにおいて、勇気を出してください。先に申し上げたように、主の助け、満ちあふれる神の恵み、神からの助けと支えが、あなたの近くにあるようにと、わたしは希望しているからです。戦争から、この上ない平和を得られるでしょう。迫害から、この上ない一致を得られるでしょう。人間の力によってではなく、聖なる徳によって、あなたは目に見える悪魔である悪人たちと、わたしたちの周りで決して眠ることのない、目に見えない悪魔たちを打ち破られるでしょう。
しかし、慈愛深い父よ、どうかお考えください。そのことを成し遂げる前に、先立つ二つのこと、すなわち、ローマへのお帰りと、いとも聖なる十字架の旗を掲げることを果たさなければ、それを容易になさることはできません。たとえ諸都市の不祥事や反乱を目にし、耳にされても、そのために聖なる望みを失わないでください。むしろ、聖なる望みの炎をいっそう燃え立たせ、速やかに行動しようと望んでください。ですから、おいでになるのを遅らせないでください。悪魔を信じてはなりません。悪魔は自分の敗北を察し、あなたからその所有するものを奪おうと躍起になっています。それによって、あなたが愛と慈愛を失い、わたしたちが赴くことも妨げられるようにするためです。キリスト・イエスにおける父よ、申し上げます。穏やかな小羊のように、速やかにおいでください。あなたを呼んでおられる聖霊にお応えください。申し上げます。おいでください、おいでください、おいでください。時を待ってはなりません。時はあなたを待ってはくれないのですから。そうすれば、あなたがその代理を務める、屠られた小羊と同じようになさることになります。その方は、手に武器を持たずにわたしたちの敵を打ち倒されました。穏やかに来られ、愛の力という武器だけを用い、ただ霊的な事柄への配慮だけを目指して、罪によって恵みを失った人間に、その恵みを回復してくださったのです。
ああ、わたしの慈愛深い父よ、この優しい手をもってあなたに願い、申し上げます。わたしたちの敵を打ち破るためにおいでください。十字架につけられたキリストに代わって申し上げます。あなたの聖なる善い決意を妨げようとする悪魔の勧めを、決して信じないでください。わたしの前では勇敢であって、臆病であってはなりません。栄光ある牧者、聖ペトロの座を保持し、そこに着くようあなたを呼んでおられる神にお応えください。あなたはその聖ペトロの代理者であられるのです。そして、聖なる十字架の旗を掲げてください。パウロが言うように、わたしたちは十字架によって解放されたのですから、この旗を掲げることによって、わたしたちは解放されるでしょう。この旗こそ、キリスト者に新たな力を与えるものだとわたしは思います。わたしたちは戦争と分裂と多くの罪から、信仰を持たない民はその不信仰から解放されるのです。このようにして、あなたはおいでになり、聖なる教会に善い司祭たちを与えて、改革を成し遂げられるでしょう。教会が失ってしまった燃えるような愛で、その心を満たしてください。教会を食い物にしてきた不義の人々によって、教会はあまりにも血を奪われ、すっかり青ざめてしまったからです。しかし、どうか心を強くして、おいでください、父よ。切なる願いのうちに身を苦しめている神のしもべたちを、これ以上待たせないでください。そして、貧しく惨めな女であるわたしも、もう待つことができません。神がこのようにののしられるのを見て、わたしは生きながら、苦しみのうちに死んでゆくように感じます。ですから、ボローニャで起きた出来事のために平和から遠ざかることなく、おいでください。申し上げますが、獰猛な狼たちは穏やかな小羊のようにあなたの胸に頭を寄せ、あなたにいつくしみを願うでしょう、父よ。これ以上は申し上げません。父よ、お願いです。十字架につけられたキリストとわたしの名によって参るライモンド修道士と、彼に同行するほかの息子たちの話を聞き、心に留めてください。彼らは神の真のしもべであり、聖なる教会の子らだからです。父よ、わたしの無知をお赦しください。わたしを語らせる愛と悲しみに免じて、慈しみ深くお許しくださいますように。わたしに祝福をお与えください。神の聖なる、甘美な恵みのうちにとどまってください。優しいイエス、愛であるイエス。 ページの先頭へ
アヴィニョンにいるカプアのライモンド修道士へ
前の手紙から、カタリナが、後に彼女の伝記を書くことになる敬愛する聴罪司祭、カプアのライモンド修道士を教皇のもとへ遣わしていたことが分かります。この素朴なイタリア人司祭とその同行者たちが、アヴィニョンで直面した状況にいささか気後れするようになっていたことは明らかです。実際、ヨーロッパで考えられる最も巧妙な誘惑と、最も難解な問題が、教皇の宮廷に集中していたに違いありません。ライモンドがカタリナに打ち明け、この気迫に満ちた返事を引き出した困難が具体的にどのようなものだったかは分かりませんが、その性質は容易に想像できます。ライモンド修道士は相当な学識を備えた聖なる人でしたが、気質は穏やかで、危険を思ってはため息をつき、自ら危険にさらされるとなるとひるみがちでした。カタリナは、一度ならず、二人のうち自分のほうが男まさりであることを示しました。彼女の明るい気質には、闘志に富む一面がありました。彼女はまさしく「幸せな戦士」だったのです――
「その力は、日々の争いや、穏やかな暮らしの営みの中で、周囲の人々に絶えず感化を及ぼし、ひときわの恵みを与える。しかし、天が人類の幸不幸を左右する大事を結びつけた、ある恐るべき瞬間に立ち向かうよう求められるなら、その人は恋する者のように幸せであり、霊感を受けた人のように、突如として輝きをまとう。そして激しい戦いのさなかにも、静けさのうちに定めた掟を守り、かつて予見したことを目の当たりにする。」
こうして、この手紙では、娘が父を励ます姿が見られます。その思いは、ブラウニングの次の詩に通じるものです。
「試練はつらかったか、誘惑は激しかったか。ならば、もう一度神に感謝せよ。誘惑が訪れるのは、人がそれに立ち向かい、打ち勝ち、足もとに屈服させ、こうして勝利の台座に立つためではないか。」
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける尊敬する神父様。イエス・キリストのしもべたちのしもべであり、はしためであるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたにお便りします。あなたとほかの息子たちが、わたしたちの裸をすべて覆う婚礼の衣をまとっている姿を見たいと願っています。その衣は、わたしたちの敵である悪魔の打撃が肉を貫いて致命傷を負わせるのを防ぐ守りです。そればかりか、誘惑の一撃を受けても、悪魔やほかの人々、あるいは霊に逆らう自分自身の肉から悩まされても、そのたびに、わたしたちを弱めるのではなく、むしろ強めてくれます。申し上げます。これらの打撃は、わたしたちを傷つけないだけでなく、この燃え盛る愛の衣に飾られる宝石や真珠となるのです。
さて、神がどのような方面から、どのような仕方でお与えになるにせよ、多くの労苦や誘惑に耐える必要のない魂があるとしましょう。その魂のうちでは、どの徳も試されることがありません。徳は、それに反するものによって試されるからです。清さはどのように試され、得られるのでしょうか。それに反するもの、すなわち、不潔なものに悩まされることによってです。すでに不潔な人であれば、不潔な思いに悩まされる必要はないでしょう。しかし、その人の意志が、堕落したものへのあらゆる同意から自由であり、創造主に仕えたいという聖なる真実の望みによって、あらゆる汚れから清められていることが明らかなので、悪魔と世と肉がその人を悩ませるのです。そうです、すべては、それに反するものによって追い払われます。高慢を通して、どのように謙遜が得られるかを見てください。高慢という悪徳に悩まされている自分に気づくと、人は自分に欠点があること、すなわち高慢であることを認め、すぐにへりくだります。そのように悩まされなかったなら、自分自身をそれほどよく知ることはなかったでしょう。へりくだり、自分自身を見つめたとき、その人は自分自身への憎しみを抱くようになり、その結果、自分が耐え忍ぶあらゆる苦痛や侮辱を喜び、歓喜するようになります。そのような人は、打撃を避けようとしない勇敢な騎士に似ています。それどころか、十字架につけられたキリストのために苦痛や誘惑や悩みに耐えることを、それほど大きな恵みと受け止め、その恵みに自分はふさわしくないと考えます。これはすべて、自分自身への憎しみと、徳に対して抱くようになった愛によるのです。
ですから、闇の時に逃げたり悲しんだりしてはならないことが分かるでしょう。闇から光が生まれるからです。ああ神よ、甘美な愛よ、徳に反するものを通して徳が得られるとは、何と甘美な教えをお与えになることでしょう。不忍耐から忍耐が得られます。不忍耐という悪徳を感じる魂は、受けた侮辱に対して忍耐強くなり、不忍耐という悪徳に対しては我慢がならなくなり、ほかの何よりも、自分が傷ついていることそのものを苦痛に感じるようになるからです。こうして、まさにそれに反するものから、魂の完全さが得られるのです。魂自身は、このことに気づいていません。多くの嵐や誘惑の中で、気づけば完全なものとなっているのです。完全さという港に至る道は、ほかにはありません。
そうです、このことを黙想してください。魂は、十字架につけられたキリストへの愛のために、真実で聖なる忍耐をもって耐えるべき欲望や悩みや誘惑がなければ、決して徳を受けることも、望むこともできません。ですから、戦いや悩みや闇の時には、喜び、歓喜すべきです。そこから、これほどの徳と喜びが生まれるからです。ああ、あの優しい母マリアによって私に与えられたわが子よ、私は、あなたが心のうちに感じるどのような悩みによっても、疲れ果てたり、混乱に陥ったりしてほしくありません。むしろ、善良で聖なる、真実で忠実な意志を保ってほしいのです。神がいつくしみによって、その意志をあなたにお与えになったことを、私は知っています。あなたが、大罪を犯して神に背くくらいなら、むしろ死を選ぶことも知っています。そうです、私は、闇の中から、混乱を伴わない自己認識が生まれてほしいのです。また、あなたの善い意志から、神の限りない善と、言い表しようもない愛についての認識が生まれ、私たちの魂がその認識のうちにとどまり、豊かに養われますように。神が愛のゆえに、あなたの意志を善いものに保ち、自ら同意し、あるいは喜んで悪魔のそそのかしに従うことのないようにしてくださっていることを、よく考えてください。こうして神は、愛のゆえに、あなたと私、そしてほかのご自分のしもべたちが、悪魔やほかの被造物や私たち自身の肉による、多くの悩みや欺きを受けることをお許しになりました。それはただ、私たちが怠慢から立ち上がり、完全な熱意、真の謙遜、そしてこの上なく燃え立つ愛に至るためです。すなわち、自分自身を知ることから生まれる謙遜と、神の善を知ることから生まれる愛です。そこにこそ、愛に息吹を与えられ、愛に燃え尽くす魂があるのです。
神父様、喜び、歓喜してください。奴隷のような恐れを抱かず、心を強くしてください。どのようなことが起こるのを目にしても、恐れないでください。むしろ、心を強くしてください。完全さはあなたの近くにあるからです。そして悪魔には、こう答えてください。「お前に立ち向かうあの力は、私を通して働いたのではない。その力は私のうちにはなかったからだ。それは、神の限りない憐れみといつくしみの恵みによって働くのだ。」そうです、十字架につけられたキリストによって、あなたはすべてのことができるようになります。生きた信仰をもって、すべての働きを進めてください。そして、その働きを妨げるように思われる不利な状況が現れるのを目にしても、驚かないでください。心を強くしてください、心を強くしてください。甘美な、根源である真理が、あなたご自身と私とがあなたのために抱く望みをかなえると約束してくださったからです。屠られた小羊とともに、燃える望みによって自分自身を死に渡してください。十字架につけられたキリストとともに、十字架の上に身をゆだねてください。十字架につけられたキリストにあって喜び、苦痛のうちに喜んでください。十字架につけられたキリストのために辱めに身を浸してください。十字架につけられたキリストとともに、いとも聖なる十字架の木にあなたの心と愛情を接ぎ木し、その傷のうちに住まいを定めてください。そして、あなたのあらゆる苦痛と不完全さの原因であり、その道具である私を赦してください。もし私が徳の道具であったなら、あなたもほかの人々も、徳の芳香を吸い込んでいたはずです。このように申し上げるのは、あなたに苦しんでほしいからではありません。あなたの苦しみは私の苦しみとなるからです。そうではなく、あなたとほかの子たちに、私の惨めさを憐れんでほしいからです。聖霊の恵みによって、神のみ旨から外れているそれらすべてのことに、聖霊が限りを設け、終わりをもたらしてくださると、私は希望し、固く信じています。
惨めで哀れな女である私が、肉体のうちにとどまりながら、望みによって絶えず肉体を離れていることを、心に留めてください。ああ、優しく善いイエスよ! 私は死にゆきながら、死ぬことができず、心が張り裂けながら、張り裂けることもできません。それは、神の誉れとすべての被造物の救いのために、聖なる教会が刷新されることを、また、あなたとほかの人々が清さを身にまとい、神のこの上なく燃え立つ愛のうちに焼かれ、燃え尽くす姿を見ることを、切に望んでいるからです!
地上のキリストに、もうこれ以上わたしを待たせないようにと伝えてください。その方にお会いしたら、わたしはあの心優しい老人シメオンとともに歌うでしょう。「主よ、今こそ、あなたのお言葉どおり、このしもべを安らかに去らせてくださいます。」これ以上は申しません。自分の望みに従うなら、すぐにまた語り始めてしまうでしょうから。あなたが慈しみ深いイエス・キリストに結ばれ、固くつながれていて、悪魔も、いかなる被造物も、そのように優しい絆からあなたを引き離すことができないのだと、わたしに見せ、感じさせてください。互いに愛し合い、愛し合い、愛し合いなさい。神の聖なる優しい恵みのうちにとどまりなさい。慈しみ深いイエス、愛なるイエス。 ページ上部へ
施療院のカタリナとジョヴァンナ・ディ・カーポへ
比較的静かな自宅から、カタリナは遠い地平へと目を向け、宗教と政治の世界を見渡しています。修道士ライモンドを励ますことはできても、その心は剣で貫かれています。この手紙には、さらにひどい災厄を厳しく予感させる数々の悪を認めずにはいられない、胸の悪くなるような思いがあふれています。この時点ですでに、自分の時代の罪に対するあの不思議な責任感が、カタリナの心にはっきりと形づくられているのが分かります。自然の目にはこれほど不合理でありながら、霊的な目にはこれほど避けがたい責任感です。「これほど大きな悪の原因となっている惨めな女は、わたしなのだと信じています!」彼女はこう叫びます。それは修辞的な言い回しではなく、深い確信から出たものです。この確信はますます強まり、ついには彼女を霊的な殉教へと直接導くことになります。
その苦しみの中から、カタリナは、信仰における自分の娘であり仲間でもある素朴な女性たちへと心を向け、とりなしと償いの生活をともにするよう呼びかけます。やがて彼女の思いは、群れの一匹の小羊に注がれます。かつて迷い出て救い出されたものの、再び迷い出る危険にさらされていた一匹です。守りと力を必要とするこの一つの魂を気遣うことに、彼女は慰めを見いだします。何をどれほど重く見るかというカタリナの感覚は、ブラウニングがラザロの姿を通して見事に描いた、霊に生きる人の感覚です。アンドレアさえ救われるなら、教会の腐敗もそれほど苦痛ではなくなるでしょう! 彼女は結びにこう言うことができます。「愛する娘たち、今は労苦の時です。その労苦こそ、十字架につけられたキリストにおける、わたしたちの慰めとならなければなりません。」
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
慈しみ深いイエス・キリストにおける、最愛の娘たちへ。イエス・キリストのしもべたちのしもべであり奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたがたに手紙を書きます。あなたがたが真の忍耐と深い謙遜のうちに堅く立ち、慈しみ深く汚れのない小羊に従うことができるようにと願っています。それ以外の仕方では、この方に従うことはできないからです。わたしの娘たち、今こそ、わたしたちに徳があるかどうか、あなたがたが娘であるかどうかを示す時です。あなたがたは、同じ被造物である人々からの迫害や悪口、中傷や批判を、腹立ちや苛立ちをもってではなく、真の謙遜をもって忍耐強く耐え忍ばなければなりません。また、どのような人に対しても、傲慢に頭をもたげてはなりません。わたしたちに与えられた教えは、聖なる真の忍耐をもって、神の誉れと魂の救いという糧を十字架上で受け取らなければならないということなのだと、よくわきまえてください。ああ、いとしい娘たち、慈しみ深い第一の真理に代わって、あなたがたに呼びかけます。怠慢と利己的な自己愛の眠りから目覚め、幾夜も目を覚まして祈り、自分自身を知り、へりくだって絶えず祈りをささげてください。おびただしく積み重なる不義と、キリストの優しい花嫁に対して示される不敬によって、世界は滅びつつあるからです。それならば、神に誉れを帰し、隣人のために労苦をささげましょう。ああ、あなたがたも、ほかの神のしもべたちも、わたしたちの生涯が嘆きとため息以外のうちに終わることを望まないでください。明らかにわたしたちの上に下りつつある神の怒りは、ほかのいかなる手段によっても鎮めることができないからです。
ああ、不幸なわたし! わたしの娘たち、創造主に対して犯してきた大きな忘恩とほかの過ちのために、これほど多くの悪の原因となっている惨めな女は、わたしなのだと信じています。ああ、ああ! 被造物から背かれる神とは、どのような方でしょうか。神は、いと高く永遠の善そのものであり、愛のうちに御自分のかたどり、御自分に似た者として人間を創造し、人間が罪を犯した後には、汚れなく愛に燃える小羊である御独り子の血において、恵みによって人間を新たに創造してくださった方です。それでは、創造主に背く、利己的で無知な人間とは何者でしょうか。わたしたちは、神によって造られているのでなければ、自分自身の力では存在することさえできない者であり、自分自身の力だけでは、あらゆる惨めさに満ちています。人々は創造主を侮り、どうすれば神と同じ被造物である人々に背くことができるか、それ以外には何も求めていないかのようです。わたしたちはこの惨めな目で、わたしたちに命を与えてくださったあの御血が、神の聖なる教会の中で迫害されているのを見ています。それならば、苦悶と悲嘆に満ちた願いのうちに、わたしたちの心が張り裂けますように。もはや命がこの体にとどまることなく、神がこれほどののしられるのを見るくらいなら、むしろ死ぬことができますように。わたしは生きながら死に、創造主に死を求めていますが、それを得ることができません。キリスト者の民に降りかかり、またこれから降りかかろうとしているこのような災厄を見るくらいなら、生きるよりも死ぬほうが、わたしにはよいのです。
聖なる祈りという武器を取りましょう。ほかに助けは見いだせないからです。神のしもべたちに、あの迫害の時が訪れました。自分自身と神とを知るという洞窟に身を隠し、御子の血の功徳によって神のいつくしみを切に願わなければならない時です。これ以上は申しません。娘たち、もし自分の望むままにするなら、神がわたしをこの世の命から取り去ってくださるまで、わたしは決して休むことがないでしょうから。
アンドレア、今あなたに告げます。栄光の冠を受けるのは、ただ始めるだけの人ではなく、死に至るまで忍耐する人です。わたしの娘よ、あなたは大罪という吐瀉物を後にして、徳の鋤に手をかけ始めました。ですから、忍耐を貫かなければなりません。あなたの魂は、悪魔の一員となる道へ走らないよう、若さにくつわをかけることを選び、その労苦に耐えているのですから、その報いを受けるためにもそうしなければなりません。ああ、わたしの娘よ。かつてあなたは不純の汚れの中に眠り、悪魔の一員であったこと、そして神がそのいつくしみによって、あなたの魂も体も陥っていたあの深い惨めさから救い出してくださったことを、思い返さないのですか。ですから、感謝を忘れ、そのことを忘れるようであってはなりません。そうすれば災いがあなたに降りかかり、悪魔は、以前にも増して強い七人の仲間を連れて戻ってくるでしょう。あなたを苦しめる悪魔と世と肉との戦いにおいて強くあるとき、あなたは感謝し、忘れずにいることによって、受けた恵みを示すことになります。徳において忍耐を貫かなければなりません。娘よ、そのような苦しみを免れたいなら、身体の節制と徹夜の祈りと祈りのうちに、いとも聖なる十字架の木にすがり、聖なる望みによって、十字架につけられたキリストの血に身を浸しなさい。そうすれば、恵みのいのちに至り、神のみ旨を行い、あなたが十字架につけられたキリストの真のしもべとなることを切に願う、わたしの望みをかなえるでしょう。ですから、もう子どもでいるのをやめ、血をもってあなたを買い取ってくださった、十字架につけられたキリストを花婿に選ぶよう、あなたにお願いします。もしなお世の生活を望むのであれば、神の誉れとあなたの善のためになる仕方でその生活をあなたに与える道が見いだされるまで、十分に待つのがふさわしいことです。死に至るまで従順に従い、カタリナとジョヴァンナの意向に逆らわないようにしなさい。二人は、神の誉れとあなたの魂と体の救いのためにならないことを、決して勧めたり告げたりはしないと、わたしは知っています。もしそのように振る舞わないなら、あなたはわたしを大いに悲しませ、自分自身にもほとんど益をもたらさないでしょう。神のいつくしみに信頼し、あなたが、神があがめられ、あなた自身が報いを受け、わたしに大きな慰めを与えるように行動することを願っています。
カタリナとジョヴァンナ、神の誉れと彼女の救いのために、死に至るまで働くよう、あなたがたに告げます。愛する娘たちよ、今は労苦の時です。その労苦こそ、十字架につけられたキリストにおけるわたしたちの慰めとならなければなりません。これ以上は申しません。神の聖なる、優しい恵みのうちにとどまりなさい。優しいイエス、愛なるイエス。 ページ上部へ
聖ドミニコの修道服をまとい、厳しい償いの業を果たせなくなって深い悲嘆に陥っていた、オルヴィエートのシスター・ダニエラへ
カタリナの愛する姉妹ダニエラは、苦境にあります。中世に奉献生活を送っていた多くの人々と同じように、身体を軽んじるあまり理性の限度をはるかに越え、病に倒れて、自分の弱い身体をいたわらざるを得なくなったのです。カタリナは、ライモンド修道士や霊的家族のほかの人々を、絶えずいっそう英雄的な高みへ引き上げようと努めていますが、この熱心さが過ぎる魂には別の配慮が必要であることを認めています。そこで友である彼女に、長く、優しさに満ちた手紙を書きます。それは、完徳へと導く手段についてカタリナが数多く記した分析の中でも、とりわけ丹念なものの一つであり、霊的な事柄における賢明な判断と、つり合いの感覚を持つように勧めています。注目すべきことに、熱烈な犠牲を促すカタリナの勧告は、ほとんどいつも、教会や隣人への具体的な奉仕の要請に結びつけて語られています。内的生活の脱魂や試練に没頭する「観想者たち」に手紙を書くとき、彼女が常に戒めるのは行き過ぎであり、ここでもそうであるように、絶えず願うのは、物事の相対的な価値を見分けることです。カタリナ自身、偉大な「観想者」であると同時に、偉大な実践の人でもあります。その体験の両面は、ともにさらに深いものにつながっています。彼女の魂は無限なる方を渇き求めていました。そして、わたしたち死すべき者が、無限なる存在との何ものにも妨げられない一致に至ることができるのは、行いによってでも、禁欲による脱魂によってでもなく、ただ「聖なる望み」において、すなわち「神のみ前で永遠に祈る」絶え間ない憧れの生活においてのみであることを、よく知っていたのです。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストに結ばれた、最愛の娘、また姉妹であるあなたへ。イエス・キリストのしもべたちのしもべであり奴隷であるわたし、カタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたにこの手紙を書きます。あなたのうちに分別という聖なる徳を見たいと望んでいるからです。救われたいと願うなら、わたしたちはこの徳を持たなければなりません。なぜ、それほど必要なのでしょうか。それは、この徳が自分自身と神とを知ることから生まれ、この家に根を下ろしているからです。それはまさしく愛から生まれるものであり、それこそが、厳密な意味での分別、すなわち、先に述べたように、魂が神と自分自身について持つ、光に照らされた認識なのです。この徳の第一の働きは、何を誰にささげるべきかを理性の光のうちに見定めたうえで、完全な分別をもって、直ちにそれをささげることです。こうして神に栄光を帰し、そのみ名を賛美します。魂は、この光によって、この目的のために、すべてのわざを行います。そして、神に当然ささげるべき誉れをささげます。自分に誉れを帰そうとし、自分の誉れと喜びを求めるあまり、神を侮辱し、隣人を害することを意に介さない、分別のない盗人のようにはしません。分別を欠くことによって魂の傾きの根が腐れば、他者にかかわるものであれ、自分自身にかかわるものであれ、そのすべてのわざが腐ってしまいます。他者にかかわるすべてのわざと言うのは、その魂が分別なく重荷を負わせ、世俗の人にも霊的な身分の人にも、どのような地位の人であれ、自分の決まりを押しつけるからです。そのような人は、戒めたり助言したりするときも分別を欠き、自分が背負っている重荷を、ほかのすべての人にも負わせようとします。自分自身と他者の必要を理性に照らして見ている、分別ある魂は、その正反対のことをします。神に当然ささげるべき誉れをささげたなら、自分自身にも、当然向けるべきものを向けます。すなわち、罪と、自分自身の肉的なあり方への憎しみです。それはなぜでしょうか。自分のうちにある徳を愛する、その徳への愛のためです。魂は、自分自身に向けるのと同じ光によって、隣人にも当然与えるべきものを与えます。それゆえ、わたしは、自分自身にも他者にもかかわると言ったのです。こうして魂は、なすべきこととして隣人に善意を向け、その人のうちにある徳を愛し、罪を憎みます。いと高き永遠の御父に造られた存在として、その人を愛します。そして、自分のうちにこの愛をどれほど持っているかに応じて、隣人にも、多かれ少なかれ完全な愛を注ぎます。そうです、これこそが、分別の徳が魂のうちにもたらす第一の実りなのです。魂は、何を誰に与えるべきかを、はっきりと見定めたのです。
これらが、愛という木から生じる、あの栄光に輝く分別の三つの主要な枝です。この木には、よく熟した、とても甘い実が無数に実ります。魂が自由意志の手でそれらを摘み取り、聖なる熱望をもって食べるなら、それらは恵みのいのちを生きる魂の糧となります。人はどのような境遇にあっても、分別の光を持っていれば、自分の身分に応じたさまざまな仕方で、これらの実を味わいます。世にあって生きる人がこの光を持っているなら、神のおきてに従うという実と、世を好まないという実を摘み取ります。実際には世を身にまとっていても、心の中ではそれを脱ぎ捨てるのです。子どもがいるなら、神への畏れという実を摘み取り、この聖なる畏れによって子どもたちを養います。貴族であるなら、正義という実を摘み取り、分別をもって、一人ひとりに当然与えるべきものを与えようと望みます。こうして、不正な人には厳しく罰を与え、正しい人には報いを与え、理性の実を味わい、どのようなへつらいにも、卑屈な恐れにも負けて、この道を離れることはありません。臣下であるなら、主君への従順と敬意という実を摘み取り、主君の気分を害しかねない原因や手立てをすべて避けます。この光によってそれらを見ていなかったなら、避けることもなかったでしょう。修道者や高位聖職者であるなら、自分たちの会則を守るという、甘く喜ばしい実をその木から得ます。互いの欠点を忍び、恥辱や煩わしさを進んで受け入れ、従順のくびきを自分の肩に負うのです。高位聖職者は、神の誉れと魂の救いへの望みを受け取り、教えと模範的な生活によって、魂を神のもとへ導こうと努めます。何とさまざまな仕方で、何とさまざまな人々によって、これらの実は摘み取られることでしょう。それらを語るにはあまりにも長い時間がかかり、言葉では言い尽くせません。
しかし、最愛の娘よ、分別の徳が霊魂にどのような規律を課すのか、考えてみましょう(ここからは個別の事柄について語りますが、それは同時に、すべての人にかかわることでもあります)。私には、この規律は、行いにおいても思いにおいても霊的に生きることを望む人々の、霊魂と体の両方に当てはまるように思われます。確かに、この規律は、一人ひとりをそれぞれの身分と立場に応じて導きますが、今は私たち自身に語りかけることにしましょう。分別が霊魂に与える最初の規律は、すでに述べたとおり、神には誉れを、隣人には善意をささげ、自分自身に対しては、罪と自らの肉的な性向を憎むことです。分別は、この隣人への愛を正しく整えます。隣人のために霊魂を犠牲にすることをよしとせず、隣人に善を行い、あるいは喜ばせるために神に背くことを望まないからです。むしろ、分別をもって罪を避けながらも、一つの霊魂を、そしてできる限り多くの霊魂を悪魔の手から救い出すためには、死に至るまで、あらゆる苦痛と責め苦に自分の体を差し出す用意があるのです。また、隣人の体を助け、救うためには、地上の財産をすべて手放す用意もあります。愛は、分別によって照らされるとき、このように行います。隣人に対する愛は、分別によって整えられなければならないからです。分別のない人は、まったく逆のことをします。隣人に仕え、あるいは喜ばせるためなら、神に背くことも、自分の霊魂を犠牲にすることも意に介しません。あるときは悪い場所で隣人の相手をし、あるときは偽証をし、またほかにもさまざまなことをします。こうしたことは日々起こっています。これが無分別の規律であり、高慢とゆがんだ自己愛、そして自分自身も神も知らないという盲目から生じるものです。
そして、隣人への愛について適切な尺度と規律が見いだされると、分別はまた、霊魂をその愛のうちにとどまらせ、その愛を成長させる営み、すなわち、信仰に満ちた、謙遜で絶え間ない祈りをも整えます。分別は霊魂に、徳を求める望みという外套をまとわせ、熱意の乏しさや怠慢、霊的な事柄や地上の事柄にかかわる自己愛によって傷つけられないようにします。こうして分別は、霊魂の望みが、それを欺きかねない何ものにも向けられないよう、徳を求めるこの望みを霊魂のうちに呼び起こすのです。
また、分別は、被造物である人間の身体的な面も、次のように治め、整えます。神を望もうと心を定めた霊魂は、すでに述べたように歩み始めます。しかし、霊魂には体という器があるので、光に照らされた分別は、霊魂に規律を課したのと同じように、体にも規律を課さなければなりません。体は、徳を増し加えるための手段であるべきだからです。この規律は、体を世の快楽やぜいたく、世俗に生きる人々との交わりから遠ざけ、神のしもべたちとの交わりへと導きます。また、放縦な場所から離れさせ、信心を深める場所にとどまらせます。体のすべての部分に慎みと節度を保つよう、抑制を課します。目は、見るべきでないものを見ず、地と天をその前に置くようにしなさい。舌は、無益でむなしい言葉を避け、隣人の救いのために神のことばを告げ、自分の罪を告白するよう鍛えられなさい。耳は、耳に心地よい言葉、へつらいの言葉、みだらな言葉、また耳に入ってくるあらゆる中傷の言葉を避けなさい。そして、神のことばと隣人の窮状に耳を傾け、隣人が何を必要としているかを進んで聞くようにしなさい。同じように、手は触れるにも働くにも機敏であり、足は行くべきところへ速やかに赴くようにしなさい。分別は、これらすべてに規律を与えます。そして、霊に逆らって戦う肉のゆがんだ法則が、これらの道具を混乱に陥れないように、分別は体に規律を課し、徹夜の祈りや断食、その他、私たちの体を抑制するためのさまざまな修練によって、体を克己させるのです。
しかし、これらすべては無分別にではなく、光に照らされた分別をもって行われることに注意してください。それはどのようなことに表れるのでしょうか。霊魂が、どのような苦行の実践にも自らの第一の望みを置かない、ということに表れます。苦行を第一の望みとする過ちに陥らないよう、光に照らされた分別は、徳を求める望みを霊魂にまとわせることに心を尽くします。確かに、苦行は、必要に応じ、ふさわしい時と場所において、道具として用いられなければなりません。肉が強すぎて霊に逆らうなら、苦行は、克己の鞭と断食、多くの突起のある苦行衣、厳しい徹夜の祈りを用い、肉をさらに従順にするために、十分な重荷を課します。しかし、体が弱り、病に陥っているなら、分別の規律はそのような方法を認めません。それどころか、断食をやめるだけでなく、肉を食べるべきです。一日一回で足りなければ、四回食べるのです。立つことができなければ、寝床にとどまりなさい。ひざまずくことができなければ、必要に応じて座るか、横になりなさい。分別はこのことを求めます。ですから、分別は、苦行を第一の望みとしてではなく、手段として扱うことを強く求めるのです。
なぜ苦行を第一のものとしてはならないのか、あなたは知っていますか。それは、魂が、奪われることもある有限なものによってではなく、神の無限の望みと結ばれることで無限となる聖なる望みによって、また、わたしたちが自ら望まないかぎり、悪魔も、同じ被造物である他者も、弱さも奪うことのできない徳によって、神に仕えるためです。わたしたちは苦行ではなく、ここに土台を据えなければなりません。実際、弱さのうちでは忍耐の徳が試されることがあります。悪魔との苦しい戦いのうちでは勇気と長く耐え抜く力が、また、他の人々から受ける苦難のうちでは謙遜、忍耐、愛が試されることがあります。他のすべての徳についても同じです。神は、さまざまな逆境によって徳が試されることはお許しになりますが、わたしたちが自ら望まないかぎり、それが奪われることは決してお許しになりません。わたしたちは苦行ではなく、ここに土台を据えなければなりません。魂は二つの土台を持つことはできません。どちらか一方は取り崩されなければなりません。第一のものではないものは、手段として用いなさい。もしわたしが肉体の苦行を自分の第一の拠り所とするなら、自分の魂の町を砂の上に築くことになり、ほんのわずかな風にもそれは地に倒れ、その上には何の建物も建てられません。しかし、生ける石であるキリスト、優しいイエスを土台とする徳の上に築くなら、どれほど大きな建物でも堅く立ち続け、どれほど激しい向かい風でも、それを吹き倒すことは決してできません。
こうした困難や、ほかにも生じる多くの困難を考えれば、苦行は手段として用いる以外のことを意図されたものではありません。わたしはすでに、忍耐も従順も備えていない多くの苦行者を見てきました。彼らは自分の体を打ちたたくことには励んでも、自分の意志を打ちたたくことには励まなかったからです。分別のなさに支配された結果がこれです。その結果どうなるか、あなたは知っていますか。彼らの慰めと望みはすべて、ほかの誰かの意向に合わせるのではなく、自分の思いどおりに苦行を果たすことに集中します。そうすることで、自分の我意を養っているのです。苦行を果たせる間は慰めと喜びを味わい、すべてを成し遂げたかのように、自分が神に満たされていると思います。そして、単なる自分本位の評価や、人を裁く態度に陥っていることに気づきません。というのも、すべての人が自分と同じ道を歩まなければ、その人々は永遠の滅びに至る状態、不完全な状態にあると彼らには思えるからです。彼らは分別もなく、あらゆる人の体を、自分自身を測るのと同じ一つの尺度で測ろうとします。そして誰かが、彼らの我意をくじくためであれ、彼ら自身の何らかの必要のためであれ、このあり方から彼らを離れさせようとすると、彼らはダイヤモンドよりも固く自分の意志を押し通します。このように生きるので、誘惑や危害によって試されるときには、この誤った意志を甘やかしてきたために、自分がわらよりも弱いことを思い知らされるのです。
分別のなさは、怒りや短気、そして心に生じるその他の罪深い衝動を苦行が抑えるのだと、彼らに教えました。しかし、そうではありません。この輝かしい光は、自分自身への憎しみと不快の念をもって、自分の過ちを厳しく責め、あなたが背いている神がどのような方であり、神に背いているあなたが何者であるかをよく考え、死を思い起こし、徳を切望することによって、魂のうちの罪を滅ぼし、その根を引き抜かなければならないと、あなたに教えます。苦行は罪を刈り取りますが、それでもあなたは、自分のうちに、再び芽を出そうとする根がいつも残っているのを見いだすでしょう。しかし、徳は根こそぎにします。罪が植えられていた土は、我意が自由な選択によってそこに罪を植えるなら、いつでも再びそれを受け入れます。しかし、いったん根が引き抜かれたなら、そのような選択なしに罪を受け入れることはありません。
体が病み、それまでの生活習慣をどうしても断念しなければならなくなることがあります。すると、その人はたちまち倦怠と心の混乱に陥り、あらゆる喜びを奪われます。自分は断罪され、面目を失ったと思い、苦行をしていたころには味わっていたと思われた甘美さを、祈りのうちに見いだせなくなります。では、この甘美さはどこへ行ったのでしょうか。それが拠り所としていた自分の意志とともに、失われたのです。この意志を満足させることができなくなり、それゆえ魂は苦しみます。では、なぜあなたは、このような混乱と、絶望にも近い状態に陥ったのでしょうか。神の国に抱いていた希望はどこにあるのでしょうか。魂がそれによって永遠のいのちを得ようと望んでいた、まさにその苦行によって、すべてが失われてしまったのです。もはや苦行ができないために、魂は永遠のいのちも奪われたと思うのです。
これらが、識別を欠くことの実りです。もし霊魂に識別の光があれば、神を失わせたのは、徳を欠いていたこと以外の何ものでもないと分かるでしょう。そして霊魂は、キリストの血によって、徳を通して永遠のいのちを得るのです。ですから、あらゆる不完全さを超えて立ち上がり、先に述べたように、真の徳に心を向けましょう。真の徳がもたらす喜びと楽しさは、言葉では言い尽くせません。徳に根ざした霊魂を苦しめたり、天国への希望を奪ったりできる者は、だれもいません。その霊魂は、この世の事柄においても霊的な事柄においても我意を死なせており、その愛情を、苦行や個人的な慰めや啓示にではなく、十字架につけられたキリストを通して耐え忍ぶことと、徳を愛することに向けているからです。それゆえ、その霊魂は忍耐強く、忠実であり、自分自身や自分の行いではなく、神に希望を置きます。思い上がることがないので、謙遜で従順であり、自分よりも他者を信じます。いつくしみの腕を大きく広げ、それによって心の混乱を追い払います。闇と葛藤の中では信仰の光を高く掲げ、真の深い謙遜をもって勇敢に励みます。また、喜びの中では、心がむなしい浮かれ気分に陥らないよう、自らの内に入ります。自分を弱く移ろいやすいものにしていた我意を死なせたので、強く、忍耐強いのです。その霊魂にとっては、いつでもふさわしい時であり、どこでもふさわしい場所です。苦行の時期にあるなら、それを手段として用いるので、その時は喜びと慰めの時となります。また、必要に迫られて、あるいは従順のために苦行をやめなければならない場合にも、喜びます。徳を愛することにある、その最も大切な土台は、奪われることがありえず、実際に奪われないからです。また、そこに自分の意志に逆らうものを認めるからでもあります。霊魂は照らしを受け、この我意には常に細心の注意と熱意をもって抵抗しなければならないと悟っているのです。
その霊魂は、どこにいても祈りを見いだします。神が恵みによって住まわれ、わたしたちが祈るべき場所を、いつも自らの内に携えているからです。それは、聖なる望みが絶えず祈りをささげている、わたしたちの霊魂という家です。この望みは知性の光によって高められ、自らの内に、また神の愛の計り知れない炎の内に映し出されます。その炎を、霊魂はわたしたちのために流された血のうちに見いだし、愛の惜しみない施しによって、その血を霊魂という器の中に見いだすのです。霊魂が知ろうと心を砕き、またそうすべきなのは、このことです。それは、その血を深く飲み、その中で自分の我意を焼き尽くすためであって、単に主の祈りを数多く唱え終えるためではありません。このようにして、わたしたちは祈りを絶え間なく忠実なものとするのです。神の愛の火の中で、神にはわたしたちの願うものを与える力があると知るからです。神は至高の知恵であり、わたしたちに必要なものを見分け、どのように与えるべきかをご存じです。神はこの上なく憐れみ深く恵み豊かな父であり、わたしたちが望む以上のもの、また必要のためにどう願えばよいかを知っている以上のものを、与えたいと望んでおられます。霊魂は、自分の欠点と、自分自身では存在しえないことを認めたので、謙遜です。わたしたちが徳を得て、その徳へのあこがれを霊魂の内に保つのは、このような祈りを通してなのです。
これほど大きな善の始まりは何でしょうか。先に述べたように、それは愛の娘である識別です。そして、その霊魂は、自分自身が持っている善を、すぐに隣人に差し出します。こうして、自らが見いだした土台と、受け取った愛と教えとを、同じく被造物である隣人に差し出そうとし、生き方の模範と教えによってこれらを示します。そして、必要があると認めるときや、助言を求められたときには、助言します。隣人の霊魂を慰め、隣人が何らかの過ちに陥ったときにも、絶望へと導いて混乱させることはありません。むしろ、優しさをもってその霊魂とともに病み、自分にできる限りの癒やしを与え、十字架につけられたキリストの血への希望を、その人の内に大きく育てるのです。
分別の徳は、この実りと、ほかにも限りなく多くの実りを隣人にもたらします。ですから、この徳はこれほど有益で必要なのですから、甘美なイエス・キリストにおける、いとしく、こよなく愛するわたしの娘、また姉妹よ、わたしはあなたと自分自身に呼びかけます。これまで、なすべきほど完全には行ってこなかったとわたしが認めることを、ともに行いましょう。わたしは自分の過ちのために、これまでも今も欠点が多く、厳しい生活を送る代わりに、あまりにも気を緩め、安易に暮らしてきましたが、あなたはそうではありません。むしろあなたは、若い肉体が魂に逆らわないよう、それを従わせようと望み、分別の限度をまったく超えていると思われるほど、極端に厳しい生活を選びました。そのためわたしには、分別を欠くことが、その結果のいくつかをあなたに味わわせ、この点であなたの我意を強めようとしているように思えます。そして今、あなたがこれまでの習慣をやめようとすると、悪魔は、あなたが永遠の滅びに定められているかのように思わせようとしているようです。このことにわたしは深く心を痛めていますし、それは神に対する大きな背きだと思います。ですから、先に述べたように、徳を愛することを、わたしたちの出発点と土台にしてほしいと願い、あなたにお願いします。自分の我意を打ち殺し、命じられることを行ってください。自分の目にどう映るかよりも、ほかの人の目にどう映るかに心を配ってください。あなたは自分の体が弱り、病んでいると感じています。体力を回復するために必要な食物を、毎日取ってください。そして病気と衰弱が和らいだなら、度を越すことなく、節度をもって規則正しい生活を始めてください。償いの業という小さな善が、より大きな善を妨げることを許してはなりません。また、それを何よりも愛するものとして身にまとってもなりません。そうすれば、あなたは自分が欺かれていたと気づくことになるでしょう。むしろ、わたしたちが自分の意志を打ち砕き、打ち壊しながら、徳という踏み固められた道を誠実に急ぎ進み、ほかの人々をもこの同じ道に導けるようにと願ってください。わたしたちのうちに分別の徳があれば、それができます。そうでなければ、できません。
ですから、あなたのうちに分別という聖なる徳を見たいと望んでいる、とわたしは申し上げたのです。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。もしあまりにも差し出がましいことを申し上げたなら、おゆるしください。神の誉れのために、あなたの救いを愛し願うことが、その理由なのです。甘美なイエスよ、愛なるイエスよ。 ページの先頭へ
説教者修道会のカプアのライモンド修道士へ
ならびに、聖アウグスチノ隠修修道会の師ヨハネ三世と、アヴィニョンに滞在していた彼らのすべての同伴者へ
公的な事柄に対するカタリナの関心は、深まり、広がりつつあります。この手紙は、彼女の内面における一つの転機を示しています。すでに見てきたとおり、彼女はそれ以前からしばらくの間、教皇と、教皇に反抗するトスカーナの人々との不和に心を砕き、行動していました。そして今、神の命令によって、和解という大きな務めに自分が厳かにささげられたのだと感じる時が来たのです。わたしたちは、いわば彼女が師である主のみ前で、その助けを受けながら、この状況が投げかける最も深い問いを考え抜いていくのを、傍らで耳にします。そして、これほど自然で、これほど甘やかな親しさと深い畏敬に満ちたその対話に耳を傾けていると、どれほど悲しく、困難な問題であっても、そこでは希望を失うことはありえないと感じます。彼女は主との交わりから、力と確信を得て、同時代の嵐のような活動のただ中へと出ていきました。彼女が語るところによれば、キリストご自身が彼女の肩に十字架を載せ、その手にオリーブの枝を持たせ、嘆きを崇高で歓喜に満ちた希望へと変え、信仰に強められて出かけ、ご自分の喜びの知らせを『一方の人々にも、もう一方の人々にも』伝えるよう命じられたのです。芸術において、彼女はこのように描かれるべきでしょう。主と同じように十字架を担い、世界に向かって和解のしるしを差し出す姿です。こうして彼女は、平和を実現する者の悲しみの道を歩み始めました。これからわたしたちは、彼女の手紙を通して、その歩みをたどっていきます。彼女が踏みしめるその苦しみの道は、同時にいのちの道でもあったのです。
ここに記されている体験は、1376年4月1日に起こりました。5月の初め、フィレンツェの人々は、彼女の聖性の評判を知っていたので、自分たちの町に来て助言をしてほしいと、人を遣わして頼みました。キリストの代理者に逆らうことは恐ろしいことであり、反抗するその町では、多くの人が心に不安を抱いていたからです。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
キリスト・イエスにおいて、最愛のわが子たち。あなたがたの貧しい母であるわたしは、あなたがたの心と愛情が十字架に釘づけにされ、神を人に、人を神に接ぎ合わせた絆によって結ばれるのを、熱烈に見たいと願ってきました。それゆえ、わたしの魂は、あなたがたの愛情が、受肉したみことばであるキリスト・イエスに接ぎ合わされ、悪魔も被造物もあなたがたを引き離せなくなるのを見たいと切望しています。甘美なイエスに抱かれ、その火に燃やされているなら、地獄の悪魔が総がかりであらゆる策略を用いても、これほど甘美な愛と一致からあなたがたを引き離せるのではないかと、わたしは恐れません。ですから、今こそ大いに必要なこととして、聖なる望みの火に、自分自身を知るという薪をくべるのを決してやめないでほしいのです。それこそが、神への愛の火を養う薪だからです。この愛は、計り知れない神の愛を知ることによって得られ、そして魂を隣人と結び合わせます。炎にくべるものを増せば増すほど、すなわち、自分自身を知るという薪を増せば増すほど、キリストと隣人を愛する熱も増してゆきます。ですから、自分自身を知ることのうちに身を隠してとどまり、表面的な生き方をしてはなりません。悪魔マラタスカが、数々の惑わしと、互いに反目する思いによって、あなたがたを捕らえることのないためです。悪魔がそうするのは、神への愛におけるあなたがたの一致を奪うためなのです。ですから、互いに従い合い、それぞれ相手の欠点を忍ぶよう、わたしは望み、命じます。甘美な根源の真理である方に学びなさい。この方は、人々のうちで最も小さい者となることを選び、わたしたちのあらゆる過ちと不義を、へりくだって担ってくださいました。最愛の子たちよ、あなたがたにもそのようにしてほしいのです。互いに愛し合い、愛し合い、愛し合いなさい。そして喜び、歓喜しなさい。夏の季節が近づいているのですから。
というのも、4月1日、とりわけその夜、神はご自分の秘められたことを明かし、その驚くべきみわざを示してくださったからです。そのとき、わたしの魂はもはや体の中にいないかのようで、舌では語り尽くせないほどの喜びと満ち足りた思いを受けました。神は、聖なる教会が今耐え忍んでいる迫害の神秘と、やがて訪れる教会の刷新と高揚の神秘を、一つひとつ説明し、明らかにしてくださいました。そして、今の危機が許されているのは、教会を本来の姿に立ち返らせるためであると語られました。甘美な根源の真理である方は、聖なる福音にある二つの言葉を引用されました。「世につまずきが起こることは避けられない」。そして、続けてこう言われました。「しかし、つまずきをもたらす者は不幸である」。それは、あたかもこう言われるかのようでした。「わたしがこの迫害の時を許すのは、わたしの花嫁をすっかり覆い、その成長を妨げている茨を根こそぎにするためである。しかし、人々の邪悪な思いを許しているのではない。わたしが何をしているか、あなたには分かるか。わたしが世にいたときにしたことを、今もしているのである。あのとき、わたしは縄で鞭を作り、神殿で売り買いする者たちを追い出した。神の家が盗賊の巣にされるのを望まなかったからである。今もわたしは同じことをしていると、あなたに告げる。わたしは人間を鞭とし、その鞭で、聖霊の賜物を売り買いする、汚れた商人たち、強欲で、貪欲で、思い上がった者たちを追い出しているのである」。まさしく神は、同じ人間から受ける迫害を鞭として、その者たちを追い出しておられたのです。すなわち、苦難と迫害の力によって、彼らの無秩序でふしだらな生活を終わらせられたのです。
そして、私の内で炎がいよいよ燃え盛る中、目を凝らすと、キリスト者の民と信仰を持たない人々が、十字架につけられたキリストの脇腹へ入っていくのが見えました。私は愛と憧れに満ちた望みによって彼らのただ中を通り、わが父聖ドミニコと独身者ヨハネに伴われ、私の息子たち皆とともに、彼らと一緒に優しいイエス・キリストの内に入りました。すると主は、まるで私が願い求めたかのように、私の肩に十字架を載せ、手にオリーブの枝を持たせ、こうしてそれらを一方の民にも、もう一方の民にも携えていくようにと言われました。そして私に、「彼らに告げなさい。私はあなたがたに大きな喜びの知らせをもたらす、と」と言われました。そのとき、私の魂はいっそう満たされ、愛の結び合わせる力と憧れによって、神の実体を糧とする真の信者たちの間で、我を忘れました。魂の喜びはあまりにも大きく、神が辱められるのを見て味わった、それまでの苦しみをもはや感じなくなっていました。それどころか、私はこう言ったのです。「おお、祝福された幸いな不義よ!」すると優しいイエスはほほえみ、こう言われました。「まったく無にすぎない罪が、幸いなものなのか。聖グレゴリオが『祝福された幸いな罪』と言ったとき、何を意味していたか、あなたには分かるか。あなたが幸いで祝福されていると考え、グレゴリオもそう呼んでいるのは、どのような点なのか。」私は主に答えさせていただくままに、こう答えました。「私の優しい主よ、私にはよく分かり、よく承知しています。罪は幸いに値するものではなく、それ自体では幸いでも祝福されたものでもありません。しかし、罪から生じる実りは、そうであるかもしれません。グレゴリオが意味したのは、次のことだと思います。アダムの罪を通して、神は御ひとり子であるみことばを私たちに与えてくださり、みことばはご自分の血をお与えになりました。こうして、ご自分のいのちを与えることによって、大いなる愛の炎をもって、いのちを回復してくださったのです。ですから、罪が幸いであるのは、罪そのものによるのではなく、その罪によって私たちが受ける実りと賜物によるのです。」まさに、そのとおりなのです。このように、キリストの花嫁を迫害する悪しきキリスト者たちの不義から、花嫁の高揚と光、そしてその徳の芳香が生まれます。これはあまりにも甘美で、なされた不義と、神がご自分の花嫁に示された、測り知れない善と慈しみとは、比べようもないと思われました。そのとき私は喜びにあふれ、歓喜しました。来るべき時への確信にすっかり包まれ、すでにそれを手にし、味わっているかのようでした。そして、シメオンとともにこう言いました。「主よ、今こそ、みことばのとおり、このしもべを安らかに去らせてくださいます。」私の内には、舌も語り尽くせず、心も思い及ばず、目も見ることのできないほど、多くの神秘が成し遂げられたのです。
さて、神の驚くべきみわざを語り尽くせる舌があるでしょうか。惨めな私の舌にはできません。ですから私は、沈黙を守り、神の誉れと人々の魂の救い、そして聖なる教会の刷新と高揚を求めることに身をささげ、聖霊の恵みと力によって死に至るまで忍耐することを選びます。この望みをもって、私は地上の私たちのキリストに呼びかけましたし、これからも大きな愛と思いやりをもって呼びかけます。また、父であるあなたにも、私の愛する息子たち皆にも呼びかけます。私はあなたの願いをささげ、それを聞き入れていただきました。ですから、喜んでください。喜び、歓喜してください。おお、私たちの愛である優しい神よ、あなたのしもべたちの望みを速やかにかなえてください! これ以上は申しません――そもそも私は何も語れてはいないのです。望みがかなえられずに延ばされ、私は死ぬほどの思いです。どうか私を憐れんでください。もはや遅れることがないよう、善そのものである神と地上のキリストに願ってください。神の聖なる甘美な恵みの内にとどまってください。十字架につけられたキリストの血に深く身を沈めてください。決して気を落とさず、むしろ慰めを得てください。あなたの甘美な労苦の中で、喜んでください、喜んでください。互いに愛し、愛し、愛し合ってください。優しいイエス、愛なるイエス。 ページの先頭へ
ピサのサント・ステファノ修道院の修道女、シスター・バルトロメア・デッラ・セタへ
修道院の葛藤と宮廷の葛藤は、似通っています。カタリナにとって、前者は後者と同じほど現実的で、重要なものでした。彼女はシスター・バルトロメアに、親しみのこもった調子で書いています。ここで彼女が強調している真理は、どの時代にも霊的生活の指導者たちによって繰り返し説かれてきました。しかし、ここに見られるように、それが個人的な体験の深みから出てくるときには、いつも独特の新鮮さと力を帯びます。実際、シエナのこの聖女と主との対話は、内的生活に関する著作の中で、_古典的な典拠_となっています。
ここで少し目を留めたいのは、外の生活のあらゆる喧騒や嵐から守られ、修道院に暮らすか弱い女性たちに、カタリナがいかにしばしば「雄々しさ」を勧めているかということです。「雄々しい」「雄々しく」――これらは、彼女がとりわけ好んで用いる言葉です。そして実際、この言葉は彼女自身の精神によくふさわしいものです。書く手紙の一つひとつに女性らしい繊細さが表れていながら、その精神は並外れて力強く、恐れを知らないものでした。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
キリスト・イエスにある、最愛の娘へ。イエス・キリストのしもべたちのしもべであり、奴隷である私カタリナは、主の尊い血のうちに、あなたに書き送ります。永遠の花婿に奉献された真の花嫁となったあなたを見たいと望んでいます。自分の意志を花婿の意志と一つにすることは、花嫁の務めです。花嫁は、花婿の望みを超えて何かを望むことはできず、花婿のほかには何も考えられないかのようです。私の娘よ、あなたもそのように考えてください。十字架につけられたキリストの花嫁であるあなたは、主を離れて何かを考えたり、望んだりすべきではないからです。つまり、それ以外のどのような思いにも同意しないということです。そのような思いが浮かんではならないと、私はあなたに言っているのではありません。あなたにも、いかなる被造物にも、それを妨げることはできないからです。悪魔は決して眠りません。そして神は、ご自分の花嫁が完全な熱意に達し、徳において成長するように、これをお許しになります。神が時として、心が不毛で暗いままとなり、多くのよこしまな思いに取り囲まれることをお許しになるのは、このためです。そのため、神について考えることができず、そのみ名を思い起こすことさえ、ほとんどできないように感じられるのです。
このような状態を自分の内に感じるときには、倦怠や当惑と混乱に陥らないように気をつけ、霊的な修練も、祈ることもやめてはなりません。悪魔があなたにこう言うかもしれないからです。「何の心の動きも望みもなくささげるこの祈りが、どうしてお前を高めるのか。祈らないほうがよいではないか。」それでも、やめてはなりません。また、そのために混乱に陥ることなく、毅然としてこう答えなさい。「何も努めずに安らぎを感じるよりも、苦痛と暗闇と内なる葛藤を感じながら、十字架につけられたキリストのために力を尽くすほうを、わたしは選びます。」そして、これこそ完全な人々の境地であることを思い巡らしなさい。たとえ地獄を免れ、この世での喜びに加えて永遠の喜びをも得られるとしても、彼らはそれを望みません。十字架につけられたキリストに似た者となることに、それほど大きな喜びを見いだしているからです。いえ、苦痛のない生き方よりも、十字架と苦痛の道を歩んで生きることを望むのです。さて、花婿に似た者となり、同じような衣をまとうこと以上に、花嫁にとって大きな喜びがあるでしょうか。十字架につけられたキリストは、その生涯において十字架と苦痛以外の何ものも選ばず、それを衣としてまとわれたのですから、花嫁も同じ衣をまとうとき、自らを幸いな者と考えます。そして、花婿が自分をこれほど計り知れない愛で愛してくださったと知るので、いかなる言葉でも語り尽くせないほどの愛と望みをもって、花婿を愛し、迎え入れるのです。それゆえ、至高にして永遠の善は、花嫁が最も完全な愛に達し、謙遜を身につけるようにと、多くの葛藤と心の渇きをお許しになります。それは、被造物である彼女が自らを知り、自らが無であることを悟るためです。もし自分が何かであるなら、望むときに自らを苦痛から解き放つことができるでしょう。しかし、無であるために、それができないのです。こうして、自らを知ることによって、自らが無であることのうちにへりくだり、神の善を知るようになります。その善が、恵みによって彼女に存在を与え、また、その存在を土台とするあらゆる恵みを与えてくださったのです。
けれども、あなたはわたしにこう言うでしょう。「これほどの苦痛があり、これほど多くの葛藤と暗闇に苦しんでいると、混乱しか見えません。何の希望も抱けそうにありません。自分があまりにも惨めに思えるのです。」わたしの娘よ、あなたにこう答えます。求めるなら、あなたの善い意志のうちに神を見いだすでしょう。たとえ多くの葛藤を感じていても、だからといって、あなたの意志から神を望む心が失われたと考えてはなりません。むしろ、魂が嘆き苦しむのは、神に背くことを恐れているからなのです。ですから、魂は葛藤のために混乱に陥るのではなく、喜び、喜び躍るべきです。神がその意志を善いものに保ち、大罪を憎む心を与えてくださっているからです。
あるとき、神に仕える一人の女性に、次のようなことが語られたと聞いたのを覚えています。それは、彼女が非常に大きな苦痛と誘惑の中にあったとき、甘美な根源の真理が彼女に語られたことでした。彼女は、とりわけ激しい混乱を覚えていました。そのあまり、悪魔はこう言ったのです。「どうするつもりだ。お前は生きている間ずっと、この苦しみの中にとどまり、その後は地獄に落ちるのだ。」すると彼女は、雄々しい心で、少しも恐れず、自分自身への聖なる憎しみをもって答えました。「私は苦しみを避けません。自分を力づけるものとして苦しみを選んだからです。そして、もし最後にあの方が私に地獄をお与えになったとしても、それゆえに創造主にお仕えすることをやめはしません。私は、甘美な根源の真理に背いたのですから、地獄にとどまるにふさわしい者です。ですから、たとえあの方が私に地獄をお与えになっても、私に不当なことをなさるのではありません。私はあの方のものなのですから。」すると、私たちの救い主は、この穏やかで真実な謙遜の中で、悪魔のもたらす闇と責め苦を追い散らされました。それは、雲が過ぎ去っても太陽はそこに輝いているのと同じでした。そして突然、私たちの救い主が臨在されたのです。そこで彼女は、身も溶けるほどにとめどなく涙を流し、愛の穏やかな熱に包まれて言いました。「ああ、優しく善いイエスよ、私の魂がこれほどの苦悩の中にあったとき、どこにおられたのですか。」優しいイエス、汚れのない小羊は、お答えになりました。「わたしはあなたの傍らにいた。わたしは動くことなく、わたしの被造物が大罪によってわたしを離れないかぎり、決してその被造物を離れないからである。」その女性は、主との親しい語らいのうちにとどまり、こう言いました。「私と共におられたのでしたら、どうして私はあなたを感じなかったのでしょうか。火のそばにいながら、その熱を感じないなどということが、どうしてあるのでしょうか。私が感じたのは、凍えるような冷たさと悲しみと苦しみだけで、自分は大罪に満ちているように思えました。」主は優しく答えて、こう言われました。「わたしの娘よ、その戦いの中であなたが大罪に陥らなかったこと、そしてわたしがあなたの傍らにいたことを、示してほしいか。言ってみなさい。何が罪を大罪にするのか。それは意志だけである。罪と徳は意志の同意にあるからである。自らの意志によってなされるのでなければ、罪も徳もない。そのような意志はあなたのうちにはなかった。もしあったなら、あなたは悪魔のそそのかしに喜びと楽しみを見いだしていたはずである。しかし、その意志がなかったので、あなたはそれを悲しみ、悪を行うことを恐れて苦しんだのである。このように、罪と徳は選びにあることが分かるだろう。だから、これらの戦いのために、心の秩序を失うほどの混乱に陥ってはならないと、わたしはあなたに言う。むしろ、この闇から自己認識の光を得ることを、わたしは望む。その光の中で、あなたは謙遜の徳を得ることができ、また、そのときわたしがひそかにあなたのうちにとどまっていると知って、善い意志を喜び、歓喜することができる。その意志は、わたしがそこにいることをあなたに示すしるしである。もしあなたに悪い意志があったなら、わたしは恵みによってあなたのうちにいることはないからである。だが、わたしがどのようにして、こうしてあなたのうちにとどまっているか、分かるか。それは、わたしが十字架の木にかかっていたときと同じあり方である。そしてわたしは、わたしの父がわたしに対して取られたのと同じ道を、あなたがたに対して取る。わたしの娘よ、考えてみなさい。十字架上で、わたしは至福のうちにあり、同時に悲しみのうちにあった。神の本性と人間の本性の一致によって、わたしは至福のうちにあった。それでも肉体は苦痛に耐えた。永遠の父が、ご自分の力を内に引き留め、わたしを苦しむに任せられたからである。しかし、父が永遠にわたしと結ばれておられるその一致を、取り去ることはなさらなかった。このように、わたしは魂のうちにとどまるのだということを、よく考えなさい。わたしはしばしば、感じられる慰めをわたしのもとに引き戻すが、恵みを取り去ることはない。先に言ったように、大罪によるのでなければ、恵みが失われることは決してないからである。だが、なぜわたしがこうするか、分かるか。それはただ、魂を真の完成に至らせるためである。謙遜と愛という二つの翼に支えられなければ、魂は完全なものとなりえないことを、あなたは知っている。謙遜は、魂が自分自身を知ることによって得られる。魂は闇の時に、その自己認識の中に入っていく。また愛は、わたしが愛によって、その魂の意志を聖なる善いものに保ってきたことを悟ることによって得られる。だから、あなたに言う。賢い魂は、この経験からこれほどの益が生まれるのを見て、安心を取り戻し、この時をほかのどの時よりも大切にするようになる。わたしが悪魔にあなたがたを誘惑することを許すのも、ほかの理由からではない。今、わたしが取る道をあなたに話した。そして、このような経験が、あなたがたの救いにとって非常に必要なものであることを、よく考えなさい。もし魂が、ときには数多くの誘惑に圧迫されることがなければ、甚だしい怠慢に陥り、絶えず望み、祈るという実践を失ってしまうからである。戦いの時には、魂は敵への恐れからいっそう目を覚まし、自らの力であるわたしに頼って、その魂の岩の砦に備えを蓄える。しかし、これが悪魔の意図なのではない。わたしが悪魔にあなたがたを誘惑することを許すのは、それによってあなたがたが徳に達するためであるが、悪魔の側では、あなたがたを絶望に至らせようとして誘惑するのである。考えてみなさい。悪魔が、わたしへの奉仕に身をささげた人を誘惑するのは、その人が実際にその罪に陥るかもしれないと信じているからではない。その人が実際に悪を行うくらいなら死を選ぶであろうことを、悪魔はすぐに見て取るからである。では、悪魔は何をするのか。その人を混乱に陥れようと力を尽くし、こう言うのである。『お前にこうした考えや衝動が起こるのだから、どんな善もお前には何の役にも立たない。』これで、悪魔の悪意がいかに大きいか分かるだろう。最初の戦いで勝つことができないと、悪魔はしばしば、徳を装って第二の戦いで勝つのである。だからわたしは、あなたが決して悪魔の悪意に従うことを望まない。むしろ、すでに告げたように、わたしの意志を自分の意志として受け入れることを望む。これが、わたしがあなたに与える指針であり、必要なときには、あなたからほかの人々にも教えてほしいと望んでいるものである。」
さて、最愛の娘よ、あなたにこのように行ってほしいと申し上げます。十字架につけられたキリストの足跡に従い、わたしのために徳の鏡となってください。十字架につけられたキリストの御血に身を浸し、その御血によって買い取られたまことの花嫁として、十字架につけられた方のほかには何も求めず、何も望まないように生きてください。それがわたしの願いです。あなたが花嫁であり、主が銀の指輪ではなく、ご自分の肉という指輪によって、あなたと、そしてすべての被造物と婚姻を結ばれたことが、よくお分かりでしょう。ああ、言い尽くせない愛の深さと高さよ、あなたはこの花嫁である人類を、どれほど愛されたことでしょう。ああ、すべてのものを生かすいのちよ、あなたは、人類を自分のものとして支配していた悪魔の手から、人類を奪い返されました。ご自分の人性を釣り針として悪魔を捕らえ、その手から人類を奪い返し、ご自分の肉によって人類と婚姻を結ばれたのです。あなたは保証として御血を与え、ついにはご自分の体をいけにえとしてささげ、代価を支払われました。さあ、娘よ、心ゆくまで飲みなさい。怠惰に陥ることなく、まことの熱意をもって立ち上がってください。この御血によってあなたの心のかたくなさが打ち砕かれ、どのような無知や怠惰によっても、また、どのような被造物の言葉によっても、二度と心が閉ざされることがありませんように。これ以上は申し上げません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。優しいイエスよ、愛なるイエスよ。 ページの先頭へ
グレゴリウス十一世へ
フィレンツェの人々から教皇への使節として派遣されたカタリナは、アヴィニョンに到着し、教皇に謁見しました。教皇の前で威圧されるどころか、彼女は明らかに、同情と優しさが入り交じり、そこに哀れみもにじむ思いを教皇に抱いたようです。彼女が強く心に留めたのは、この人の繊細さであり、側近たちから絶えず受けている好ましくない影響の強さであり、何よりも、その極度の臆病さでした。この手紙の穏やかで安心させるような語り口は、愛しいけれども気の弱い子どもに、自分で決断し、その決断を守り抜くよう励ます母親のそれに、ほとんど似ています。カタリナの生来の優しさは、グレゴリウスに対して少しでも侮りのまなざしを向けることを許しません。それでもわたしたちは、英雄的な魂をもつこのか弱い女性と、ためらいがちな教皇の姿との対照を感じずにはいられません。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける、いとも聖なる、祝福された父よ。あなたの貧しくふさわしくない小さな娘カタリナは、あなたがあらゆる奴隷的な恐れから解き放たれることを願いつつ、主の尊い御血のうちにあなたをお慰めします。臆病な人は、聖なる決意と善い望みの力をそいでしまうと、わたしは考えます。それゆえ、優しく善いイエスが、あなたをあらゆる奴隷的な恐れから解き放ち、ただ聖なる畏れだけを残してくださるよう、わたしは祈ってきましたし、これからも祈ります。愛の熱意があなたのうちにあって、肉をまとった悪魔たちの声に耳を貸さず、自己愛に凝り固まった、よこしまな助言者たちの勧めに従うことがありませんように。わたしの理解するところでは、その人々は「あなたは死ぬでしょう」と言ってあなたを脅し、帰還を妨げようとしているのです。そして、いとも優しく聖なる父よ、わたしは十字架につけられたキリストに代わって申し上げます。どのような理由があっても恐れないでください。安心しておいでください。優しいイエス・キリストを信頼してください。なすべきことを行うなら、神があなたの上におられ、あなたに敵対する者はだれもいないからです。父よ、男らしく立ち上がってください。恐れる必要はないと、わたしは申し上げます。あなたは来なければなりません。ですから、おいでください。何も恐れず、穏やかな心でおいでください。もし身近な人々の中にあなたを妨げようとする者がいれば、勇気をもってその人々に告げてください。聖ペトロが優しい思いから、受難へ向かうキリストを引き止めようとしたとき、キリストが語られたように。キリストはペトロの方を向き、こう言われました。「サタン、わたしの後ろに退け。あなたはわたしのつまずきとなっている。神のことではなく、人間のことを求めているからだ。わたしが父の御心を果たすことを、あなたは望まないのか」。いとも優しい父よ、あなたも同じようにしてください。主の代理者として主に従い、ご自分でよく考え、決断し、あなたを妨げようとする者たちにこう告げてください。「たとえ千度この命をささげることになっても、わたしは父の御心を果たしたいのです」。そのために肉体の命を差し出すことになっても、恵みのいのちと、それを永遠に得るための手段を、しっかりとつかんでください。さあ、心を強く持ち、恐れないでください。恐れる必要はないのですから。キリスト者の守りであり、いのちである、いとも聖なる十字架の武具を身に着けてください。言いたい人には言わせておき、あなたは聖なる決意を固く守ってください。わたしの霊的な父であるライモンド修道士は、あなたのご意向として、あなたが何らかの妨げに遭うかどうかを知るために神に祈るよう、わたしに伝えました。わたしはすでに、聖体拝領の前にも後にも、そのことについて祈っていましたが、死も、いかなる危険も見ませんでした。そうした危険は、あなたに助言する人々が作り出したものです。信じて、優しいイエス・キリストを信頼してください。これほど熱い望みをもって、多くの涙と汗のうちにささげられた、これほど多くの祈りを、神は軽んじられないと希望しています。これ以上は申し上げません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。お赦しください、お赦しください。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたとともにおられますように。優しいイエスよ、愛なるイエスよ。 ページの先頭へ
フランス国王へ
カタリナが面識のない高位の人々に宛てた手紙は、予想されるとおり、より個人的な思いから書かれた数多くの手紙に比べると、洞察の深さや生き生きとした趣には乏しいものの、少なくとも、彼女の関心の広さを示す興味深い証言となっています。シャルル五世に宛てたこの手紙は、明らかにアヴィニョン滞在中に書かれたものです。カタリナはそこでアンジュー公と知り合い、計画中の十字軍を率いるという約束を取りつけました。アヴィニョンは知的活動とヨーロッパ政治の中心地であり、そこでカタリナは刺激を受け、それまでにも増して広い視野に立ち、大きな問題について考えるようになったに違いありません。彼女にとって、ある事柄について考えることは、常にその事柄に対する責任を感じることでした。それゆえ彼女はシャルル五世に手紙を書き、同じ君主である相手と和解するよう促します。「そうすることで」と、シエナのこの乙女は偉大な王に向かって穏やかに語ります。「そうすることで、あなたは神とわたしの意志を果たすことになるのです。」
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
愛する主君、甘美なイエス・キリストにおける父よ。イエス・キリストのしもべたちの下僕であり奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたにこの手紙を書きます。神の聖なる甘美な掟を守るあなたの姿を見たいと願っているからです。それ以外のいかなる道によっても、わたしたちは汚れのない小羊の御血の実りにあずかることはできないと、わたしは考えています。小羊である甘美なイエスは、わたしたちに道を教えてくださいました。こうして主は、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われたのです。主は、いとも聖なる十字架という説教壇に上り、わたしたちに教えを授けてくださった甘美な師です。敬愛する父よ、主はどのような教えと道をわたしたちに示してくださるのでしょうか。主の道とは、苦痛、恥辱、侮辱、加害、罵倒、真の忍耐によって耐え忍ぶこと、飢えと渇きです。主は恥辱を存分に受け、御父の誉れとわたしたちの救いのために、十字架に釘づけにされ、そこにとどめられました。主はその苦痛と恥辱によって、わたしたちの罪と、犯した罪のために人が陥った不名誉を償ってくださいました。主は償いを果たし、わたしたちの罪に対する罰をご自身の体に受けてくださいました。そうなさったのは、ただ愛のゆえであって、何かを負っておられたからではありません。
わたしたちの道であるこの甘美な小羊は、世と、そのあらゆるぜいたくや地位を軽んじ、悪徳を憎み、徳を愛されました。あなたも、十字架につけられたキリストの子であり忠実なしもべとして、その足跡と、主が教えてくださる道に従ってください。神がお許しになり、世があなたにもたらすあらゆる苦痛、責め苦、苦難を、真の忍耐をもって耐え忍んでください。忍耐は世に打ち負かされるのではなく、世に打ち勝つからです。どうか、真実で聖なる正義に根ざして徳を愛する者となり、悪徳を軽んじてください。十字架につけられたキリストへの愛にかけて、あなたの立場において、とりわけ三つのことを行ってくださるようお願いします。第一は、世とあなた自身、そして世のあらゆる喜びを軽んじ、王国を自分自身のものではなく、貸し与えられたものとして保つことです。命も、健康も、富も、誉れも、地位も、支配権も、あなた自身のものではないことを、あなたはよくご存じです。もし自分のものであるなら、思いどおりに保つことができるでしょう。ところが、人は健康でありたいと願うまさにその時に病気になり、生きていたいと願いながら死に、富んでいたいと願いながら貧しくなり、主君でありたいと願いながらしもべや家臣にされてしまいます。これはすべて、そうしたものがその人自身のものではなく、それを貸してくださった方のみ心にかなうかぎりにおいてしか保てないからです。ですから、他者のものを自分のものと思い込んでいる人は、まことに浅はかです。その人は実際には盗人であり、死に値します。それゆえ、あなたが「賢明な王」として、神によってご自分の管理者に任じられた善良な管理者らしく振る舞い、すべてを、ただ貸し与えられたものとして保ってくださるようお願いします。
もう一つは、聖なる真実の正義を守ることです。自己愛によっても、おもねりによっても、人の歓心を買おうとするいかなる思いによっても、正義が損なわれることのないようにしてください。あなたの役人たちが金銭のために不正を行い、貧しい人々の権利を認めないことを黙認してはなりません。むしろ、貧しい人々の父となり、神から与えられたものを分かち与える者となってください。また、あなたの王国に見いだされる過ちが罰せられ、徳が高く評価されるよう努めてください。これらすべてを行うことは、神の正義にかかわることだからです。
第三は、十字架上のあの師があなたに授けてくださる教えを守ることです。これは、わたしの魂があなたのうちに何よりも見たいと願っていることです。すなわち、あなたが長い間戦ってきた隣人に対して、愛と親愛の情を抱くことです。この愛の根がなければ、あなたの魂という木は実を結ばず、憎しみのうちにとどまり、恵みの潤いを吸い上げることができずに枯れてしまうことを、あなたはよくご存じです。ああ、愛する父よ、甘美な根源の真理である方は、このことをあなたに教え、何にもまして神を愛し、隣人を自分自身のように愛することを、掟としてあなたに残してくださいます。主は、いとも聖なる十字架の木にかけられて、その模範を示してくださいました。ユダヤ人たちが「十字架につけろ!」と叫んだとき、主は柔和で優しい声で、「父よ、わたしを十字架につけるこの人々をお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と叫ばれました。主の計り知れない愛をご覧ください。主は彼らをお赦しになるだけでなく、御父の前で彼らの弁護までしてくださるのです。ご自身のうちに罪の毒をまったく持たない正しい方が、不正な者たちの手によって、わたしたちの悪行に対する罰を耐え忍ばれるとは、何という模範、何という教えでしょうか。
ああ、悪魔と自分自身の低い本性の教えに従い、自分の魂や隣人のことよりも、世の富を得て保つことを大切にする人は、どれほど恥じ入るべきでしょうか。世の富はすべてむなしく、風のように過ぎ去るものです。隣人への憎しみのうちにとどまる間、その人は憎しみを自分の傍らに置いているのです。憎しみは、その人から神の愛を奪うからです。その人はまことに愚かで、目が見えていません。隣人への憎しみという剣で自分自身を殺していることが、見えていないのです。
ですから、わたしはあなたに懇願し、願います。十字架につけられたキリストに従い、隣人の救いを愛してください。そうして、御父の誉れと霊魂の救いを渇望するあまり、肉体の死を選ばれた小羊に従っていることを示してください。閣下、あなたもそのようになさってください。地上の財産を失うことになっても、心を煩わせないでください。ご自分の魂を兄弟と和解させることができるなら、その損失はあなたにとって利益となるからです。この戦争によって、どれほど多くの魂と体が滅ぼされ、どれほど多くの修道者や女性、子どもたちが傷つけられ、追放されてきたかを思えば、そのために、この世のものばかりか、可能であるなら命そのものさえもささげようとなさらないことが、わたしには不思議でなりません。十字架につけられたキリストへの愛にかけて、もうおやめください。できることをなさらなければ、どれほど大きな害を引き起こすことになるか、お考えにならないのですか。キリスト者にも、異教徒にも害を及ぼすのです。あなたがたの争いは、聖なる十字軍の神秘を妨げてきましたし、今もなお妨げています。たとえこれ以外に何の害も生じなかったとしても、わたしたちは神の裁きを覚悟すべきだと、わたしは思います。どうか、これほど大きな害をもたらす者、また、聖地を取り戻し、神の御子の血にあずかっていない、あの哀れで不幸な魂を取り戻すという、これほど大きな善を妨げる者であることを、もうおやめください。このことを、あなたも、ほかのキリスト教国の君主たちも恥じるべきです。自分の兄弟に戦争を仕掛けながら敵を放っておき、他人の財産を奪おうとしながら自分のものを取り戻そうとしないのは、人々の目にはこの上ない恥辱であり、神の目には忌まわしいことだからです。このような愚かさと盲目は、もう終わりにしてください。十字架につけられたキリストに代わって申し上げます。この和平を結ぶのを、これ以上遅らせないでください。和解を果たし、あなたの戦いのすべてを異教徒に向けてください。いとも聖なる十字架の旗を力づけ、高く掲げるために力を貸してください。臨終の時、神はあなたにも、ほかの人々にも、そのことをお求めになります。また、これまで犯され、今も日々犯されている無知と怠慢についても、あなたに説明をお求めになるでしょう。十字架につけられたキリストへの愛のために、またご自身の益のために、わたしたちに残されたわずかな時を、もう眠って過ごさないでください。時は短く、あなたは死ななければならず、それがいつなのかをご存じないのですから。
この聖なる十字架に従い、隣人と和解したいという聖なる望みの炎が、あなたのうちにますます燃え上がりますように。このようにしてあなたは、十字架上で殺され、見捨てられた小羊の道と教えに従い、掟を守ることになるのです。受けた仕打ちを忍耐強く耐えることによって、その道に従い、隣人と和解することによって、その教えに従い、聖なる甘美な十字軍において、いとも聖なる十字架に従うことによって神への愛を表すのです。この件については、あなたのご兄弟であるアンジュー公殿が、キリストへの愛のために、この聖なる事業の労苦を引き受けてくださるものと思います。これほど甘美で聖なる神秘が、あなたのために成し遂げられずに終わるなら、ご自分を責める理由があるでしょう。このようにしてこそ、あなたは十字架につけられたキリストの足跡に従い、神とわたしの望み、そして神の命令を果たすことになります。神の聖なる命令を守るあなたを見たいと、先に申し上げたとおりです。これ以上は申し上げません。わたしの差し出がましさをおゆるしください。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。甘美なイエス、愛なるイエス。 ページの先頭へ
フィレンツェへの書簡
フィレンツェの人々はカタリナを翻弄しました。歴史が示すように、この抜け目のない人々は、助力を受け入れた友人たちのうち、幾人にも同じことをしていたのです。彼らとカタリナとのやり取りは、ブラウニングの『ルーリア』の状況を強く思い起こさせます。後に派遣される正式な使節団の先触れとして、表向きは全権を与えられて送り出されたカタリナは、自分が担う交渉を迅速かつ慎重に進め、申し分のない成功を収めました。この状況をだれも不思議に思わなかったらしいことは、中世後期に、このように因習にとらわれない民主的な精神と、霊的な価値に対するごく自然な敬意が存在していたことを物語っています。強大な共和国が、つつましい商家の娘で、それまで父の家で静かに暮らしてきた若い女性を、教皇庁への代表として派遣することは、ごく当然と見なされていたようです。グレゴリウスはカタリナに対して、良心の痛みを伴う敬意をもって接しました。到着して三日目、彼女は枢機卿会議の全体会議で発言し、平和の実現を訴えました。その結果を、彼女はこの手紙に記しています。教皇は、事のすべてを彼女の手に委ねたのです。対立する二つの勢力の和解の条件は、この若いドミニコ会員に任されました。
今やすべては、フィレンツェの使節たちの到着にかかっていました。しかし彼らは姿を見せず、その間もフィレンツェは反抗的な政策を取り続けました。それが教皇とカタリナの双方に対する侮辱であることは明らかでした。アヴィニョンの人々は冗談の種にし、肩をすくめ、ついには嘲笑するようになりました。グレゴリウスはカタリナに、友人たちが彼女を欺いたのだという真実を、穏やかに告げました。彼女が置かれた状況ほど屈辱的なものは、ほとんど想像できません。
次に掲げる気迫に満ちた手紙は、彼女の到着から十日後に書かれました。いつものように率直に語っていますが、この手紙には、「あなたがたは、わたしに大きな恥と非難をもたらすことになるかもしれません。わたしが教皇に申し上げることと、あなたがたが申し上げることが食い違えば、恥と混乱しか生じないからです」という静かな言葉のほかには、個人的な叱責が一言もないことが注目されます。ようやく使節たちが到着しても、ほとんど慰めにはなりませんでした。彼らはカタリナと協議することを拒んだからです。彼らの到着後、フィレンツェにいる個人的な友人に宛てて書かれた二通目の手紙で、彼女は率直に、しかも威厳を保って状況を語っていますが、それでも驚くほど個人的な恨みをにじませていません。この試練の時、彼女の心にあったのは、自らの目指したことが実を結ばなかった悲しみであり、それよりも低い次元の思いは何もなかったようです。 ページの先頭へ
フィレンツェ自治政府が選任した戦争八人委員会へ――その要請を受け、聖女は教皇グレゴリウス十一世のもとに赴いた
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
キリスト・イエスにおける最愛の父たち、兄弟たちへ。イエス・キリストのしもべたちのしもべ、またはしためであるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに皆様に書き送ります。皆様が真の子となり、謙遜に父に従順であることを願っています。決して後戻りせず、父に対して犯した過ちを心から悲しみ、苦く悔やんでいただきたいのです。過ちを犯した者が、悲しみのうちにその過ちから立ち上がらなければ、いつくしみを受けるに値しないからです。皆様に、心から真にへりくだるよう呼びかけます。後戻りせずに前へ進み、すでに抱き始めた聖なる決意を実行し、その決意を日々強めてください。父の腕に迎え入れられることを望むなら、そうしてください。死んでいた子として、命を願い求めてください。皆様が本当に進んでへりくだり、自分の過ちを認めるなら、神の善によって命を得られると、わたしは希望しています。
しかし、このあたりで言われているように、皆様が聖職者に税を課したというのが本当なら、わたしは皆様に強く抗議します。もしそうであれば、それは二つの理由から、きわめて大きな悪です。第一に、それによって皆様は神に対して過ちを犯しているからです。良心に恥じることなく、そのようなことはできないからです。それなのに、皆様は良心も、善いものすべても失いつつあるように思われます。風のように過ぎ去る、はかない感覚的なものしか気にかけておられないように見えます。わたしたちは死すべき者であり、必ず死ぬのに、それがいつかは分からないということが、お分かりにならないのでしょうか。ですから、恵みのいのちを投げ捨て、自らに死を招くのは、大変な愚かさです。もうそのようなことをなさらないでいただきたいのです。もしなされば、後戻りすることになるからです。栄光に値するのは、始める者ではなく、最後まで耐え忍ぶ者であることは、ご存じでしょう。ですから申し上げます。謙遜を貫き、聖なる教会の奉仕者や司祭をもはや侮辱せず、傷つけることをやめなければ、真に実を結ぶ平和には決して至らないでしょう。
これが、有害で悪いとわたしが申し上げていた、もう一つの点です。すでに述べた、神に対して過ちを犯すことから生じる悪に加えて、そのような行いは皆様の平和を台無しにすると申し上げます。教皇聖下がそれをお知りになれば、皆様に対していっそう強い憤りを抱かれるでしょうから。
平和を求め、切に願っている枢機卿の何人かも、そうおっしゃっています。今、この知らせを聞いて、彼らはこう言っています。「フィレンツェの人々が和平の成立を望んでいるというのは、本当とは思えません。本当であれば、教皇聖下の御心と聖なる教会の慣習に反することは、どんな小さな行いであっても慎むはずです。」地上の優しきキリストご自身も、これと同じようなことをおっしゃるかもしれないと、わたしは思います。そして、そうおっしゃるとしても、それには十分な理由があります。
最愛の父たちよ、申し上げます。そして、どうか、聖霊の恵みを自ら妨げることのないよう、お願いいたします。その恵みを、聖霊は皆様のいかなる功徳によるのでもなく、ご自身の慈愛によって与えようとしておられるのです。皆様は、わたしに大きな恥と非難をもたらすことにもなりかねません。わたしが教皇聖下に申し上げたことと、皆様のなさることが違えば、恥と面目を失うこと以外に何も生じないからです。どうか、もうそのようなことのないようお願いいたします。むしろ、皆様が戦争ではなく平和を望んでいることを、言葉と行いで示すよう力を尽くしてください。
わたしは教皇聖下とお話ししました。神の善と聖下ご自身の善によって、聖下は慈しみ深く耳を傾け、平和を熱く愛しておられることを示してくださいました。まるで善い父のように、子が自分に犯した過ちよりも、むしろ、その子に十分ないつくしみを示せるよう、その子がへりくだる者となったかどうかを心にかけておられました。聖下がお感じになったひときわ深い喜びは、わたしの舌では語り尽くせません。かなり長い時間お話しした後、その終わりに聖下は、皆様の事情がわたしの申し上げたとおりであれば、皆様を子として迎え入れ、わたしが最善と思うことを行う用意があるとおっしゃいました。ここでは、これ以上申し上げません。皆様の使節が到着するまでは、教皇聖下にそれ以外の返答をするべきでは決してないと、わたしは思います。使節がまだこちらに来ていないことを、不思議に思っています。到着したら、わたしは使節と話し、その後、教皇聖下とお話しし、事の成り行きを見て皆様に書き送ります。それなのに皆様は、課税や軽はずみな行いによって、蒔かれたものをすべて台無しにしておられます。十字架につけられたキリストへの愛のため、また皆様ご自身の益のためにも、もうそのようなことはなさらないでください。これ以上は申し上げません。神の聖なる、優しい恵みのうちにとどまってください。優しきイエス、愛なるイエス。
1376年6月28日、アヴィニョンにて記す。 ページ上部へ
フィレンツェのブオナッコルソ・ディ・ラーポへ――聖女がアヴィニョンに滞在していたときに書かれた手紙
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける、最愛の兄弟へ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべであり奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたに書き送ります。あなたと、あなたの領主であるほかの方々が、主のいとも甘美な御血のうちに心と魂を静めるのを見たいと願っています。その御血のうちでは、あらゆる憎しみと争いが鎮まり、人間のあらゆる高慢が低くされるからです。御血のうちに人は、神が自らを低くして人と同じ高さにまで降り、わたしたちの人性をお取りになったことを見るのです。その人性は傷つけられ、十字架に釘づけにされ、固く留められました。こうして、十字架につけられたキリストの御体の傷から御血が流れ、聖なる教会の奉仕者たちを通してわたしたちに授けられるその御血が、わたしたちの上に注がれるのです。十字架につけられたキリストの愛にかけて、どうかキリストの花嫁である教会があなたに与える御血の宝を受け入れてください。御血のうちに教会と和解してください、どうか和解してください。教会に対する自分の罪と過ちを認めてください。自分の罪を認め、それを行いによって示し、へりくだる人は、いつもいつくしみを受けるからです。しかし、悔い改めを口にするだけで、行いが伴わない人は、決していつくしみを見いだしません。これは、あなたに向けてというよりも、この過ちに陥るかもしれないほかの人々のために申し上げるのです。
ああ、ああ、最愛の兄弟よ。教皇様に和平を願い求めるにあたって、これまで取られてきたやり方を思うと、わたしは嘆かずにはいられません。行いよりも言葉ばかりが目立っていたからです。こう申し上げるのは、わたしがそちらへ赴き、あなたと領主の方々にお会いしたとき、皆さんの言葉からは、自分たちの過ちを悔い、へりくだって教皇様のいつくしみを願い求めるつもりでいるように見えたからです。そして、わたしが皆さんに、「よろしいですか、皆さん。行いと言葉において、できるかぎりの謙遜を示すおつもりで、死んだ子どものように皆さんを父である教皇様に差し出すことをわたしに望まれるのであれば、この件では、ご希望のとおり、どんな労もいといません。そうでなければ、わたしはあちらへは参りません」と申し上げると、皆さんはそれでよいと答えました。ああ、ああ、最愛の兄弟たちよ。これこそ、あなたがたが通るべき道であり、入るべき門であって、ほかにはありません。言葉だけでなく行いにおいてもこの道を歩んでいたなら、かつて誰も得たことのないほど輝かしい平和を得ていたでしょう。こう申し上げるのには理由があります。わたしは教皇様がどのようなお心でおられたかを知っているからです。しかし、わたしたちがその道を離れ、この世の抜け目のないやり方に従い、先に口にした言葉とは異なる行動を取り始めたために、教皇様にとっては、和平を結ぶ理由ではなく、いっそう心を乱す理由が生じたのです。あなたがたの使節がこちらに来たとき、神のしもべたちが示した正しい道を守らなかったからです。あなたがたは自分たちのやり方を押し通しました。そして、わたしには使節たちと話し合う機会が一度もありませんでした。わたしが信任状をお願いしたときには、あらゆることについて共に協議できるように、そのように指示すると言っておられたのにです。そのとき、あなたがたは「このことは、神のしもべたち以外の誰の手によっても成し遂げられないと、わたしたちは信じています」と言いました。ところが、実際にはまったく逆のことが行われました。すべては、わたしたちがまだ自分たちの過ちを真に認めていないためです。あのへりくだった言葉は、愛と徳から真に湧き出たものというより、恐れと打算から出たものだったと、わたしには思われます。犯した過ちを本当に認めていたなら、口にした言葉に行いが伴い、あなたがたは、自分たちの必要と教皇様への願いを、神の真のしもべたちの手に委ねていたはずだからです。その人々は、あなたがたと教皇様の双方に関わる事柄を、互いによく理解し合えるように取り計らったことでしょう。あなたがたはそうしませんでした。そのため、神に対してなされた過ちと、わたしたちが被った損失を思い、わたしは深い苦しみを覚えています。
しかし、あなたがたは、自分たちの頑なさと、決めたことに固執する姿勢から、どれほどの悪と大きな災いが生じるのかを見ていません。ああ、ああ。高慢の絆から自らを解き放ち、へりくだる小羊に自らを結び合わせてください。そして、その代理者を侮ったり、逆らったりしないでください。もうこのようなことはやめてください。十字架につけられたキリストの愛にかけてお願いします。主の御血を軽んじないでください。これまで行わなかったことを、今こそ行ってください。教皇様が、非常に困難で実行不可能に思えることを求められたように感じても、恨んだり、侮ったりしないでください。それでも、教皇様はあなたがたに可能なこと以外は何もお望みにならないでしょう。ただ、息子が過ちを犯したときに打って懲らしめる、真の父のように振る舞っておられるのです。父は息子をへりくだらせ、自分の過ちを悟らせるために、厳しく叱ります。そして、真の息子は父に腹を立てません。父のすることはすべて、自分への愛からなされていると分かっているからです。ですから、父に追い払われれば追い払われるほど、息子はいっそう父のもとに戻り、絶えずいつくしみを願い求めます。そこで、十字架につけられたキリストに代わって、あなたがたに申し上げます。地上のキリストであるわたしたちの父に、たとえ幾度退けられようとも、そのたびに、その方のもとへ逃れなさい。その方のなさりたいようにしていただきなさい。その方は正しいのですから。
ご覧なさい。今、教皇様はご自分の花嫁のもとへ、すなわち聖ペトロと聖パウロの座に就くために、来られようとしています。あなたがたは、心からへりくだり、自分たちの罪を改め、初めに従っていた聖なる原則に従って、すぐにその方のもとへ駆け寄ってください。そうすれば、あなたがたは霊においても体においても平和を得るでしょう。しかし、ほかのやり方を取るなら、わたしたちの先祖がかつて経験したことのないほど多くの災いが、わたしたちに降りかかるでしょう。わたしたちは自らの上に神の怒りを招き、小羊の御血にあずかれなくなるからです。
これ以上は申し上げません。教皇聖下がローマにおいでになることになった今、できるかぎり事を急いでください。神の誉れと皆様の和平のため、この障害が取り除かれるよう、私はこれまでも力を尽くしてきましたし、死ぬまで力を尽くすつもりです。この障害が、聖なる尊い十字軍を妨げているからです。たとえそこからほかに何の災いも生じないとしても、私たちは千の地獄に値します。私たちの優しいイエス・キリストのうちに慰めを見いだしてください。主のいつくしみによって、皆様が歩むべき道を歩み続けるなら、良い和平を得られると私は希望しています。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。優しいイエス、愛なるイエス。 ページ上部へ
グレゴリウス十一世へ
グレゴリウスとフィレンツェの人々を和解させる試みは、フィレンツェの人々自身の過ちによって失敗に終わりました。カタリナは、屈辱や失敗にひるむどころか、それにもまして深く心にかけていたこと、すなわち教皇のローマ帰還のために、新たな力を注ぎました。感じやすい教皇の心に彼女が及ぼすようになった影響力は、ほどなく誰の目にも明らかになり、それと分かるやいなや、対抗する勢力が動き始めました。手紙を書けるのは、このシエナの女性だけではありませんでした。しかもグレゴリウスが迷信深く、聖なる愚者たちの影響を受けやすいと分かった以上、ヨーロッパには恍惚の体験者などいくらでもいたのです! カタリナのこの返書から明らかなように、教皇は匿名の書簡を受け取っていました。それは神に仕える人からの手紙を装い、巧妙に書かれたものでした。よく知られていた教皇の家族への愛情と生来の気の弱さにつけ込み、あえてローマに戻れば毒殺されると警告していたのです。その手紙は教皇庁内で作られた偽物だというカタリナの推測が正しかったかどうかは、分かりません。この出来事が今の私たちにとって興味深いのは、何よりも、地上の柔和な人々がいかに辛辣になりうるかを示す返書を引き出したからです。匿名の書き手の弱点を鋭く暴くカタリナの姿には、彼女の新たな一面が見えます。優しい人の侮蔑は恐ろしいものです。「これを書いた人は、自分の仕事をあまりよく心得ていないように思えます。学校に入り直すべきでしょう」と彼女は書き、その後に続く分析は実に説得力に富み、勧告は実に力強く人を奮い立たせるので、あの優柔不断なグレゴリウスでさえ、決断する力を新たに吹き込まれたに違いありません。この手紙からは、カタリナが教皇とその状況に対して、聖人に許されるぎりぎりのところまで苛立ちを募らせているのが感じられます。手紙の書き手は教皇を臆病者か、おびえた子どものように扱っている、と彼女が率直に告げ、さらに自らの言葉で、「十字架につけられたキリストに代わってお願いします。もはや気の弱い子どもではなく、男らしくあってください。口を開き、甘いもののために苦いものを飲み下してください」と付け加えたとき、グレゴリウスはその言葉の痛みを感じたに違いありません。気の弱い人を、その人のより良い本来の姿に忠実でいられるよう支えうる人がいるとすれば、それはこの女性でしょう。彼女に備わっていた生命力は、幾世紀を経た今も、その言葉を通して生き生きと伝わってくるのです。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける、至聖にして尊敬申し上げる親愛なる父よ。あなたの貧しくふさわしくない娘、イエス・キリストのしもべたちのしもべであり奴隷であるカタリナが、主の尊い御血において聖下にお便りします。聖下が聖なる決意において、どのような逆風にも、悪魔にも、被造物にも妨げられないほど強く、忍耐強くあってくださることを願っています。というのも、私たちの救い主が聖なる福音で言われるように、敵たちは羊の衣をまとい、小羊のように見せかけて近づこうとしているようですが、その実、彼らは貪欲な狼だからです。救い主は、そのような者たちに警戒しなければならないと言われます。親愛なる父よ、どうやら彼らは書面で聖下に近づき始めているようです。そのうえ、その手紙の書き手が訪れると告げ、聖下の知らないうちに戸口までやって来ると言っています。その人は、『私に門戸が開かれているなら、中に入って、ともに話し合いましょう』と言うとき、謙遜そうに聞こえます。しかし、謙遜の衣をまとうのは、ただ自分を信じさせるためです。そして、高慢が身を覆うために用いるその徳は、実のところ、うぬぼれに満ちています。
私の理解するかぎり、この人物はこの手紙の中で、悪魔が魂を扱うのと同じように聖下を扱っています。悪魔はしばしば、徳や思いやりを装って魂に毒を注ぎ込みます。ことに神のしもべたちには、この策略を用います。あからさまな罪だけでは彼らを欺けないと見ているからです。思いやりを装い、聖なる言葉遣いで聖下に手紙を書いたこの悪魔の化身も、同じことをしているように私には思えます。その手紙は、聖なる正しい人から来たかのように装っていますが、実際には、悪魔の助言者である邪悪な人々から来たものだからです。彼らはキリスト者の共同体の共通善と聖なる教会の改革を妨げ、自分を愛し、自分たちだけの利益を求めています。しかし父よ、それがその正しい人から来たものかどうかは、すぐにお確かめになれるはずです。そして、神の誉れのために、お調べにならなければならないと私は思います。
私に分かるかぎりでは、その人が神のしもべだとは思えませんし、その言葉遣いも、そのような人であることを示していません。むしろ、その手紙は偽物だと思われます。また、それを書いた人は、自分の仕事をあまりよく心得ていません。学校に入り直すべきでしょう。幼い子どもほどの知恵もなかったようです。
さて、教皇聖下、よくお考えください。この人物はまず、人間の最大の弱さだと知っている性向に訴えかけました。それは、とりわけ、生来の情においてたいそう優しく同情深く、また自分の体をいたわる人々に見られるものです。そのような人々は、誰よりも命を惜しむからです。そこで彼は、最初の言葉からこの点につけ込んだのです。しかし私は、神のいつくしみによって、聖下がご自分のことよりも、神の誉れとご自身の羊の群れの安全を心にかけてくださると希望しています。羊のために命を捨てるべき、良い牧者のように。
次に、この毒を含んだ男は、一方では、ローマへのお帰りを善い聖なることと呼んで称賛しているようですが、他方では、そこではあなたのために毒が用意されていると言っています。そして、信頼できる人々を先に遣わすよう勧めているようです。その人々は食卓の上に毒を見つけるだろうというのです。どうやら、瓶に入れられ、日ごと、月ごと、あるいは年ごとに、少しずつ飲ませる用意がされているということでしょう。さて、毒が見つかるという点では、私もまったく同意します。その点では、ローマの食卓に限らず、アヴィニョンやほかの町々の食卓にも見つかるでしょう。買い手の望み次第で、月ごと、年ごとにゆっくりと、あるいは一度に大量に飲ませられるよう用意された毒は、どこにでも見つかるのです。ですから、この男は、人を遣わして、そのためにお帰りを遅らせるのがよいと考えているのでしょう。そして、その言い分によれば、あなたの命を狙っているらしい悪人たちに、この手段によって神の裁きが下るまで待つよう提案しているのです。しかし、もしこの男に知恵があるなら、その裁きが自分自身に下ることを予期するでしょう。神の招きに従って務めを果たすことをあなたに思いとどまらせようとしているのですから、この男は、聖なる教会に長い間まかれたことのないほど悪い毒をまいているのです。その毒がどのようにまかれるか、お分かりでしょうか。この善良な男の勧めに従って、ご自身は行かずに人を遣わすなら、霊的にも世俗的にも、つまずきと反乱が引き起こされるでしょう。真理の座にあるあなたのうちに、人々は偽りを見いだすことになるからです。すでにお帰りを決意し、それを公にされたのですから、それが実現しなかったと知れば、人々の心に生じるつまずきと当惑と動揺は、あまりにも大きなものとなるでしょう。確かに、この男は真実を語っています。「民が滅びないために、一人の人が死ぬことが必要だ」と言ったときのカイアファと同じほど、預言的なのです。カイアファは自分が何を言っているか分かっていませんでしたが、その口を通して真実を語られた聖霊は、よくご存じでした。もっとも、悪魔がその意図で彼に語らせたわけではありません。ですから、この男はもう一人のカイアファとなりそうです。あなたが人を遣わすなら、その人々は毒を見つける、と預言しているのです。まさにそのとおりです。あなたの罪がそれほど大きく、ご自身はとどまり、彼らを行かせるようなことになれば、あなたの腹心たちは、先に述べたように、人々の心と口の中に瓶詰めにされた毒を見つけるでしょう。しかも、それは一日分だけではなく、消化されるまでには月も年もかかるほどのものとなるでしょう。この男の言葉には、まことに驚かされます。ある行いを善く、聖なる、信仰にかなうものと称賛しながら、次には、肉体に及ぶ危険への恐れから、その聖なる行いを断念させようとするのですから。たとえ命そのものを使い果たすことになろうとも、肉体的あるいはこの世の害を理由に、霊的な行いやわざを進んで放棄することは、神のしもべたちのならいではありません。もしそのようにしていたなら、誰一人として目標に到達しなかったでしょう。聖なる善い望みを忍耐強く保ち、善いわざへと実らせることこそ、冠を授けられ、恥辱ではなく栄光に値するものだからです。
ですから、尊き父よ、私はあなたに、善い決意を固く揺るがずに保っていただきたいと申し上げたのです。その決意に続いて、反抗するあなたの子らの平定と、聖なる教会の改革がもたらされるからです。また、異教徒に対していとも聖なる十字架の旗を掲げるあなたの姿を仰ぎたいという、神のしもべたちの望みをかなえていただきたいとも申し上げました。そうすれば、あの哀れな異教徒たちに、小羊の血を分け与えることがおできになります。あなたはその血を注ぐ務めを担い、その鍵を持っておられるからです。
ああ、父よ、十字架につけられたキリストの愛にかけてお願いします。速やかにこのことのために、その権能をお向けください。あなたの権能なしには、成し遂げることができないからです。とはいえ、慈愛深い父よ、まだ聖なる洗礼によって嫡出の子とされていない非嫡出の子らのために、キリストの花嫁の乳房に養われている、ご自身の実の子らを見捨てるよう勧めているのではありません。むしろ、私は神のいつくしみによって、こう希望しています。あなたの嫡出の子らが、あなたの権威と、聖書という剣の神的な力、そして人間の力と徳をもって進むなら、あのほかの者たちも母なる聖なる教会に立ち帰り、あなたが彼らを嫡出の子としてくださるだろう、と。そのようにすることこそ、神の誉れとなり、あなたご自身の益となり、優しきキリスト・イエスの花嫁の誉れと高揚につながるように思われます。それは、この正しい男の愚かな助言に従うことにもまさるでしょう。この男は、あなたや神の教会のほかの奉仕者たちにとって、ローマやイタリアの人々の間で暮らすよりも、信仰を持たないサラセン人の間で暮らすほうがよいと説いているのです。
彼が信仰を持たない人々の救いを切に望んでいることは、称賛に値し、わたしも喜んでいます。しかし、正当な子らから父を、囲いに集められた羊たちから牧者を引き離そうと望んでいることは、喜べません。彼は、乳離れをさせたい母親が子どもにするようなことを、あなたにしようとしているのだと思います。母親は乳房に苦いものを塗り、子どもが乳を飲む前にその苦さを味わうようにして、苦さを恐れるあまり甘い乳を諦めさせようとします。子どもは、何よりも苦さによってたやすく惑わされるからです。この人もあなたに同じことをしようとしています。毒や激しい迫害の苦さをほのめかし、あなたの弱く、感覚にとらわれた愛の幼さを惑わせ、恐れのあまり乳を捨てさせようとしているのです。その乳とは、あなたの喜ばしい帰還に伴う恵みの乳です。十字架につけられたキリストのために、どうか臆病な子どもではなく、男らしくあってくださるよう、お願い申し上げます。口を開き、甘いもののために苦いものを飲み下してください。苦さのために乳を捨てることは、聖下にふさわしくありません。神の無限で計り知れない善によって、あなたがそうすることを選ばれるなら、神はわたしたちにもあなたにも恵みを示してくださると、わたしは希望しています。そして、あなたが堅固で揺るぎない人となり、いかなる風にも、悪魔の惑わしにも、悪魔の化身の助言にも動かされず、神のみ旨とご自身の善い望み、そして十字架につけられたイエス・キリストのしもべたちの助言に従われることを願っています。
これ以上は申し上げません。あなたに送られた手紙は、あなたに名を告げられたあの神のしもべから来たものではなく、それほど遠くで書かれたものでもないと、わたしは結論づけています。むしろ、ごく近くから、それも神をほとんど畏れない悪魔のしもべたちから来たものだと信じています。仮にあの人から来たものだと信じるとしても、何かほかの証拠を目にしない限り、わたしは彼を神のしもべとは認めないでしょう。お父様、あまりにも差し出がましい物言いをおゆるしください。どうかわたしをゆるし、祝福をお与えくださるよう、へりくだってお願い申し上げます。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。神の誉れのために、あなたが平和のうちに、心身ともに安らかで静かに敷居の向こうへと足を踏み出されるお姿を、ほどなく拝見する恵みをわたしにお与えくださるよう、限りなく善である神に祈ります。愛するお父様、聖下のご都合のよい折に謁見をお許しください。出発する前に、御前にまいりたいのです。時はわずかしかありません。ですから、場所はどちらでもお望みの所で結構ですので、できるだけ早くお目にかかりたいと願っています。優しいイエスよ、愛であるイエスよ。 ページ上部へ
アヴィニョンから帰還する前に、母モンナ・ラパへ
カタリナは、その大きな目標を成し遂げました。1376年9月、グレゴリウスは実際にローマへ向けて出発しました。使命を終えたカタリナも、道筋は異なりましたが、教皇と同じ日に帰途につきました。しかし、同行者たちが病気になったため、ジェノヴァで旅を中断し、マドンナ・オリエッタ・スコッタの家に一か月間とどまることになりました。長引く不在に、モンナ・ラパはとうとう辛抱しきれなくなったようです。愛してはいても理解しがたい娘の行動を、母はいつも少しも理解できずにいたのです。カタリナは、大きな懸念と大きな勝利が交錯する世界へと引き上げられていましたが、それでも常に、家庭に対して果たすべき務めを優しく心に留めていました。教皇庁でのあの心揺さぶられる決定的な数か月を過ごしたばかりの聖女が、寂しさといらだちを抱える母に書き送ったこの短い手紙には、娘らしい情愛と、穏やかで思慮深い心遣いがあふれています。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおいて、最愛のお母様。あなたの貧しく、ふさわしくない娘カタリナが、神の御子の尊い御血のうちに、お母様に慰めをお届けします。わたしは、お母様がわたしの体だけでなく、魂にとっても真の母となってくださることを、切に願ってきました。というのも、お母様がわたしの体よりも魂をいっそう愛してくださるなら、お母様のうちにある秩序を欠いた情愛はすべて消え去り、わたしがそばにいることを待ち望むのも、それほどの重荷ではなくなると考えたからです。むしろ、それはお母様の慰めとなり、神の誉れが実現するのであれば、その誉れのために、わたしのことでどのような重荷をも耐え忍ぼうと望まれることでしょう。神の誉れのために働くとき、わたしの魂にも恵みと力が増し加えられます。そうです、愛するお母様、わたしの体よりも魂を愛してくださるなら、お母様は悲嘆に沈むのではなく、慰めを受けられるのです。神の誉れとわたしたちの救いのために、いとも聖なる十字架の木の上で亡くなられた御子をわたしたちに与えてくださった、あの優しい母マリアに倣っていただきたいのです。キリストが天に昇られた後、ひとり残されたマリアは、聖なる弟子たちと共にとどまられました。マリアと弟子たちは、共にいることで大きな慰めを得ており、別れることは悲しみでしたが、それでも御子の栄光と賛美のため、全世界の善のために、マリアは弟子たちが旅立つことに同意し、それをお選びになりました。神の誉れとわたしたちの救いに対して抱いておられた愛だけによって、弟子たちがとどまる慰めよりも、彼らが去る重荷をお選びになったのです。ですから、最愛のお母様、マリアに倣っていただきたいのです。わたしが神のみ旨に従わなければならないことは、お母様もご存じですし、お母様もわたしがそうすることを望んでおられると、わたしは承知しています。わたしが旅立つことは神のみ旨でした。その旅立ちには神秘的な意味があり、大きな価値を持つ実りもあったのです。わたしがここへ来ることは神のみ旨であり、人間の意志によるものではありませんでした。誰がそれに反することを言おうとも、それは真実ではありません。ですから、これからもわたしは、計り知れない神のいつくしみにかなう時と道を選んで、その足跡に従い、歩み続けなければなりません。お母様も、善良で優しい母として、悲嘆に沈むのではなく、心を安らかにし、神の誉れのため、またお母様とわたしの救いのために、あらゆる重荷を耐え忍んでください。息子たちがこの世の富を得ようとしてお母様のもとを離れたときには、この世の財のためにそうなさったことを思い出してください。それなのに今、永遠のいのちを得るためとなると、それほどの苦しみに思われるので、わたしがすぐに返事をしなければ、出て行って逃げてしまうとおっしゃるのですね。こうしたことがお母様に起こるのは、わたしが神から受けたものよりも、お母様から受けた部分、つまり、お母様がわたしにまとわせてくださった、お母様ご自身の肉をいっそう愛しておられるからです。あらゆる苦悩がやむ、あの優しい、いとも聖なる十字架へ、心と思いを少し高く上げてください、上げてください。わたしたちが罪のために受けるに値する果てしない苦しみを免れるために、限りあるわずかな苦しみを、進んで忍んでください。十字架につけられたキリストへの愛のために、どうか心を慰め、神からもわたしからも見捨てられたなどとは思わないでください。お母様は必ず慰められ、満ちあふれる慰めをお受けになるでしょう。これまでの苦しみがどれほど大きくても、喜びはそれを上回るものとなるでしょう。神のいつくしみによって、わたしたちは間もなくそちらへ参ります。ネリの重い病という妨げさえなければ、今度の帰りが遅れることもなかったはずです。また、ジョヴァンニ先生もバルトロメオ修道士も病気になりました…. これ以上は申し上げません。わたしたちをお祈りのうちに神にお委ねください…. 神の聖なる優しい恵みのうちにとどまってください。優しいイエスよ、愛なるイエスよ! ページの先頭へ
モンナ・ジョヴァンナ・ディ・コッラード・マコーニへ
カタリナとその霊的な子どもたちが長く家を留守にすることを案じていたシエナの母親は、どうやらモンナ・ラパだけではなかったようです。貴族マコーニ家のモンナ・ジョヴァンナは、カタリナの秘書を務める愛息ステファノがそばにいてくれることを切望していました。これは、彼女を納得させようとカタリナが書き送った二通目の手紙です。彼女が不平を漏らしたとしても、不思議ではありません。カタリナがステファノをアヴィニョンへ連れていったとき、彼が彼女と知り合ってから、まだ数か月しかたっていませんでした。二人の関わりは1376年1月に始まります。そのときカタリナは、彼の懇願を受けて、マコーニ家と、対立するトロメイ家との長年にわたる争いを和解へと導きました。それ以来、彼はカタリナに付き従うようになり、彼女への献身ゆえに、当惑する旧友たちから嘲笑されるようになりました。誰の話によっても、彼はひときわ魅力的で愛すべき青年でした。明るく快活で、どこへ行っても人々に好かれたのです。カタリナは、この手紙で自ら述べているとおり、初めから特別に優しい愛情をもって彼を愛していました。彼女は彼を信頼する親しい友とし、このときから彼女が亡くなる少し前まで、彼はほとんど絶えず彼女に付き添い、離れているときにも彼女の用事に携わっていました。カタリナは、マコーニ家のほかの人々とも親密で愛情のこもった関係にあったようです。それでも、才能豊かな息子が、この新しい友情に心を奪われるばかりか、遠い国々へと連れていかれるのを見て、モンナ・ジョヴァンナが母親として多少の嫉妬を覚えたとしても、不思議ではありません。カタリナの手紙は、誤った情愛から、子どもが崇高な召命に従うのを妨げようとするすべての親に、当時と変わらず今日にも当てはまります。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
キリスト・イエスにある、最愛の姉妹であり娘であるあなたへ。イエス・キリストのしもべたちのしもべであり奴隷であるわたしカタリナは、あなたが婚礼の礼服をまとう姿を見たいと願い、主の尊い御血のうちにこの手紙を書きます。この礼服なしには、魂は自らの創造主に喜ばれることも、永遠のいのちにおける婚宴で席に着くこともできないと考えるからです。ですから、あなたにこの礼服をまとってほしいのです。そして、よりよく身にまとうことができるように、自分自身や子どもたち、またほかのどの被造物に対しても抱いている、生来の傾きや感覚に従う自己愛を、すべて脱ぎ捨ててほしいと願っています。神から離れて、自分自身をも、ほかの何ものをも愛してはなりません。人は二人の主人に仕えることはできず、一方に仕えれば、もう一方を満足させることはできないからです。また、神と世の両方に仕えることのできる人はいません。両者は互いに相いれないからです。世が求めるのは、名誉、地位、富、高い地位に就く息子たち、よい家柄、官能的な快楽と放縦であり、それらはすべて、ゆがんだ高慢に根ざしています。しかし、神が求め、望まれるのは、まさにその正反対です。神は、自ら選ぶ貧しさ、へりくだった心、自分自身と、世のあらゆる喜びや華やかさを低く見ることを望まれます。また、自分の名誉ではなく、神の栄誉と隣人の救いを求めることを望まれます。人はただ、いかにして、心地よく誠実な徳を飾りとし、真実で聖なる忍耐をもって、この上なく熱烈な愛の火を身にまとうことができるかを求めるべきです。隣人からどのような害を受けても、相手に復讐せず、すべてを忍耐のうちに耐え忍び、ただ自分自身を裁こうと努めるべきです。自分が、甘美な根源の真理である方に背いたことを知っているからです。そして、何を愛するにしても、神において愛し、神から離れては何ものをも愛してはなりません。
では、あなたがわたしに「どのように愛すればよいのでしょうか」とお尋ねになるとしましょう。わたしはこうお答えします。子どもたちも、ほかのすべてのものも、自分自身への愛や子どもたちへの愛のためではなく、それらを造られた方への愛のために愛するべきです。そして、子どもたちのためであれ、ほかの何かのためであれ、決して神に背いてはなりません。つまり、何かの役に立つからといって愛してはならず、自分の所有物としてではなく、貸し与えられたものとして愛しなさい、ということです。この世でわたしたちに与えられるものはすべて、使うために貸し与えられたものであり、それを与えてくださった神の善がよしとされる間だけ、わたしたちの手もとに委ねられているからです。ですから、あなたは十字架につけられたキリストの管理人として、あらゆるものを用い、神に代わる存在である貧しい人々のために、できる限り、この世の財産を費やすべきです。子どもたちについても同じようにささげ、常に神への畏れのうちに養い育て、創造主に背くくらいなら、むしろ死ぬことを願うべきです。ああ、あなた自身と子どもたちを、いけにえとして神にささげてください。そして、神が子どもたちを呼んでおられると分かったなら、その甘美なみ旨に逆らわないでください。子どもたちが片手を差し出してそれを受け入れるなら、あなたは、子どもたちの救いを愛する、真に愛情深い母親として、両手を差し伸べてください。子どもたちの人生を、自分の都合に合わせて形づくろうと望んではなりません。それは、あなたが神から離れて子どもたちを愛しているしるしとなるからです。そうではなく、神がどのような身分や生き方へと子どもたちを招かれても、それに満足してください。世の悪しきあり方に従って子どもを愛する母親は、しばしばこう言います。「子どもたちが神に喜ばれるのは、わたしもうれしいことです。どこにいても同じように、世の中でも神にお仕えできるのですから。」しかし、子どもたちを世の中に投げ込もうとする、こうした思慮の浅い母親たちは、後になって、世においても神においても、その子どもたちを自分のもとに持てなくなることがよくあります。そして、霊においても体においても子どもたちを失うのは、当然のことです。彼女たちのうちには無知と高慢があまりにも深く巣くっているため、子どもたちを呼んでおられる聖霊に対して、決まりや規則を定めようとするからです。このような人々は、神において子どもたちを愛しているのではなく、神から離れ、感覚に従う自己愛をもって愛しています。子どもたちの魂よりも、その体を愛しているからです。甘美なイエス・キリストにある最愛の姉妹であり娘よ、まずこの愛を脱ぎ捨てなければ、十字架につけられたキリストを身にまとうことは決してできません。神のいつくしみによって、こうしたことは何一つあなたには当てはまらず、あなたが真によい母親として、神のみ名の誉れと栄光のために、自分自身と子どもたちをささげ、こうして婚礼の礼服をまとうことになるよう、わたしは希望しています。しかし、よりよくそれを身にまとうことができるように、あなたには、望みと心を、世とそのあらゆる営みを超えて高く上げ、精神の目を開いて、神があなたにどれほどの愛を注いでおられるかを知ってほしいのです。神は愛のゆえに、みことばであるひとり子をあなたにお与えになりました。そして御子は、燃えるような愛のうちにあなたにいのちを与え、ご自分の血によってわたしたちを清めるために、その御体をいけにえとしてささげてくださいました。これほど大きな恵みを知ることも、愛することもないわたしたちは、なんと無知で惨めなのでしょう。しかし、これらはすべて、わたしたちの目が閉じているためです。もし目が開かれ、十字架につけられたキリストを見つめていたなら、これほど大きな恵みを前にして、無知であったり、感謝を忘れたりすることはないでしょう。ですから、あなたに申し上げます。決して無知に陥ることのないように、いつも目を開き、屠られた小羊をしっかりと見つめ続けてください。
さあ、いとしい娘よ、もうためらうのはやめましょう。真実で完全な愛をもって、失った時を取り戻しましょう。そうすれば、この世で、わたしがお話しした衣を身にまとい、永遠に続くいのちの婚宴で、あなたも、ご主人も、お子さんたちも共に喜び、歓喜することができるでしょう。心安らかに慰めを得て、忍耐してください。わたしがステファノをこれほど長く引き留めたことで、心を乱さないでください。わたしは彼を大切にしてきました。愛と優しさによって彼と一つになりましたから、あなたにかかわることも、自分自身のことのように扱ってきたのです。あなたはこれを悪くは受け取らなかったと思います。わたしは彼とあなたのために、死に至るまで、できることは何でもしたいと願っています。母であるあなたは、かつて彼を産みました。わたしも、あなたがたの救いを願い、絶えず祈りながら、涙と汗のうちに、彼とあなた、そしてご家族皆を産みたいと願っています。
これ以上は申しません。クッラードにわたしのことをよろしくお伝えください。また、ご家族のほかの皆さんに祝福をお送りください。とりわけ、聖なる教会の庭に新たに植えられたばかりの、わたしの小さな若木に。これをあなたにお委ねしますから、ほかの花々の間で香りを放つことができるよう、わたしのために徳をもって育ててください。神が、この上なく甘美な慈しみであなたを満たしてくださいますように。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。甘美なイエス、愛なるイエス。 ページの先頭へ
リストーロ・カニジャーニ殿へ
福音的勧告に従おうとする修道者たちとのかかわりのほかにも、カタリナは幾人もの信心深い男性信徒の生活を導いていました。その一人が、フィレンツェの尊敬される市民、リストーロ・カニジャーニでした。彼の弟バルドゥッチョは、後にカタリナの秘書の一人となり、その死の時にも傍らにいました。ここに収めたリストーロ宛ての最初の手紙から、彼がすでにカタリナの弟子となっていたことが分かります。彼は敵をゆるすことによって――それは当時の大半の人にとって、今日よりも身近で、しかも困難な行為でした――、また、世間との交わりからある程度身を引き――注目すべきことに、世俗の交わりだけでなく、教会内の交わりからも――、余分な所有物を売り払い、質素な生活を受け入れることによって、その誠実さを示していました。ここに収めた二通目の手紙では、彼が明らかに経験を深めていたことがうかがえます。彼は、その後の時代の多くの信心深い人々と同じように、聖体拝領にふさわしくないのではないかという、良心の過度の不安に苦しんでいます。カタリナは、心に不安を抱くすべての人がよく心に留めるべき言葉で、彼の困難に優しく、賢明に応えています。この立派な人に対して、彼女は何一つ叱責せず、ただ称賛と励ましを与えています。注目すべきことに、これらの手紙でも、ほかのどの手紙でも、彼女はリストーロを、自らが生きていた脱魂の神秘の領域へと導き入れようとはしていません。彼女は友人の何人かには、自分に従ってその領域に入ることを期待していましたが、その期待はしばしば実りませんでした。この信心深い信徒に彼女が示す規範は、よく知られた次の言葉に、何よりもよく要約されています。「節度を守り、神を敬い、正しく生きること。」
リストーロへのほかの手紙では、カタリナは非常に美しい黙想によって、彼のうちに愛の熱意を燃え立たせようとしています。その黙想の中で彼女は、友人や家族への愛が、すべてを包む愛との結びつきによって聖なるものとされ、栄光を与えられることを示しています。人間のあらゆる純粋な愛情は、このすべてを包む愛から生じるはずのものなのです。自然の世界とそこから生じる求めに対する姿勢において、カタリナはここでも聖ベルナルドを思い起こさせます。聖ベルナルドは、愛の段階を挙げるに当たり、自然に属するものを、悪く破壊的なものとしてではなく、善いものであり、変容を待つものとして捉える前提から出発しています。哀れなフランチェスカと同じように、しかし、より純粋な理解をもって、カタリナは「amore(愛)」「amare(愛する)」という言葉をさまざまに響かせます。「Perocche, condizione e del’ amore d’ amare quando si sente amare, d’ amare tutte le cose che ama colui ch’ egli ama. E pero, a mano che l’ anima ha conosciuto l’ amore del suo Creatore verso di lui, l’ ama: e amandolo, ama tutte quelle cose che Dio ama.」「愛されていると感じるときに愛し、愛する相手が愛するすべてのものを愛するのは、愛の本性だからです。ですから、魂は、自らの創造主が自分に注がれる愛を次第に知るにつれ、創造主を愛するようになり、創造主を愛することによって、神が愛されるものをすべて愛するようになるのです。」……読み進めると、この偉大な神秘家が、時に彼女のものとされてきた冷ややかな禁欲主義から、いかに遠く隔たっているかを、あらためて認めることができます。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
甘美なイエス・キリストに結ばれた、最愛の兄弟へ。イエス・キリストのしもべたちのしもべであり、奴隷であるわたしカタリナは、あなたが徳において揺るがず、最後まで耐え忍ぶ姿を見たいと願い、キリストの尊い御血のうちに、この手紙を書きます。冠を受けるのは、始める人ではなく、最後まで耐え忍ぶ人だけだからです。冠を受ける女王は、忍耐です。忍耐は、剛毅と真の堪忍の間に立ちますが、栄光の冠を受けるのは、この女王だけなのです。ですから、最愛の兄弟よ、あらゆる労苦の報いを受けることができるよう、徳において揺るがず、最後まで耐え忍んでほしいと願っています。わたしは神の大いなる善に希望を置き、悪魔にも、ほかの被造物にも、あなたを自分の吐いたものへと再び目を向けさせることができないほどに、神があなたを強めてくださるよう願っています。
お手紙を拝見すると、あなたはよい出発をなさったようです。その聖なる望みを知り、あなたの救いのために、わたしも大いに喜んでいます。まず、あなたに不正を働いた人、また不正を働こうとした人を、皆ゆるしたと書いておられます。恵みによって神を自分の魂にお迎えし、世の観点から見ても安らかでありたいと望むなら、これはどうしても必要なことです。憎しみにとどまる人は、神を失い、断罪された状態にあり、この世の生涯ですでに地獄を先取りして味わっているからです。その人は絶えず自分自身をむしばみ、復讐に飢え、恐れのうちにとどまっています。敵を殺すつもりでいながら、まず自分自身を殺してしまっています。憎しみという刃で、自らの魂を殺したからです。このように、敵を殺そうと考える人は、自分自身を殺すのです。十字架につけられたキリストへの愛のゆえに心からゆるす人には、平和と静けさがあり、心をかき乱されることはありません。心を乱す怒りがその魂のうちで滅ぼされ、すべての善に報いてくださる神が、その人に恵みを、そして最後には永遠のいのちをお与えになるからです。そのとき魂が受ける喜び、良心に宿るうれしさと安らぎは、言葉ではとても言い表せません。世の観点から見ても、徳への愛と寛大な心のゆえに、敵への復讐をむさぼり求めない人には、非常に大きな誉れが与えられます。ですから、この聖なる決意を貫くよう、あなたに呼びかけ、励まします。
自分のものを道理にかなった方法で求め、取り戻すことは、良心にやましいところなく行うことができます。望む人は誰でもそうしてよいのです。自分が望む以上に財産を手放す義務はないからです。しかし、自ら進んでそれを手放す人は、はるかに高い完全さに達するでしょう。司教の館にも宮殿にも行かず、家で平穏に過ごすのは、よいこと、まことにすばらしいことです。わたしたちは弱いので、ほかの人々が興奮すると、自分の魂もつい興奮し、不正で道理に反することをしてしまうことがよくあるからです。ある人は自分のほうがよく知っていると示すために、またある人は金銭への欲から、そうするのです。そうです、その場所には近づかないほうがよいのです。
ただ、一つ付け加えます。明らかに正当な言い分がありながら、助けてくれる人のいない貧しい男女が、なぜお金がないのかをわたしたちに示してくれたとき、あなたが愛に促されてその人たちの訴えを引き受けるなら、それは神の大きな誉れとなるでしょう。かつて貧しい人々の弁護士であった聖イヴォのようにです。神から与えられた能力をもって、あわれみのわざを行い、貧しい人々に仕えることは、神に大いに喜ばれ、あなたの魂の救いとなることを心に留めてください。それゆえ聖グレゴリオは、あわれみ深い人が悪しき死、すなわち永遠の死によって滅びることはありえない、と述べています。ですから、わたしはこのことをとても喜ばしく思い、ぜひ実行してくださるようお願いします。
何をするにも、神を目の前に置いてください。節度を欠いた欲望が、あなたの立てた決意に逆らって頭をもたげようとするときは、自分にこう言い聞かせてください。「わたしの魂よ、心に留めなさい。神の目はあなたに注がれ、あなたの心の奥に隠れたことをご覧になっています。あなたは死すべき者です。必ず死ぬのに、それがいつかは知りません。そして、自分の行うことについて、至高の裁き主の前で申し開きをしなければならないのです。この裁き主は、あらゆる過ちを罰し、あらゆる善い行いに報いてくださいます。」このようにくつわをかけておけば、それが外れて神のみ旨から離れてしまうことはありません。
できるだけ早く自分の魂を安らげ、重荷と感じているものを良心から取り除くべきです。この世の財産を手放すときに覚えた苦しみについても、ほかの人から受けたさまざまな煩わしさについても、魂に安らぎを与えてください。そして、隣人とともにいつも愛の喜びのうちにとどまれるよう、すべての人に十分にゆるしを請うてください。余分に持っている品々や、華美な衣服を売ることについては、こう申し上げます。愛する兄弟よ、そのような衣服は非常に有害で、心に虚栄を入り込ませ、うぬぼれを育てるものです。人をほかの人以上に立派で偉い者であるかのように見せ、誇るべきでないものを誇らせるからです。ですから、わたしたちの頭である方が苦しめられるのを見ながら、自分たちはそのようなぜいたくの中にとどまっているとは、偽りのキリスト者であるわたしたちにとって、大きな恥です。聖ベルナルドも、茨の冠をかぶった頭の下で、手足が安逸をむさぼるのはふさわしくない、と述べています。ですから、このことを改める道を求めておられるのは、まことによいことだと申し上げます。ただし、必要に応じて、慎み深く、度を越した値段ではない衣服を身につけてください。そうすれば、神に大いに喜ばれるでしょう。また、できる限り、妻と息子たちにも同じようにさせてください。そうして、彼らの模範となり、教師となってください。それこそ、徳のある言葉と行いをもって息子たちを育てるべき父親の姿なのです。
もう一つ付け加えます。神を畏れつつ婚姻の身分にとどまり、節度を欠いた欲望に従うのではなく、秘跡として敬意をもって婚姻を大切にしてください。理性のない獣のようにではなく、分別のある人として、聖なる教会が定めた日々を、ふさわしい敬意をもって守ってください。そうすれば、あなたと妻は、良い木のように、良い実を結ぶでしょう。
役職を断るのは、とても賢明なことです。そうした立場にあって、人をつまずかせずに済むことはめったにないからです。その話を耳にするだけでも、うんざりするくらいであるべきです。ですから、死者たちには自分たちを葬らせておき、あなたは心の自由をもって、神に喜ばれるように努めてください。徳を求める望みのうちに、何よりも神を愛し、隣人を自分自身のように愛し、世とその楽しみを避けてください。自分の罪と肉的な衝動を捨て、神から受けた恵みを絶えず思い起こしてください。とりわけ、これほど燃える愛をもって、わたしたちのために流された御血の恵みを思い起こしてください。
また、魂が恵みを保ち、徳において成長することを望むなら、キリストの御血で魂の顔を洗うことができるよう、喜びをもって、たびたび聖なる告解をする必要があります。少なくとも月に一度はそうしてください。実際、わたしたちは毎日、魂の顔を汚しているのですから。それより多くできるなら、多くしてください。しかし、それより少なくしてはならないと、わたしは思います。そして、神のことばを聞くことを喜んでください。また、わたしたちが御父と和解する時季が来たなら、大きな祝祭日に、あるいは少なくとも年に一度は、聖体を拝領してください。聖務日課を喜びとし、毎日ミサにあずかってください。毎日はできなくても、少なくとも、聖なる教会が定め、わたしたちに義務づけている日には、できる限りあずかるよう努めなければなりません。
祈りを自分から遠ざけてはなりません。それどころか、定められたふさわしい時刻には、できる限り、少しの間ひとりになるようにしてください。そして、自分自身を知り、神に対して犯した過ちを知り、あなたのうちにこれまで優しく働き、今も働いておられる神の慈しみの豊かさを知るようにしてください。いと聖なる信仰の光のうちに心の目を開き、神がどれほど計り知れない愛をもってわたしたちを愛しておられるかを見つめてください。それは、独り子を通して示してくださる愛です。また、まだ唱えていないなら、毎日、聖母の小聖務日課を唱えるようお願いします。聖母があなたの慰めとなり、神の前であなたを弁護してくださるためです。生活を整えることについても、ぜひそうしてください。マリアへの敬意をもって、土曜日には断食してください。また、やむを得ない場合を除き、聖なる教会が定めた断食の日を決しておろそかにしないでください。飲食に節度のない宴席を避け、腹を自分の神にしようとは望まない人として、節度をもって暮らしてください。食べ物は必要を満たすために取り、そのもたらす卑しい快楽のために取ってはなりません。食べることにおいて自分を律しない人が、罪に汚れずに身を保つことはできないからです。
しかし、このことについても、その他すべてのことについても、神の限りない慈しみによって、あなたが自ら、救いに必要な規律を受け入れるようになると、わたしは確信しています。そして、神があなたに、死に至るまで完全に堅忍する恵みを与え、救いのためになすべきことを照らしてくださるよう、わたしも祈り、ほかの人々にも祈ってもらいます。これ以上は申しません。神の聖なる、優しい恵みのうちにとどまってください。優しいイエスよ、愛であるイエスよ。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける最愛の息子へ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべであり、奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたに書き送ります。わたしは、あなたがいささかの自己愛からも解き放たれることを望んでいます。それは、神があなたに抱いておられる言い表しようもない愛を見つめることから生まれる光と認識を、あなたが失わないためです。この愛をわたしたちに知らせるのは光であり、その光をわたしたちから奪うのは偽りの愛です。それゆえ、あなたのうちでその偽りの愛が消えることを、わたしは切に願っています。ああ、この自己愛は、わたしたちの救いにとって何と危険なものでしょう。それは魂から恵みを奪います。わたしたちを恵みのうちに生きさせる、神と隣人への愛を奪うからです。先に述べたように、それはわたしたちから光を奪います。心の目を暗くするからです。そして、光が奪われると、わたしたちは闇の中を歩み、自分に何が必要なのか分からなくなるのです。
わたしたちは何を知る必要があるのでしょうか。神の大いなる慈しみと、わたしたちに対する言い表しようもない愛、そして、絶えず聖霊に逆らって戦うよこしまな法則と、わたしたち自身の惨めさです。この認識のうちに、魂は神に当然お返しすべきものをお返しし始めます。すなわち、何よりも神を愛し、隣人を自分自身のように愛し、熱心に徳を望みながら、神のみ名に栄光と賛美をささげるのです。そして魂は、自らに憎しみと不満を向け、自分のうちにある悪徳と、あらゆる悪徳の原因となる自分の官能への傾きを憎みます。先に述べたように、魂は光をもって自己認識のうちにとどまることで、あらゆる徳と恵みを得ます。魂はどこで、自分の罪に対する豊かな痛悔と、神のあふれるいつくしみを見いだすのでしょうか。この「自己認識の家」においてです。
では、わたしたちが自分のうちにそれを見いだせるかどうか、確かめてみましょう。このことについて、少し話しましょう。あなたが手紙に書いてくださったように、あなたは自分の罪に対して痛悔を感じたいと望んでいながら、それを感じることができず、そのために聖体拝領を控えているからです。では、そのことを理由に聖体拝領を控えるべきなのかどうか、考えてみましょう。
神がこの上なく善い方であり、わたしたちが存在する前からわたしたちを愛してくださっていたことを、あなたは知っています。また、神は永遠の知恵であり、その力の働きは計り知れません。ですから、わたしたちに必要なものを与える力も、知恵も、意志もお持ちであると、わたしたちは確信しています。その証拠に、神は、わたしたちが願うすべを知っている以上のもの、また願いもしなかったものを与えてくださることが、よく分かります。わたしたちはかつて、理性のない獣ではなく、神ご自身のかたどり、似姿として、理性あるものに造ってくださいと願ったことがあるでしょうか。ありません。あるいは、神の独り子であるみことばの血によって、恵みのうちにわたしたちを造ってくださいと願ったでしょうか。また、完全な神であり完全な人であるご自身を、神性に結ばれた肉と血、体と魂を、わたしたちの食べ物として与えてくださいと願ったでしょうか。これらのいとも尊い賜物は、あまりにも偉大で、わたしたちに対する燃えるような愛を示しているので、どれほどかたくなな心でも、少しでもこれらを思い巡らすなら、そのかたくなさと冷たさが溶けずにはいられません。こうした賜物に加えて、わたしたちが願わずとも神から受けている賜物と恵みは、限りなくあるのです。
それでは、わたしたちが願わなくてもこれほど多くを与えてくださるのですから、正しいことを神に願い求めるなら、なおさらわたしたちの望みをかなえてくださるのではないでしょうか。そもそも、それを望み、願い求めるようにしてくださるのは、どなたでしょうか。ただ神おひとりです。ですから、神がそれを願い求めるようにしてくださるなら、それは、その願いをかなえ、わたしたちが求めるものを与えようとしておられるしるしなのです。
けれども、あなたはわたしにこう言うでしょう。「神があなたの言うとおりの方であることは認めます。それなのに、わたしは幾度も、痛悔やそのほかのものを願い求めているのに、それらが与えられていないように思えるのは、なぜでしょうか。」わたしはこう答えます。それは、願い求める人の側に欠けたところがあるからかもしれません。思慮を欠き、心を尽くさず、言葉だけで願い求めているのです。わたしたちの救い主は、このような人々について、ご自分を「主よ、主よ」と呼んでも、ご自分には認められないと言われました。それは、その人々をご存じないということではなく、彼ら自身の過ちのために、主のいつくしみによって認めていただけないということです。あるいは、祈る人は、もし手に入れたなら自分の救いを損なうようなものを願い求めているのかもしれません。その場合、願い求めたものが手に入らなくても、実際にはその願いがかなえられているのです。なぜなら、その人は自分のためになると思ってそれを願い求めますが、もし手に入れれば害となり、手に入れないことこそ自分のためになるからです。ですから神は、その人が願い求めたときの意向を満たしてくださったのです。このように、神の側からすれば、わたしたちの祈りはいつもかなえられています。ただ、神は隠れたこともあらわなこともご存じであり、わたしたちの不完全さも知っておられます。ですから、わたしたちが願い求める恵みをすぐに与えたなら、わたしたちが汚れた生き物のように振る舞うことを見抜いておられます。その生き物は、この上なく甘い蜜から飛び立っても、その後、悪臭を放つものに平気でとまるのです。神は、わたしたちが幾度もそのようにするのをご覧になっています。神の恵みと恵み深いわざを受け、その愛の甘美さにあずかりながら、その後には惨めなものに平気で身を寄せ、この世の汚れへと立ち戻ってしまうのです。ですから神は、わたしたちの願望の飢え渇きをいっそう深めるために、わたしたちが望むほどすぐには、願い求めるものを与えてくださらないことがあります。被造物がご自分に向かって飢え渇くのをご覧になることを、神は喜び、楽しみとされるからです。
神は時として、恵みを感じられるようにはなさらずとも、実際にはそれを与えてくださることによって、わたしたちを恵んでくださいます。神が先を見通してこの方法を用いられるのは、もし人が自分にはその恵みがあると感じるなら、願望の張りを緩めるか、あるいは思い上がりに陥るかすることをご存じだからです。そのため、神は恵みを取り去るのではなく、それを感じることを取り去られるのです。また、恵みを受け、それを感じる人々もいます。それは、わたしたちの医師である方が、その優しく善いみ心のままに、病むわたしたちに与えようとされるとおりです。神は、一人ひとりに、その病に必要な仕方で与えてくださいます。ですから、どの場合にも、被造物が神に願い求めるときの切なる望みは、いつも満たされていることが分かります。今やわたしたちには、何を求めるべきか、そしてどれほど思慮深く求めるべきかが分かるのです。
甘美な根源の真理である主は、聖なる福音の中で、わたしたちが何を求めるべきかを教えておられるように思います。世の名誉や富を得て保とうと度を越して熱中する人を戒めて、主はこう言われました。「明日のことを思い煩ってはならない。その日の苦労は、その日だけで十分である。」ここで主は、時の短さを賢明にわきまえるべきことを示しておられます。そして、こう付け加えられます。「まず天の国を求めなさい。あなたがたの天の父は、あなたがたにこれらの小さなものが必要であることを、よくご存じだからである。」この国とは何でしょうか。また、どのようにして求めるのでしょうか。それは永遠のいのちの国であり、わたしたち自身の魂の国です。魂のこの国は、理性によって治められなければ、決して神の国の一部とはならないからです。何をもって、この国を求めるのでしょうか。言葉だけではありません。そのような言葉を神はお認めにならないことは、すでに述べました。そうではなく、真実で実のある徳を熱望することによって求めるのです。この天の国を求め、手に入れるのは徳です。徳は人を賢明にし、神の誉れと、自分自身および隣人の救いのために、賢慮と成熟をもって働かせます。その人は賢明に隣人の欠点を忍び、賢明に愛の衝動を律し、何にもまして神を愛し、隣人を自分自身のように愛します。その規範とは、魂の救いのためには自分の肉体のいのちを、隣人の体を助けるためにはこの世の財産を、いつでも差し出せるようにしておくことです。このような規範を定めるのは、賢慮に導かれた愛です。賢慮を欠くならば、まったく逆のことになります。愚かで分別のない愛を実践する多くの人がそうです。その人たちはしばしば、隣人を助けるために――魂ではなく、体について言っているのですが――うそを広め、偽りの証言をして、自分自身の魂を裏切ることさえいといません。このような人たちは愛を失います。その愛が賢慮の上に築かれていないからです。
わたしたちは、天の国を賢明に求めなければならないことを見てきました。今度は、聖体拝領に対してどのような態度を取るべきか、また、どのように拝領するのがふさわしいかという、あなたの問いにお答えします。わたしたちは、世俗に生きる人々のように、愚かな謙遜に陥ってはなりません。この甘美な秘跡を受けることこそ、わたしたちにふさわしいのです。これは魂の糧であり、これなしには恵みのうちに生きることができないからです。ですから、この甘美な秘跡に近づくために、断ち切ることができず、また断ち切るべきでもないほど強い絆は、何一つありません。人は自分の側でできる限りのことをしなければなりません。それで十分なのです。どのように拝領すべきでしょうか。いとも聖なる信仰の光をもって、また聖なる望みを口として、拝領するのです。信仰の光のうちに、あなたはその聖体の中に、完全な神であり完全な人である方を観想するでしょう。そして、知性による認識に続く心の動きは、優しい愛をもって拝領し、自らの罪と過ちを聖なる黙想のうちに見つめます。そこから痛悔に至り、これほど大きな愛をもってご自身をわたしたちの糧として与えてくださった神の、計り知れない愛の惜しみなさを思い巡らすのです。自分が望むほど完全な痛悔や心の備えがないように思えるからといって、拝領を避けてはなりません。善意と、その人が自分なりに整えている心の備えがあれば、それだけで十分だからです。
もう一度申しますが、わたしたちにふさわしいのは、旧約聖書の中で予示されたとおりに拝領することです。そこでは、小羊は煮るのではなく焼いて食べること、一部分ではなく丸ごと食べること、腰に帯を締めて立ち、手に杖を持って食べること、そして小羊の血を敷居の石に塗ることが命じられました。この秘跡も、そのように受けるのがふさわしいのです。煮るのではなく、焼いて食べます。煮るならば、土と水、すなわち地上的な執着と自己愛の水が間に入ることになるからです。ですから、間に何も入らないように、焼かなければなりません。神の愛の火から直接いただくとき、わたしたちはそのように拝領するのです。また、良心という帯を締めていなければなりません。これほどの清らかさと純粋さに、心や体が汚れたまま近づくのは、まことに嘆かわしいことだからです。わたしたちはまっすぐに立たなければなりません。つまり、心と思いがまったく忠実で、神に向かっていなければならないのです。そして、いとも聖なる十字架を杖としなければなりません。そこにわたしたちは、十字架につけられたキリストの教えを見いだします。これこそ、わたしたちがより頼む杖であり、敵である世と悪魔と肉から、わたしたちを守ってくれるものです。また、一部分ではなく丸ごと食べることがふさわしいのです。つまり、信仰の光のうちに、この秘跡の中にある人性だけでなく、神性と一つに結ばれた、十字架につけられたキリストの体と魂、完全な神であり完全な人である方を観想しなければなりません。わたしたちはこの小羊の血を取り、額に塗らなければなりません。つまり、理性を備えたすべての者の前でそれを公に言い表し、苦痛のためにも死のためにも、決して否んではならないのです。十字架の木の上で愛の火によって調えられたこの小羊を、このように甘美にいただくことが、わたしたちにふさわしいのです。こうしてわたしたちは、タウの印を受けた者と認められ、報復の天使に決して打たれることはありません。
わたしたちにはふさわしくなく、またあなたにもしてほしくないとわたしが申しましたのは、思慮に欠ける多くの信徒のように振る舞うことです。その人たちは、「わたしにはその資格がありません」と言って、聖なる教会から命じられていることを怠ります。こうして、魂の糧を受けないまま、大罪のうちに長い時を過ごすのです。ああ、なんと愚かな謙遜でしょう。あなたがふさわしくないことなど、だれにでも分かります。いつになればふさわしくなると、待っているのですか。待っていてはなりません。終わりになっても、初めの時と変わらず、ふさわしくはないからです。わたしたちがどれほど正しい行いを重ねても、それにふさわしい者には決してなれません。しかし、ふさわしい方は神であり、ご自身の尊さによって、わたしたちをふさわしい者にしてくださるのです。その尊さは、決して減じることがありません。では、わたしたちは何をすべきでしょうか。自分の側で備えを整え、神の優しい掟を守ることです。そうしなければ、聖体拝領を断ち、そうすることで過ちを避けているつもりで、かえって過ちに陥ることになるでしょう。
ですから、最後に申し上げます。あなたのうちにこのような愚かさがあってはなりません。忠実なキリスト者として、先に申しましたように、この聖体拝領のために備えを整えていただきたいのです。自分自身を真に知っている、その度合いに応じてこそ、あなたはその備えを完全なものにできます。それ以外の仕方ではできません。その認識のうちにとどまるなら、すべてをはっきりと見ることができるからです。苦しみや損失のために、あるいはあなたが尽くしてきた人々から受ける害や忘恩のために、聖なる望みを弱めてはなりません。むしろ、勇敢に、真実で息の長い忍耐をもって、死に至るまで耐え抜いてください。十字架につけられたキリストの愛にかけて、そのようにしてくださるようお願いします。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。優しいイエス、愛なるイエス。 ページの先頭へ
ボローニャの長老官、執政官、旗手官の皆様へ
カタリナは、十四世紀にも二十世紀にも通用する、見事な政治の原則を示しています。しかし時代は変わり、現代の市議会がこのような手紙を真剣に受け入れる姿は、ほとんど想像できません。これは、彼女がイタリア諸都市の政庁に日頃から送り続けていた手紙をよく代表するものです。国家の真の繁栄の土台となるべき根本的な徳が、率直に、簡潔に、気高く説かれています。教会分裂の際に示したように、彼女は政治の細部にまで及ぶ明敏な判断力を備えていました。しかし、道徳上の一般的な原則を説くことで、人々に自らの罪を悟らせ、聖性への道を示すことができるという、女性らしい確信を失うことはありませんでした。そして、その考えはまったく間違っていたわけではありません。彼女の手紙は敬意をもって受け取られ、効果もなかったわけではないようです。今回、ボローニャの当局者たちは、明らかに彼女に祈りを願う便りを送っています。彼女は喜んで祈ることを約束しますが、ボローニャの人々は、自分たちのなすべきことをすべて「神のしもべたち」に代わってしてもらおうと期待してはならない、と付け加えています。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおいて、親愛なる兄弟の皆様。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべであり、奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、皆様にお便りします。皆様が古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身にまとう姿を見たいと願ってのことです。すなわち、世と、アダムの古い罪である肉的な自己愛とを脱ぎ捨て、新しいキリスト、優しいイエスと、その優しい愛とを身にまとっていただきたいのです。この愛が魂のうちにあるとき、魂は自分の利益を求めず、惜しみなく寛大に、神にお返しすべきものをお返しします。何よりも神を愛し、自分の低い本性を憎み、神のために自分を愛し、そのみ名に賛美と栄光を帰すのです。また、兄弟愛と正しく秩序づけられた愛をもって、隣人に善意を示します。愛には秩序がなければならないからです。つまり、一つの魂を救うためであっても、いえ、たとえ全世界を救うことができるとしても、そのために罪を犯して自分自身を損なってはなりません。大きな徳を成し遂げるために、どれほど小さな過ちであれ犯すことは許されないからです。また、隣人の体を救うために、自分の体を犠牲にすべきではありません。しかし、魂の救いのためには自分の肉体のいのちを、隣人の幸福といのちのためにはこの世の財産を、確かに犠牲にすべきです。このように、この愛は魂のうちで秩序づけられるべきものであり、実際に秩序づけられていることがお分かりでしょう。
しかし、愛を失い、自己愛に満ちた人々は、まったく反対のことをします。その愛情に節度がないように、そのすべての行いにも節度がありません。こうして、世に属する人々が、徳によらず、罪のうちに隣人に仕え、隣人を愛する姿が見られます。隣人に仕え、その意にかなうためなら、神への奉仕を怠り、神の意に背き、自分自身の魂を傷つけることも意に介しません。これこそ、しばしば魂と体を殺す、ゆがんだ愛です。それは、わたしたちから光を奪って闇に投げ込み、いのちを奪って死を宣告し、天の至福にある人々との交わりを奪って、地獄にいる者たちとの交わりへと導きます。そして、まだ時があるうちに自分を正さなければ、聖なる正義という輝く真珠を打ち砕き、真の愛と従順の温かさを失うのです。
さて、どちらに目を向けても、理性を備えたあらゆる立場の被造物が、あらゆる徳を欠き、この邪悪で肉的な自己愛を身にまとっているのが見えます。教会の高位聖職者たちに目を向ければ、自分の事柄にばかり心を奪われ、あまりにもぜいたくに暮らしているため、自分のもとにある人々が悪霊の手中にあるのを見ても、気に留めないように見えます。そのもとにある人々も、まったく同じです。国の法にも神の法にも従おうとせず、自分の利益にならなければ、互いに仕えようともしません。しかし、この種の愛も、真の愛ではなく自然的な愛で結ばれた人々の一致も、十分なものではありません。そのような友情が用をなし、続くのは、喜びや楽しみ、そしてそこから得られる個人的な利益が続く間だけなのです。
このように、人は領主となると、聖なる正義をないがしろにします。その理由は、自分の地位を失うことを恐れ、人の反感を買わないようにと、人々の過ちを覆い隠して回るからです。焼いて治療すべき傷に、軟膏を塗っているのです。ああ、わたしの魂は何と惨めなのでしょう。その人は、神の愛の炎を当て、聖なる正義に基づく罰と矯正によって過ちを焼き尽くすべきときに、へつらい、見ていないふりをします。自分の地位を脅かしかねないと見た人々には、そのように振る舞います。ところが、ものの数ともされず、恐れる必要のない貧しい人々に対しては、正義への非常な熱意を示し、わずかな過ちにも、いつくしみも憐れみもなく、この上なく厳しい罰を科します。このような不正を生むものは何でしょうか。自己愛です。しかし、この世の哀れな人々は、真理を失っているため、自分の救いについても、領主としての支配を真に保つことについても、真理を認めません。もし真理を知っていたなら、神への畏れのうちに生きることだけが、自分たちの領国と都市を平和のうちに保つのだと分かるはずです。そうすれば、聖なる正義を守り、領民一人ひとりにその人の受けるべきものを与えるでしょう。感情の衝動によってではなく、真理を重んじることによって、いつくしみを受けるにふさわしい人にはいつくしみを示し、裁きを受けるにふさわしい人には、激しい怒りではなく、いつくしみに根差した正義をもって臨むでしょう。また、うわさによってではなく、聖なる真の正義によって裁き、個人の利益ではなく共通善を心に留めるでしょう。役人や都市を治める人々を任命する際にも、党派や偏見によらず、へつらいや賄賂のためでもなく、ただ徳と理性だけに基づいて行うでしょう。そして、単なる子どものような者ではなく、成熟した優れた人々、すなわち神を畏れ、自分個人の利益ではなく共同体を愛する人々を選ぶでしょう。このようにしてこそ、その領国と都市は平和と一致のうちに保たれます。しかし、不正な行い、徒党を組む生き方、そして、自分自身も家族も治めるすべを知らず、不正で乱暴で、激しい自己愛にとらわれた人々を支配と統治の任に就けることこそ、霊的な恵みの状態と、この世の領国との両方を失わせるのです。このような人々には、こう言うことができます。「神が守ってくださらなければ、あなたが自分の都市を守ろうと労してもむなしい。神を畏れず、自分の行いにおいて神を目の前に置かないなら、そうなのです。」
ですから、こよなく愛する兄弟である領主の皆さん、自己愛が魂という都市を滅ぼし、地上の都市をも滅ぼして覆すことがお分かりでしょう。自己愛ほど、この世をあらゆる種類の人々に分裂させてきたものはないことを知っていただきたいのです。自己愛からは、絶えず不正が生まれます。
こよなく愛する兄弟の皆さん、皆さんは、ご自分たちの都市の繁栄を増し、保ちたいと望んでおられるようです。その望みに動かされて、過ちに満ちた惨めなわたしに手紙を書いてくださいました。わたしはその手紙を、心からの愛をもって耳にし、目を通しました。そして、皆さんの願いに応えたい、また、神が与えてくださる恵みによって力を尽くし、絶え間ない祈りのうちに、皆さんと皆さんの都市を神のみ前にささげたいと願いました。皆さんが正しい人となり、先に述べたように統治を行い、激情によらず、自己愛や私的な利益のためでもなく、岩であるキリスト、優しいイエスに根差したすべての人の善のために働き、あらゆる行いを神への畏れのうちに行うなら、祈りによって、都市の統治と平和と一致を保つことができるでしょう。ですから、十字架につけられたキリストの愛にかけて、皆さんにお願いします。ほかに道はないのですから、神のしもべたちの祈りによる助けを受けている以上、皆さんの側でも、必要なことを怠らないでください。もし怠るなら、確かに祈りによって少しは助けられるかもしれませんが、その助けも、ほどなくむなしくなってしまう程度にとどまるでしょう。皆さんも、ご自分の側で、この重荷を担うために力を貸さなければならないからです。
さて、皆さんが肉的で利己的な愛を身にまとっていては、神のしもべたちを助けることはできません。また、徳と、正義への聖なる熱意によって自分自身を助けない人は、兄弟たちの都市を助けることもできません。このことを考えて、わたしは、皆さんが新しい人であるキリスト、優しいイエスと、その計り知れない愛を身にまとう必要があると申し上げるのです。しかし、まず脱ぎ捨てなければ、それを身にまとうことはできません。わたし自身も、古い罪にしがみつくことがどれほど自分を害するか、また、神の愛という新しい衣がどれほど役立つかを悟らなければ、脱ぎ捨てることはできないのです。人は、自分の罪を認めると、それを憎んで脱ぎ捨てます。そして愛し、その愛のうちに、新しい人への愛で織られた徳の衣を身にまといます。これが道なのです。ですからわたしは、皆さんが古い人を脱ぎ捨て、新しい人である、十字架につけられたキリストを身にまとった姿を見たいと望んでいる、と申し上げました。このようにしてこそ、皆さんは恵みの状態と都市の統治を得て、それを保つことができるでしょう。また、聖なる教会にささげるべき敬意を決して欠くことなく、喜ばれる態度で果たすべき務めを果たし、自分たちの領国を保つでしょう。これ以上は申しません。神の聖なる優しい恵みのうちにとどまってください。優しいイエス、愛であるイエス。 ページの先頭へ
オージモのニコラオへ
カタリナの人となりに触れるとき、まず感じられるのは熱意ですが、それに続くのは忠実さです。そのいずれも、死の時まで衰えることはありませんでした。この手紙の重みのある穏やかな言葉には、心が高ぶるときや危機に臨んだときの熱烈な言葉にも増して、教会に対する彼女の理解がいかに深く、「あの甘美な花嫁」のために自らをささげようとする決意がいかに揺るぎないものであったかが、はっきりと表れているのかもしれません。グレゴリウスはイタリアに戻り、カタリナはシエナで比較的静かに暮らしながら、公の務めからしばしの休息を得ています。しかし、フィレンツェとの和平はまだ実現せず、教会の改革も始まってさえいません。それでも彼女の心は落胆に屈することなく、いつものように、自分自身が保っているのと同じ揺るぎない信仰と献身に他の人々をもとどまらせようとして、教皇の秘書に手紙を書きます。彼は彼女と同じ志を抱く聖なる人であったようですが、自分の努力が実を結んでいないように見えることや、公の務めにささげられた生活では必然的に外的な事柄に心を奪われることに、明らかに気落ちしていました。カタリナの鋭い分析は、オージモのニコラオに怠惰の言い訳を許しません。彼女の手紙は、とりわけその前半において、ニューマンの「繊細さ」を主題とする美しい詩を言い換えたもののように読めます。
「かつてわたしは、過ちを恐れるあまり、正しいことから身を引いていた。敵が強いという理由で、戦いに加わろうとはしなかった。
「だが今は、その繊細すぎる感覚も、いっそう痛ましい恥じらいも捨て去る。あのように罪を恐れることは怠惰であり、あのように天を目指すことは高慢であった。
「だから、救い主が呼ばれるとき、わたしは立ち上がり、静かに最善を尽くす。希望と恐れをたたえた沈黙のまなざしで、あとはすべて主に委ねる。
「主が導かれた道を、わたしは歩み、上ってゆく。人々はわたしのためらいを一つ一つ数える。わたしもそれを知っている。それでも、自分自身を恐れはするが、主の掟をそれ以上に愛する。」
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
甘美なイエス・キリストにおける、最愛の、いとも尊敬すべき父よ。イエス・キリストのしもべたちのしもべ、また奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたにお便りします。あなたが、神のうちでなければ決して動くことのない、堅固な柱となってくださることを願っています。そして、キリストの甘美な花嫁である聖なる教会の神秘体において、あなたに課せられた苦労や労苦を、決して避けたり拒んだりなさらないよう願っています。その園で養われる人々のうちに見いだした忘恩や無知のためにも、また、教会の事柄が混乱した状態に陥るのを見て、わたしたちを襲うかもしれない疲れのためにも、そうなさらないでください。というのも、あることに全力を尽くしていながら、それが望むように進まず、望む結果にも至らないとき、人の心はしばしば疲れと悲しみに陥るからです。それは、心の中でこう考え、語っているかのようです。「自分で始め、これほど長く取り組んできたのに、いまだに終わらないこの仕事は、もう諦めたほうがよい。そして、自分の心の平安と静けさを求めるほうがよい。」そのとき魂は、神の誉れと人々の救いを切に求め、自分自身の慰めを退けて、大胆にこう答えるべきです。「わたしは労苦を避けることも、そこから逃げることもしません。わたしは心の平安と静けさに値しないからです。それどころか、自分の選んだ境遇にとどまり、勇敢に、自らの労苦によって神に誉れを帰し、その労苦を隣人にささげたいと願います。」けれども時として、心にほとんど平安を感じられないとき、悪魔はわたしたちが取り組んでいることに倦み疲れるようにと、その人の思いの中にこうささやきます。「わたしはこのことで、善い功徳を積む以上に害を及ぼしている。だから、できればここから逃げ出したい。労苦のためではなく、害を及ぼしたくないからだ。」ああ、最愛の父よ、このような思いが心や精神に吹き込まれても、ご自身にも悪魔にも屈せず、悪魔を信じないでください。むしろ、喜びと熱い望みをもって、奴隷のような恐れを少しも抱かず、ご自分の労苦を受け入れてください。
そして、その中で過ちを犯すことを恐れないでください。過ちは、秩序を失い、ゆがんだ意志のうちに示されるものだからです。意志が神のうちに定まっていないときにこそ、人は過ちを犯すのです。魂が慰めを得られず、聖務や多くの詩編を唱えることもかなわず、ふさわしい時や場所に、あるいは自ら望むような心の平安をもって唱えられないとしても、その時間が無駄になるわけではありません。それどころか、その時間はまったく神のために用いられているのです。ですから、魂は心を痛めるべきではありません。とりわけ、キリストの花嫁のために労苦し、働いているときには、なおさらです。どのような仕方であれ、どのような事柄であれ、この花嫁のために働くことは、わたしたちの知性では見通すことも想像することもできないほどの功徳があり、それほどまでに神に喜ばれることだからです。
最愛の父よ、ある神のしもべが、この奉仕がどれほど神の御心にかなうかを示されたことを思い起こします。聖なる教会のために労苦を担う励みとなるよう、このことをお話しします。わたしの知るところでは、この神のしもべは、幾度となく抱いた願いの中でも、あるとき、キリストの花嫁である聖なる教会のために、自らの血を流し、命をささげ、意識そのものさえ無に帰したいという激しい望みを抱きました。そして、自分自身のうちには存在の根拠がないことを知り、自分に対する神のいつくしみを知ろうとして、心の目を上げました。つまり、神が愛によって自分に存在を与え、その存在に伴うあらゆる賜物と恵みを与えてくださったことを見ようとしたのです。こうして、そのような愛と深いいつくしみを見つめ、味わううちに、愛によるほかに神に応える道はないと悟りました。しかし、自分は神のお役に立つことが何もできないので、愛を示すことができませんでした。そこで、神を通して愛することのできる誰か、その人を通して愛を示すことのできる誰かがいないかと、ひたすら思い巡らしました。すると、神が理性を備えた被造物をこの上なく愛しておられることを悟り、自分に注がれたのと同じ愛が、すべての人に注がれていることを見いだしました。すべての人は神に愛されているからです。これこそ、自分が役に立つことのできる道として見いだしたものであり、神を愛しているかどうかを示す道でもありました。そこで彼女は、隣人への愛に満たされて熱意をもって立ち上がり、その救いのためなら喜んで命をささげたいと思うほどの愛を抱きました。こうして、神に対して果たすことのできない奉仕を、隣人に対して果たしたいと望んだのです。そして、神が御子であるみことばを通してわたしたちに愛といつくしみを示してくださったように、自分も隣人を通して応え、愛に愛をもって報いるのがふさわしいと悟りました。霊魂の救いを望み、神に誉れを帰し、隣人のために労することが神の御心にかなうと知ると、どのような園で、どのような食卓で、隣人を味わうことができるのかを見定めようとしました。
すると、わたしたちの救い主は彼女にそれを示し、こう言われました。「最愛の娘よ、あなたはわたしの花嫁の園で、いと聖なる十字架の食卓について食するのがふさわしい。自分の苦しみ、十字架につけられた望み、徹夜の祈りと祈願、そして自分にできるあらゆる働きを、怠ることなくささげるのだ。聖なる教会の救いを望まずに、霊魂の救いを望むことはできないと知りなさい。教会は、聖なる信仰の光を分かち合うすべての被造物から成る普遍的なからだであり、彼らはわたしの花嫁に従わなければ、いのちを持つことができないからである。だから、あなたは、キリスト者である隣人も、信仰を持たない人々も、理性を備えたすべての被造物も、聖なる従順のくびきの下で、生きた信仰の光をまとい、善い聖なる行いを伴って、この園で養われる姿を見ることを望まなければならない。行いのない信仰は死んでいるからである。これが、そのからだ全体に共通する飢えであり、望みである。しかし今、わたしはあなたに告げ、望む。飢えと望みをさらに深め、とりわけ聖なる教会という神秘的なからだにおいて、わたしの花嫁を刷新するために、必要なら命をささげる覚悟をしていなさい。花嫁が刷新されれば、全世界にも益がもたらされるからである。どのようにしてか。闇、無知、自己愛、不潔、高ぶった傲慢によって、花嫁に属する者たちの霊魂のうちに闇と死が生まれるからである。だから、わたしはあなたと、わたしのほかのしもべたちを呼び集め、わたしがあなたがたに与える力に応じて、望みをもって、徹夜の祈り、祈願、そのほかあらゆる業に励むよう求める。あなたに言う。花嫁にささげられる労苦と奉仕は、それほどまでにわたしの心にかなうので、誠実で聖なる意向を持つわたしのしもべたちにおいて報われるだけでなく、世に仕える者たちにおいても報われるのである。彼らはしばしば自己愛から花嫁に仕えるが、聖なる教会への敬意から仕えることも少なくない。それゆえ、あなたに言う。わたしはこの奉仕をそれほど善いものと見なしているので、敬意をもって花嫁に仕える者で、報われない者は一人もいない。そして、そのような者は永遠の死を見ることはないと、あなたに言う。同じように、わたしの花嫁を傷つけ、不誠実に、敬意を欠いて仕える者たちについても、その不正を罰せずに済ませることはなく、何らかの形で必ず罰する。」
そのとき彼女は、神のいつくしみのこれほどの偉大さと惜しみなさを見て、いっそう神の御心にかなうために何をなすべきかを悟り、望みの炎をますます燃え上がらせました。そのため、もし聖なる教会のために一日に千回、自分の命をささげることができ、それを今から最後の審判の日まで続けることができたとしても、それは海に落ちる一滴のぶどう酒にも及ばないと、彼女には思われたのです。そして、実際にそのとおりなのです。
ですから、これまでいつもなさってきたように、この花嫁のために労してくださることを願い、また、そうするようお呼びかけします。まことに、あなたはこの花嫁を支え、助けるために自らをささげた柱です。先に申しましたように、苦難によっても慰めによっても決して揺るがない、そのような柱であるべきです。また、真理の道を歩む者たちを妨げようと、多くの逆風が吹いているからといって、わたしたちはいかなる理由であれ後ろを振り返ってはなりません。それゆえ、あなたが堅固な柱であるのを見たいと申したのです。さあ、最愛の、いとも優しい父よ、立ち上がってください。今こそ、この花嫁のために神に誉れを帰し、花嫁のために労するときだからです。十字架につけられたキリストの愛にかけて、お願い申し上げます。聖なる教会の改革と、これほど多くの霊魂を滅びに陥れているこの大きな戦争に平和をもたらすために、教皇様が、ご自身の良心にかなうと認められるあらゆる方策を、怠ることなく熱心に講じてくださるよう、どうかお頼みください。あらゆる怠慢と生ぬるさについて、神は教皇様をこの上なく厳しくとがめ、そのために滅びつつある霊魂について責任をお問いになるからです。教皇様にわたしのことをよろしくお伝えください。そして、謹んでその祝福をお願い申し上げます。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。優しいイエス、愛なるイエス。 ページ上部へ
ボローニャの教皇令集博士、ロレンツォ・デル・ピーノ殿へ(脱魂状態で記された手紙)
この手紙の冒頭にある、なじみ深くも常に気高い神学的な考察は、まず、卑しく利欲に走る人間の厳しい描写へと進み、それに続いて、この世の楽しみや財産の正しい用い方が、節度ある知恵をもって論じられます。「神がお造りになったものは、すべて善く、完全です」とカタリナは言います。「ただし、罪は別です。罪は神がお造りになったものではなく、それゆえ愛するに値しません。」この考えに喝采を送るであろう現代の宗教的快楽主義も、その後に続く言葉には、それほど満足しないでしょう。というのも、カタリナは、所有することがキリスト者に許されているとしても、結局のところ「所有するよりも放棄するほうが、より完全である」という、近代の考えに反する立場を決して忘れないからです。また、この世の財産に対して、心のうちに真の離脱を保ってきた人は、その必然的な帰結として、遅かれ早かれ、行いにおいても離脱することを切望するようになるのです。
脱魂状態で記されたというには、不思議なほど落ち着いた手紙です。その神秘的な状態がいかなるものであったにせよ、それがカタリナから精神の健全さや冷静さを奪わなかったことは明らかです。この手紙の宛先である法学博士は、当時の公的生活と法曹界において、かなり重要な人物でした。貧しい人々に助言を与える前に彼らを待たせる冷酷な人物――明らかに法律家です――の厳しい描写には、宛先の人物その人に向けた意味合いがあるのではないかと、つい考えてしまいます。しかし、おそらく、その推測には根拠がなく、この手紙がロレンツォ殿に伝えたのは、その職業に伴う誘惑についての一般的な説明にすぎず、それ以上に本人の内面に迫るものではなかったのかもしれません。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける、最愛の兄弟、また子よ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべ、はしためであるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたに書き送ります。あなたが真理を愛してそれに従い、偽りを退ける人となるのを見たいと願ってのことです。しかし、この真理は、知らなければ、自分のものとすることも愛することもできません。真理とはどなたでしょうか。神こそ、至高にして永遠の真理です。わたしたちは、どなたにおいて神を知るのでしょうか。優しいイエス・キリストにおいてです。キリストはご自分の御血によって、永遠の御父の真理をわたしたちに示してくださるからです。わたしたちに対する御父の真理とは、わたしたちに永遠のいのちを与え、ご自分の善にあずからせ、それを喜び味わわせるために、ご自分の像と似姿にわたしたちをお造りになったということです。しかし、人間の罪によって、この真理は人間のうちに実現されませんでした。それゆえ神は、みことばである御子をわたしたちにお与えになり、多くの苦しみを耐え忍ぶことによって人間を恵みへと立ち返らせるという従順の務めを、御子にお課しになりました。それは、御子がご自身の位格において人間の罪を清め、ご自分の御血によって御父の真理を現すということでした。こうして人間は、十字架につけられたキリストの御血を通して自分に示される、計り知れない愛を知り、神がわたしたちの聖化以外には何も求めず、何もお望みにならないことを悟るのです。この目的のために、わたしたちは造られました。そして、この世の生活において神がわたしたちにお与えになるもの、あるいはお許しになることは何であれ、わたしたちが神のうちに聖なる者とされるために与えられるのです。この真理を知る人は、決してそれに逆らわず、いつもそれに従い、それを愛し、十字架につけられたキリストの足跡を歩みます。そして、この優しく愛に満ちたみことばが、わたしたちの模範となり、わたしたちを教えるために、この世とあらゆる楽しみを退け、御父の誉れとわたしたちの救いのために、飢え渇き、恥辱、そしりに耐え、十字架上の恥ずべき死に至るまで忍ぶことをお選びになったように、いとも聖なる信仰の光のうちに知った真理を愛する人も、この道を進み、この足跡に従うのです。この光がなければ、真理を知ることはできません。しかし、この光を持つ人は真理を知り、知ることによってそれを愛し、神が愛されるものを愛し、神が憎まれるものを憎む者となるのです。
真理を愛する人と真理を憎む人との間には、次のような違いがあります。真理を憎む人は、大罪の闇の中に横たわっています。その人は神が愛されるものを憎み、神が憎まれるものを愛します。神は罪と、世の度を越した楽しみやぜいたくを憎まれますが、そのような人はそれらすべてを愛し、世のみじめなつまらないもので自分を肥え太らせ、どのような地位にあっても自らを堕落させます。何らかの形で隣人に仕えるべき務めに就いていても、自分に何か利益が得られる限りでしか隣人に仕えず、それ以上のことはせず、自分自身を愛する者となります。祝福されたキリストはわたしたちのためにご自分のいのちをお与えになりましたが、そのような人は、報酬が、しかも十分以上の報酬が得られると分からなければ、隣人に仕えるために一言さえ語ろうとしません。隣人が報酬を払えない貧しい人であれば、真実を告げるまでその人を待たせ、しばしば真実をまったく告げず、かえってあざ笑います。あわれみ深くあり、貧しい人々の父となるべきところで、貧しい人々を不当に扱うことによって、自分の魂に対して残酷な者となるのです。しかし、このみじめな人は、すべての罪には正しく罰が与えられ、すべての善には報いが与えられるのですから、至高の裁き主がその人からお受けになるものに応じたものしか、その人にお返しにならないことを悟りません。キリストは自ら進んで貧しさを受け入れ、貞潔を愛されましたが、偽りに従い、偽りを愛する者となったこのみじめな人は、まさにその反対のことをします。持っているもので満足せず、徳への愛から自らを慎むこともしないばかりか、他人のものを奪います。また、守るべきとおりに守れば良心に恥じることなくとどまれる婚姻の身分にも満足せず、理性のない獣のように節度を失ってあらゆるみじめな行いに身を投じ、豚が汚物の中を転げ回るように、不貞の汚れの中を転げ回るのです。
けれども、わたしたちはこう言うかもしれません。「富を持ち、結婚しているわたしは、どうすればよいのでしょうか。これらのことがわたしの魂を滅びに至らせるのであれば。」最愛の兄弟よ、人はどのような境遇にあっても、自分の魂を救い、恵みのいのちを自分のうちに受けることができます。ただし、大罪の罪責のうちにとどまっている間は、そうはいきません。どのような境遇も神に喜ばれるものであり、神がお受け入れになるのは、人の境遇ではなく、聖なる望みだからです。ですから、節度ある意志をもって保つのであれば、わたしたちはこれらのものを持ち続けることができます。神がお造りになったものはすべて善く、完全だからです。ただし、罪は別です。罪は神がお造りになったものではなく、それゆえ愛するに値しません。望むのであれば、人は富や世の地位を保ち続けることができ、それによって神にも自分の魂にも不正を働くことにはなりません。しかし、それらを放棄するならば、より完全なことになります。所有することよりも、放棄することのうちに、いっそうの完全さがあるからです。実際に放棄することを望まないなら、聖なる望みをもってそれらを放棄し、手放すべきです。そして、それらを何よりも愛するのではなく、ただ神だけを何よりも愛するべきです。また、自分と家族の必要を満たすために、それらを自分のものとしてではなく、借りているものとして保つようにすべきです。そうすれば、いかなる被造物によっても苦しむことはありません。愛着をもって所有していないものは、失っても悲しまないからです。このように、世に仕え、偽りを愛する人々は、生涯に非常に大きな苦しみを耐え忍び、最後の最後まで激しい苦悶に耐えるのです。その理由は何でしょうか。自分自身と被造物に対する度を越した愛、すなわち神から切り離してそれらを愛する、その愛です。神はその善において、度を越した愛着がすべて、それ自体にとって耐え難いものとなることをお許しになったからです。
このような人は、いつも偽りを信じます。その人のうちには真理の認識がないからです。そして、世にしがみつき、快楽のうちにとどまり、自分の体を神とし、度を越して愛するほかのものをも神にしようと考えますが、それらすべてを手放さなければなりません。わたしたちが目にするとおり、その人が死によってそれらを後にするか、あるいは、それより先にそれらがその人から取り去られることを神がお許しになるか、そのいずれかです。わたしたちは毎日それを目にしています。人は、ある時は富み、ある時は貧しくなります。今日は世の高い地位にあり、明日はそこから引き落とされます。ある時は健康であり、ある時は病気になります。このように、すべてのものは移り変わり、しっかりと握り締めようと思っているときに、わたしたちから取り去られます。あるいは、死によってわたしたちのほうが、それらから引き離されるのです。
このように、すべてのものが過ぎ去ることが分かります。ですから、それらが過ぎ去るものだと知って、理性の光のうちに節度をもって所有し、愛すべき仕方で愛さなければなりません。そのようにそれらを保つ人は、罪の助けによってではなく恵みによって、貪欲によってではなく寛大な心によって、残酷さによってではなく貧しい人々へのあわれみによって、傲慢によってではなく謙遜によって、忘恩によってではなく感謝によって、それらを保つでしょう。そして、自分の所有するものが、自分自身からではなく、自分の創造主から来ることを認めるでしょう。この同じ節度ある愛をもって、その人は自分の子ども、友人、親族、そして理性を備えたほかのすべての存在を愛するでしょう。婚姻の身分を、定められたもの、しかも秘跡として定められたものとして守り、聖なる教会が定める日々を尊重するでしょう。その人は獣のようにではなく、人間として存在し、生きるでしょう。また、禁欲生活を送る者ではないにしても、貞潔と自制を守る者となるでしょう。このような人は、徳の実を結ぶ実り豊かな木となり、地に植えられていながらも、芳香を放ち、よい香りを漂わせるでしょう。そして、その人から生まれる種は、善く、徳に満ちたものとなるでしょう。
ですから、どのような境遇にあっても神とともにいることができるとお分かりでしょう。わたしたちから神を奪うのは境遇ではなく、ただ悪しき意志だけだからです。その意志は、偽りを愛することに心を定めると、秩序を失い、人のあらゆる行いを腐敗させます。しかし、真理を愛する人は、真理の足跡に従います。こうして、真理が憎むものを憎み、真理が愛するものを愛するので、その人の行いはすべて善いもの、完全なものとなります。そうでなければ、恵みのいのちにあずかることはできず、そのどの行いも、生きた実を結ぶことはないでしょう。
ですから、ほかに道を知らないわたしは、あなたが真理を愛してそれに従い、偽りを退ける人となることを望むと申しました。偽りの父である悪魔と、そのような父に従うご自分の低い本性を憎み、道であり、真理であり、いのちである、十字架につけられたキリストを愛していただきたいのです。キリストのうちを歩む人は光に至り、あらゆる徳を備えた、輝く愛の衣をまとうからです。この愛、言葉では言い尽くせない愛が魂のうちにあるとき、それは通常の状態にとどまることに満足せず、さらに先へ進むことを望みます。こうして、心の貧しさから実生活の貧しさへ、心の貞潔から実生活の貞潔へと進み、キリストの掟だけでなく、勧告をも守ることを望むのです。この世という汚物の山に嫌悪を覚え始めるからです。そして、汚れの中にいながら汚されずにいることの難しさが分かるので、息もつかぬほどの切望と燃える愛をもって、できるかぎり、一度の行動でこの世から自らを解き放とうと願います。実際に離れることができなければ、今いる場所で完全な者となろうと努めます。少なくとも、その望みを失うことはありません。
それでは、最愛の兄弟よ、もう眠り続けることなく、まどろみから目覚めましょう。信仰の光のうちに心の目を開き、へりくだり、愛に満ちた小羊の御血を通して知ることになる真理を、知り、愛し、それに従ってください。自分自身を知ることのうちに、あなたはその御血を知るでしょう。それは、あなたの魂の顔がその御血で洗われるためです。そして、この御血はわたしたちのものです。わたしたちが自らそう望まないかぎり、だれもそれを奪うことはできません。ですから、もう怠ることなく、器のように、十字架につけられたキリストの御血で自分を満たしてください。これ以上は申しません。神の聖なる、甘美な恵みのうちにとどまってください。優しいイエス、愛なるイエス。 ページの先頭へ
ロッカ・ドルチャから書かれた手紙
これらの打ち解けた短い手紙は、おそらく1377年の秋、カタリナがシエナから約23マイル離れた、モンテ・アミアータの山麓にあるサリンベーニ家の封建領主の居城を訪れていたときに書かれたものです。この若い「庶民の娘」は、これらの大貴族の内々の協議に加わることを許されました。彼らは、彼女自身なら当然共感を寄せたであろう民衆政府への反対勢力を率いる人々でした。丘陵の中に鷲の巣のようにそびえるこの城での生活は、町育ちの娘にとって、きっと初めての経験だったことでしょう。中庭には傭兵や粗野な農民がひしめき、人々の振る舞いも、彼女の市民階級の友人たちの間で見られるものより、狡猾であると同時に荒々しかったに違いないと想像されます。悪霊に苦しめられる男女が、身をよじりながら彼女のもとへ連れてこられ、迎え入れられ、世話を受け、いやされるという、生き生きとした光景も伝えられています。彼女にとって、数人の聴罪司祭がともにいてくれることは慰めでした。これらの手紙の最初の一通には、彼らが荒々しい兵士たちの信仰上の幸いのために、気取らぬ熱意をもって働く様子が、味わいのある表現で描かれています。いつものように内的生活に深く心を向けていたカタリナは、ここ山中でサリンベーニ家の高貴な婦人たちに囲まれていても、シエナや教皇の宮廷にいるときと同じように、穏やかにくつろいでいました。
その一方で、善良なラパ夫人は、以前と変わらず、娘と離れていることに不平を漏らしていました。また、カタリナと同じマンテラーテの姉妹たちも、明らかに寂しさを募らせていました。カタリナは彼女たちに、たいへん優しく、飾り気のない言葉で手紙を書き、自分や友人たちが好んで自らをなぞらえていた最初の弟子たちの一団も、同じような悲しみを耐え忍んだことを思い起こさせ、それによって彼女たちがこの別離を受け入れられるよう努めています。愛するアレッサには、もっと心を開いて、親しい愛情ゆえに知りたくなるような、健康や心の状態についての細やかな消息を伝えています。私生活では、彼女にとって悲しい日々でした。ほかの奉仕に召されたライモンド修道士と別れなければならなかったからです。アレッサへの言葉には、彼女の悲しみと同時に、すべてを受け入れる従順さも映し出されています。注目すべきことに、彼女は客人として迎えてくれた人々の秘密を、品位をもって守っています。自分が携わっている事柄については、母に宛てた「事情をご存じでしたら、お母様ご自身がわたしをここへ送り出してくださると思います」という控えめな言葉以外、何ひとつほのめかしていません。
カタリナが同じような不平に向き合わなければならなかったのは、決してこのときだけではありません。その力強い生命力、限りない共感、そして独特の魅力を携えて彼女が赴くところには、どこでも新しい友人が集まりました。彼らは理屈を超えたひたむきな愛着をもって彼女にすがり、そのそばにいたいという激しい渇望から、彼女に多くを求めて訴えかけ、それがしばしば彼女にとって真の苦しみとなったのです。カタリナは、一人ひとりの愛情にすぐさま応え、いつも申し分のない誠実さを示していました。それでも彼女が生きていたのは、より大きな務めへの揺るぎない奉仕のために、個人的な求めを、少なくとも外に表れる形では満たすことを、いつ何時でも断らざるをえない世界でした。これは友人たちにはとても理解しがたいことであり、彼らを気の毒に思わずにはいられません。同時に、彼女のあらゆる行いの根底にある崇高な召命の自覚を、もっと素朴な心の持ち主である彼らにも理解し、共感してもらおうと努める姿には、少なからず胸を打たれます。「最愛のお母様、知っておいてください。あなたの哀れな小さな娘であるわたしがこの地上に置かれているのは、ただこのためだけなのです。わたしの造り主が、このためにわたしをお選びになりました。わたしがあの方に従うことを、お母様は喜んでくださると分かっています。」しかし、ラパ夫人は、最後の最後まで、すっかり満足することはありませんでした。 ページの先頭へ
ロッカ滞在中に、母ラパ夫人と、モンテプルチャーノの聖アグネス修道院にいるチェッカ夫人に宛てて
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける、最愛の母であり娘であるあなたへ。イエス・キリストのしもべたちのしもべであり奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたに書き送ります。あなたが神の愛の炎を身にまとい、あらゆる苦痛と責め苦、飢えと渇き、迫害と危害、嘲り、暴虐と侮辱、そしてそのほかのすべてを、真の忍耐をもって耐え忍ぶことができますようにと願っています。燃えるような愛をもって、十字架上の恥辱の死へと走って行かれ、苦しみを受けて屠られた小羊に学んでください。それゆえ、いと優しい母マリアと心を合わせて歩んでください。マリアは、聖なる弟子たちがその優しい御子の足跡に従い、神の誉れと霊魂の救いを求めることができるように、この上なく愛していた彼らが自分のもとを去ることを承諾し、ご自身は、寄留者、旅人として、独り残されたかのようにとどまられます。弟子たちも、マリアを限りなく愛していながら、喜んでそのもとを去り、神の誉れのためにあらゆる悲しみを忍び、暴君たちの間に出て行き、多くの迫害に耐えます。もし彼らに「マリアのもとを去って行くというのに、なぜそれほど喜んでいるのですか」と尋ねるなら、こう答えるでしょう。「わたしたちは自分自身を忘れ、神の誉れと霊魂の救いに心を奪われているからです」。最愛の母であり娘であるあなたにも、まさにそのようにしてほしいのです。これまでそうでなかったのなら、今こそ神の愛の火に燃え、いつも神の誉れと霊魂の救いを求めてほしいのです。そうでなければ、あなたはこの上ない悲しみと苦難に陥り、わたしまでその中に引きずり込むことになるでしょう。最愛の母よ、あなたの貧しい小さな娘であるわたしは、ただこのためだけに地上に置かれているのだと知ってください。わたしの創造主は、このためにわたしをお選びになったのです。わたしが主に従うことを、あなたが喜んでくださると分かっています。どうか、わたしの不在があなたの望むより長く続くように思えても、それを受け入れてください。わたしには、ほかにどうすることもできないのです。事情をご存じなら、あなたご自身がわたしをここへ送り出してくださると信じています。わたしは、大きなつまずきとなる事態について、できれば助けを見いだすために、ここにとどまっています。もっとも、これは伯爵夫人の過ちではありません。ですから、よい結果をもたらしてくださるよう、皆で神と栄光に輝くおとめに祈ってください。そして、あなたもチェッカもジュスティーナも、十字架につけられたキリストの御血に身を沈めてください。今こそ、魂のうちにある徳を示す時だからです。神が皆さんに、その優しく永遠の祝福をお与えくださいますように。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。優しいイエス、愛であるイエス。 ページの先頭へ
施療院のモンナ・カタリナと、シエナのジョヴァンナ・ディ・カーポへ
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける、最愛の娘たちへ。イエス・キリストのしもべたちのしもべであり奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたがたに書き送ります。あなたがたが従順な娘となり、真の完全な愛のうちに結ばれることを願っています。この従順と愛は、あなたがたの苦しみと憂いをすべて払い去るでしょう。従順は、わたしたちに苦しみをもたらすもの、すなわち自分自身のよこしまな意志を取り除くからです。その意志は、真の聖なる従順のうちに完全に打ち砕かれます。憂いは、愛と一致の力によって散らされ、焼き尽くされます。神は真の愛であり、いと高き永遠の光だからです。この真の光を導きとする人は、道を踏み外すことがありません。ですから、最愛の娘たちよ、これはそれほど必要なことなのですから、自分自身の意志を捨て、この光を得るように努めてほしいのです。
これこそ、わたしの記憶する限り、いつもあなたがたに授けられてきた教えです。けれども、あなたがたはそこからわずかしか学んでいません。最愛の娘たちよ、まだ実行していないことを、どうか実行してください。そうしなければ、あなたがたは絶え間ない苦しみのうちにとどまり、あらゆる苦しみを受けて当然の、この哀れなわたしまで、その中に引きずり込むことになるでしょう。
わたしたちは神の誉れのために、聖なる使徒たちがしたようにしなければなりません。聖霊を受けた後、彼らは互いに別れ、また、あの優しい母マリアのもとからも離れて行きました。共にいることは彼らにとって何よりの喜びでしたが、それでも自分たちの喜びを手放し、神の誉れと霊魂の救いを求めたのです。そしてマリアが彼らを自分のもとから送り出しても、そのために愛が薄れたとか、マリアの愛情を失ったとは考えませんでした。これこそ、わたしたちが自らの生き方の規範とすべきことです。わたしが共にいることが、あなたがたにとって大きな慰めであるのは分かっています。それでも、真に従順な者として、神の誉れと霊魂の救いのために、自分自身の慰めを求めてはなりません。また、あなたがたの魂と体に対してわたしが抱いている愛と献身を、まるで失ってしまったかのように思わせる悪魔に、つけ入る隙を与えないでください。もしそうでなければ、あなたがたのうちに真の愛が築かれることはないでしょう。確かに申し上げますが、わたしは神のうちにおいてのみ、あなたがたを愛しています。そうならざるを得ない事柄のために、なぜそれほど節度を失った苦しみに陥るのですか。ああ、このように小さなことでつまずくのなら、大きなことを成し遂げるべき時が来たとき、わたしたちはどうするのでしょうか。物事の成り行きに応じて、わたしたちは共にいたり、離れていたりしなければならないでしょう。今は、わたしたちの優しい救い主が、ご自分の誉れのために、わたしたちが離れていることを望み、お許しになっているのです。
あなたがたはシエナにおり、チェッカとおばあさまはモンテプルチャーノにいます。修道士バルトロメオと修道士マッテオは、これからもそこにいるでしょうし、これまでもそこにいました。アレッサとモンナ・ブルーナは、モンテプルチャーノから十八マイル離れたモンテ・ジョーヴェにいて、伯爵夫人とモンナ・リーザと一緒です。修道士ライモンドと修道士トンマーゾ、モンナ・トンマ、リーザ、そして私は、ロッカで傭兵たちの間にいます。そして、肉体をまとった悪魔どもがあまりにも大勢食い尽くされているので、修道士トンマーゾは、そのためにお腹が痛むと言っています! これだけあっても彼らは満足できず、なおも飢え求め、ここでは割のよい仕事を見つけています。神のいつくしみに祈り、甘いものも苦いものも、大きな一口を彼らに与えてくださるよう願ってください! 神の誉れと霊魂の救いが、喜ばしく目の当たりにされているのだと思ってください。それ以外の何ものも望み、願うべきではありません。このような思いでいること以上に、神のいと高く永遠のみ旨と、私の願いを喜ばせることは、あなたがたにはできないでしょう。さあ、娘たちよ、自分の意志を神にささげ始めなさい! いつまでも乳飲み子のままでいようとしてはなりません。必要とあれば、堅くかびたパンをもかみ砕けるよう、望みという歯を整えておかなければならないのです。
これ以上は申しません。愛の甘美な絆で自分を結びなさい。そうしてこそ、自分が娘であることを示せるのであり、ほかの仕方では示せません。優しいイエス・キリストのうちに慰めを得て、ほかの娘たちを皆慰めてあげてください。神のいつくしみがお望みになるままに、できるだけ早く戻ります。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。優しいイエス、愛なるイエス。 ページの先頭へ
ロッカにいたとき、聖ドミニコの修道服を着たモンナ・アレッサへ
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける、最愛の娘よ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべ、また奴隷である私カタリナは、キリストの尊い血のうちにあなたに書き送ります。あなたがいとも聖なる信仰の光のうちに、被造物へのあらゆる愛着を脱ぎ捨て、ただ創造主のみを身にまとい、自由な心で汚れなき小羊の教えに従う姿を見たいと願っています。その光なしには、ほふられた汚れなき小羊のまっすぐな道を歩むことができないからです。それゆえ私の魂は、あなたもほかの人たちも清く雄々しくあり、どのような風が吹こうとも、それに翻弄されない姿を見たいと願っています。後ろを振り返らないよう心し、授けられた教えを心に留めて、しっかりと進み続けてください。毎日新たに、信仰の光を携えて自分の魂の庭に入り、授けられた教えの種を覆いふさいでしまいかねない茨をすべて引き抜き、土を掘り返すことを怠らないでください。つまり、日々、心にまとっているものを脱ぎ捨てなさい。それは何度でも繰り返して行う必要があります。私は、自分を覆うものを脱ぎ捨てたように見える人が、実は罪をまとっていることに、言葉よりもむしろ行いを通して気づいたことが何度もあるからです。言葉ではその逆に見えても、行いがその人の執着を示していました。ですから私は、あなたが十字架につけられたキリストに従い、真に心にまとっているものを脱ぎ捨てることを望んでいます。そして、唇には沈黙を保ってください。私はこのことに気を留めてきました。もう一人の女性は、沈黙をほとんど守っていないと思うからです。そのことをとても悲しく思います。私に思われるとおり、もしそうであるなら、私の創造主は、私がそれを耐え忍ぶことを望んでおられ、私も喜んでそうします。しかし、神に対してなされる過ちを喜んで受け入れるわけではありません。
あなたは、祈りのうちに、私のために祈るよう神に強く促される気がすると書いてくれました。私の貧しい魂に、このような言い尽くせない愛を示してくださる神のいつくしみに感謝します! また、今、私が苦しみ、いつもの不調を抱えているなら、知らせてほしいとも言ってくれました。お答えします。神は内にも外にも、驚くほどよく私を顧みてくださいました。この待降節には、書くことによって苦痛から心をそらせてくださり、私の体をたいそう気遣ってくださいました。ただ、神のいつくしみによって、苦痛が以前よりひどくなったことは確かです。神は苦痛をひどくなさった一方で、修道士サンティが病に倒れるとすぐに、リーザが治るように計らってくださいました。というのも、彼は死の瀬戸際にいたからです。今では、ほとんど奇跡といえるほど回復し、治ったと言えるほどになりました。しかし、私の花婿である永遠の真理は、目に見えることにおいても、見えないことにおいても、内にも外にも、実に甘美な、真の試練を私に与えようと望まれたようです。しかも、目に見えない試練のほうが、比べようもないほど大きかったのです。それでも、私たちを試みておられる間、神は言葉では言い表せないほど優しく、私たちを顧みてくださいました。ですから私は、苦痛を食べ物とし、涙を飲み物とし、汗を塗り油としたいのです。苦痛が私を肥えさせ、苦痛が私を癒やし、苦痛が私に光を与え、苦痛が私に知恵を授け、苦痛が私の裸を覆い、苦痛が霊的にも現世的にもあらゆる自己愛を私からはぎ取ってくれますように。同じ被造物である人々から慰めを得られない苦しみは、私に自分の徳の乏しさを省みるよう促し、自らの不完全さと、甘美な真理のいとも完全な光を認めさせてくれました。この真理である方が与え、受け取られるのは、物質的なものではなく、聖なる望みです。この方は、私の光や知識が乏しいからといって、私に対するいつくしみを取り去ることはなさらず、ただ至高の善であるご自分だけを顧みてくださったのです。
最愛の娘よ、十字架につけられたイエス・キリストの愛にかけてお願いします。祈りを怠らないでください。いえ、むしろ倍にしてください。あなたが思っている以上に、わたしには祈りが必要なのです。そして、わたしに代わって神のいつくしみに感謝してください。また、神のために命をささげる恵みをわたしにお与えくださるよう、そして、もしみ心にかなうなら、この体の重荷を取り去ってくださるよう、神に祈ってください。わたしの命は、ほかの誰にとってもほとんど役に立たず、むしろ、わたしの罪のために、近くにいる人にも遠くにいる人にも、苦しみと重荷をもたらしているからです。神がそのいつくしみによって、これほど大きな過ちをわたしから取り除いてくださいますように。そして、残されたわずかな時を、徳への愛に燃えて生きさせてくださいますように。苦しみのうちに、全世界の救いと聖なる教会の改革を求める、悲しみと苦痛に満ちた願いを、神のみ前にささげることができますように。喜んでください、わたしとともに十字架のうちに喜んでください。こうして十字架が、魂の安らぐ床となり、静けさと確信のうちに忍耐の実である天の糧を味わう食卓となりますように。
あなたはわたしに知らせを送り、こう伝えてくれました……。このことで、わたしは慰められました。彼女の暮らしについては、自らを改め、これまでよりも心の虚栄を控えて生きているのではないかと希望を抱いていますし、子どもたちが聖なる洗礼の光へと導かれたことにも慰められました。神がこの子どもたちに、この上なく甘美な恵みをお与えくださいますように。そして、もし善い者とならないのであれば、死をお与えくださいますように。甘美なイエス・キリストにおいて、子どもたちを祝福し、彼女を慰めてください。そして、神への聖なる甘美な畏れのうちに生き、神から受けた恵みが決して小さなものではなく、非常に大きなものであったことをわきまえるよう、彼女に伝えてください。もし彼女が感謝を忘れるなら、それは神を大いに悲しませるでしょうし、おそらく神は、罰せずにはおかれないでしょう。
あなたに託します……。あの人たちからはまったく知らせがなく、その理由も分かりません。神のみ旨が行われますように。わたしたちの救い主はわたしを島に置かれ、四方から風が吹きつけています。互いにどれほど遠く離れていても、皆、十字架につけられたキリストのうちに喜びましょう。自分自身を知るという家の中に身を閉じ込めてください。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。甘美なイエス、愛なるイエス。 ページの先頭へ
グレゴリウス十一世へ
この手紙の日付を示す証拠はありませんが、その語調からすると、カタリナの書簡の最新の編者が、これを教皇のイタリア帰還後のものとしたのは、おそらく正しいでしょう。そこには、長く続いた関係が終わりに近づき、カタリナの側からすれば、失望のうちに幕を閉じようとしていることがうかがえます。グレゴリウスとのそれ以前の関わりにおいて、彼女がここまで踏み込むことは決してなかったでしょう。この手紙で彼女は、教皇職に伴う道徳的な重責を担えないのであれば、その職を退いたほうがよいと、驚くべきことをほのめかしているのです。教皇はローマにいますが、変わったのは頭上の空であって、心ではありません。カタリナの手紙は、繰り返し訴えてきた願いを、短く力強くまとめたものです。その切実な勧告の厳粛さと権威、非難の明確さにおいて、これは確かに、敬虔で、まったく忠実な一人の信徒が、自らの頭と認める人に宛てて書いた手紙の中でも、最も驚くべきものの一つです。実際、このような手紙は、地上のあらゆる区別、すなわち知的・社会的な区別だけでなく、教会内の区別さえも目に入らなくなる霊的な境地から生まれています。そこでは、読み書きのできない染物職人の娘が、神によってすべてのキリスト者の父に定められたと揺るぎなく信じるその人を、あたかも当然の権利であるかのように叱責し、勧告することができるのです。カタリナの忍耐は限界に近づいている、と感じられます。そして実際、彼女の心が悲嘆に打ち砕かれる時も、もはや何年も先のことではありません。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
いとも聖なる、優しい父よ、甘美なイエス・キリストにおける、貧しくふさわしくないあなたの娘カタリナは、キリストの尊い血のうちに、自らをあなたに委ねます。そして、あなたが勇敢で男らしい人となり、いかなる恐れからも、ご自身や血縁のあるいかなる被造物への肉的な愛情からも自由になられることを願っています。というのも、神の甘美な現存のうちにわたしが悟るのは、これほどあなたの聖なる善い望みを妨げ、神の誉れと聖なる教会の高揚と改革を阻むものは、ほかにないということだからです。それゆえ、わたしの魂は、計り知れない愛をもって願います。神がその限りないいつくしみによって、あなたの心からあらゆる情念と生ぬるさを取り去り、燃え立つ熱烈な望みを新たに形づくることで、あなたを別の人へと造り変えてくださいますように。ほかのいかなる道によっても、あなたは神のみ旨と、そのしもべたちの願いを果たすことができないからです。ああ、ああ、この上なく優しい、わたしの「お父さま」、これまで申し上げたこと、また今申し上げていることの無遠慮をお赦しください。甘美な根源の真理に迫られて、わたしは語らずにはいられないのです。父よ、神のみ旨は次のとおりであり、あなたにこのことを求めています。聖なる教会の園で養われ、牧されている人々が犯す、おびただしい数々の不義に対して、あなたが正義を行うことを求めておられるのです。そして、獣に人間の食物を与えてはならないと告げておられます。神があなたに権威をお与えになり、あなたがそれを引き受けられた以上、ご自身の徳と力を用いるべきです。もしそれを用いる意志がおありでないなら、引き受けられたものを手放されるほうがよいでしょう。そのほうが、神にとってはより大きな誉れとなり、あなたの魂にとってはより健やかなこととなるでしょう。
神のみ旨が求めるもう一つのことは、争っているトスカーナ全土と聖下が和解なさることです。聖下に背いた不埒な子らすべてから、戦争によらずに取り戻せるものはすべて取り戻しつつも、父親が自分に過ちを犯した息子を罰すべきように、彼らを罰するのです。さらに、神の優しい慈しみは、聖なる十字軍の準備を願い出る人々に、聖下が全権をお与えになることを求めています。それは聖下には不可能に思われても、それを定め、その実現を望んでおられる神の優しい慈しみには可能なのです。ご自分の命を大切に思われるなら、このことをおろそかになさらず、聖霊の働きを冗談のように扱うことのないよう、くれぐれもお気をつけください。これらのことが聖下に求められているのは、聖下にはそれがおできになるからです。正義を望まれるなら、それを実行することがおできになります。世の邪悪な虚飾と快楽から退き、ただ神の誉れと聖なる教会に当然帰すべきものだけを守るなら、平和を得ることがおできになります。また、平和を願い求める人々にそれをお与えになる権威もお持ちです。聖下は貧しい者ではなく、富む者でいらっしゃいます。その手には天の国の鍵があり、聖下が開く相手には開かれ、閉ざす相手には閉ざされるのです。ですから、これをなさらなければ、神からお叱りを受けることになるでしょう。わたしが聖下の立場にあれば、神の裁きが自分に下るのではないかと恐れることでしょう。それゆえ、十字架につけられたキリストの名において、心から穏やかにお願い申し上げます。どうか神のみ旨に従ってください。聖下が望み、願っておられるのは、ただ神のみ旨を行うことだけだと、わたしは存じているからです。そうすれば、『お前は呪われよ。託された時と力を用いなかったのだから』という厳しい叱責を受けずに済むでしょう。父よ、神の慈しみにより、また聖下の聖性にも希望を託して、この叱責を受けることのないように行動してくださると信じています。
これ以上は申し上げません。どうかおゆるしください。どうかおゆるしください。聖下の救いを深く願う愛と、それに反することを目にしたときの大きな悲しみが、わたしにこのように語らせるのです。良心の重荷をすっかり下ろすために、できることなら、聖下ご自身に直接申し上げたかったのです。聖下がわたしの参上をお望みになるときには、喜んで参ります。どうか、聖下のことを十字架につけられたキリストに訴え出ずに済むようにしてください。ほかのどなたにも訴えることはできないのですから。地上には、聖下よりも偉大な方はおられないからです。神の聖なる、優しい恵みのうちにおとどまりください。へりくだって、聖下の祝福をお願い申し上げます。優しいイエス、愛であるイエス。 ページの先頭へ
ドミニコ会のカプアのライモンドへ
この手紙は、ほかの史料からもうかがえること、すなわちグレゴリウスがイタリアに戻った後、カタリナに反感を抱くようになったことを裏づけています。彼女はもはや、かつての喜びに満ちた親しさで「大切なお父さま」に直接語りかけることはありません。むしろ、ライモンド修道士を通して、「キリストの代理者である教皇聖下」に、改まった、ほとんどおびえるような伝言を送っています。ライモンドもまた、どうやら彼女とのつながりゆえに、明らかに教皇の不興を買っているのです。カタリナは、彼を勇気づけ、慰めるために筆を執っています。争いや不正に向き合うために、どのように心を備えるのが最善かを説く、その心を打つ助言のうちに、彼女自身の並外れた自制心の秘められた源を見いだすことができます。
怒りを抱く教皇に対するカタリナの態度には、痛悔と毅然とした姿勢が共存しています。叱責をただちに受け入れようとする心構えと、熱烈な謙遜を、これほどよく表す言葉はないでしょう。同時に、反感を招いた、歓迎されない信念を、これほど力強く貫く言葉もありません。この手紙が言及している行き違いの直接のきっかけについては、さまざまな推測があります。わたしたちも一つ付け加えるなら、前の手紙の大胆さは、グレゴリウスにとってさえ度を越していたのではないかと思われます。しかし、大まかな状況は、それ自体が多くを物語っています。グレゴリウスには、彼女に励まされて、イタリアへの帰還という肉体的にも精神的にも大きな努力を成し遂げるだけの強さがありました。しかし、すでに見たとおり、そこで直面した事態に対処するほどの強さはありませんでした。病によって衰弱し、イタリア語の知識がないために妨げられ、遭遇する困難に絶望的になっていた彼が、ほかの多くの気の弱い人々もそうしたであろうように、自分の帰還を実現させた人物に、怒りや冷たい不興を向けるようになったとしても、不思議ではありません。グレゴリウスが臨終の床で、居合わせた人々にカタリナを警戒するよう告げたという話があります。それが真実かどうかは別として、この話は、晩年の彼の彼女に対する態度を、同時代の人々がどのように受け止めていたかを示唆しています。初めのころには比類のない美しさを備えていた二人の関係は、こうして悲しい結末を迎えました。カタリナがどれほど深く傷ついたかは、十分に想像できます。彼女のつかの間の勝利は、すべて苦いものへと変わってしまいました。それは確かに、教皇の信頼を失ったという個人的な痛手のためというよりも――彼女も人間ですから、そのことを痛切に感じたに違いありませんが――教皇の帰還に託していた希望が、ことごとく打ち砕かれたためでした。
この手紙では、グレゴリウスの不興を前にした彼女の心からのへりくだりが、劇的なまでに突然、別の調子へと変わります。告発する者が再び裁く者となり、以前の権威をもって語るのです。「神は、あなたがこれを行うことを求めておられます。そう告げられたことを、あなたもご存じのとおりです。」彼という人に対する個人的な思いは、次の訴えとなってあふれ出ます。「もしあなたがわたしをお見捨てになったら、わたしはだれを頼ればよいのでしょうか。だれがわたしを助けてくれるのでしょうか。」しかし、その同じ息遣いのうちに、彼女の見事な確信も語られます。たとえ教会の頭であるキリストの代理者の不興を買うことになっても、なお信頼をもってキリストご自身のもとに逃れ、その花嫁の胸に安心して憩うことができるという確信です。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
甘美なイエス・キリストにおける、最愛の、心優しい神父様。イエス・キリストのしもべたちのしもべ、また奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたにお便りします。あなたが、悪魔の策略と苦しめ、また人々の悪意と迫害に立ち向かい、さらにはご自分の肉的な自己愛とも戦う、真の戦士となってくださるよう願っています。この自己愛は、人が徳と聖なる憎しみによって追い払わないかぎり、日々出会うほかの戦いにおいて決して強くなれないようにする敵です。自己愛はわたしたちを弱くするからです。ですから、徳の力をもってこれを追い払うことが、どうしても必要です。その力は、神が独り子の御血を通してわたしたちに示された、言い尽くせない愛のうちに得られます。神の愛からくみ取られるこの愛は、わたしたちに光といのちを与えます。その光によって、救いのために必要なときに真理を知り、大いなる完成に至り、真の忍耐と勇気と揺るがぬ心をもって死に至るまで耐え忍ぶことができます。真理を悟らせる光から得られるこの勇気によって、わたしたちは神の恵みのいのちを得るのです。ですから、汚れのない小羊の御血を深く飲み、創造主に対して不忠実なしもべではなく、忠実なしもべとなってください。どのような戦いや暗闇が襲っても、恐れず、後戻りせず、死に至るまで信仰をもって堅忍してください。堅忍によって労苦の実りが与えられることを、あなたはよくご存じだからです。
神のみ前で絶えずあなたのために祈っている、ある神のしもべから、あなたが非常に大きな戦いに遭い、悪魔のたくらみと策略によって心が暗闇に覆われたことを知りました。悪魔は、あなたに悪を善と、善を悪と思わせようとしています。それは、あなたが歩みの途中でつまずき、目標にたどり着けないようにするためです。しかし、心を強くしてください。神はこれまでも備えてくださり、これからも備えてくださいます。その摂理が欠けることはありません。あらゆることにおいて必ずマリアに助けを求め、聖なる十字架を抱き締め、決して心の混乱に陥ることなく、神のいつくしみという船に乗って、荒れ狂う海を進んでください。わたしはこう受け止めています。もし、修道者や世俗の人々から、聖なる教会という神秘体の中においてさえ、迫害や不快な仕打ちを受けたり、あるいは、あなたご自身のことでキリストの代理者の憤りを受けたり、また、わたしのことでこれらすべての人々から何か耐えねばならないことがあったりしても、抵抗せず、忍耐して受け止めてください。すぐにその場を去ってご自分の庵室に入り、そこで聖なる黙想のうちに自分を知ってください。神が、真理への愛のために耐え忍び、そのみ名のために迫害されるにふさわしい者としてくださっていることを思い巡らし、真の謙遜をもって、自分は罰に値し、成果を得るにはふさわしくない者であると考えてください。そして、なすべきことはすべて、神を目の前に仰ぎながら、賢明に行ってください。聖なる祈りの助けを得て、神のみ前で、またご自分の内省のうちに、言うべきことを語り、なすべきことを行ってください。そこであなたは、慈愛に満ちた師である聖霊に出会うでしょう。聖霊はあなたに知恵の光を注ぎ、何が神の誉れとなるかを見分け、選べるようにしてくださいます。これこそ、わたしたちの必要を限りない愛をもって顧みてくださる、甘美な根源の真理が授けてくださった教えです。
最愛の神父様、もし、わたしたちのこの上なく心優しく聖なる父、キリストの代理者である教皇聖下にお目にかかることがありましたら、どうかわたしのことを謹んでお取り次ぎください。わたしは、神に対して犯した多くの無知と怠慢、そして創造主への不従順のために、聖下のみ前で自分に非があると認めています。創造主はわたしに、熱烈な望みをもって声を上げ、祈りのうちにみ前で叫び求め、言葉においても身をもっても、その代理者のそばにいるよう呼びかけてくださったのです。わたしはあらゆる仕方で、計り知れない過ちを犯してきました。そのために、そうです、わたしの数々の不義のために、聖下も聖なる教会も多くの迫害を受けられたのだと信じています。ですから、聖下がわたしに不満を述べられるなら、それはもっともなことであり、わたしの欠点のために罰せられるのも正しいことです。しかし、力の及ぶかぎり自分の過ちを改め、聖下への従順をより完全に果たすよう努めると、お伝えください。こうしてわたしは、神のいつくしみによって、神がキリストの花嫁とその代理者、そしてわたしに、あわれみのまなざしを向けてくださると信頼しています。わたしを欠点と無知から解き放ち、その花嫁には、多くの忍耐とともに、平和と刷新による安らぎを与えてくださると信頼しています。というのも、聖なる教会という庭を覆いふさぐ、茨のような数多くの過ちは、労苦なしには決して根こそぎにできないからです。また、聖下が雄々しくあろうと望んでおられる事柄において、神が恵みを与えてくださり、よこしまな子らからいかなる労苦や迫害を受けても、後ろを振り返ることがないようにしてくださると信頼しています。揺るがず、堅忍して、疲労を避けることなく、神の誉れと霊魂の救いを飢え渇くように求め、小羊のように狼の群れのただ中へ身を投じていただきたいのです。この世の事柄への気遣いを遠ざけ、霊的な事柄だけに心を配っていただきたいのです。神のいつくしみが聖下に求めているとおりにそうなさるなら、小羊が狼を支配し、狼は小羊へと変わるでしょう。こうしてわたしたちは、神のみ名の栄光と賛美、聖なる教会の善と平和を目にするでしょう。これらは、ほかのいかなる方法によっても得られません。戦争によってではなく、平和と慈愛によって、また、過ちを犯す子に父が与えるべき、聖なる霊的な懲らしめによってこそ得られるのです。
ああ、ああ、ああ、教皇聖下。ご自分の地にお戻りになったその最初の日に、そうなさるべきでした。神のいつくしみと聖下の聖性に望みを置き、まだなされていないことを、これから成し遂げてくださると願っております。こうしてこそ、世俗的なものも霊的なものも、ともに取り戻されるのです。すでに告げられたことをご存じのとおり、神は聖下にこれをお求めになりました。すなわち、聖なる教会の改革に心を配り、その罪を罰し、善い牧者を立てること、そして、悪しき行いをするご自分の子らと、なしうる最善の、神に最も喜ばれる仕方で、聖なる和解を結ぶことです。そうして初めて、ご自身の腕で、信仰を持たない者たちに向かって、いとも聖なる十字架の旗を高く掲げることに取りかかれるのです。これほどの災いと損失、聖なる教会とその奉仕者たちに対する不敬が生じたのは、おそらく、わたしたちの怠慢と、できることをしなかったためだとわたしは思います。それは、残酷にでも争いをもってでもなく、平和と慈しみのうちになすべきことでした。(ただし、過ちを犯した者を罰するときには、常に、その者の罪に見合う程度ではなく――当然受けるべき罰には耐えられないからです――病むその人が耐えられる程度に応じて罰するのです。)そして、なされないまま残されたことを実行して手立てを講じなければ、わたしたちの罪は、さらに大きな不幸に値するほどのものとなり、それを目にすることになるのではないかと恐れています。それは、世俗の財産を失うことよりも、はるかに深い悲しみをもたらすような不幸です。こうしたすべての悪と悲しみの原因は、惨めなこのわたしにあります。わたしの徳が乏しく、不従順が甚だしいためです。
教皇聖下、わたしに対してお抱きの不快の念を、罰としてではなく、不快の念として、理性と真理の光のうちに見つめてください。聖下がわたしをお見捨てになるなら、わたしは誰に頼ればよいのでしょうか。誰がわたしを助けてくれるでしょうか。聖下がわたしを追い出されるなら、誰のもとに逃れればよいのでしょうか。わたしを迫害する者たちが追って来るので、わたしは聖下のもとへ、また、ほかの神の子らとしもべたちのもとへ逃れます。もし聖下が、わたしに不快と怒りを抱いてお見捨てになるなら、わたしは十字架につけられたキリストの傷のうちに身を隠します。聖下はそのキリストの代理者でいらっしゃいます。キリストがわたしを受け入れてくださることを、わたしは知っています。キリストは罪人の死をお望みにならないからです。そして、キリストに受け入れていただいたなら、聖下もわたしを追い出されることはないでしょう。むしろ、わたしたちは自分たちのいるべき場所にとどまり、キリストのいとしい花嫁のために、徳を武器として雄々しく戦うのです。わたしはこの花嫁のうちにあって、涙を流し、汗を流し、嘆息し、血と骨の髄をささげて、生涯を終えたいと願っています。たとえ全世界がわたしを追い出しても、かまいません。嘆きながらも大いに耐え忍び、このいとしい花嫁の胸に身を寄せて憩うからです。教皇聖下、わたしのあらゆる無知と、神と聖下に対して犯した過ちをおゆるしください。わたしを弁護し、自由にしてくださるのは真理、永遠の真理です。謹んで聖下の祝福をお願い申し上げます。
最愛の神父様(ライモンド)、あなたにはこう申し上げます。できるときには、心の苦しみも奴隷のような恐れも抱くことなく、聖下の前で雄々しい心を保ってください。まずしばらく自室にとどまり、マリアと、いとも聖なる十字架の前で、聖なるへりくだった祈りをささげ、真に自分を知り、生きた信仰と耐え忍ぶ意志をもって過ごしてください。それから、安心して(教皇のもとへ)お出かけください。そして、神の誉れと人々の魂の救いのために、死に至るまで、できるかぎりのことをしてください。この手紙であなたに書き送ることを、聖霊の導かれるままに、教皇にお伝えください。これ以上は申し上げません。神の聖なる、甘美な恵みのうちにとどまってください。優しいイエス、愛なるイエス。 ページの先頭へ
ウルバノ六世へ
1378年3月、グレゴリオが死去し、バーリの大司教が後継者となって、ウルバノ六世を名乗りました。繊細で教養がありながらも決断の定まらないフランス人に代わって、その座に就いたのは、いかつい体格のナポリ人でした。個人としては有徳でしたが、歴史が示すとおり、その気質は並外れて苛烈で激しいものでした。ゴルゴナ島の修道院長は、カタリナに宛てて、驚くほど率直にこう書いています。「どうやら、地上におけるわたしたちの新しいキリストは、恐ろしい方のようです。」
そのころ、カタリナはフィレンツェにいました。彼女をそこへ遣わしたのはグレゴリオでした。彼自身は彼女とどれほど疎遠になっていても、最後まで彼女の働きを重んじていたようです。以下に掲げるのは、現存する、彼女からウルバノに宛てた最初の手紙です。この時点では、彼女が新教皇について直接知っていることは、まだほとんどなかったのが明らかです。彼女は、先代の教皇にいつも語りかけていたのとほぼ同じ調子で、この教皇にも書き送っています。ただ、新たに耳を傾けてくれる相手を得たという思いに鼓舞されて、いささか精彩を欠く書き出しの後には、新たな熱意をもって教会の罪と苦難を改めて述べています。また、反抗するトスカーナの諸都市については、正義をいつくしみによって和らげてほしいという願いが、いつもより少し強く打ち出されているのかもしれません。このような状況にふさわしい賢明な方策を、彼女の次の簡潔な言葉以上に的確に言い表すことは、ほとんどできないでしょう。「病む人からは、その人が差し出せるものを受け取ってください。」
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
キリスト、優しきイエスにおける、至聖にして敬愛する父よ。イエス・キリストの僕たちの僕であり奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたに書き送ります。あなたが真実で完全な愛に根ざし、善い羊飼いとして、ご自分の羊のために命を捨てることができますようにと願っています。実に、至聖なる父よ、神への愛と人々の魂の救いのために死ぬ覚悟があるのは、愛に根ざしている人だけです。その人は自己愛から自由だからです。自己愛にとどまる人には、自分の命を差し出す覚悟がありません。命どころか、ごくわずかな苦痛さえ耐えようとしないように見えます。肉体の命や自分だけの慰めを失うのではないかと、いつも自分の身を案じているからです。そのため、何をするにしても、不完全で堕落した仕方で行います。行動の主な動機そのものが堕落しているからです。羊飼いであれ、そのもとにいる者であれ、どのような立場にあっても、その人には徳がほとんど見られません。しかし、真実の愛に堅く根ざした羊飼いは、そのようにはしません。その行いはすべて善く、完全です。その動機が、神の愛の完全さとまったく一つになっているからです。このような人は、悪魔も他の人々も恐れず、ただ自分の造り主だけを畏れます。世間の中傷も、恥辱も、侮辱も、嘲りも、配下の者たちの非難も気にかけません。配下の者たちは、自分たちの高位聖職者に戒められると気を悪くし、非難に転じるのです。しかし、この羊飼いは、愛がもたらす不屈の力を身にまとった雄々しい人として、意に介しません。
それゆえ、その人は聖なる望みの炎を消すことも、胸に帯びている、澄み輝き、いつくしみと一つになった正義の真珠を投げ捨てることもありません。もし正義にいつくしみがなければ、それは残酷さの闇にとどまり、不正へと変わってしまうでしょう。また、自分の下にある者に対するいつくしみに正義がなければ、それは焼灼すべき傷に塗る軟膏のようなものです。焼灼せずに軟膏を塗れば、傷は癒えるどころか、いっそう腐ってしまいます。しかし、正義といつくしみが結ばれるとき、それらを用いる高位聖職者には命を、その下にある者には健やかさをもたらします。ただし、その者が悪魔の一員で、自分を改めることをまったく望んでいないのでなければのことです。とはいえ、その者が千回も自分を改めなかったとしても、高位聖職者はその者を正すことを諦めてはなりません。その悪しき者がそこから益を得ないからといって、高位聖職者の徳が少しでも減るわけではありません。このように働くのが、純粋で清らかな愛です。その愛を持つ魂は、自分自身のためではなく神のために自分を顧み、神がその限りない善のゆえに愛されるにふさわしい方であると悟るにつれて、そのみ名の栄光と賛美のために神を求めます。また、自分自身のためではなく神のために隣人を求め、神にはささげることのできない奉仕を、隣人に果たそうと望みます。神はわたしたちの神であり、わたしたちを必要とされない方であると、その魂は認めているからです。それゆえ、隣人、とりわけ自分に委ねられた人々の役に立とうと、大きな熱意をもって努めます。そして、彼らにどれほど恩知らずなところがあっても、人から脅されても、おもねられても、彼らの魂と体の救いを求めることから退きません。むしろ、まことに婚礼の礼服をまとい、汚れなくへりくだる小羊の教えに従います。その小羊こそ、愛に燃える者のように、わたしたちの救いのために、いとも聖なる十字架の恥辱の死へと走って行かれた、優しく善い牧者です。十字架につけられたキリストに対して魂が抱く、言葉では言い尽くせない愛が、これらすべてを成し遂げるのです。いとも聖なる父よ、神は、キリスト教全体に属するご自分のすべての羊の牧者として、あなたをお立てになりました。神は、十字架につけられたキリストの御血に仕える者として、あなたをお立てになりました。あなたはそのキリストの代理者です。そして神は、聖なる教会という体においても、キリスト教全体という体においても、あなたの下にある者たちの間に、久しく見られなかったほど悪がはびこる時代に、あなたをお立てになったのです。それゆえ、先に申しましたように、正義の真珠を身に帯び、完全な愛にしっかりと根ざすことが、あなたにはどうしても必要です。それは、この世にも、悪に慣れ親しんだ哀れな人々にも、彼らが加えるいかなる侮辱にも心を奪われず、真の騎士、正しい牧者として勇敢に彼らを正し、悪徳を根こそぎにし、徳を植えつけ、必要であれば命を捨てる覚悟を持つためです。こよなく優しい父よ、この世はもうこれ以上耐えられません。悪徳があまりにも満ちあふれています。とりわけ、徳の芳香を放つ香り高い花となるよう、聖なる教会の園に置かれた人々の間に、それが満ちあふれているのです。ところが、わたしたちが目にするのは、彼らが惨めで忌まわしい悪徳に満ち、全世界に悪臭を放っている姿です。ああ、彼らに接することで節制のない人々を節制ある者にするはずの、心の清さと完全な愛は、どこにあるのでしょうか。実際にはまったく逆です。節制を守る清い人々が、彼らの不潔さに誘われて、節制に反する行いを試みることが幾度もあるのです。ああ、愛の寛大さは、魂への配慮は、貧しい人々のため、教会の善益のため、そしてそれぞれの必要のために財を分かち与えることは、どこにあるのでしょうか。人々がまったく逆のことをしているのを、あなたはよくご存じです。ああ、惨めなわたしは、悲しみをもって申し上げます。あなたの子らは、キリストの御血に仕えることで得る富によって自分を養い、両替人のようになることを恥じず、キリストの代理者であるあなたの、塗油されたそのいとも聖なる手を、もてあそんでいるのです。彼らが犯している、ほかの惨めな行いについては、申すまでもありません。ああ、彼らの肉欲の高慢を打ち砕く深い謙遜は、どこにあるのでしょうか。その高慢のために、彼らは甚だしい貪欲から聖職売買を行い、贈り物やへつらいや金銭によって聖職禄を買い求め、放縦で虚栄に満ちた装いをし、聖職者らしくないどころか、俗人よりもひどい有様です。ああ、わたしの優しいお父さま、わたしたちに救済の手を差し伸べてください。そして、死ぬほどに苦しみながら死ぬこともできない神のしもべたちの、切羽詰まった願いを慰めてください。彼らは切に待ち望んでいます。あなたが真の牧者として、言葉だけでなく行いによって、これらのことを正すために手を下してくださることを。そのとき、いつくしみと結ばれた正義の真珠があなたの胸に輝きますように。そして、キリストの優しい花嫁の胸に養われる者たち、すなわち御血の奉仕者たちを、何ものにも卑屈におびえることなく、真実をもって正してくださいますように。
しかし、至聖なる教皇様、本当のところ、あなたの花嫁の庭を新たに造り直し、徳の高いよい草木を植え、徳を備え、死を恐れない、まことに聖なる人々の一団を心を尽くして選ばなければ、どうしてこれをよく成し遂げられるのか、私には分かりません。偉大さを求めるのではなく、熱意をもって群れを導く牧者たちをお選びください。また、神の助けを受けて、多くの重荷を担うあなたを支える、まっすぐな柱となるよい枢機卿たちの一団をお選びください。ああ、キリストの花嫁に、本来そのものであるものが返され、その乳房で養われた人々が、自分の利益ではなく、神のみ名の栄光と賛美を求め、聖なる十字架の食卓で魂という糧を食べるのを見るとき、私の魂はどれほど幸いなことでしょう。そのとき、あなたに従う在俗の臣民たちも自らを正すことを、私は疑いません。聖職者たちの聖く清い生活に心を動かされ、そうせずにはいられなくなるからです。ですから、このことについて眠り込んでいてはなりません。神のみ名の栄光と賛美のために、死に至るまでも、勇敢に、怠ることなく、できることを行ってください。
次に、十字架につけられたキリストの愛にかけて、切にお願いし、強くお求めします。囲いを離れてしまった羊たちについて――それは私の罪のためだと信じています――あなたがその奉仕者とされたあの御血の愛にかけて、ためらわずにいつくしみをもって迎え入れ、あなたの慈愛と聖性によって、そのかたくなさを打ち破ってください。彼らを囲いへ連れ戻すという恵みをお与えください。そして、彼らが真の完全な謙遜をもってそれを願わなくても、教皇様がその不完全さを補ってください。病人からは、その人が差し出せるものをお受け取りください。ああ、ああ、滅びゆくこれほど多くの魂をあわれんでください。この町で起こった、つまずきをもたらす出来事に目を向けないでください。そこでは確かに、地獄の悪魔たちが魂と体の平和と安らぎを妨げようと、盛んに働いていました。しかし、いつくしみ深い神は、この大きな悪から大きな害が生じないようにしてくださいました。それどころか、あなたの子らは心を静め、今はあなたにいつくしみの油を願っています。至聖なる教皇様、たとえ彼らの願い方が、あなたの望まれるような和解を求める態度でもなく、犯した罪を心から忌み嫌う、当然あるべき態度でもないとお思いになっても、ああ、それでも見放さないでください。彼らは、ほかの人々にもまさるよい子らとなるでしょうから。ああ、私のお父さま、私はもうこれ以上ここにとどまりたくありません。ですから、私をお望みのままになさってください。あなたの戸をたたく、惨めな私に、この恵みとご厚意をお示しください。あなたの子らのために私が願う、ささやかで容易なことを、どうか拒まないでください。そうして和解を成し遂げ、至聖なる十字架の旗印を掲げることができますように。信仰を持たない人々が、あなたに呼びかけるためにやって来たことを、あなたはよくご存じだからです。神がその優しい慈しみによって、燃える愛であなたを満たしてくださることを、私は希望しています。それによって、魂が失われることの重みと、彼らを愛する責務がどれほど大きいかを悟られますように。そして、彼らを悪魔の手から解き放とうとする熱意がますます燃え立ち、聖なる教会の神秘体と、全キリスト教世界という体を癒やすことを求め、とりわけあなたの子らを和解へと導いてくださいますように。慈愛によって彼らの心を勝ち取り、正義の鞭を用いるのは彼らが耐えられるだけにとどめ、それ以上は用いないでください。愛の徳が私たちになければ、これは成し遂げられないと確信しています。ですから、私はあなたが真の完全な愛に根ざしておられるのを見たいと申し上げたのです。あなたが愛のうちにおられることを信じていないのではありません。そうではなく、私たちはこの世ではいつも旅人であり寄留者ですから、愛の完成へと成長することができます。それゆえ、あなたのうちにこの完全さがあることを願うと申し上げました。聖なる望みの炎によって絶えずその愛を養い、よい牧者として、あなたに従う人々にその愛を注いでいただきたいのです。どうか、そうしてください。そして私はここにとどまり、神の誉れのため、また、あなたとあなたの子らの平和のために、死ぬまで祈り、できる限りのあらゆる仕方で労苦します。
これ以上は申し上げません。神の聖なる優しい恵みのうちにとどまってください。至聖なる教皇様、私の差し出がましさをお許しください。けれども、教皇様の前では、愛と悲しみが私の弁明となります。謙遜に、あなたの祝福をお願いいたします。優しいイエスよ、愛なるイエスよ。 ページの先頭へ
シエナにいる霊的な子らへ
カタリナは、公の務めに伴う心配事から、シエナの限られた暮らしの中にいる小さな弟子の群れの必要や問題へと、難なく心を向けました。彼女の目には、大きいことも小さいこともありませんでした。どちらの人生の営みも、人格を育むために神が定められた学びの場である以上、同じように大切だったのです。すでに見てきたとおり、彼女はキリスト者の友情のあり方をよく心得ていました。信仰と生活において固く結ばれた、善良な人々の小さな集まりに生じやすい傾向を、彼女がどれほど深く理解していたかは、とりわけこれらの手紙が証ししています。修道共同体だけでなく、このような集まりがあるところには、どこでも似た状況が生まれます。互いへの愛情が生活の中心を占めるようになりますが、それはあまりにも多くの場合、節度を失い、病的な極端に走ります。その一方で、狭い社会に特有の誘惑、つまり互いを細かく詮索してあら探しをしたり、過度に敏感になったりする傾向も、必ず働きます。カタリナは生涯を通じて、広い心と優しい心の両方を力として、こうした危険と闘いました。これらの手紙の最初のものは、真に神にささげられた愛情の理想を、美しく表現しています。二つ目の手紙では、人を批判する心に対するいつもの警告と、隣人の行いをできる限り善意に解釈する寛大な寛容さを求める、彼女が好んで語った訴えが繰り返されています。ひときわ敏捷で高邁な彼女の精神にとって、寛容は、おそらく最も身につけがたい徳の一つだったのでしょう。それでも、いえ、むしろそれだからこそ、「裁いてはならない」という偉大な許しであり命令でもある言葉がもたらす安らぎを、彼女ほど力強く示した人はいません。 ページの先頭へ
修道士ウィリアム、ミゼリコルディアのメッセール・マッテオへ
また修道士サンティと、ほかの息子たちへ
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける、最愛の息子たちへ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべであり、はしためである私カタリナは、あなたがたが愛の絆で結ばれることを願い、主の尊い御血のうちに、この手紙を書いています。この絆なしには、私たちは神に喜ばれることができないと考えるからです。これこそ、キリストのしもべ、また子であると認められる、麗しいしるしです。しかし、息子たちよ、この絆は清くなければならず、自己愛で汚されてはならないことを心に留めてください。創造主を愛するなら、自分の利益のためではなく、創造主が最高にして永遠の善であり、愛されるにふさわしい方であるからこそ、愛し、仕えなさい。自分の利益のために愛するなら、それは、貪欲のゆえに金銭を愛する守銭奴のような、報い目当ての愛となるでしょう。ですから、隣人への愛も清いものとしなさい。愛しなさい、互いに愛し合いなさい。あなたがたは互いに隣人なのです。しかし、よく気をつけなさい。もしあなたがたの愛が、自分自身の利益や、互いに抱く私的な愛着を土台としているなら、それは長続きせず、やがて失われ、あなたがたの魂は空しくなってしまうでしょう。神に根ざした愛は、徳を重んじ、友が神の似姿に造られた被造物であることを思って愛するものでなければなりません。愛する人といる喜びや、その人から受ける利益が少なくなっても、神のうちにとどまっているなら、愛は失われないからです。その愛は、自分自身のことを思ってではなく、徳と神の誉れを重んじて愛するからです。神のうちにとどまっているなら、たとえ愛する者のうちに徳が失われても、愛は背を向けない、と私は言います。確かに、そこに存在しない徳への愛はなくなります。しかし、その人が神の被造物であり、神の肢体として、聖なる教会の神秘体に結ばれているかぎり、愛は失われません。それどころか、その心のうちには、深く真実ないつくしみからなる愛が育ち、友が生まれるようにと切に願って、神の優しい現存のうちに、涙と嘆きと絶え間ない祈りをもって産みの苦しみをするのです。これこそ、キリストが弟子たちに残された愛情です。それは決して減ることも弱まることもなく、どのような仕打ちを受けても、いらだちません。そこには批判する心も不満もありません。自分自身のためではなく、神のために友を愛するからです。それは、人々の意志を裁くことも、裁こうと望むこともなく、ただ私たちの聖化だけを求め、望まれる創造主の御旨を見分けようとします。そして、神が許されることがどのようなものであっても、それを喜びます。創造主の誉れと隣人の救いだけを求めるからです。まことに、このような人々は、神であり人である方を、いとも聖なる優しい十字架の木に固くとどめ、釘づけにしたのと同じ絆によって、愛のうちに結ばれていると言うことができます。
しかし、私の息子たちよ、十字架につけられたキリストを目当てとし、その足跡に従わなければ、この完全な一致に決して達することはできないと心に留めてください。義務からではなく、恵みによってあなたがたを愛してくださったこの方のうちに、あなたがたはこの愛を見いだすからです。そして、主は恵みによって愛されるので、私たちの恩知らずや無知、高慢や虚栄のために、その愛が弱まることは決してありませんでした。むしろ、辱めに満ちた十字架の死に至るまで、常に耐え忍び、私たちを死から解き放ち、いのちを与えてくださったのです。ですから、私の息子たちよ、あなたがたもそのようにし、学びなさい。この方から学びなさい。優しいイエス・キリストにおいて、清く聖なる愛をもって、愛しなさい、互いに愛し合いなさい。これ以上は申しません。神がそのいつくしみによってお望みになるとき、ほどなくまたあなたがたに会えると願っているからです。神の聖なる優しい恵みのうちにとどまりなさい。優しいイエスよ、愛なるイエスよ。 ページの先頭へ
サノ・ディ・マコと、シエナにいるほかのすべての息子たちへ
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける、最愛の息子たちへ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべであり、はしためである私カタリナは、あなたがたが生涯の終わりまで強く耐え忍ぶ者となることを願い、主の尊い御血のうちに、この手紙を書いています。忍耐がなければ、だれも神に喜ばれることも、報いの冠を受けることもできないと考えるからです。耐え忍ぶ人はいつも強く、剛毅の徳がその人を耐え忍ばせるのです。
わたしたちには剛毅の賜物がどうしても必要です。多くの敵に取り囲まれているからです。快楽と欺きをもって迫るこの世、多くの悩ましい誘惑を仕掛ける悪魔、そして、わたしたち自身の感覚のうちにうごめき、霊に戦いを挑もうとする肉が、その敵です。悪魔は人々の唇に取りつき、侮辱や非難の言葉を口にさせ、しばしばわたしたちにこの世の財産を失わせます。しかも、そうするのはただ、隣人に献身的な愛を注ぐことから、わたしたちを引き離すためなのです。まことに、これらの敵はみな、わたしたちを取り囲んでいます。それでも、わたしたちは奴隷のように恐れる必要はありません。彼らは、汚れのない小羊の血によって打ち破られているからです。わたしたちはこの世に勇敢に応じ、これに抵抗し、その快楽や誉れを取るに足りないものとし、この世には永続する確かさなど何一つないと判断すべきです。この世は、長い命、花盛りの若さ、莫大な富をわたしたちの前に示します。しかし、そのすべてがむなしいものだと分かります。わたしたちは生から死へ、若さから老いへ、富から貧しさへと移り、こうして絶えず死という終着点に向かって走っているからです。ですから、わたしたちは心の目を開き、この世を頼みとする人がいかに惨めであるかを見なければなりません。そうすれば、かつて愛していたものを軽んじ、憎むようになるでしょう。悪魔の策略に対しては、その弱さを見抜き、勇敢に応じることができます。悪魔は、打ち負かされることを自ら望まない人を、だれ一人打ち負かすことができないからです。ですから、生き生きとした信仰と希望、そして自分自身に対する聖なる憎しみをもって、悪魔に応じることができます。このような憎しみのうちに、人はこの世のあらゆる誘惑の苦しみや患難に対して忍耐強くなります。そして、自分の肉的なあり方を憎み、十字架につけられたキリストとともに十字架にとどまることを愛するなら、それらがどこから来ようとも、真の忍耐をもって耐え忍ぶでしょう。
生きた信仰から、人は神のみ旨にかなう意志を得て、心と思いのうちにある、人を裁こうとする人間的な衝動を鎮めます。ただ神のみ旨だけが裁くのです。そのみ旨は、わたしたちの聖化以外には何も求めず、何も望みません。このようにして、人は隣人のことで憤ることも、隣人を非難することもなくなります。自分を悪く言う人を裁くこともしません。ただ自分自身だけを責めます。そのような人々が自分を苦しめるのを、自分の善のためにお許しになるのは、神のみ旨であると悟るからです。ああ、これほど穏やかな判断を身にまとう魂は、なんと幸いでしょう。その人は、自分を傷つけるこの世の僕たちを断罪しません。また、神の僕たちを自分のやり方に従わせようとして、彼らを断罪することもありません。ところが、思い上がった高慢な人々の多くは、まさにそうするのです。神の誉れと霊魂の救いを口実にして、神の僕たちのことで憤り、その口実に隠れて非難の態度を取り、「そのような言葉は、わたしには気に入りません」と言います。こうして人は、自分の内に動揺を来し、舌によって他の人々をも動揺させながら、自分は愛に動かされて語っているのだと主張します。そして、自分でもそう思っているのです。しかし、目を開くなら、偽りの姿をまとった思い上がりの蛇が見つかるでしょう。この蛇は裁き手を演じ、神が被造物に働きかける神秘と、聖にして多様な道に従わず、自分流に裁くのです。人間の高慢は恥じ入り、永遠の御父の家には多くの住まいがあることを、進んで認めるべきです。聖霊に規範を押しつけようとしてはなりません。聖霊こそ規範そのものであり、規範をお与えになる方だからです。また、測り知ることのできない方を測ろうとしてはなりません。神の至高にして永遠のみ旨を身にまとった、神の真の僕は、そのようにはしません。それどころか、神の僕たちの歩む道、行い、習慣を敬います。それらは人によってではなく、神によって定められていると判断するからです。実に、物事がわたしたちの気に入らず、わたしたちの習慣どおりに進まないからこそ、それらは神のみ心にかなうのだと、進んで信じるべきです。わたしたちは、明白で公然たる罪を除いて、何事も裁くべきではなく、また裁くこともできません。そして、神への愛に満たされ、自分を忘れた魂は、そのような罪についてさえ、あえて裁こうとはしません。ただ、その罪と神に対してなされた不正を悲しみ、罪を犯す人の魂に深い憐れみを抱き、その魂の救いのためなら、どのような責め苦にも自らを差し出すことを切に望むのです。
愛する息子たち、今、わたしはあなたがたをこの完全さへと招きます。真実で聖なる熱意をもって、それを得るよう努めてください。そして、完全さへの階段を一段上るごとに、罪過や苦しみを伴わない、この聖なる真実の判断においても前進することを、よく考えてください。これとは反対に、誤った判断はあなたがたをあらゆる苦しみへと陥れ、神のしもべたちのあら探しや、破滅をもたらす不信へと導きます。これらはすべて、他者の意向を裁くようわたしたちを駆り立てる、自分本位の情念と根深い高慢から生じます。そのような人はいつも後ろを振り返り、恵みに満ちた隣人愛を貫くことができず、強く揺るぎない愛を持つことも決してありません。それどころか、その愛は、キリストの受難以前の弟子たちの不完全な愛に似ています。弟子たちはキリストを愛し、共にいられることを大いに喜んでいました。しかし、その愛は真理に根ざさず、快さや自己満足が混じっていたため、キリストがそばにおられなくなると、崩れてしまいました。そして、キリストと共に苦しみに耐えるすべを知らず、恐れて逃げ去ったのです。どうか、どうか気をつけてください。あなたがたにも同じことが起こらないように。友がそばにいれば大いに喜び、離れていれば、わらの火を燃やしています。そばにいるという支えが取り去られると、ほんのわずかな風や雨で火は消え、暗い良心の黒い煙しか残りません。こうしたことはすべて、神の優しいみ旨に従わず、隣人の意向や、神のしもべたちの習慣や振る舞いを裁く者に、わたしたち自身がなってしまったために起こります。十字架につけられたキリストへの愛のために、もうそのようなことはやめてください。むしろ、優しいイエス・キリストに結ばれ、強く、忍耐強い、忠実な息子となってください。そうすれば、悪魔の誘惑にも、人々の唇を借りて悪魔が語る言葉にも、打ち勝つことができるでしょう。
わたしたちの最後の敵、すなわち感覚的な欲望を伴う惨めな肉は、鞭打たれ、いとも聖なる十字架の木に釘づけられたキリストの肉によって打ち負かされます。それは、燃えるように甘美で愛に満ちた望みを抱き、断食と徹夜の祈りと絶え間ない祈りによって、自分の肉を治めることによってなされます。このようにして、わたしたちはキリストの御血の力により、敵を打ち負かし、甘美な勝利を収めるのです。こうしてあなたがたは、キリストのみ旨と、あなたがたの不完全さを見て悲しむわたしの願いとを満たすことになるでしょう。限りない善をお持ちのキリストが、あなたがたのうちにわたしの願いをかなえ、慰めてくださることを願っています。ですから、怠ることなく、熱心であってください。風に舞う木の葉のように揺れ動かず、堅固に、揺るがず、常に変わらぬ者であってください。真の兄弟愛をもって互いに愛し、互いの欠点を忍び合ってください。そうする姿を見て、あなたがたが神とわたしを愛しているかどうかが分かるでしょう。わたしは、あなたがたが真に一致している姿を見ること以外、何も望んでいません。十字架につけられたキリストの御血に深く身を沈め、そのいとも甘美な傷のうちに身を隠してください。これ以上は申しません。
サンタ・マリア・デリ・アンジェリ修道院のことを、どうかよろしくお願いします。わたしがそこにいないことは、気にしないでください。よい息子たちは、母がいるときよりも、いないときのほうがよく働くものです。母への愛を示し、いっそうその心にかなう者となりたいと願うからです。
サーノ、どうかこの手紙を子どもたち皆に読んで聞かせてください。そして皆で、わたしたちのために神に祈ってください。神の誉れと人々の魂の救いのために始めたことを、成し遂げられるようにと。たとえ妨げようとする人がいても、わたしたちはそれ以外のことを望むことも、行うことも願っていないからです。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。神が、いとも甘美ないつくしみであなたがたを満たしてくださいますように。優しいイエス、愛なるイエス。 ページの先頭へ
説教者会の兄弟、カプアのライモンドへ
信仰のために苦しみたいと切に願っていたカタリナですが、わたしたちの知る限り、身体的な暴力にさらされたのは一度だけでした。それが、ここで彼女が語っている出来事です。彼女はまだフィレンツェにいて、前の教皇のもとでそうしていたように、新しい教皇のもとでも、心から待ち望む平和の実現のために忠実に力を尽くしていました。秩序の乱れた町で騒動が起こり、命を脅かされた彼女は、自分の「家族」と共に城壁の外の庭に避難しました。敵はそこまで追ってきましたが、近づいたとたん、突然後ずさりしました。彼女自身がここで語るように、その言葉と態度に畏れを覚えたのです。危険は去りましたが、カタリナにとっては、生涯の失望の一つとなりました。[脚注:彼女自身の言葉によれば、「永遠の花婿は、わたしに大きな冗談をなさいました。」] この体験の内面を語る彼女の言葉には、ほとんど子どものような素朴さがあります。殉教の冠を授けられなかったことへの悲しみは、どこまでも真実なものでした。また、殉教への希望は、短く、しかも果たされなかったとはいえ、その希望だけで心のうちに呼び覚まされたすばらしい喜びを、信頼を込めて打ち明ける語り口ほど、美しいものもめったにありません。これほどまでに、ひとりでしか味わい得ない体験でさえ、彼女は愛する人々にもぜひ分かち合ってほしいと願わずにはいられず、自分の「愛する息子や娘たち」が受けた大きないつくしみに、あらためて感謝をささげるのです。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける、最愛のお父様。わたしカタリナは、イエス・キリストのしもべたちに仕える、はしためであり奴隷として、主の尊い御血のうちにお便りします。お父様が真理と優しいマリアに忠実に仕えるしもべ、また花婿となってくださることを願っています。そして、この世のいかなる理由によっても、また神がお父様にお送りになるかもしれないいかなる苦難によっても、わたしたちが決して後ろを振り返ることなく、堅い希望を抱き、いと聖なる信仰の光に照らされて、どこまでも真実に、この荒れ狂う海を渡っていけますように。自分の栄光ではなく、神の栄光と霊魂の救いを求めて、忍耐のうちに喜びましょう。栄光ある殉教者たちもそうなさいました。真理のために死とあらゆる苦しみを受ける覚悟をし、御血への愛ゆえに流した自らの血によって、聖なる教会の城壁を築いたのです。ああ、死者をよみがえらせる甘美な御血よ。あなたはいのちを与え、理性を備えた被造物の心を暗くする闇を払い、わたしたちに光を与えてくださいます。甘美な御血よ、あなたは争う者たちを一つにし、裸の者に衣を着せ、飢えた者を養い、あなたを渇き求める者に飲ませてくださいます。そして、真の謙遜によって自らを小さくし、真の清さによって無垢となった幼い者たちを、あなたの甘美さという乳で養ってくださいます。ああ、聖なる御血よ、あなたをふさわしくない仕方で受けるのは誰でしょうか。それは自分自身を愛する者たちです。彼らにはあなたの芳香が分からないからです。
ですから、最愛の、いとも優しいお父様、わたしたちは身にまとっているものを脱ぎ捨て、真理を身にまといましょう。そうすれば、忠実に愛する者となるでしょう。わたしは今日、新たに始めようと心に決めています。十字架につけられたキリストのためにいのちをささげるという、これほどの善いことから、わたしの罪がわたしを引き留めないためです。というのも、これまで自分の過ちのために、そのことがわたしには許されなかったと分かるからです。わたしの内には、かつてないほどに増し加わった新たな激しさをもって、神の誉れと霊魂の救い、そして聖なる教会の改革と善のために、過ちを犯すことなく耐え忍びたいという、非常に強い願いがありました。いのちをささげたいという愛と願いのために、心が溶けてゆくほどでした。この願いは、幸いであると同時に、苦しいものでもありました。真理との一致を感じていたので幸いでしたが、神に対してなされる不義と、町全体を覆い、人々の心の目を曇らせているおびただしい悪霊のために、重く圧迫される思いがしたので苦しかったのです。正義と神の懲らしめによって、神が悪霊どもの思うままにさせておられるかのようにさえ見えました。そのためわたしは、今にも起ころうとしているように見えた大きな災いを恐れ、またそのために平和が妨げられていたので、涙のうちにわがいのちが溶けてゆくのを止められませんでした。しかし、この大きな災いの中で、ご自分のしもべたちの願いをお退けにならない神と、痛みと悲しみと愛に満ちた願いをもってその名が呼び求められた優しい母マリアは、起こったすべての騒乱と大変動の中でも、正義の裁きによって命を奪われた人々を除けば、ほとんど死者はいなかったと言えるほどにしてくださいました。こうして、神が摂理を示し、悪霊どもの力を打ち砕いて、彼らが企てていたほどの害を及ぼすことができないようにしてくださる、というわたしの願いはかなえられました。しかし、真理とキリストの優しい花嫁のためにいのちをささげたいという願いは、かないませんでした。けれども、永遠の花婿は、わたしに大きないたずらをなさいました。そのことは、クリストファーが口頭でさらに詳しくお話しするでしょう。ですから、わたしには泣く理由があります。わたしの不義がおびただしかったために、わたしの血がいのちを与えたり、暗くなった心を照らしたり、子らを父と和解させたり、聖なる教会の神秘体に一つの石を固く結びつけたりするに値しなかったからです。それどころか、わたしを殺そうとしていた者の手は、縛られているかのようでした。「その女はわたしです。わたしを連れていって、この家族には手を出さないでください」というわたしの言葉は、彼の心をまっすぐに貫く剣となりました。ああ、わたしのお父様、心のうちにすばらしい喜びを感じてください。わたしはこれまで、これほど大きな喜びを伴うこのような神秘を、自分の内に体験したことがなかったからです。そこには真理の甘美さがあり、清く純粋な良心の喜びがありました。神の優しい摂理の芳香があり、お父様もご存じのとおり、永遠の真理が予告なさった新たな殉教者たちの時代の味わいがありました。わたしの魂が感じている恵みがどれほど大きいか、言葉では語り尽くせません。わたしは創造主と固く結ばれているように感じます。たとえ自分の体を焼かれるために引き渡したとしても、わたしと、わたしの愛する息子たち、娘たちが受けたいつくしみの大きさに報いることはできないほどです。
これらすべてをお話しするのは、お父様が苦々しい思いを抱くことなく、このうえなく穏やかな喜びとともに、言いようのない歓びを感じてくださるためです。そして、お父様とわたしが、わたしの不完全さを悲しみ始めるためでもあります。わたしの罪によって、これほど大きな善が妨げられたからです。優しい花嫁のために、また御血への愛と霊魂の救いのために、わたしの血をささげていたなら、わたしの魂はどれほど幸いだったことでしょう。今こそ喜び、忠実に愛する者となりましょう。
このことについては、これ以上申しません。このことやほかのことは、クリストファーに話してもらいます。ただ、一つだけ申し上げたいことがあります。今回起こったことのために和平を遅らせず、むしろいっそう速やかに実現してくださるよう、地上のキリストにお願いしてください。そうすれば、神の誉れと聖なる教会の改革のために、果たさなければならないほかの大きな事業にも取りかかることができます。今回のことで情勢が変わったわけではありません。それどころか、今のところ町は十分に落ち着きを取り戻しています。速やかに行動してくださるようお願いしてください。わたしも、いつくしみの心からそうしてくださるようお願いします。この状況のために神に対して犯されている限りない悪も、それによって終わるからです。深い闇の中にいるこれらの魂を憐れみ、慈しんでくださるよう、お伝えください。また、わたしを速やかに牢獄から解き放ってくださるようお伝えください。和平が実現しなければ、ここから出られそうにないからです。そうなれば、あなたのおられる所へ赴き、殉教者たちの血を味わい、教皇聖下をお訪ねし、もう一度あなたと一緒になって、このたび神が行われた驚くべき神秘について語りたいと願っています。いとも聖なる信仰の光のうちに、精神の喜びと心の歓喜、そしていよいよ深まる希望をもって。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。優しいイエス、愛なるイエス。 トップ
ウルバノ六世へ
このころには、カタリナは手紙の相手の性格を、もはやうすうすどころではなく、かなりはっきりと見抜いていたようです。グレゴリウスは、どちらかといえば、さまざまな方面からの影響を受けやすすぎるほどでしたが、ウルバヌスは独断的で強情な性格で、どんな干渉も嫌いました。対人上の配慮でも施策でも、とんでもない失策を重ねていましたが、大胆にもそれを指摘しようとする人には、災いが降りかかったのです。
カタリナがこの新しい教皇に宛てた手紙は、前の教皇への手紙ほど親しく愛情に満ちたものではないにせよ、率直さと崇敬とが驚くほど一つになっている点では同じです。人柄を理解する際の一貫した原則を守り、カタリナは教皇の行動をあくまでできるかぎり善意に解釈し、その短気な激しさや不機嫌を、高潔で、少なくとも一部は私情によらない動機に帰しています。ウルバヌスが気の毒な修道士バルトロメオに腹を立てたのは、カタリナが示唆するように、その修道士の物言いが控えめすぎたからではなく、むしろ遠慮がなさすぎたからではないかと思われます。しかし、このように寛大でありながらも、カタリナは、この手紙が示すとおり、十分に鋭く戒めることもできました。別の折には、彼女はウルバヌスに、目に見える寓意として、内側を砂糖漬けにし、外側に金箔を施した苦いオレンジを送り、その教訓を説く心のこもった手紙を添えています。おそらく、それは彼女自身の手で作られたものでしょう。また、次のようにも書いています。「十字架につけられたキリストへの愛のために、生来の気質から突き上げてくる衝動を、少し和らげてください。聖なる徳によって、その気質を退けてください。神が生まれつき大きな心をお与えになったのですから、その心を超自然の次元でも大きくしてくださるよう、わたしは願い、お願いします。徳と聖なる教会の改革を熱心に望みつつ、ご自分が得た雄々しい心を、真の謙遜のうちに堅固なものとしてください。そうすれば、自然の賜物と超自然の賜物の両方を備えることになります。一方があっても他方がなければ、ほとんど役に立たず、かえってわたしたちのうちに怒りや高慢をかき立てるでしょう。そして親しい人々を正す段になると、その歩みは鈍り、臆病になってしまうのです。」
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける、いとも聖なる、心優しい父よ。イエス・キリストのしもべたちのしもべであり、奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたに書き送ります。あなたが、ご自分の群れを治める真実な、王にふさわしい牧者となってくださることを願っています。その群れを、十字架につけられたキリストの御血によって養わなければならないのです。聖下は、その御血を誰に授けるのか、またどのような方法で授けるのかについて、十分に心を配らなければなりません。つまり、いとも聖なる父よ、わたしが申し上げたいのは、聖なる教会という庭に牧者を任命するときには、聖職禄ではなく神を求める人々を選んでいただきたい、ということです。また、その職を求める際にも、偽りによらず、真理のうちに公明正大に行うようにしてください。
いとも聖なる父よ、このようなことを申し上げるときには、どうか忍耐してください。これらのことを申し上げるのは、ただ神の誉れとあなたの救いのためなのです。それは、父を心から愛する息子が語るべきことです。そのような息子は、父の損失や不名誉につながることが少しでも行われるのを忍ぶことができず、ひたむきな熱意をもって絶えず目を配ります。大家族を治めなければならない父であっても、一人の人間に見える以上のものは見えないことを、よく分かっているからです。ですから、正当な息子たちが父の名誉と安寧を熱心に守ろうとしなければ、父は何度となく欺かれてしまうでしょう。いとも聖なる父よ、あなたの場合も同じです。あなたはキリスト教全体の父であり、主であり、わたしたちは皆、聖下の翼の下にいます。権威という点では、あなたはすべてを行うことができますが、見通すという点では、一人の人間にできる以上のことはできません。ですから、あなたの息子たちは、清い心をもって、卑屈な恐れを一切抱かず、神の誉れと、あなたおよびあなたの牧杖の下にある群れの安全と名誉にかかわることに、必ず目を配り、心を尽くさなければなりません。聖下が、ご自分を助ける人々を切に望んでおられることを、わたしは承知しています。しかし、その人々の話に耳を傾ける際には、忍耐していただかなければなりません。
二つのことが聖下を苦しめ、お心に怒りを起こさせるに違いないと、わたしは確信しています。そして、それを少しも不思議には思いません。一つは、罪が犯されているとお聞きになるとき、神が辱められることに心を痛められることです。その不正と過ちを不快に思われ、心を刺し貫かれるように感じられるのです。このような場合、わたしたちは忍耐して済ませたり、神に対してなされる不正を嘆くのを控えたりしてはなりません。決してそうしてはなりません。そうすれば、わたしたち自身がその同じ悪徳に同調しているかのように見えるからです。もう一つ、聖下を苦しめるかもしれないことがあります。それは、神への不正、霊魂の損失、そして聖下の名誉を損なうことへとつながりつつあると自分が感じる事柄を、お伝えしようと訪れる息子が、無知ゆえの過ちを犯し、聖下の御前にあって、ありのままの真実を明らかに申し上げないことを、良心上の義務として自分に課してしまうことです。聖下に対して秘密にしたり、隠したりすべきことは何一つないのですから。
教皇聖下、お願い申し上げます。無知な息子がこの点で過ちを犯すとき、そのことでお心を痛められても、どうか心を乱されることなく、その無知を正してください。こう申し上げるのは、ジョヴァンニ師からバルトロメオ修道士について伺ったところ、彼が自らの過ちと過度にとがめる良心によって、聖下を煩わせ、怒らせてしまったということだからです。聖下に対して過ちを犯したと彼が思っているため、このことを彼もわたしも深く悲しんでおります。十字架につけられたキリストの愛にかけて、お願い申し上げます。彼が聖下にお与えしたかもしれないあらゆる苦痛について、わたしを罰してください。聖下がお望みになるなら、わたしはいかなる償いの苦行も矯正も受ける覚悟でおります。彼がこれほど無知をさらけ出したのは、わたしの罪のためであったと信じておりますから、罰はわたしが負うべきです。そして彼は、聖下がお望みになる所ならどこへでも、悔い改めの心で聖下のもとに参りたいと、切に願っております。彼とわたしの過ちを、どうか忍耐をもってお受け止めください。十字架につけられたキリストの御血に身を浸し、その愛の甘美な炎のうちに慰めをお受けください。わたしの無知をおゆるしください。
謹んで祝福をお願い申し上げます。聖ヨハネの日に聖下がわたしにお与えくださったご厚意について、善そのものである神と聖下に感謝申し上げます。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまられますように。優しいイエス、愛なるイエス。 ページの先頭へ
ヴァロンブローザの庵のジョヴァンニ神父へ
カタリナは殉教の機会を逃しました。教会分裂が迫っており、彼女はそれを知っています。「あちらでは、地上のキリストとその弟子たちとの間に不和が生じていると聞いたように思います。このことから、わたしは耐えがたい悲しみを受けています……。戦争や不名誉、そのほかの苦難など、ほかのすべてのことは、これに比べれば、わら一本や影にも及ばないものに思われるでしょう。考えてみてください。わたしはそれを考えるだけでも震えるのです……。申し上げますが、悲しみのあまり、心も命も体から抜け出してしまうかのように思われました。」恍惚の状態から覚めた彼女は、ピエトロ・ディ・ルーナ枢機卿にこう書き送っています。その枢機卿自身が、後に対立教皇ベネディクト十三世となる運命にあったのです。
この悲しみに満ちた手紙は、若いころに激しく罪を犯し、その後、長年にわたる極めて厳しい苦行を通して、熱烈に悔い改めた一人の隠修士に宛てたものです。カタリナは彼に胸の内を注ぎ出しています。シェリーの作品で、苦悶するプロメテウスに、存在の悲劇と思われるものを復讐の女神が痛感させる言葉が、彼女の目の前で現実となっていたのです。
「偽善と因習は、人々の心を、今や廃れた幾多の礼拝の神殿に変える。 * * * * 善き者には力がなく、むなしい涙を流すばかり。力ある者には善がない――彼らには、より深刻な欠如。賢き者には愛がなく、愛する者には知恵がない。こうして、最も善きものはすべて混乱に陥り、悪へと転じる。」
彼女はひるむことのない明晰なまなざしで状況を示し、助けが得られそうなあらゆる方面へ、むなしく訴えかけます。司祭団全体へ、臆病な修道会へ、そして真摯で敬虔ではあっても、彼女が救いをもたらしうると感じていたような、犠牲をささげる熱情の炎に少しも触れていない信徒たちへと。カタリナを最も苦しめるのは、決して世の罪ではありません。ここでもそうであるように、それはいつも教会の罪なのです。彼女は、恐ろしい頂点に達するまで語るのをやめません。「キリスト教が死者のように横たわっているのを見ながら、わたしはそのために嘆きもせず、涙も流さないのです。」人々の目を惑わせてしまったのは、ほかならぬ、いとも聖なる信仰の光なのです。そして再び、聞き慣れた言葉が聞こえてきます。「わたしの不義が、このことの原因であると信じています。」
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける、最愛の父よ。イエス・キリストのしもべたちのしもべであり、奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたにお便りします。へりくだった汚れのない小羊とともに、いとも聖なる十字架の食卓にあって、あなたが霊魂を飢え求める方であるのを見たいと願っています。父よ、この甘美な糧を、ほかのどこかでいただくことができるとは、わたしには思えません。なぜでしょうか。多くのことを耐え忍ばなければ、この糧を真にいただくことはできないからです。それは、真の忍耐という歯と聖なる望みという唇をもって、多くの苦難の十字架の上でいただかなければなりません。その苦難が、どこから来るものであろうとも、不平であろうと、世のつまずきであろうと、わたしたちはすべてを死に至るまで耐え忍ばなければなりません。最愛の父よ、今こそ、わたしたちが十字架につけられたキリストを愛する者であり、この糧を喜ぶ者であるかどうかを示す時です。今こそ、神に誉れをささげ、隣人のために労苦する時です。労苦とは、多くの忍耐を伴う体の労苦であり、また、悲しみと苦渋のうちに、涙と汗、へりくだった絶え間ない祈り、そして苦しみに満ちた望みを神の御前にささげる、心の労苦のことです。なぜなら、申し上げたように、深い悲しみと心からのあわれみ、そして祈りにおけるこの上ない献身によるのでなければ、わたしたちに向けられた神の怒りを鎮め、そのいつくしみをわたしたちに向けていただき、そのいつくしみによって、悪魔たちの手の中で滅びつつある多くの羊を取り戻すことは、ほかのどのような道によってもできないと、わたしには思われるからです。
ですから、最愛の神父様、十字架につけられたキリストに代わって、あなたにお願いします。わたしとともに、改めて自分自身を捨て、奴隷のような恐れをいっさい抱かず、霊魂の救いのうちに、ただ神の誉れだけを求めてください。苦しみのためにも、同じ被造物である人々を喜ばせるためにも、死を忍ばなければならないかもしれないからといっても、また、ほかのどのような理由からも、決して歩みを緩めないでください。むしろ、十字架につけられたキリストの御血に対して行われている迫害を思い、愛と悲しみに酔いしれるかのように、ともに走りましょう。どちらを向いても、御血が迫害されているのが見えるからです。腐り果てた肢体であるわたしたち自身に目を向ければ、わたしたちは多くの過ちによって御血を迫害しています。また、わたしたちの大罪と毒に満ちた自己愛は、全世界を毒するほどの悪臭を放っています。そして、優しくへりくだった小羊の御血に仕える者たちに目を向ければ、その過ちと罪は、わたしの舌では語り尽くすことさえできません。従順のくびきの下にある奉仕者たちに目を向ければ、彼らはあまりにも不完全で、呪われた自己愛の根がまだその内で死んでいないため、十字架につけられたキリストのために命をささげたいと望むまでになった人は、一人もいないのが見えます。それどころか、神への聖なる畏れと御血への崇敬よりも、死と苦痛への恐れを育ててきたのです。また、すでにこの世への執着を手放した信徒たちに目を向ければ、彼らは、自分のいた場所を立ち去るほどにも、してはならないことをするよりは死を忍ぶほどにも、徳を実践していません。不完全さのためにそのように振る舞ってきたのか、あるいは賢慮によってそうしているのでしょう。もしわたしが彼らに賢慮を教えなければならないとしたら、完全に達したいのであれば、むしろ死を選ぶように、そして、自分が弱いと感じるのであれば、罪の場所と原因から、できる限り遠くへ逃れるようにと勧めるでしょう。あなたも、また神に仕えるすべての人も、そのような機会があれば、この同じ助言を与えるべきだと、わたしは思います。ご存じのとおり、わたしたちは、どのような仕方であれ、小さな罪を犯すことさえ、決して許されません。何か大きな善を成し遂げるためでさえ許されないのですから、苦しみや死への恐れのためなら、なおさらです。ですから、どちらを向いても、過ちばかりが見いだされます。すでに起こり、また日々起こっている出来事の中で、たった一人でも、自分の命をささげるほどの完全さを備えていたなら、その血はあわれみを呼び求め、神の正義の手を縛り、ダイヤモンドのように硬い、あのファラオのような心を打ち砕いたに違いないと、わたしは確信しているからです。そして、血によるほかに、それらの心を打ち砕く道は、わたしには見えません。
ああ、ああ、わたしの不幸な魂よ! キリスト教が死者のように横たわっているのを見ながら、わたしはそのために泣きもせず、嘆きもしません。闇が光を侵しているのが見えます。キリストの御血のうちに受けた、いとも聖なる信仰の光そのものによって、人々の視力が乱れ、その瞳が干からびてしまったのが見えるからです。そのため、人々は徳を剝ぎ取られ、寒さのために死んで、目の見えない人のように溝へ、地獄の狼の口へと落ちていきます。神と隣人への愛を剝ぎ取られ、愛の絆から解き放たれ、神と御血への崇敬をすべて失っているのです。ああ! わたしの不義が、その原因となったのだと思います。
ですから、最愛の神父様、わたしのために神に祈ってくださるよう、お願いします。これほど大きな不義をわたしから取り去り、これほど大きな災いの原因とならないようにしてくださいますように。そうでなければ、わたしに死をお与えくださいますように。そして、死者のようになった、わたしたちのこの息子たちを、いとも聖なる十字架の食卓へと抱き上げてくださるよう、お願いします。そこで、十字架につけられたキリストの御血を浴びながら、この食物を召し上がってください。申し上げますが、あなたも、ほかの神のしもべたちも、そしてわたしたち皆も、多くの祈りをもって、自分自身にも他の人々にも、これほど大きな悪を改めるように働きかけなければ、神の裁きが下り、神の正義はその鞭を取り出すでしょう。実際、目を開いてみれば、この世で経験しうる最も重い裁きの一つが、すでに下っています。すなわち、わたしたちは光を奪われ、魂と体の損失と災いが見えなくなっているのです。見えない人は、悪を憎まず、真の善を愛さないため、自分を改めることができません。こうして、自分を改めないまま、悪い状態からさらに悪い状態へと陥っていきます。わたしたちも、まさにそのようにしていると、わたしには思われます。そして今は、初めの日よりも悪い状態にあります。ですから、わたしたちが神の真のしもべであるなら、多くのことに耐え、真の忍耐を保ち、多くの祈りと悲しみに満ちた切なる願いをもって、隣人のために労苦をささげ、神に誉れを帰することを、決してやめてはなりません。十字架の食卓で、ため息をわたしたちの食物とし、涙を飲み物としましょう。ほかの道は、わたしには見えないからです。それゆえ、いとも聖なる十字架の食卓で、あなたが霊魂を渇望する姿を見たいと、わたしは申し上げたのです。
あなたとわたしのいとしい息子たち、あちらにいる者も、こちらにいる者も、あなたにお委ねしたく、お願いいたします。あなたの力の及ぶかぎり、彼らを養い、高い完成へと成長させてください。そして、霊的なことでも、この世のことでも、あらゆる我意に死んで、走り続けるよう努めましょう。つまり、自分自身の霊的な慰めではなく、ただ魂を養う糧だけを求め、十字架につけられたキリストとともに十字架を喜び、必要とあれば、そのみ名の栄光と賛美のために命をささげるのです。わたしはといえば、わたしの主、創造主に対する侮辱を聞き、目にして、死ぬ思いをしながらも死ぬことができません。ですから、一つの施しをあなたにお願いします。あなたも、ほかの方々も、わたしのために神に祈ってください。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。優しいイエス、愛なるイエスよ。 ページ上部へ
和平を告げる手紙
カタリナの晩年、ヨーロッパを暗く覆った数々の惨事のただ中で、純粋な喜びに満ちた一つの出来事が彼女に恵みとして与えられました。ウルバノの決断力によって、教皇庁とフィレンツェの人々との間で揺れ動いていた交渉に終止符が打たれ、ついに和平が宣言されたのです。
これらの短い手紙のうち、最初のものは、満足のいく結末に向けた第一歩を告げています。それは、グレゴリオがこの町に課し、反逆者たちがかたくなに破っていた聖務停止令が、守られるようになったことです。二通目では、和平成立の知らせが届いたばかりです。カタリナはまず、故郷の友人たちに、この知らせをともに喜んでほしいと呼びかけます。それ自体が大きな知らせであり、さらに広い希望の実現に道を開くかもしれないという点で、いっそう大きな知らせだからです。注目すべきことに、長く力を尽くしてきた目標が達成されたその瞬間、忠実で高い志を抱く彼女の心は、かつての夢に立ち返り、十字軍のための祈りを再び始めるよう仲間たちに呼びかけています。
カタリナは、届いた和平のオリーブの枝の一部を友人たちに送ります。その到来は、長いドラマを締めくくるにふさわしいものでした。そのドラマは、キリストが彼女の肩に十字架を、手にオリーブの枝を置き、和解せよとのご命令を「一方の民にも、もう一方の民にも」伝えるために彼女を遣わされたときに始まったのです。 ページ上部へ
聖女がフィレンツェにいたとき、モンナ・アレッサへ
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける、いとしい娘よ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべ、はしためであるわたしカタリナは、主の尊い血において、あなたに手紙を書きます。あなたもほかの方々も、十字架につけられたキリストの花嫁、忠実なはしためとなって、神の誉れと魂の救い、聖なる教会の改革のために、絶えず新たな嘆きをささげてくださるよう願っています。今こそ、自分自身を知ることのうちに身を閉じ、たゆまず目を覚まして祈り、太陽が一刻も早く昇るよう願うときです。すでに曙の光が差し始めているからです。曙が訪れたと言えるのは、聖務を公に唱え、またそれにあずかることで犯されていた重い大罪の闇が、妨げようとする者がいても今や払われ、聖務停止令が守られているからです。へりくだった祈りも、しもべたちの涙も燃えるような願いも退けられない、わたしたちの優しい救い主に、感謝、感謝をささげましょう。それゆえ、主はそれらを退けず、むしろ受け入れてくださるのですから、いつくしみ深い神が速やかに平和をお送りくださるよう、祈り、また祈りをささげてもらうよう、あなたがたに呼びかけます。それは、神があがめられ、これほど大きな悪が終わり、わたしたちが一つに結ばれて、神の驚くべきみわざを語ることができるためです。
さあ、立ち上がってください。もう眠っていてはなりません。皆、怠りの眠りから目覚めてください。いくつかの修道院で特別な祈りをささげてもらい、わたしたちの修道院長にも、ご自分の娘たち全員に平和のための特別な祈りをささげさせてくださるよう伝えてください。神がわたしたちをあわれんでくださり、わたしが平和を得ずに帰ることのないようにするためです。また、院長の哀れな娘であるわたしのためにも、神が、いつも真理を愛し、告げ知らせる恵みを与えてくださり、その真理のために死ぬことができるよう、祈っていただいてください。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。優しいイエス、愛なるイエスよ。 ページ上部へ
フィレンツェ滞在中、サーノ・ディ・マコと、キリストにおけるほかの息子たちへ
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける、いとしい息子たちよ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべ、はしためであるわたしカタリナは、主の尊い血において、あなたがたに手紙を書きます。あなたがたが真の息子となり、わたしたちの優しい救い主にまことに仕え、そのみ名に、いっそう熱心に感謝と賛美をささげるようになることを願っています。
ああ、いとしい息子たちよ、神は、ご自分のしもべたちの叫びを聞き入れてくださいました。彼らはこれほど長い間、み前で声を上げ、死んでいた息子たちのことを嘆き、長く叫び続けてきたのです。今や彼らは再び起き上がり、死から命へ、盲目の状態から光へと移りました。いとしい息子たちよ、足の不自由な人は歩き、耳の聞こえない人は聞き、見えなかった目は見え、口の利けない人は語り、大きな声で「平和、平和、平和!」と叫んでいます。心に和解がもたらされ、息子として父への従順とその恩顧のうちに戻ってきた自分たちの姿を見て、大いに喜んでいるのです。今や目が見え始めた人々として、彼らは言います。「主よ、わたしたちを聖なる父と和解させてくださったあなたに感謝します。」今や、神の小羊、地上の優しいキリストは、聖なる方と呼ばれていますが、以前は異端者、パタリーニ派の者と呼ばれていました。今や彼らはその方を父として受け入れていますが、以前は拒んでいました。わたしは驚きません。雲は去り、晴天が訪れたのですから。喜びなさい、喜びなさい、いとしい息子たちよ。いと高き永遠の御父のみ前で、感謝の甘美な涙を流してください。ただし、これで満足したとは言わず、いとも聖なる十字架の旗が間もなく掲げられるよう、御父に祈ってください。優しいイエス・キリストにおいて喜び、歓喜してください。神の限りないいつくしみの惜しみない豊かさを見て、わたしたちの心が張り裂けるほどになりますように。今や、それを妨げようとする者がいても、平和は実現しました。地獄の悪魔は打ち負かされたのです。
土曜日の夕べには、夜の一時にオリーブの枝が一つ届きました。そして今日、晩の祈りの時にもう一つが届きました。また土曜日の夕べには、わたしたちのあの友人が仲間一人とともに捕らえられました。こうして異端は一挙に完全に終わりを告げ、平和が訪れました。今、彼は獄中にいます。神が彼に真の光と認識をお与えくださるよう、彼のために祈ってください。十字架につけられたキリストの御血に深く身を沈め、その御血に身を浸してください。愛してください、互いに愛し合ってください。平和のオリーブの枝を少しお送りします。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。甘美なイエスよ、愛なるイエスよ。 ページの先頭へ
三人のイタリア人枢機卿へ
カタリナは、教会の化膿した傷に外科的な処置を施す勇気を持つ改革者が、ペトロの座に就くことを切に願っていました。その願いはかないました。ウルバノは直ちに、教会の抜本的な改革に着手したのです。しかし、その高圧的な厳しさは枢機卿団にとって耐え難いものであることが明らかになり、教会分裂が世界を襲い、人々を恐怖に陥れました。
事情はこうでした。グレゴリオの死後、大多数をフランス人が占める枢機卿たちは、彼らの目には野蛮と映るローマの町でコンクラーベに集まりましたが、ローマ人、少なくともイタリア人を教皇にするよう要求する民衆の叫びにおびえていました。そこで一計を案じ、ローマ人である高齢のサン・ピエトロの枢機卿を選出したと発表しましたが、当の枢機卿は心を痛め、この偽りのうわさを否定しました。その間に枢機卿団は妥協に合意し、「思いがけない候補者」を見いだして、しかるべき荘厳さをもってバーリの大司教を選出し、通常の正式な手続きに従って、その選出をキリスト教世界に告知しました。しかし、すでに述べたように、ほどなくして自ら選んだ人物に反旗を翻し、その選挙は恐怖に迫られて行われたため無効であったと宣言し、対立教皇の擁立に踏み切ったのです。それがジュネーヴのロベール、歴史上クレメンス七世として知られる人物でした。彼には人を引きつける魅力がありましたが、その生き方は邪悪なものでした。枢機卿たちが自らの行動を正当化するために挙げた理由の厚かましさを、カタリナは的確に指摘しています。しかし、ヨーロッパは誰に従うかをめぐって分裂し、言葉の争いはやがて剣による争いへと変わりました。
カタリナはこの難局に立ち向かいました。波乱に満ちたその生涯の残りは、ウルバノの正統性を必死に擁護することに費やされました。彼女が彼をペトロの正当な後継者と信じていたのは正しかったのですが、その好ましからぬ人柄については、すでに見たとおり、いささかの幻想も抱いていませんでした。ウルバノの主張の正当性を有力者たちに納得してもらおうと彼女が書いた数多くの手紙は、きわめて価値の高い歴史的文書です。それらのどの手紙からも、誤ることのない教会という神秘的な観念を、いわば生まれながらの空気のように呼吸していた女性が、教会機構の現実に直面したときの驚きが伝わってきます。それでも彼女の忠実さは試練に耐え、カタリナは最も高い立場を決して離れることなく、現実の状況に政治家のような手腕をもって対処できることを示しました。この手紙の宛先は、枢機卿団の三人のイタリア人枢機卿です。彼らは当初、同国人であるウルバノを支持していましたが、フランス人たちに誘われて彼を裏切りました。この手紙は、的を射た説得力ある訴えに、憤りを込めた叱責と雄弁な懇願とを織り交ぜたものです。
イタリアの偉大な愛国者が、イタリアの聖職者たちを諫めたのは、これが初めてではありませんでした。カタリナの手紙を読むと、クレメンス五世の死後、教皇選挙が間近に迫った折にダンテがイタリア人枢機卿たちに宛てて書いた、あの気高い手紙との比較は避けられません。ダンテもカタリナと同じように、ローマとイタリアのために枢機卿たちに訴えました。アヴィニョンでのバビロン捕囚を終わらせ、ペトロの座に戻ってほしいというのが、その懇願でした。あの手紙は、聖なる都を恥ずべき仕方で見捨ててゆく、その初期の段階を記すものでした。一方、カタリナのこの手紙は、その大きな過ちがもたらした結果を扱っています。ダンテはこう書きました。「それでも、その傷は癒やされるでしょう。(もっとも、汚辱の傷痕と烙印が使徒座に焼きつけられ、天と地とがそのために取っておかれた方の姿を損なうことは、もはや避けられません。)もし、この過ちを犯したあなたがたが皆、心を一つにして、キリストの花嫁のために、ローマである花嫁の座のために、わたしたちのイタリアのために、さらに余すところなく言うなら、この地上を旅する者たちの共同体全体のために、勇敢に戦うならば……」。ダンテがこう書いてから六十年以上が過ぎていました。それは罪と恥辱の歳月でした。カタリナが直面した状況は、ダンテが向き合ったものよりもさらに暗く、その言葉に息づく勇気には、彼ほどの確信は感じられません。それでも、彼女の愛国心とキリスト者としての信仰は、彼のそれと同じ性質のものでした。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
慈しみ深いキリスト・イエスに結ばれた、最愛の兄弟であり父である皆さまへ。イエス・キリストのしもべたちのしもべであり奴隷であるわたし、カタリナは、主の尊い御血のうちに、皆さまにこの手紙を書き送ります。皆さまが、陥ってしまった盲目の深い闇を離れ、真実でこの上なく完全な光へと立ち帰られることを切に願っています。そのときこそ、皆さまはわたしの父となるのです。そうでなければ、父ではありません。そうです、皆さまが死を離れ、いのちへと立ち帰られるかぎりにおいて、わたしは皆さまを父と呼びます。というのも、今のままでは、皆さまは恵みのいのちから離れ、いのちを受けていた頭から切り離された肢体となっているからです。皆さまが信仰において一致し、教皇ウルバノ六世への完全な従順において結ばれるとき、わたしは皆さまを父と呼びます。この従順のうちにとどまるのは、光を持ち、その光のうちに真理を知り、それを知って愛する人々です。見えないものは知ることができず、知らない者は愛さず、自分の創造主を愛さず畏れもしない者は、肉的な愛で自分自身を愛するからです。そして、世の楽しみであれ、名誉や地位であれ、何を愛するにしても、肉に従って愛するのです。人は愛によって造られているので、愛なしには生きられません。神を愛するか、あるいは、死をもたらす愛で自分自身と世を愛し、自己愛によって暗くなった心の目を、風のように過ぎ去るはかないものに注ぐか、そのどちらかです。この状態では、いかなる真理も善も見分けることができません。光を持たないため、偽りしか認められないのです。まことに、もし光を持っていたなら、このような愛からは苦しみと永遠の死しか生じないことが分かるはずです。この愛は、現世において地獄を先取りして味わわせます。自分自身とこの世のものを度を越して愛する者は、自分自身にさえ耐えられなくなるからです。
ああ、人間の盲目よ。不幸な人よ、あなたには見えないのですか。あなたは、堅固で揺るぎなく、喜ばしく、善く美しいものを愛しているつもりなのですか。しかし、それらは移ろいやすく、悲惨の極みであり、醜く、何の善もないものなのです。それは、造られたものとしてのそれら自体がそうだということではありません。すべては、完全に善である神によって造られたものだからです。そうではなく、節度を失ってそれらを所有する者のあり方によって、そうなるのです。神なしに、神への畏れもなく富や名誉を所有する者にとって、この世の富や名誉は、なんと移ろいやすいことでしょう。今日、富み栄えていても、今日のうちに貧しくなるのです。わたしたちの肉体のいのちは、なんと醜いことでしょう。生きていながら、体のあらゆる部分から悪臭を放つのです。ただの糞の袋、うじ虫の餌、死の餌にすぎません。わたしたちのいのちも若さの美しさも、草木から摘み取られた花の美しさのように過ぎ去ります。至高の裁き主が、死によってこのいのちの花を摘み取ろうとなさるとき、この美しさを救える者も、奪われないように保てる者も、誰一人いません。そして、それがいつなのか、誰も知りません。
おお、惨めな人よ、自己愛の闇が、あなたにこの真理を悟らせないのです。もし悟っていたなら、このように生きるくらいなら、どんな苦しみをも選んだことでしょう。「存在する方」を愛し、慕い求めることに身をささげたことでしょう。その方の真理を揺るぎなく味わい、風に舞う木の葉のようにあちこちへ動くことはなかったでしょう。創造主に仕え、その方のうちにすべてを愛し、その方を離れては何ものをも愛さなかったでしょう。おお、最期の時には、理性を備えたすべての者において、この盲目がどれほど厳しくとがめられることでしょう。まして、神が世の汚れから取り出し、へりくだった汚れなき小羊の御血に仕える者として、この上なく優れた地位に置かれた人々においては、なおさらです。ああ、ああ! その高い位にふさわしい徳を身につけずにいたために、あなたがたは何という有様になってしまったのでしょう。あなたがたは聖なる教会の乳房で養われるために置かれたのです。その園で徳の芳香を放つために植えられた花だったのです。この船と、地上におけるキリストの代理者とを支える帆柱として置かれたのです。信仰に忠実なキリスト者を照らし、信仰を広めるために、燭台の上のともし火として置かれたのです。自分たちが造られた目的を果たしてきたかどうか、あなたがたはよく知っています。確かに、果たしていません。自己愛のために、あなたがたは、ただ真理のうちにあって人々を力づけ、善良で聖なる生活の輝かしい模範を示すために、この園に置かれたのだということを悟れなかったのです。これを悟っていたなら、あなたがたはこの甘美な真理を愛し、それを身にまとっていたことでしょう。その乳房であなたがたを養ってきた花嫁に対して抱くべき感謝は、どこにあるのでしょう。わたしたちのうちに見えるのは、憐れみの泉を干上がらせるほどの忘恩ばかりです。あなたがたが恩知らずで、粗野で、利得目当てであることを、何がわたしに示しているのでしょう。それは、あなたがたがほかの者たちとともに、あの優しい花嫁に加えている迫害です。今こそ、あなたがたは異端の打撃を防ぐ盾となるべきなのに。それにもかかわらず、あなたがたは真理をはっきりと知っています。すなわち、教皇ウルバノ六世は、恐れに左右されることなく、まことにあなたがたの人間的な働きよりも神の霊感によって、正規の選挙で選ばれた、真の教皇、至高の司教であるということです。あなたがた自身がそうわたしたちに告げたのであり、それは真実でした。ところが今、あなたがたは卑劣で情けない騎士のように背を向け、自分の影におびえています。わたしたちを強める真理から自らを引き離し、霊魂と体を弱める偽りに近づいて、現世の恵みも霊的な恵みも失ってしまいました。何があなたがたをこうさせたのでしょう。世をむしばんでいる自己愛の毒です。それがあなたがたを、わらよりも軽い柱にしてしまったのです。花でありながら芳香を放たず、全世界に悪臭を漂わせるあなたがたよ! 信仰を広めるために燭台の上に置かれたのに、あなたがたはもはやともし火ではありません。高慢という升の下に自分の光を隠し、信仰を広める者ではなく、それを汚す者となって、自分たちとほかの人々の上に闇を広げているのです。あなたがたは、わたしたちを地獄の悪霊から解き放つために置かれた、地上の天使であるはずでした。羊たちを聖なる教会への従順に立ち帰らせることによって、天使の務めを果たすはずでした。それなのに、あなたがたは悪霊の務めを引き受けてしまったのです。自分たちの内にある悪をわたしたちにもうつそうとして、わたしたちを地上のキリストへの従順から引き離し、反キリストへの従順へと導いています。その反キリストは悪魔の一味であり、あなたがたも、この異端のうちにとどまるかぎり、同じく悪魔の一味なのです。
これは、無知から生じるような盲目ではありません。実際とは違うことを人々があなたがたに伝えたために、こうなったのではありません。そうではないのです。あなたがたは何が真理かを知っています。それをわたしたちに告げたのはあなたがたであって、わたしたちがあなたがたに告げたのではないからです。おお、何と正気を失っていることでしょう! わたしたちには真理を告げておきながら、自分たちは偽りを味わおうとしているのですから! 今、あなたがたはこの真理をねじ曲げ、恐れのために教皇ウルバノを選んだと言って、わたしたちに正反対のことを信じ込ませようとしています。しかし、それは事実ではありません。そんなことを言う者は――あなたがたが自ら敬意を受けるに値しない者となったので、敬意を払わずに言いますが――全くのうそつきです。恐れのためにあなたがたが選んだ者として誰を差し出したのかは、見ようとする者には誰にでも明らかだからです。それはメッセール・ディ・サント・ピエトロでした。あなたがたはわたしにこう言うかもしれません。「なぜわたしたちを信じないのですか。誰を選んだかという真実は、あなたよりもわたしたちのほうがよく知っています」と。これに対してわたしは、あなたがた自身がさまざまな形で真理を捨てたことをわたしに示してきたのですから、教皇ウルバノ六世は真の教皇ではないというあなたがたの言葉を、わたしは信じるべきではないと答えます。あなたがたの人生の初めに目を向けても、良心に従ってうそを避けるほど善良で聖なる生活を、あなたがたのうちに認めることはできません。あなたがたの生活が正しく導かれていないことを、何がわたしに示しているのでしょう。異端の毒です。あなたがた自身の口で宣言した選挙に目を向けるなら、わたしたちは、あなたがたが恐れからではなく、教会法に従って彼を選んだことを知っていました。恐れのためにあなたがたが民衆の前に差し出したのは、メッセール・ディ・サント・ピエトロであったことは、すでに述べたとおりです。今日、まことに教皇ウルバノ六世となっているバーリの大司教、メッセール・バルトロメオをあなたがたが選んだ選挙が、正規のものであったことを、何がわたしに証明するのでしょう。その戴冠式が荘厳に執り行われたことに、この真実はわたしたちにとって明らかです。その荘厳な式が誠実に執り行われたことは、あなたがたが彼に示した敬意と、彼に願い求めた恩典によって示されています。あなたがたは、その恩典をあらゆる仕方で利用してきたのです。あからさまなうそをつくのでなければ、この真実を否定することはできません。
ああ、千度の死に値する愚かな人たちよ! あなたがたは盲目の者のように、自らの過ちが見えず、自分自身を偽り者、偶像を拝む者にしてしまうほどの混乱に陥っています。たとえあなたがたの言うことが真実であったとしても(実際には真実ではありません。いいえ、教皇ウルバノ六世こそ真の教皇であると、わたしは重ねて断言します)、あなたがたは、彼が最高の牧者であるとわたしたちに告げたとき、わたしたちに偽りを述べたことになるのではありませんか。実際、彼は最高の牧者なのです。また、地上のキリストとして彼を崇め、敬意を示したことも、偽りだったことになるのではありませんか。また、便宜を得ようとし、それを不法に利用したことで、聖職売買を行ったことになるのではありませんか。まさしく、そのとおりです。今や彼らは、そして彼らとともにあなたがたも、その行動と外面的な姿において、対立教皇を立てたのです。悪魔の化身たちがあの悪魔を選んだとき、あなたがたはその場にとどまることに同意したのですから!
あなたがたはわたしに、「いいえ、わたしたちは彼を選びませんでした」と言うかもしれません。どうしてその言葉を信じられるでしょうか。そうでなければ、たとえ命を失うことになったとしても、あなたがたがあの場にとどまることに耐えられたとは思えないからです。少なくとも、あなたがたが真実を押し隠し、それを声に出して叫ばなかったという事実が――そうする力は、あなたがたにはなかったでしょうから――わたしをそう考えさせます。意図においては、ほかの人たちよりも過ちが小さかったのかもしれません。それでも、あなたがたはほかの皆とともに過ちを犯したのです。何と言えばよいでしょう。真理の側に立たない者は真理に逆らう者であり、あのとき地上のキリストである教皇ウルバノ六世の側に立たなかった者は、彼に逆らっていたのだと言えます。ですから、あなたがたは対立教皇とともに過ちを犯したと、わたしは告げます。そして、選ばれた彼は悪魔の一員であったと言ってよいでしょう。もしキリストの一員であったなら、これほど大きな悪に同意するよりも、死を選んだはずだからです。彼は真実をよく知っており、知らなかったと言い逃れることはできません。今やあなたがたは、この悪魔にかかわって、これらすべての過ちを犯しました。すなわち、決して教皇ではない彼を教皇と認め、敬意を示すべきではない者に敬意を示したのです。あなたがたは光を捨てて闇に入り、真理を捨てて偽りと結びつきました。どちらを見ても、わたしには偽りしか見いだせません。あなたがたは責め苦に値します。そして、真の謙遜をもって従順に立ち帰らなければ、その責め苦はあなたがたに降りかかると、わたしは真実を告げ、こうして自分の良心の重荷を下ろします。
ああ、惨めさに惨めさを重ね、盲目に盲目を重ねるありさまよ! そのために、自らの過ちも、魂と体に及ぶ損失も見えなくなっています。それが見えていたなら、あなたがたは、人から心地よく優しく扱われることに慣れた、思い上がった身勝手な人たちのように、卑屈な恐れにとらわれ、ひたすら激情に駆られて、これほどたやすく真理を捨てはしなかったでしょう! あなたがたは、実際に矯正されることに耐えられなかったばかりか、厳しい叱責の一言にさえ、反抗して頭をもたげたのです。これが、あなたがたが変わった理由です。そして、このことはわたしたちに真実をはっきりと明らかにしています。地上のキリストがあなたがたを厳しくとがめ始める前には、あなたがたは彼を、まさしくキリストの代理者として認め、敬っていたからです。しかし、今あなたがたが結んでいる、死をもたらすこの最後の実は、あなたがたがどのような木であるかを示しています。そして、あなたがたという木が、理性の光を奪う自己愛から生じる、傲慢という土に植えられていることを示しているのです。
ああ、どうか神への愛のために、もうこのようなことはやめてください! まだ時があるうちに、神の代理者に従い、神の力強い手のもとにへりくだることに逃れ場を求めてください。時が過ぎてしまえば、もはやわたしたちに助けはないからです。謙遜になれるよう、自らの過ちを認め、神の限りない慈しみを知ってください。神は、大地にあなたがたをのみ込むよう命じることも、獣にあなたがたを食い尽くすよう命じることもなさいませんでした。それどころか、自分の魂を正すことができるよう、あなたがたに時を与えてくださったのです。しかし、このことを認めないなら、神が恵みとして与えてくださったものは、あなたがたへの厳しい裁きに変わるでしょう。けれども、あなたがたが囲いに戻り、キリストの花嫁の胸で真理のうちに養われるなら、これまでに犯した不義にもかかわらず、天上のキリストからも、地上のキリストからも、いつくしみをもって迎えられるでしょう。どうか、これ以上ためらわず、絶えずあなたがたを刺しているとわたしが知っている良心の痛みに、逆らわないでください。また、自分が犯した悪をめぐる心の混乱に打ち負かされ、助けを見いだせないかのように思い、疲れと絶望のうちに自らの救いを投げ捨てることがないようにしてください。そのようにしてはなりません。むしろ、生きた信仰のうちに、創造主への希望を固く保ち、へりくだって、自らのくびきのもとに戻ってください。最後に頑迷と絶望の罪を犯すなら、それは最も悪く、神にも世にも最も忌まわしい罪となるからです。ですから、立ち上がって光の中へ出てください! 光がなければ、あなたがたは今までそうしてきたように、闇の中を歩むことになるのです。
光がなければ真理を知ることも愛することもできないと、わたしの魂は思い巡らし、皆さんが闇から立ち上がり、光と一つになるのを見たいと切に望むと、わたしは申しましたし、今もそう申します。この望みは理性を備えたすべての者に向けられていますが、とりわけ皆さん三人に向けられています。わたしは皆さんのことでこの上なく悲しみ、同じ過ちを犯したほかのどの人々にもまして、皆さんの過ちに驚いているからです。たとえすべての人が父を見捨てたとしても、皆さんは真理を示し、父を力づける子であるべきでした。たとえ父が皆さんを叱責するばかりであったとしても、だからといって皆さんが先頭に立ち、いかなる形であれ、その聖性を否定すべきではありませんでした。まったく自然の次元で申しますと――徳の点では、わたしたちは皆、等しくあるべきなのですから――人間的な見地から言えば、地上のキリストがイタリア人であり、皆さんもイタリア人なのですから、山の向こうの人々を動かしたのと同じように、祖国への熱い思いが皆さんを動かせなかった理由は、自己愛のほかには見当たりません。今すぐそれを地に投げ捨て、時を待ってはなりません。時は皆さんを待ってはくれないからです。悪徳を憎み、徳を愛して、そのような利己心を足の下に踏みにじってください。
立ち帰ってください、立ち帰ってください。正義の鞭を待ってはなりません。わたしたちは神の御手から逃れられないのですから。わたしたちは、正義によってであれ、いつくしみによってであれ、神の御手のうちにあります。過ちのうちにとどまって正義の御手にあるよりも、自分たちの過ちを認め、いつくしみの御手のうちにとどまるほうがよいのです。わたしたちの過ち、とりわけ聖なる教会に対して犯される過ちが、罰を免れることはないからです。しかし皆さんが、まことの父としていつくしみの翼を広げて待っている父のもとへ立ち帰ることを選ぶなら、わたしは涙と絶え間ない祈りをもって皆さんを神の御前に担い、皆さんとともにその償いを担うことを、自らの務めとしたいのです。ああ、ああ、そのいつくしみを避けたり、そこから逃げたりせず、へりくだって受け入れてください。皆さんを死に引き渡した悪い助言者たちを信じてはなりません。ああ、愛する兄弟たち。皆さんが真理に近づくかぎり、わたしにとって愛する兄弟、愛する父となるのです。神のしもべたちが皆さんのために流す涙と汗に、もう逆らわず、その涙と汗で頭から足まで身を洗ってください。それらを、また、神のしもべたちが皆さんのためにささげる、切実で甘美な、悲しみに満ちた願いを軽んじるなら、皆さんははるかに厳しい叱責を受けることになるからです。神と、その真実の裁きを畏れてください。神が限りない慈しみによって、そのしもべたちの願いを皆さんのうちに実現してくださるよう、わたしは希望しています。
皆さんの救いへの愛に促されて書いたこの言葉で、わたしが皆さんを刺し貫いても、それを厳しすぎると思わないでください。神がお許しくださるなら、むしろ自分の生の声で皆さんを刺し貫きたいのです。神のみ旨が行われますように。それでも皆さんにふさわしいのは、言葉よりも行いです。これで終わりにし、これ以上は申しません。自分の望みに従うなら、まだ筆を置くことはできないでしょう。光となるよう置かれた人々のうちに、このような盲目さを見る悲嘆と悲しみで、わたしの魂は満たされているからです。この人々は、神の誉れと霊魂の救い、そして聖なる教会の改革を糧として養われる小羊ではありません。むしろ盗人のように、神に帰すべき誉れを盗んで自分自身に帰し、狼のように羊を食い尽くしています。それゆえ、わたしは深い苦しみを覚えています。皆さんのために、これほど燃えるような愛をもって流された尊い御血への愛にかけて、お願いします。皆さんの救いを求めるわたしの魂に、慰めを与えてください。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。汚れのない小羊の御血に身を浸してください。そこで皆さんは奴隷のような恐れをすべて失い、光に照らされて、聖なる畏れのうちにとどまるでしょう。甘美なイエス、愛なるイエス。 ページ上部へ
ナポリ女王ジョヴァンナへ
ナポリのジョヴァンナは、当時もっとも堕落した人物の一人であると同時に、もっとも伝奇的な人物の一人でもありました。その人を引きつける魅力においても、その邪悪さにおいても、彼女はルネサンス期の女性たちの類型を先取りしています。彼女の数々の罪も、カテリナ・ベニンカーサが格別の優しさをもって彼女を思い慕うのを妨げることはありませんでした。シエナの染物師の娘が、このナポリの大女王に書き送った多くの手紙が、今も残されています。興味深いことに、そのうち初期のいくつかは、効果がなかったわけではないようです。ジョヴァンナはそれらに返事を書いただけでなく、十字軍に加わると約束したからです。
教会大分裂が起こった今、ジョヴァンナが、政治上は自分の臣下であったウルバノを支持することは、きわめて重要でした。カテリナはこの件について、一度ならず、幾度も彼女に手紙を書き送りました。この時期のカテリナの多岐にわたる書簡の中でも、これらの手紙は、全体にみなぎる熱烈で個人的な思いゆえに、独特の興味を引きます。カテリナが懇願し、論じるのは、真理のためだけでなく、ジョヴァンナの救いのためでもあります。次の手紙の反駁の余地のない論理に納得しなかったとしても、そのひたむきで優しい心遣いには、心のかたくなな老女王さえ胸を打たれたに違いないと思われるほどです。実際、ジョヴァンナはしばらくクレメンス側についていた後、一時的に立場を変え、ウルバノを支持しました。しかし、まもなく以前の立場に戻りました。多くのヨーロッパの君主たちと同様、彼女にとっても、この問題を決定したのは、教皇選挙の正当性という素朴な問いとは、ほとんど、あるいはまったく関わりのない思惑だったのでしょう。
優しいイエス・キリストにおける最愛の母上。イエス・キリストのしもべたちのしもべであり奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたに書き送ります。わたしたちが救われるために知り、愛さなければならない真理に、あなたが根ざすことを願っています。真理である優しいイエス・キリストを知ることに根ざす人は、魂をこの認識へと迎え入れる愛の熱情のうちに、魂の平和と静けさを得て、それを味わうでしょう。
わたしたちはこの真理を、とりわけ二つの仕方で知るべきです。もっとも、あらゆるもののうちに真理を知ることが、わたしたちにはふさわしいのです。すなわち、存在するすべてのものは、真理そのものである神のうちに、神を通して、自らを愛するべきであり、神なしには何も存在しません。そうでなければ、真理から離れ、偽りの父である悪魔に従って、偽りのうちを歩むことになります。わたしたちは、とりわけ二つの仕方で真理を認めるべきだと申しました。第一に、神についての真理を認めるべきです。神は言葉に尽くせないほどわたしたちを愛し、わたしたちが存在する以前から愛してくださいました。それどころか、愛によってわたしたちを創造してくださったのです。これがかつて真理であり、今も真理です。それは、わたしたちが永遠のいのちを得て、神の至高にして永遠の善を享受するためでした。これがまさしくそのとおりであることを、何が示しているのでしょうか。これほど燃え立つ愛をもって、わたしたちのために流された御血です。神の御子であるみことばの甘美な御血のうちに、わたしたちはその教えの真理を知るでしょう。その教えはいのちと光を与え、肉的な愛と人間の放縦がもたらすすべての影を追い散らします。そしてわたしたちは、清い心で、真理に根ざした十字架につけられたキリストの教えを知り、それに従うのです。第二に、そして最後に、わたしたちは隣人についての真理を認めるべきです。その人が身分の高い人であれ低い人であれ、臣下であれ君主であれ、同じことです。つまり、人々が何かを行っていて、そこに隣人を誘って加わらせようとするとき、わたしたちは、その行いが真理に根ざしているかどうか、また、その行いへと駆り立てられている人が何をよりどころとしているかを見極めるべきです。そうしない人は、偽りに根ざした、目の見えない案内人に従う、正気を失った目の見えない人のように振る舞っています。そして、自分のうちに真理がなく、それゆえ真理を求めてもいないことを示しているのです。時には、人々があまりにも正気を失い、獣のようになり、そのような行いによって魂と体のいのちや、この世の財産を失いつつあると分かっていながら、意に介さないことがあります。目がくらみ、知るべきことを知らないからです。彼らは、何の確固たるところも安定もない女性的な性質をもって、闇の中を歩んでいます。
最愛の母上。あなたが真理を愛し、聖なる教会に従順であるかぎりにおいて、わたしはあなたを母と呼びます。しかし、それ以外の意味ではそう呼びませんし、敬意をもって語りかけることもいたしません。あなたという人に大きな変化が見られるからです。貴婦人であったあなたは、偽りと、その父である悪魔に身を従わせ、実在しないもののしもべ、奴隷となってしまいました。聖霊の勧めを捨て、人の姿をした悪魔たちの勧めを受け入れたのです。まことのぶどうの木の枝であったあなたは、自己愛という刃で自らを切り離してしまいました。父である、地上のキリストの代理者、教皇ウルバノ六世から優しく愛される嫡出の娘であったあなたは、長い間養われてきた母なる聖なる教会の懐から、自らを引き離してしまいました。この方こそ、まことに教皇、最高の牧者であるのです。ああ、ああ、あなたがこのような誤りから抜け出さないなら、恵みのいのちから切り離され、魂も体も死んだ女を悼むように、あなたを悼むことができます。あなたは、わたしが述べた仕方で神の真理を知らなかったように見えます。もし知っていたなら、大罪を犯して神に背くよりも、死を選んだはずだからです。また、あなたは隣人についての真理も知りませんでした。それどころか、深い無知のうちに、自分自身の激情に動かされて、わたしがこれまで耳にした中で最も惨めで侮辱的な勧めに従い、そのとおりに行動したのです。キリスト者であり、カトリック信者で徳のある女性と見なされていた人が、自分の信仰を否むキリスト者のように振る舞い、それまで守ってきた善良で聖なる習慣と、しかるべき敬意を捨て去ること以上に、大きな恥があるでしょうか。ああ、心の目を開き、これほど大きな惨めさのうちに、もう眠り続けないでください。死の時を待っていてはなりません。その後では、言い訳をしても、「善を行うつもりでした」と言っても、何の役にも立ちません。あなたは自分が悪を行っていると知っていながら、病み、激情にとらわれた女のように、自らを激情の導くままに任せているからです。
その助言は、あなたご自身ではなく、ほかの誰かから出たものだと、わたしは確信しています。真理を知ろうと望んでください。どうか、強く望んでください。あの人々は何者なのか、また、なぜ教皇ウルバノ六世は真の教皇ではないと言い、悪魔の一員である反キリストにすぎない対立教皇を地上のキリストと見なすように仕向けて、偽りを真実と思わせるのかを、知ろうとしてください。彼らは、どのような真実に基づいて、あなたにそのようなことを言えるのでしょうか。何の真実にも基づいてはいません。まったくの偽りを語り、嘘に嘘を重ねているのです。あの不義の者どもに、いったい何が言えるでしょうか。人間ではなく、人の姿をした悪霊どもです。どこに目を向けても、自分たちが悪事しか行ってこなかったことを認めざるをえないのですから。仮に教皇ウルバノ六世が教皇ではなかったとしても――実際にはそうではありませんが――彼らは、偽りを暴かれた嘘つきとして、そのことだけで千度の死に値するでしょう。なぜなら、もし彼らが初めに、正規の選挙によって誠実にではなく、恐れから彼を選び、真の教皇としてわたしたちに示したのだとすれば、どうでしょう。彼らは偽りを真実としてわたしたちに示し、従ってはならず、敬ってもならない者に、わたしたちを、そして同時に自分たち自身をも従わせ、敬意を払わせたことになるのです。実際、彼らは彼に敬意を払い、恩典を願い求め、それによって利益を得ました。あたかもそれらが最高の牧者から与えられたかのように振る舞ったのですが、事実、それらは最高の牧者から与えられたものでした。わたしが言いたいのは、仮に彼が教皇ではなかったとすれば――わたしたちをあわれんでくださった神の大いなる慈しみによって、実際はそうではないのですが――そのことだけで、彼らにはどれほど厳しい処分を科しても厳しすぎることはない、ということです。まして、実際にはそうでなかったのに、恐れから教皇を選んだと装う彼らは、百万度の死に値します。しかし、偽りを土台としている者たちなので、真実を語ることができません。その偽りをどれほど隠そうとしても、その闇と悪臭は目に見え、感じ取られてしまうのです。彼らが口実にしたこと自体は、まったくの事実です。彼らは、真の教皇であるバーリ大司教バルトロメオ殿、今の教皇ウルバノ六世を選んだ後で、恐れから一人の教皇を選んだのです。それはサント・ピエトロ殿でした。しかし、この方は善良で正しい人でしたので、教皇は自分ではなく、バーリ大司教バルトロメオ殿であると告白しました。このバルトロメオ殿こそ、今、教皇ウルバノ六世と呼ばれ、悪人たちにもかかわらず、忠実なキリスト者たちから、最高の牧者、きわめて正しい人として敬われている方です。あの悪人たちはキリスト者ではありません。唇にも心にもキリストの名を帯びていないからです。彼らはむしろ、聖なる教会と地上におけるキリストの代理者への信仰と従順を捨てた不信仰者、まことのぶどうの木から切り離された枝、分裂と極めて重大な異端の種をまく者たちなのです。
心の目を開いてください。どうか目を開き、もはやそのような盲目のうちに眠り続けないでください。あなたをこれほど大きな異端に引き込んだ者たちの、神を畏れない邪悪な生き方に気づかないほど、無知であったり、まことの光から遠く離れていたりしてはなりません。彼らの結ぶ実が、どのような木であるかを示しているからです。その生き方を見れば、彼らが真実を語っていないことが分かります。彼らの周囲にいる内外の助言者たちも、それを示しています。その人たちは学識があるかもしれませんが、徳のある人でも、称賛すべき生き方をしている人でもなく、むしろ多くの過ちのために非難されるべき人たちです。もし本当に、わたしたちの最高の牧者である教皇ウルバノ六世が真のキリストの代理者ではないというのなら、彼らが対立教皇として選んだ正しい人は、いったいどこにいるのでしょうか。彼らはどのような人を選んだのでしょうか。聖なる生活を送る人でしょうか。いいえ、不義の者、悪霊を選んだのです。だからこそ、その者は悪霊の業を行うのです。悪魔はわたしたちを真理から引き離そうと力を尽くしますが、その者もまったく同じことをしています。なぜ彼らは正しい人を選ばなかったのでしょうか。正しい人ならば、彼らのうちに真実らしきものさえ見いだせず、教皇の座を受け入れるくらいなら死を選ぶであろうことを、彼らは十分に承知していたからです。こうして悪霊どもは悪霊を取り、嘘つきどもは偽りを取ったのです。これらすべてのことが、教皇ウルバノ六世こそ真に教皇であり、彼らには真実がなく、偽りを愛する者であることを示しています。
もしあなたがわたしに、「これらすべてのことについて、まだ考えがはっきりしません」と言うのでしたら、なぜ少なくとも中立にとどまらないのでしょうか。もっとも、これ以上はっきりとは言えないほど明らかなことなのですが。そして、さらに理解が深まるまでは、自分の財産で教皇を援助するつもりがないとしても――父が困窮しているときには子らが助けるべきですから、あなたにはその援助を行う義務があるのですが――少なくとも霊的な事柄では教皇に従い、そのほかの事柄では中立にとどまってください。ところがあなたは、激情に駆られた女のように振る舞っています。そして、呪われた作り話の語り手からあなたにうつった憎しみと悪意、また、あなたが自ら手放したあの方を失うことへの恐れが、わたしたちから光と知識を奪ってしまいました。あなたは真理を知らず、かたくなにこの悪のうちにとどまり続けているからです。そして、そのかたくなさのうちに、あなたに迫っている裁きが見えていないのです。
ああ、なんということでしょう。わたしはあなたの救いを心からいとおしく思うゆえに、深い悲しみをもってこう申し上げるのです。この大きな過ちを捨て去り、そのほかのあらゆることについても態度を改め、生活を正さないなら、至高の裁き主はあなたに厳しい罰をお与えになります。この方は、魂が心からの痛悔と告白と償いによって罪を清めないかぎり、罪を罰せずに見過ごすことはなさいません。その罰によってあなたは、聖なる教会に逆らって頭をもたげようとする者をことごとく震え上がらせる、際立った見せしめとなるでしょう。この懲らしめの杖が下されるのを待ってはなりません。神の正義に逆らっても、あなたは苦しむばかりだからです。あなたは必ず死にますが、それがいつなのかは知りません。富も、どれほど高い地位も、この世の栄誉も、諸侯も、地上の事柄においてあなたの臣下である民も、至高の裁き主の前であなたを守ることも、神の正義を阻むこともできません。けれども神は時として、悪人たちを通して働き、その人々にご自分の敵への裁きを執行させられます。あなたは民とすべての臣下を、自分の味方となるよりも、むしろ敵となるように仕向けてきましたし、今もそうしています。彼らはあなたの人となりに、ほとんど誠実さを見いださなかったからです。そこに見たのは、雄々しい心を持つ男の資質ではなく、堅固さも揺るぎなさもまったくない女、風に舞う木の葉のように変わる女の資質でした。
彼らはよく覚えています。真の教皇である教皇ウルバノ六世が、盛大かつ正当な選挙によって選出され、たいそう荘厳に戴冠されたとき、あなたは盛大で華やかな祝宴を催しました。それは、父が高められたことを子が祝い、息子が高められたことを母が祝うときに、なすべきことでした。この方はあなたにとって、息子でもあり父でもあったからです。就かれた位の尊厳によって父であり、あなたの臣下、すなわちあなたの王国の者であったゆえに息子だったのです。ですから、あなたの行いはよいものでした。さらにあなたは、最高の牧者である教皇聖下に従うよう、すべての人に命じました。ところが今、あなたは決断力のない女のように態度を一変させ、人々にその反対のことをさせようとしているのです。ああ、なんと惨めな情念でしょう。あなたは自分の内にある悪を、彼らにも分け与えようとしています。あなたが彼らをいのちから引き離し、死へと導き、真理から偽りへと投げ込む張本人であると彼らが見ているのに、どうして彼らがあなたを愛し、あなたに忠実でいられると思うのですか。あなたは彼らを天上のキリストからも、地上のキリストからも引き離し、悪魔と反キリストに結びつけようとしています。その反キリストは偽りを愛する者、偽りの預言者であり、あなたも、彼に従うほかの者たちも同じなのです。
十字架につけられたキリストへの愛のために、もはやこのようなことはやめてください。あなたはあらゆる仕方で、神の裁きを自分の上に招いています。わたしはそのことを悲しんでいます。迫り来る破滅を食い止めないなら、あなたは神のみ手から逃れることはできません。正義によってであれ、いつくしみによってであれ、あなたは神のみ手の内にあるのです。正義のみ手を逃れ、いつくしみのみ手の内にとどまれるよう、生活を正してください。そして、その時まで待ってはなりません。望んでも、もはやできなくなる時が来るからです。羊よ、自分の囲いに帰りなさい。牧者の導きに身を委ねなさい。さもなければ、地獄の狼があなたを食い尽くすでしょう。あなたが自分を愛する以上に、真実にあなたを愛する神のしもべたちを、再び守り手として迎え入れてください。また、善良で、円熟した、分別のある助言者たちを迎えてください。悪魔の化身のような者たちの助言と、彼らがこの世の地位を失うことへの恐れによってあなたの内に引き起こした過度の不安とが、あなたを今の有様に陥れたのです。その地位は風のように過ぎ去り、永続するものではありません。地位のほうがわたしたちを離れるか、死によってわたしたちのほうがそれを離れるか、いずれかなのです。態度を改めないなら、あなたはやがて泣いてこう言うでしょう。「ああ、ああ、わたしは、悪辣な助言者たちに恐怖へと追い込まれたために、自分で自分のものを奪ってしまったのです。」しかし、最愛の母よ、神の裁きを避ける時間はまだあります。聖なる教会への従順に立ち返ってください。自分が行った悪を認めてください。神の力強いみ手の下にへりくだってください。そうすれば、ご自分のはしためのへりくだりを顧みてくださる神は、わたしたちにいつくしみを示してくださいます。神はあなたの過ちに対する怒りを鎮めてくださいます。キリストの御血の仲介によって、あなたはキリストにつぎ合わされ、愛のきずなでキリストに結ばれるでしょう。その愛のうちに、あなたは真理を知り、愛するようになります。真理はあなたを偽りから自由にし、あらゆる闇を払い、神のいつくしみのうちに光と知識を与えてくれます。この真理のうちに、あなたは解放されます。それ以外の仕方では、決して解放されません。
そして、真理はわたしたちを自由にするのですから、あなたの救いを願うわたしは、あなたが真理のうちに堅く立ち、真理が偽りによって損なわれることのないようにと望んでいる、と申し上げました。どうか、ご自分のうちに神のみ旨とわたしの魂の願いを実現してください。わたしは魂の奥底から、魂の力を尽くして、あなたの救いを願っているのです。それゆえ、あなたを言い尽くせないほど愛しておられる神の善に促されて、深い悲しみのうちに筆を執りました。以前にも、この同じ事柄についてお手紙を書きました。言葉を重ねてあまりに重荷を負わせ、また大胆に、礼を失してお話ししているのでしたら、どうかお許しください。あなたに抱く愛が、わたしを大胆に語らせるのです。あなたの犯した過ちが、わたしをしかるべき敬意から離れさせ、礼を失した言葉を語らせるのです。あなたの救いのため、そして何よりも神の誉れのために、書くよりもむしろ直接お会いして真実をお伝えできればと、心から願っています。また、このすべての責めを負う者には、言葉よりも行いをもって対処したいと、なおさら強く願っています。とはいえ、その責任も原因も、あなたご自身にあります。あなたが自ら選ばないかぎり、悪魔であれ、いかなる被造物であれ、あなたにごく小さな過ちさえ強いることはできないからです。ですから、あなたがその原因であると申し上げたのです。十字架につけられたキリストの御血に身を浸してください。そこでは、自己愛と奴隷的な恐れの雲も、憎しみと自己蔑視の毒も散り去ります。これ以上は申し上げません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。甘美なイエス、愛なるイエス。 ページ上部へ
オルヴィエートのシスター・ダニエラへ
シスター・ダニエラは、再び苦境に陥っていました。聖霊に促されてのことと思われますが、修道会の上長たちが認めない行動を取ろうとしていたのです。おそらく、カタリナの模範に倣い、修道院を出て、当時の社会生活に加わりたいと願っていたのでしょう。カタリナ自身も、若いころの多くの時期に、同じような苦境にありました。神の声が一つの道へと招くのに対し、人々の声は、中世の人々がこよなく大切にした謙遜と従順への内なる衝動にも後押しされて、別の道を強く求めるのです。その内的な葛藤の苦しみを、カタリナは、彼女に先立つ聖フランシスコと同じく、よく知っていました。彼女は友に、深い理解と共感をもって手紙を書いています。すでに見たように、ダニエラはカタリナを理解し、カタリナもまた彼女を理解していました。そして、その歩みのこの時点で、罪を戒めたり、臆する心を起こさせようとしたりする代わりに、たまには熱意を励ますことができたのは、カタリナにとって慰めであったに違いありません。弱い兄弟や姉妹が誓願のくびきの下で落ち着きを失うことは少なくありませんが、そのようなとき、この聖女はいつも従順を支持します。それだけに、次のように書くとき、彼女は相手がどのような女性かをよく分かっていたに違いないと、わたしたちは確信するのです。「自分のことは顧みず、神を畏れ、神に仕えなさい。そうすれば、人々を憐れむためでないかぎり、人々が何を言おうと気にかけることはありません。」
手紙の結びから、カタリナがまさにローマへ向かおうとしていたことが分かります。実際、ウルバノは彼女をローマへ呼び寄せていました。聖性によってこれほど名高い人の支援がもたらす利点を、明らかに心得ていたのです。カタリナは、その残りの生涯をローマで過ごすことになります。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
甘美なイエス・キリストにおける、最愛の娘よ。イエス・キリストのしもべたちのしもべであり、はしためであるわたしカタリナは、キリストの尊い御血のうちに、あなたに書き送ります。あなたが真実で、この上なく完全な光のうちにあり、真理を完全に知ることができるようにと願っています。ああ、最愛の娘よ、この光はわたしたちにどれほど必要なことでしょう。この光なしには、わたしたちは十字架につけられたキリストの道、いのちへと導く輝かしい道を歩むことができません。この光なしには、わたしたちは影の中を歩み、激しい嵐と苦しみのうちにとどまることになります。しかし、わたしの考えが正しければ、わたしたちはこの光を二つの段階において持つべきです。一つは、理性を持つすべての被造物が備えるべき共通の光で、自分が誰を愛し、誰に従うべきかを認めるためのものです。すなわち、精神の光の中で、いとも聖なる信仰を瞳として、自分の創造主を愛し、これに仕える義務があることを悟るのです。心と思いを尽くして、神ご自身のために神を愛し、何にもまして神を愛し、隣人を自分自身のように愛するという律法の掟に従わなければなりません。これらは、わたしたちだけでなく、すべての人を拘束する原則です。これは、わたしたち皆が従う義務のある共通の光です。この光なしには、わたしたちは死に、恵みのいのちを失って、悪魔の暗い道を進むことになります。しかし、もう一つの光があります。それはこの光から切り離されたものではなく、これと一つのものです。いえ、まさにこの第一の光によって、第二の光に達するのです。神の掟を守ることによって、もう一つの、この上なく完全な光へと成長する人々がいます。この人々は、大きく聖なる望みをもって不完全さから立ち上がり、思いと行いの両方において掟と勧告を守り、完全さへと至ります。神の誉れと人々の救いを飢え渇くように願いながら、この光を用いなければなりません。そして、この光によって、甘美で愛に満ちたみことばの光を見つめるのです。そこにおいて魂は、神がご自分の被造物に抱いておられる、言い尽くせない愛を味わいます。その愛は、みことばを通してわたしたちに示されました。このみことばは、御父の誉れとわたしたちの救いのために、愛に捕らえられた者のように、十字架の恥辱の死へと走られたのです。
魂は、完全な光のうちにこの真理を知ると、自分自身を超え、生まれながらの衝動を超えて高く上ります。そして、強く、甘美で、愛に満ちた望みを抱いて、十字架につけられたキリストの足跡を追って走り、世から、またしばしば徳を口実とする神のしもべたちからも、多くの迫害とともに、苦痛、恥辱、嘲笑、侮辱を耐え忍びます。魂は飢え渇くように神の誉れと人々の魂の救いを求めます。そして、この栄光ある糧をあまりにも喜ぶので、自分自身もほかのすべてのものも取るに足りないものとみなし、ただこの糧だけを求め、自分自身を捨て去ります。栄光に輝くおとめたちやほかの聖人たちは、この完全な光のうちに生き、十字架という食卓で、花婿とともにこの糧を受けることだけを喜びとしました。さて、最愛の娘、優しいイエス・キリストにおけるわたしの愛する姉妹よ、主はわたしたちにこれほどの恵みといつくしみを示し、一般の光から特別な光へと進んだ者たちの列に加えてくださいました。つまり、福音的勧告に従う完全な生活の身分を、わたしたちに選ばせてくださったのです。それゆえ、わたしたちは真の光のうちに、この甘美でまっすぐな道を完全に歩むべきです。どのような理由があっても振り返らず、自分の流儀ではなく神の流儀に従って歩み、過ちを犯すことなく死に至るまで苦しみに耐え、魂を悪魔どもの手から救い出すのです。これこそ、永遠の真理である方があなたにお与えになった道であり、規範だからです。主はそれをご自分の体に、墨ではなくご自分の血でお書きになりました。その文字はあまりに大きいので、知恵が乏しいことを理由に、読まないで済ませられる人は誰もいません。その書物の頭文字がいかに大きいか、あなたにはよく見えています。そして、そのすべてが永遠の御父の真理、すなわち、わたしたちを造られた、言い尽くしがたい愛を示しています。わたしたちが造られたのは、ただ御父の至高にして永遠の善にあずかるためなのです。これが真理です。わたしたちのこの師は、十字架という説教壇の上に高く掲げられています。それは、わたしたちがこの書物をいっそうよく学び、「主はこれを地上でわたしに教えておられるのであって、高い所からではない」と言って、自分を欺くことがないためです。そうではありません。主は十字架に上られ、苦痛のうちにそこに掲げられながら、御父の誉れを高め、魂の美しさを取り戻そうとしておられるのです。ですから、このいのちの書に、真理に根ざした、心からの愛を読み取りましょう。自分自身をすっかり捨て去りなさい。捨て去れば捨て去るほど、あなたは自分自身を見いだすでしょう。そして神は、あなたの望みを軽んじることはなさいません。それどころか、あなたを導き、何をすべきかを示してくださいます。また、あなたが神の勧めに従って行うなら、あなたが従う立場にあるかもしれない人にも光を与えてくださるでしょう。祈る魂は、自分自身を聖なる熱心さをもって見守るべきであり、何をするにも祈りと助言の助けを得て行うことを、いつも喜ぶべきだからです。
あなたはわたしに手紙をくださいましたが、そのお手紙から察するに、心を悩ませておられるようですね。それは軽い思いではありません。むしろ、一方では神から新たな仕方で呼ばれていると感じながら、神のしもべたちが反対の側に立ち、それはよくないと言うとき、その思いは大きく、どんな思いにもまして強くなるものです。わたしはあなたに深い同情を覚えます。魂が自分自身を案じることから生じるその重荷に比べられるものを、わたしは知らないからです。魂は神に逆らうことができず、また、自分の光や知識よりも神のしもべたちの光と知識を信頼して、その人々の意向にも従おうとします。それなのに、そうすることができないように思えるのです。さて、わたしの低く貧しい見識に従って、率直にお返事します。かたくなに自分の考えを決めてしまってはいけません。自分から求めたのではなく、呼ばれていると感じるとおりに、応えてください。ですから、危険にさらされている魂を見て、助けることができるなら、目を閉ざしてはいけません。完全な熱意をもって、死に至るまでも、その魂を助けるために力を尽くしなさい。そして、沈黙を守ることについてであれ、ほかの何についてであれ、以前に立てた決意を気にしてはいけません。後になって、「沈黙していたあなたは、呪われよ」と言われることのないためです。わたしたちのあらゆる原理と土台は、ただ神への愛と隣人への愛にあります。ほかのすべての活動は、この土台の上に置かれた道具であり、建物です。ですから、道具や建物に喜びを覚えるあまり、神の誉れと隣人への愛にある、根本の土台を捨ててはなりません。それゆえ、わたしの娘よ、神があなたを働くよう呼んでおられると分かる、その畑で働きなさい。わたしがあなたに述べたことのために、心を悩ませたり、不安になったりせず、勇敢に耐え忍びなさい。自分自身を顧みず、神を畏れ、神に仕えなさい。そうしたうえで、人々が何を言おうと、その人々を思いやることのほかは、気にかけないようにしなさい。
家を離れてローマに行きたいというあなたの望みについては、それを花婿のみ旨に委ねなさい。それが主の誉れとあなたの救いのためになるのであれば、主は、あなたが何も考えていないときに、思いもよらなかった仕方で、その手段と道を与えてくださるでしょう。主にお任せし、自分自身を捨て去りなさい。ただし、十字架の上以外のどこにも、自分を捨て去ることのないよう、気をつけなさい。そこでこそ、あなたは最も完全に自分自身を見いだすでしょう。しかし、完全な光がなければ、あなたにはそれができません。だからこそ、わたしたちが話し合った共通の光を超えて、真実で最も完全な光のうちにいるあなたを見たいと望んでいる、とわたしは言ったのです。
もう眠っているのはやめましょう。怠慢のまどろみから目を覚まし、聖なる教会という神秘体のため、またキリストの代理者のために、絶えずへりくだって祈り、嘆きの声を上げましょう。自分自身を愛し、わたしたちの信仰を汚そうとする、悪魔の化身のような者たちの攻撃に立ち向かえるよう、キリストがこの方に光と剛毅を与えてくださるように、この方のために祈り続けなさい。今は涙を流す時です。
私があなたのもとを訪れることについては、神の至高にして永遠の善性に祈り、神の誉れと霊魂の救いにかなうことが行われるよう願ってください。とりわけ祈ってほしいのは、私が今まさに、十字架につけられたキリストとその代理者のみ旨を果たすため、ローマへ赴こうとしているからです。どの道を通ることになるか、私には分かりません。甘美なイエス・キリストに祈り、私たちの魂が平和と静けさを保ちながら、最も主の誉れとなる道へと導かれるよう願ってください。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。甘美なイエス、愛なるイエス。 ページの先頭へ
ステファノ・マコーニへ
「彼女の無知で、この上なく恩知らずな息子、ステファノ・ディ・コッラード・マコーニへ」、「彼女がローマにいたとき、そのこの上なく恩知らずで、ふさわしくない息子、ステファノ・マコーニへ」。これらの手紙の表題は、このように記されています。おそらく、ステファノ自身の手で作られた写しの冒頭に付されていたのでしょう。カタリナが彼の母に宛てた手紙に関連してすでに見たように、この若い弟子は、初めて彼女に会って以来、絶えずそのそばにいました。それよりずっと前から、彼は「ファミリア」と呼ばれる仲間たちの中で最も愛され、カタリナ自身に次ぐ最も重要な一員となっていました。しかし、何らかの理由で彼はローマへ同行せず、疲労に満ちた最期の数か月、カタリナの心は彼を切に慕っていました。彼女は初めから、彼の率直で喜びに満ちた気質の中に、高い霊的完成の芽を認め、彼を修道生活へと導こうとしていました。現存するステファノ宛ての最初期の手紙の一つで、彼女はこう書いています。「あなたを縛るきずなは、ただ緩めるだけでなく、断ち切りなさい。あなたを招いておられる聖霊に、もう逆らってはなりません。聖霊に逆らって蹴立てるのは、あなたにとって苦しいことになるからです。自分の生ぬるい心や、自分を女々しくいたわる気持ちに引き留められてはなりません。男らしく、勇敢に戦場へ入りなさい。」しかしステファノは、カタリナ個人に深く心を寄せていながらも、長い間、修道院への召命を感じていませんでした。これらの手紙に見られるとおり、彼女はますます強く彼に勧め続けましたが、そのためらいが終わったのは、彼女の死によって初めてのことでした。最後に急ぎの呼び出しを受けた彼はローマへ駆けつけ、まだ生きている彼女に会い、最期の言葉を受けることができました。生前の懇願では果たせなかったことを、死の床での願いが成し遂げたのです。この才気あふれる若い貴族は、カルトジオ会の修道士となりました。後には同会の総長に任じられました。カタリナが彼のもとを去った後、彼女の思い出に寄せる深い敬愛が、彼の生涯を支える力となりました。
この一群の手紙は、すべてカタリナがローマに到着した後に書かれました。これらは、彼女が同じ時期に教会の状況について高位の人々に送り出していた、より改まった入念な文書とは、鮮やかな対照をなしています。その穏やかな霊的熱意は、活動に満ちた彼女の生活の「絶え間ない激動」のただ中に、「心の奥の平和」が保たれていたことを物語っています。また、故郷の友人や弟子たちに宛てた親密な便りは、彼女の人柄の、いわば家庭的な一面を、温かく魅力的に照らし出しています。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
甘美なイエス・キリストにおける、最愛の息子よ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべであり、奴隷である私カタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたに書き送ります。あなたが自分の魂という町の真の守り手となるのを見たいと願っているのです。ああ、最愛の息子よ、この町には多くの門があります。それは三つ、記憶、知性、意志です。創造主は、そのうちの一つ、すなわち意志を除いて、どの門も打ちたたかれ、ときには力ずくで開かれることさえお許しになります。そのため、ときには知性が影しか見ず、記憶がむなしく移ろう事柄や、さまざまな思い、不純な考えに占められることがあります。同じように、体のあらゆる感覚も秩序を失い、荒らし回ることがあります。ですから、これらの門のうち、私たちが自由に支配できるのは、意志の門だけであることが、はっきり分かります。この門は私たちの自由に属し、自由意志をその見張りとしています。そして、この門は非常に堅固なので、見張りが同意しなければ、悪魔も被造物も開くことはできません。この門が開かれていないかぎり、すなわち、記憶や知性、その他の門が経験することに意志が同意しないかぎり、私たちの町はいつまでも自由の特権を保ちます。ですから、わが子よ、これほど高貴な町を私たちが自由に支配できるようにしてくださった神の善性から、私たちがどれほどすばらしい恵みと、どれほど計り知れない豊かな愛を受けたかを、よく悟りましょう。
忠実に熱心に見張るよう努めましょう。見張りである自由意志のそばには、良心という犬を置きましょう。誰かが門に来たとき、この犬はほえて理性を目覚めさせ、それが友か敵かを見分けさせなければなりません。そうすれば、見張りは友を中に入れ、善い聖なる霊感にはその働きを果たすよう命じ、敵は追い払って意志の門を閉ざし、日々その門にやって来る悪い思いを受け入れることに同意しないようにできます。そして、主があなたにその町を引き渡すよう求められるとき、あなたは主の恵みによって、それを損なわれることなく、真に王者にふさわしい徳で飾られた姿で、お返しすることができるのです。ここでは、これ以上は申しません。
今月一日に、息子たち皆に宛てて書いたとおり、私たちは待降節第一主日に、深い平和のうちにここに到着しました。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。甘美なイエス、愛なるイエス。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける最愛の息子よ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべであり、奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたに書き送ります。あなたが幼さを脱して、雄々しい人となるよう願っています。心の内でも実際の生活でも、慰めという乳を楽しむことから立ち上がり、心と体に受ける多くの苦難、悪魔との戦い、隣人から受ける害、そして神があなたにお与えになろうと望まれるあらゆる苦難という、堅くかびたパンを食べるようになってほしいのです。神がこれほど大きな賜物をあなたに示そうとなさるとき、あなたがそれらを喜び、燃え立つ望みと、神のいつくしみに対する優しい感謝をもって、急いで迎えに行く姿を見たいと願っています。それは、あなたがそれらを受けるにふさわしいと神がお認めになるときのことです。息子よ、奮い立ちなさい。心の生ぬるさから目を覚ましなさい。心を御血に浸し、神の愛の炉の中で燃え立たせなさい。そうして、幼い行いをことごとく忌み嫌い、まったく雄々しくあろうと燃え、戦場に出て勇敢に戦い、十字架につけられたキリストのために大きな業を行うのです。パウロが、雄々しく戦った者でなければ冠を受けることはないと言っているからです。ですから、自分が戦場から離れたままでいると気づく人には、泣くべき理由があります。ここでは、これ以上申しません。
あなたの手紙を受け取り、喜んで読みました。例の提案の件については、あなたの心構えをたいへんうれしく思う、とお答えします。そして、優しい神が、ご自分の造られた者たちを、わたしたち皆が造られた目的へと導こうとしてなさる、愛に満ちた戯れを、わたしたちは喜ばなければなりません。慰めという甘い薬や軟膏が役に立たないとき、神は苦難を送られ、傷が化膿しないように焼いてくださるのです。これらの祝祭日と聖なる日々が過ぎましたら、神への愛とあなたの救いのために、喜んであなたの件に力を尽くします。
あなたがわたしに求めている免償は、次に最初の願いを出す折に、得られるよう努めます。それがいつになるかは分かりません。宮廷の書記たちを、わたしが疲れ果てさせてしまったからです。少し控えなければなりません。
マッテオに手紙を書いていますので、彼に渡してください。そして彼を慰め、ときどき訪ねて、すでに始まっている企てへの熱意を呼び起こしてください。神がお送りになった病気のことを聞きました……そして、彼の窮状を思い、あなたと兄弟たちが働きかけて、聖母マリアの会から、得られるかぎりの援助を彼が受けられるようにしてくださることを、力のかぎりお願いし、強く求めます。カタリーナは、頼る所もなく、独り貧しさのうちに置かれ、まことに気の毒です。ですから、この愛の業を熱心に行ってください。このことはピエトロにも書き送っています。あなたがたが少しも怠らなかったことを、わたしに分からせてください。
これ以上は申しません。神の聖なる優しい恵みのうちにとどまってください。この家族一同が、キリストにおいてあなたを慰めます。そして、怠慢で恩知らずなこの書き手のことも、心に留めてください。優しいイエス、愛なるイエス。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける最愛の息子よ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべであり、奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたに書き送ります。あなたが自分を縛るものを、ただほどこうとするのではなく、断ち切る姿を見たいと願っています。ほどくには時間がかかりますが、あなたにその時間があるという保証はありません。時はそれほど速く、あなたのもとから過ぎ去るからです。ですから、真の聖なる熱意をもって、それらをすっかり断ち切るほうがよいのです。ああ、あなたが行いにおいても思いにおいても、この世と、自分自身の肉的な衝動から離れ、永遠のいのちと結ばれた姿を見るとき、わたしの魂はどれほど幸いなものとなるでしょう。この結びつきは、あらゆる苦さを消し去り、どんな重荷も軽くするほどの、喜びと甘美さと優しさに満ちています。それなら、憎しみと愛の剣を抜き、自由意志の手で、自分自身から自分を切り離すことを、誰がわたしたちに思いとどまらせるでしょうか。この剣は、切り離すやいなや結び合わせる、それほどの力を持っています。けれども、最愛の息子よ、あなたはわたしにこう言うでしょう。「この剣はどこにあり、どこで鍛えられるのですか。」わたしは答えます。あなたはそれを、自己認識という小部屋の中に見いだします。そこであなたは、真実で誠実な徳をもって、自分の罪と弱さへの憎しみ、そして創造主と隣人への愛を心に抱くのです。それはどこで鍛えられるのでしょうか。神の愛の火の中、優しく愛に満ちたみことばである神の御子の御体という金床の上で鍛えられます。ですから、自分を守る武器を持ちながら、それを投げ捨てる人は、まことに無知であり、厳しい叱責に値します。
わたしは、あなたがこのような無知な人々の一人であってほしくはありません。むしろ、あなたが持てる力のすべてを尽くして急ぎ、限りない愛をもってあなたを呼ぶマリアに応えてほしいのです。燃えるような愛をもって、いのちである方への愛のために血といのちをささげ、その遺体がここローマに葬られている栄光ある殉教者たちの血は、熱いあこがれに燃え、あなたとほかの人々に、来て苦しみを受けるよう呼びかけています。それは、神のみ名と聖なる教会の栄光と賛美のため、また、あなたがたの徳が試されるためです。神は、この聖なる地でご自身の尊厳を現し、ここをご自分の園と呼び、ご自分のしもべたちを招いて、こう言われたからです。「今こそ、彼らが来て、徳という金が試される時である。」ですから、聞こえないふりをするのはやめましょう。もし冷たさによって耳が塞がれているなら、火と混じり合って熱くなっている御血で自分を清めましょう。そうすれば、聞こえなくしているものはすべて取り除かれるでしょう。十字架につけられたキリストの傷のうちに身を隠しなさい。世から逃れ、父の家を離れなさい。十字架につけられたキリストの脇腹という避け所に逃れ、約束の地に至ることができるようにしなさい。同じことをピエトロにも伝えます。あなたがたは十字架の食卓に着き、そこで御血によって力を新たにされ、魂という糧を取りなさい。苦痛と恥辱、侮辱、嘲り、飢え、渇き、裸であることに耐え、選ばれた器である、あの愛すべきパウロとともに、十字架につけられたキリストの恥辱を誇りとしなさい。わたしが言ったように、あなたが自らを断ち切って自由になるなら、忍耐はあなたの栄光となるでしょう。そうしなければ、そのようにはならず、忍耐はあなたにとって苦痛となり、自分の影にさえおびえることになるでしょう。
わたしの魂は、このことを思い巡らし、あなたの救いに飢え渇いています。わたしは、あなたが自らを断ち切って自由になる姿を見たいと願っています。ほどくことに取りかかるのではなく、断ち切りなさい。そうすれば、いっそう速く走ることができます。十字架につけられたキリストの御血を身にまといなさい。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。
あなたの手紙を受け取り、大きな慰めを得ました。バッティスタが癒やされたことを知って慰められたのは、彼がこれからよい木に育つという希望を抱いているからです。また、モンナ・ジョヴァンナに寄せる同情のゆえにも、慰めを得ました。しかし、わたしがそれにもまして大いに喜んだのは、神があなたに、世から抜け出す道を与えてくださったこと、そして、あなたが書いてくれたとおり、市の統治者たちとほかの市民たちが、わたしたちの愛する「お父さま」である教皇ウルバノ六世に好意を抱いていることです。神が限りないいつくしみによって、その心を保ち、教皇に対する彼らの敬意と従順をますます深めてくださいますように。あなたとほかの人々がそこにいる間は、力の及ぶかぎり、熱心に真理の種をまき、偽りを打ち破ってください。
モンナ・ジョヴァンナとクッラードに、心を込めてよろしく伝えてください。バッティスタと家族のほかの人々も励ましてください。わたしのあの息子たち皆を励まし、とりわけ、手紙を書かないことを赦してほしいと伝えてください。書くのがいささか難しく思われるからです。メッセル・マッテオを励ましてください。まず、何を望んでいるのか知らせてくれるよう、彼に伝えてください。わたしはそれを忘れてしまいましたし、ライモンド修道士はあまりに早く出発したので、彼から聞くこともできませんでした。それが分かれば、熱心にできるかぎりのことをします。また、トンマーゾ修道士には、そこにいるかどうか分からないので手紙を書かないのだと伝えてください。もしそこにいるなら、彼を励まし、わたしに祝福を与えてくださるよう伝えてください。わたしたちのリーザと家族の皆が、あなたによろしくと言っています。ネーリがあなたに手紙を書かないのは、死の淵にあったためですが、今は回復しています。
神があなたに、その甘美で永遠の祝福をお与えくださいますように。ピエトロには、大切な用件があるので、できればここに来るよう伝えてください。優しいイエスよ、愛であるイエスよ!
これらの手紙をすべて届けるか、誰かに届けてもらってください。そして、わたしたちのために神に祈ってください。別にまとめてある数通の手紙は、そのままモンナ・カタリナ・ディ・ジョヴァンニに渡し、彼女に配ってもらってください。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける最愛の息子へ。わたしカタリナは、イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべ、また奴隷として、キリストの尊い御血のうちに、あなたに手紙を書きます。あなたが心の生ぬるさから立ち上がる姿を見たいと願っています。それは、あなたが神の口から吐き出され、「生ぬるい者たちよ、あなたがたは呪われている。せめて氷のように冷たければよかったのに」という叱責を聞くことのないためです。この生ぬるさは、感謝を忘れることから生じます。そして、その感謝の欠如は、光がかすかなために、十字架につけられたキリストの、苦悶に満ちた徹底した愛と、キリストから受けた限りない恵みの数々が見えないことから生じます。実際、それらが見えていたなら、わたしたちの心は愛の炎に燃え、時を切望して、神の誉れと魂の救いのために、大きな熱意をもってその時を用いるはずです。最愛の息子よ、わたしはあなたに、この熱意を持つよう呼びかけます。今こそ、わたしたちが新たに働き始めるためです。
市の統治者たちに書いている手紙と、聖母マリア会への手紙を一通ずつ送ります。目を通して内容を理解してから、届けてください。そして、その後は……。また、それらの手紙に書かれている事柄について、彼らと十分に話し合ってください。十字架につけられたキリストとわたしの名によって、一人ひとりに願ってください。聖なる教会とキリストの代理者ウルバノ六世に関して正しいことが行われるよう、市の統治者たちや、この件に関わるすべての人々に対し、できるかぎり熱心に働きかけてほしいと。わたし自身、このことを非常に気にかけています。神の誉れと、この町の霊的また現世的な益のために、彼らがこの件について進んで信頼を寄せてくれることを願っています。あなたは、この働きにおいて、また、わたしが書き送るこの件で、できることをすべて行うよう会の兄弟たちや年長者たちを奮い立たせることにおいて、生ぬるくではなく、熱心であってください。あなたがたが、本来あるべき者となるなら、あちらだけでなく、イタリア全土に火をつけるでしょう。
これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。慰めを……ここにいるあなたの兄弟たち皆と、あなたの姉妹であるわたしは、キリストにおいてあなたを慰め、皆であなたを待っています。甘美なイエス、愛なるイエス。 トップへ
教皇によってローマに招かれた幾人かの聖なる隠修者へ
カタリナは幼いころから、キリストの民にかかわる事柄が、キリストに最も忠実に従う人々の手に委ねられることを、ひたむきに願っていました。今や生涯の最晩年に入り、教皇庁の腐敗と陰謀に取り囲まれる中で、彼女の思いは、修道院や隠修者の庵で暮らす無名の「神のしもべたち」の心に、なお蓄えられている霊的な情熱と洞察へと、ますます切実に向かっていきました。
これらの聖なる人々をローマへ招き、ウルバノのもとに集めて、神と最も親しく交わる人々の力強い証しによって、どちらの側に神の真理があるかを示すというのは、疑いなく、世俗からかけ離れた聖女ならではの政治的な考えでした。それでも、教皇はこの考えをよしとしました。そこで、おそらく彼女自身が提案したことではあったのでしょうが、カタリナは教皇の求めに応じて、長年霊的な交わりを続けてきた隠修者たちの何人かに手紙を書き、聖なる都へと呼び寄せました。その手紙は、キリストのために戦う者たちに、臆病と怠惰を捨て去り、困難と苦難、そして場合によっては殉教の死が待ち受ける戦いの場へ、急ぎ赴くよう促す、胸を揺さぶる呼びかけでした。
以下に続く手紙の三通目で、カタリナは、その呼びかけに応じた二人の戸惑う隠修者の姿を、心に迫る筆致で描いています。二人は、穏やかなウンブリアの平野からやって来た、ドミニコ会の「主の犬たち」でした。「これほど長い間、平穏のうちに暮らしてきた、健康にも恵まれない老人たち」である二人は、骨の折れる旅を終え、今はけなげにも故郷を恋う思いを抑え、思わず漏らした不平を取り消しています。しかし、招かれた隠修者たちが皆、同じように従順だったわけではありません。大都市の街路で幻視の恍惚を期待することは、まずできませんでした。森と庵の静かな隠遁生活は、彼らにはかけがえのないものだったのです。カタリナが、その欠点にもかかわらず、変わらず敬慕し続けていたウィリアム・フリート神父は、そこを動くことをきっぱりと断りました。その仲間のアントニオ修道士も同様でした。彼女が常に深い敬意を抱いていたもう一人の人物、サンタンティモの修道院長は、やって来たものの、彼女の手紙から察するに、臆病な振る舞いをしたようです。
長年、乱されることのない静けさのうちに日々を過ごしてきた穏やかな修道者たちが、ローマの政治という不快な渦の中に入ることを嫌がったとしても、驚くにはあたりません。教養ある隠修者が同じような態度を取ることは、今日でも知られています。しかし、彼らの拒絶はカタリナにとって打撃でした。隠遁生活は人を、実際に正義のために戦うことに不向きにする、という当然の結論を彼女が導き出すことは、まずなかったでしょう。それでも、彼女は深く心を痛めました。これまで繰り返し見てきたとおり、彼女は若いころから、観想生活につきまといがちな利己心と怠惰の危険をよく承知していました。同時に、執り成しの祈りの炎さえ十分に明るく燃えていれば、この生活は深い自己犠牲に満ちたものとなりうると、固く信じてもいました。ところが今、最も愛する隠修者たちは試練の時に耐えることができず、その無邪気な自己中心性は、言葉に尽くせないほど彼女を失望させたのでした。教会の危機という劇的な呼びかけを受けてもなお、内的な慰めを手放そうとしない信仰のあり方に対する悲しみ、驚き、そして痛烈ともいえる軽蔑が、これらの手紙には表れています。信頼していた人々によるこの「大いなる拒絶」が、彼女の最期の数か月に暗い影を落とす一因となったことは、疑いありません。親しい人々の心の中にさえ、神に選ばれた人々の間にさえ、カタリナは、この地上で永遠にとどまる都を見いだすことができなかったのです。 トップへ
レッチェートにいるイングランドのウィリアム修道士とニッツァのアントニオ修道士へ
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
甘美なイエス・キリストにおいて、最愛の子らへ。イエス・キリストのしもべたちに仕えるしもべであり、はしためであるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたがたに書き送ります。わたしが願うのは、あなたがたが自分自身をすっかり忘れ、十字架につけられたキリストのほかには平和も安らぎも求めず、十字架の食卓で、神の誉れと人々の救いと聖なる教会の改革とに飢え渇くようになることです。今日、教会はこれほど大きな窮状にありますから、教会を助けるには、自分の森から出て、自分自身を捨てなければなりません。教会のうちに実りをもたらすことができると分かっているなら、今はじっとしていたり、「自分の平和を失ってしまう」と言ったりする時ではありません。神は今、聖なる教会に善良で正しい牧者を与える恵みを授けてくださいました。この牧者は神のしもべたちを喜び、そばに置くことを望み、人を恐れることなく教会を清め、悪徳を根こそぎにし、徳を植えつけることができると期待しています。正しく雄々しい人として振る舞っているのですから、わたしたちも彼を助けるべきです。わたしたちが本当に、聖なる教会の改革への愛を心に抱いているかどうか、わたしには分かるでしょう。なぜなら、本当にそうであるなら、あなたがたは神とその代理者の意志に従い、自分たちの森から出て、急ぎ戦場へ入るはずだからです。しかし、そうしないなら、神の意志に背くことになります。それゆえ、十字架につけられたキリストの愛にかけてお願いします。教皇聖下の求めに、遅れることなく、速やかに応じてください。また、森がないからとためらわないでください。ここにも森や林があります。さあ、最愛の子らよ、もう眠っていてはなりません。今は目を覚ましている時です。これ以上は申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。甘美なイエス、愛なるイエス! 1378年12月15日、ローマにて。 トップへ
教皇聖下に召された折、スポレートにいる神のしもべたち、ルッカのアンドレア修道士、バルド修道士、ランド修道士へ
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
甘美なイエス・キリストにおける、親愛なるお父様方。わたしカタリナは、イエス・キリストのしもべたちに仕えるはしため、奴隷として、主の尊い御血のうちに皆様に書き送ります。皆様が、主の代理者である教皇ウルバノ六世に従い、神のみ旨を進んで行う用意を整えてくださるよう願っています。それは、皆様とほかの神のしもべたちを通して、主の愛する花嫁に助けがもたらされるためです。わたしたちの目に映る花嫁は、実に苦しい窮地にあり、四方から逆風に襲われています。とりわけ、自分自身を愛する邪悪な人々によって、わたしたちの信仰を汚しかねない異端と離教という危険で悪しき風によって、攻撃されているのを皆様もご覧になっています。花嫁を助けるべき人々が彼女を攻撃し、光をもたらす務めを負う人々が闇を広めている今ほど、彼女が助けを必要としたことがあったでしょうか。その人々は、恵みのいのちを与える、十字架につけられたキリストの御血を授け、霊魂の糧をもってわたしたちを養うべきなのです。それなのに、彼らはそれを人々の口から奪い取り、永遠の死を与えています。群れを養わず、むさぼり食う狼のようです。では、犬たちは、すなわち、この世に見張りとして置かれ、狼が来るのを見たときに吠えて、牧者の頭を目覚めさせるべき神のしもべたちは、何をすべきでしょうか。何をもって吠えるべきでしょうか。へりくだった絶え間ない祈りと、生きた声をもってです。こうして、彼らは目に見える悪魔も見えない悪魔もおびえさせ、わたしたちの牧者の頭である教皇ウルバノ六世の心と精神を目覚めさせるでしょう。そして教皇が目覚めたなら、聖なる教会という神秘体も、キリスト教全体という体も助けられ、群れが取り戻され、悪魔の手から救われることを、わたしたちは疑いません。どのような理由があっても、皆様は退いてはなりません。予想される苦しみのためにも、恥辱や迫害のためにも、浴びせられるかもしれない嘲笑のためにも、飢えや渇きのためにも、たとえ千回死ぬことができたとしても、その死のためにも、退いてはなりません。また、静けさや自分の慰めを求めて、『わたしは自分の魂の平安を望んでいますし、(ローマへ行かなくても)神のみ前で祈りのうちに叫ぶことができます』と言って退いてはなりません。決してそうなさらないでください。十字架につけられたキリストの愛にかけてお願いします。今は、自分のために自分を求める時でも、慰めを得るために苦痛から逃れる時でもないからです。むしろ、自分自身を失う時なのです。神の限りない善といつくしみは、聖なる教会の必要を顧み、正しく善良な牧者をお与えになったからです。この牧者は、神の誉れのために絶えず吠えるこれらの犬たちを、自分の周りに置くことを望んでおられます。自分が眠ってしまうことを恐れ、犬たちがいつでも吠えて自分を目覚めさせる用意をしていなければ、自分が目を覚ましていられるとは頼みにしておられないのです。皆様は、この方が選ばれた人々の中におられます。ですから、甘美なイエス・キリストにおいて、皆様に懇願し、強くお願いいたします。速やかにおいでになり、そう望んでおられる神のみ旨と、皆様やほかの人々を呼んでおられるキリストの代理者の聖なる意向を果たしてください。
ぜいたくや大きな慰めを恐れる必要はありません。皆様は楽しむためではなく、耐え忍ぶために来られるのですから。ただし、十字架の喜びをもって楽しむことは別です。頭を外に出し、戦いの野へと進み出て、真理のために真剣に戦ってください。キリストの御血に加えられている迫害と、霊魂が永遠の滅びに陥ることを心の目の前に据えてください。それによって、わたしたちが戦いへといっそう奮い立ち、いかなる理由があっても後ろを振り返らないようになるためです。来てください、どうか来てください。時を待ってためらっていてはなりません。時はわたしたちを待ってはくれないからです。限りなく善い神が、皆様に真理を悟らせてくださると、わたしは確信しています。それでも、多くの人々が、神のしもべたちの中からさえ皆様のもとに行き、この聖なる善い働きに反対することを、わたしは知っています。その人々は、よいことを言っているつもりで、『あなたがたが行っても、何も成し遂げられないでしょう』と言うのです。けれども、わたしは思い上がった女のように、何かは成し遂げられると言います。わたしたちの第一の願いが今はかなわないとしても、少なくとも道は開かれるでしょう。たとえ何ひとつ成し遂げられなかったとしても、わたしたちは神と人々の前で、自分たちにできることをしたと示したことになります。わたしたち自身の良心も呼び覚まされ、その重荷から解かれたのです。ですから、いずれにしてもよいことなのです。皆様に対する反対が多ければ多いほど、それは、これが善い聖なる働きであることの、いっそう明らかなしるしとなります。わたしたちがこれまで見てきたように、また今も絶えず目にしているように、大きな聖なる善い働きは、小さな働きよりも多くの反対に遭うからです。そのもたらす実りがより大きいためです。それゆえ悪魔は、できる限りあらゆる手段でそれを妨げます。とりわけ、徳を装い、見抜きにくい欺きを用いて、神のしもべたちを通して妨げるのです。わたしがこのことを皆様に申し上げたのは、どのような理由があっても来ることを断念せず、速やかな従順をもって教皇聖下の足もとに身を置いていただきたいからです。
キリストの御血のうちに深く身を沈めてください。そして、あらゆることにおいて、わたしたち自身の意志が死にますように。これ以上は申し上げません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。皆様のそばにいる神のしもべたち皆に、わたしのことをお託しください。わたしが神の真理のためにいのちをささげる恵みを頂けるよう、善なる神に祈っていただくためです。甘美なイエス、愛なるイエス。 ページの先頭へ
シエナ近郊のレッチェート修道院の聖アウグスチノ隠修修道会士、ニッツァのアントニオ修道士へ
十字架につけられたイエス・キリストと、優しいマリアの名によって。
キリスト、優しいイエスにおける最愛の子よ。イエス・キリストのしもべたちのしもべであり、はしためである私カタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたに書き送ります。あなたが生ける岩であるキリスト、優しいイエスを土台として堅く立つ姿を見たいと願っています。それは、あなたがその上に建てる建物が、どのような逆風に打たれても決して倒されず、真理の道の上で死を迎えるまで、まったく堅固で、揺るぎなく、安定したままであるためです。ああ、この真実で王者にふさわしい土台を、私たちはどれほど必要としていることでしょう。無知な私は、この土台を知っていません。もし本当に知っていたなら、砂よりもなお頼りない自分自身の上にではなく、先ほど述べた生ける岩の上に建てるはずだからです。恥辱と暴虐と侮辱の道をキリストに従って歩み、主に倣うために、内からであれ外からであれ、どこから来る慰めもすべて自ら断つはずです。自分自身のために自分を求めず、ただ神の誉れと、魂の救いと、聖なる教会の刷新だけを心にかけるはずです。教会がそれをどれほど必要としているか、私には見えているのですから。まったく反対のことをしている私は、なんと惨めな者でしょう。しかし最愛の子よ、私が過ちを犯しているからといって、あなたやほかの人たちにもそうしてほしいとは思いません。それどころか、あなたがこの岩を土台として堅く立つ姿を見たいと願っています。今こそ、誰が神のしもべであるかが試される時です。人々が自分自身のために自分を求めるのか、神のうちに見いだす個人的な慰めのために神を求めるのか、また隣人のうちに慰めを見いだせるかぎりで、自分自身のために隣人を求めるのか、そうなのか、そうではないのかが試される時です。そして、神はある場所でしか見いだせず、別の場所では見いだせないと、私たちが信じるべきなのかどうかも試されるのです。私はそうだとは思いません。むしろ、神の真のしもべにとっては、どの場所もふさわしい場所であり、どの時もふさわしい時であると分かります。ですから、自分の慰めを捨て、神の誉れのために労苦を引き受ける時が来れば、その人はそうします。また、神の誉れのために森を離れなければならない時が来れば、森を離れ、人々の集まる場所へと赴きます。幸いなる聖アントニオもそうしました。彼はこの上なく独りでいることを愛していましたが、それでもキリスト者たちを慰めるために、幾度もその生活を離れたのです。同じように、ほかの多くの聖人たちについても語ることができるでしょう。必要と逆境の時には人々の前に出て行き、繁栄の時にはそうせず、むしろそれを避けること、これがいつの時代も神の真のしもべたちのならわしでした。今は、大いなる繁栄のために心が高慢と虚栄の風に吹き流されてしまうのではないかと恐れて、逃れる必要はありません。今、労苦以外に誇れるものを持つ人は誰もいないからです。けれども、慰めや、特別な啓示に寄せる期待に目がくらみ、私たちの光は衰えつつあるように見えます。こうしたもののために、私たちは善意で行動していても、真理を正しく知ることができないのです。しかし、至高にして永遠の善である神は、完全で真実な光を私たちに与えてくださいます。このことについては、これ以上詳しく述べません。
修道士ウィリアムが送ってきた手紙によると、彼もあなたもこちらには来ないようです。この手紙に返事をするつもりはありませんが、彼の単純さを大変悲しく思います。それでは、神の栄光にも隣人の霊的な成長にも、ほとんどつながらないからです。もし彼が、謙遜の心から、また自分の平安を失うことを恐れて来たくないのであれば、へりくだって穏やかにキリストの代理者の許可を求めることで、謙遜の徳を実践すべきです。より深い平安のために、自分の森にとどまることを寛大にもお許しくださるよう教皇聖下に願いつつ、それでも、真に従順な者として、この件を聖下のご意志に委ねるべきなのです。そうすれば、神にいっそう喜ばれ、自らの善を確かなものにするでしょう。ところが彼は、神への従順に縛られている者は、自分と同じ被造物である人間に従うべきではないと主張して、まさにその反対のことをしたようです。ほかの人々のことなら、私はさほど気にかけなかったでしょう。しかし、キリストの代理者までそこに含めるとは、彼がこれほど真理に背いているのを見るのは、実に悲しいことです。神への従順は、教皇聖下への従順を決して妨げないからです。それどころか、一方が完全であればあるほど、他方も完全になるのです。そして私たちは、常に聖下の命に服し、死に至るまで従順であるべきです。聖下に従うことがどれほど思慮を欠くように見えても、また、それによって心の平安と慰めがどれほど奪われようとも、私たちは従うべきです。その反対を行うのは、大きな不完全さであり、悪魔の欺きであると私は考えます。彼の書いているところによると、二人の神のしもべが大いなる啓示を受けたようです。それは、地上のキリストも、この神のしもべたちを呼び寄せるよう聖下に助言した者も、神の勧めではなく人間の勧めに従ったのであり、彼らのしもべたちを平安と慰めから引き離そうと望ませたのは、神の霊感というより、悪魔のそそのかしだったというものです。さらに、あなたやほかの人たちが来れば、霊的ないのちを失い、そのため祈りによって助けることも、霊において教皇聖下を支えることもできなくなる、と付け加えています。しかし実際、場所を変えることで失われるというのなら、霊的ないのちは、あまりにも軽々しく扱われていることになります。それではまるで、神は場所によってえこひいきをなさり、森の中にしかおられず、助けが必要なときにも、ほかの場所にはおられないかのようです! では、私たちは何と言えばよいのでしょうか。一方では、神の教会が改革され、茨が根こそぎ取り除かれ、芳しい花である神のしもべたちがそこに植えられることを望んでいます。それなのに他方では、その小舟を助けに来てもらうために彼らを呼び寄せ、心の平安と静けさから引き離すことは、悪魔の策略だと言われるのです。少なくとも、自分自身のことだけを語り、ほかの神のしもべたちについて語らないでほしいものです。私たちは、自分たちをこの世のしもべに数えるべきではないのですから。ルッカの修道士アンドレアも、修道士パオリーナも、そのようにはしませんでした。この偉大な神のしもべたちは、年老い、決して健康ではなく、長い間、自分たちの平安のうちに暮らしてきた人たちです。それでも、疲労や体の不自由にもかかわらず、すぐに旅立ち、ここに来て、従順を果たしました。独房に戻りたいという願いに強く駆られながらも、そのために軛を振り捨てようとはせず、「私の言ったことは、言わなかったことにしてください!」と言い、自分の意志や個人的な慰めを顧みないのです。ここへ来るのは、耐え忍ぶためです。栄誉のためではなく、涙と徹夜の祈りと絶え間ない祈りを伴う、多くの労苦の尊さのためです。そのようにすべきなのです。さて、これ以上言葉を重ねて、自分たちの重荷を増やすのはやめましょう。神がいつくしみによって私たちにはっきりと見る目を与え、真理の道に導き、真の完全な光を授けてくださり、私たちが決して闇の中を歩むことがありませんように。あなたに、また学士とほかの神のしもべたちにもお願いします。へりくだる小羊が、ご自分の道を私に歩ませてくださるよう祈ってください。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。甘美なイエス、愛なるイエス。 ページ上部へ
ナポリ女王ジョヴァンナへ(脱魂状態で記されたもの)
頑ななジョヴァンナは、カタリナの懇願に応えませんでした。一時はウルバノを支持する立場に立っただけに、クレメンス側に戻ったことは、いっそう痛ましいものとなりました。カタリナは別の手紙でこう書いています。「この不幸な分裂によって、あなたの臣民が獣のように互いに争っているのを、あなたは見ています。ああ、何ということでしょう。あなたのために彼らが分裂し、ある者は白いばらに、ある者は赤いばらに、ある者は真理に、ある者は偽りにくみしているのを耐え忍んで、どうしてあなたの心は張り裂けないのでしょうか。ああ、わたしの魂は何と不幸なのでしょう。彼らは皆、あのいとも清らかなばら、すなわち神の永遠のみ旨のうちに造られ、また、あの燃えるようなばら、すなわちキリストの血に深紅に染まったばらのうちに、恵みによって新たに造られたのではありませんか。その血のうちに、わたしたちは洗礼によって罪から洗い清められたのです。彼らをそのように洗い清め、あの栄光に輝くばらを与えたのは、あなたでも、ほかの誰でもなく、ただわたしたちの母である聖なる教会だけであり、鍵を持つ最高の牧者、教皇ウルバノ六世を通してそうしたのだということを考えてください。あなたには与えることのできないものを彼らから奪うことに、どうしてあなたの魂は耐えられるのでしょうか。これに心を動かされないとしても、世間の目の前で陥ってしまった恥辱に、せめて心を動かされないのでしょうか。その恥辱は、以前よりも、あなたが立場を変えてからの今のほうが、はるかに大きいのです。つい先ごろ、あなたは真理と自分の過ちを認め、娘として父のいつくしみに身を委ねようとする心を示しました。それなのに、それ以来、あなたはかつてにも増して悪い行いを重ねてきました。それは、あなたの心が清くなく、実際にはなかった思いを装ったからなのでしょうか。それとも、わたしが昔の罪のために再び償いをするよう正義が望んだからなのでしょうか。わたしには、あなたが平和と安らぎのうちに、聖なる教会の乳房から養われる姿を見るに値する功徳がないのです。あなたから受け取った手紙を思うとき、これはわたしにとって、この世でこれ以上重い十字架は担えないほどの苦しみです。その手紙であなたは、教皇ウルバノこそ真の最高の父であり祭司であると認め、彼に従順でありたいと言っていました。それなのに今、わたしが目にしているのは、その正反対なのです。」
この手紙でカタリナは、まだ生きているその女性に向かって、死んだ魂を悼む悲しみの哀歌をほとばしらせています。もはや議論はしていません。この状況の政治的な側面は、ひとまず悲しみの陰に覆われています。若いころからひときわ深い慈しみを寄せ、かつては真の信仰の擁護者となることを望んだ女性の、頑なな罪と迫り来る破滅を見つめる悲しみです。カタリナが脱魂状態で書いていることにも注目すべきでしょう。その神秘的な状態がどのようなものであったにせよ、そのとき語られた思いは、意識の下にある彼女の存在の深みから出たものだと確信できます。そこから、ジョヴァンナに寄せる彼女の思いの激しさを示す、さらなる証しを得ることができるでしょう。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける、最愛のお母様。イエス・キリストのしもべたちのしもべ、また奴隷であるわたしカタリナは、あなたがご自分の魂と体を慈しむようになることを願って、主の尊い血のうちに、あなたに手紙を書きます。自分自身の魂にいつくしみを示さなければ、ほかの人々のいつくしみや憐れみも、わたしたちにはほとんど役立たないからです。魂は、自分を殺しうる刃物を、自ら進んで敵の手に渡すとき、自分自身に対して甚だしく残酷に振る舞っています。わたしたちの敵は、わたしたちを傷つける武器を持っていないからです。敵は喜んでそうしたいのですが、できません。わたしたちを傷つけることができるのは、意志だけだからです。そして意志については、悪魔も被造物もこれを動かすことはできず、意志が選ぶ以上に、ごく小さな過ち一つさえ強いることはできません。ですから、敵の悪意に同意する邪悪な意志こそが、魂を殺す刃物なのです。魂は、自らの自由な選択によって、その刃物を敵の手に渡します。敵と、その一撃を受ける本人と、どちらがより残酷だと言うべきでしょうか。より残酷なのは、わたしたち自身です。自分自身の死に同意しているのですから。
わたしたちには、三つの主な敵がいます。第一は悪魔です。わたしがその悪意に同意して力を与えないかぎり、悪魔は弱いのです。へりくだり、汚れのない小羊の血の力のうちに、悪魔は力を失います。あらゆる名誉と楽しみを伴うこの世も、わたしたちの敵ですが、やはり弱いものです。ただし、わたしたちが節度を欠いた愛をもってそれらを所有し、この世にわたしたちを傷つける力を与えるなら、話は別です。十字架につけられたキリストの柔和、謙遜、清貧、そして恥辱と不名誉のうちに、この暴君である世は打ち滅ぼされます。第三の敵である、わたしたち自身の弱さは、弱いものとされました。しかし理性は、神がわたしたちの人間性との間に成し遂げられた結びつきによって、すなわち、みことばにわたしたちの人間性をまとわせることによって、また、その優しく愛に満ちたみことば、十字架につけられたキリストの死によって、その弱さを強めます。こうして、わたしたちは強く、敵は弱いのです。
ですから、わたしたちが敵よりも自分自身に対して残酷であるというのは、まことにそのとおりです。わたしたちが手を貸さなければ、敵はわたしたちを殺すことも、傷つけることもできません。神がわたしたちに敵をお与えになったのは、わたしたちが打ち負かされるためではなく、敵を打ち負かすためだからです。そのとき、わたしたちの勇気と堅忍が試されるのです。しかし、いとも聖なる信仰の光なしに、このような残酷さを避け、いつくしみ深くなることができるとは、わたしには思えません。その光によって心の目を開き、この残酷さがどれほど神のみ心に背き、魂と体を害するか、また、いつくしみがどれほど神のみ心にかない、わたしたちの救いに役立つかを見つめなければならないのです。
最愛のお母様――お母様と申し上げるのは、あなたが聖なる教会の忠実な娘であると認めるかぎりにおいてです――あなたはご自分に少しもいつくしみをかけておられないように、わたしには思われます。ああ、何ということでしょう。あなたを愛しているからこそ、その魂と体の痛ましいありさまを嘆いているのです。このような残酷な仕打ちを止めるためなら、わたしは喜んで命を捨てます。わたしはこれまで何度も、あなたを憐れんで手紙を書き、真実としてあなたに示されていることが偽りであること、そして、これほど大きな不正から逃れなければ、神の正義のむちがあなたのために用意されていることをお伝えしてきました。罪を犯すのは人間のすることですが、罪にとどまり続けるのは悪魔のすることです。ああ、あなたに真実を告げる人は一人もいませんし、あなた自身も、断罪される状態にとどまらずに済むよう真実を告げてくれる人を、神のしもべたちの中に探そうとなさいません。ああ、あなたのいる地方へ赴き、あなたに天の善と地の善を取り戻すために命を捨てることができたなら、わたしの魂はどれほど幸いでしょう。あなたがご自分を殺した、その残酷さの刃を取り上げ、悪徳を殺すいつくしみの刃をあなたにお渡しする助けとなれたなら。そうしてあなたが、神への聖なる畏れと真理への愛を身にまとい、神の甘美なみ旨にご自分を結び合わせることができたなら、どれほど幸いでしょう。
ああ、与えられるかどうかも確かではない時を、待っていてはなりません。あなたの哀れな魂と体のために、わたしの目から涙が川のように流れなければならないような道を選ばないでください。その魂を、わたしは自分自身の魂のように大切に思っているのです。その魂を見つめると、それは自らの体から切り離されているために、死んでいるのが分かります。それが迫害しているのは、教皇ウルバノ六世ではなく、わたしたちの真理と信仰なのです。わたしの母であり娘であるあなたよ、かつてあなたが手紙に書いてくださったように、神の恵みによって、あなたを通してこの真理と信仰が信仰を持たない人々の間に広められ、わたしたちの間でも明らかにされ、支えられ、汚染されていた人々や汚染された人々から汚れが現れるのを目にしたときには、それらから守られるものと期待していました。ところが今、わたしの罪のゆえにあなたに与えられた悪い助言によって、まったく反対のことがあなたのうちに現れているのが見えます。あなたはご自分の救いに何の憐れみもかけない者のように、その助言を受け入れました。そして、あなたの失ったものを取り戻してくれる人間は一人もおらず、あなた自身が至高の裁き主の前で、このことの申し開きをしなければならないと、わたしには分かります。あなたは正しいことを知らず、無知のために過ちを犯したのではありません。真実はあなたに示されていたのです。それでも、自分が始めたことからどう立ち返ればよいかが分からないのは、ゆがんだ利己的な意志の刃が、認識と選択の力を打ち砕き、あなたにとって最大の誉れとなることを恥と思わせているからです。過ちとこれほどの悪にとどまり続けることこそ最大の不名誉であり、同じ人間である人々の目に、その人を恥のしるしとしてさらすことになるからです。しかし、そこから逃れることは最大の誉れです。そして、誉れと徳の香りによって、恥から逃れ、悪徳の悪臭を消すことができるのです。
また、風のように過ぎ去る、はかなく移ろうこの世の財産についてあなたの境遇を考えるなら、あなたは自ら、法の上ですでにそれを失っておられます。残るのは、実際にそれを没収され、異端者であると公に宣告される最終判決を受けることだけです。わたしの心は張り裂けそうで、しかも張り裂けることもできません。悪魔があなたの心の目をすっかり曇らせ、あなたがその損失を被り、さらには、わたしにはその損失以上に大きいと思われる恥と屈辱を味わうことになりはしないかと、恐れているからです。「これは不当にわたしに加えられることであり、不当に加えられることは恥とはならない」と言っても、それを覆い隠すことはできません。そうは言えないのです。なぜなら、それは正当に行われることだからです。あなたが犯した過ちのゆえであるとともに、彼が真理によって真実に選ばれた、最高にして真の教皇であり、その権限を持っているからです。もし彼がそうでなければ、あなたは過ちを犯したことにはならなかったでしょう。ですから、それは正当なことなのです。それでも彼は、自分の子が自らを正すのを待つ慈愛深い父のように、愛のゆえに、これを行うのを控えてきました。しかし、正義に迫られ、また、あなたが長く悪にとどまり続けていることによって、彼がこれを行うことになるのではないかと、わたしは恐れています。そしてわたしは、自分が何を言っているのかも分からずに、こう申し上げているのではありません。
もしあなたがわたしに、「わたしはそんなことは気にしません。わたしは強く、力があり、助けてくれるほかの領主たちもいますし、彼が弱いことも知っています」と言うなら、わたしはこう答えます。神が都を守ってくださらなければ、力を尽くし、大きな熱意をもって都を守ろうとする者も、むなしく疲れ果てるだけです。そしてあなたは、神がご自分とともにおられると言えるでしょうか。わたしたちにはそうは言えません。あなたは真理に逆らうことで、神を自分の敵にしてしまったからです。あなたは自ら神に逆らう者となりました。真理に堅く結ばれている人を自由にするのは真理であり、真理を打ち負かすことのできる者は一人もいません。ですから、あなたには恐れるべき理由があり、ご自分の強さと権力を頼みとしてはなりません。たとえ今よりもさらに大きな強さと権力を持っていたとしてもです。一方、彼には、自らがその代理者である甘美なイエス・キリストのうちに、自分の弱さへの慰めを見いだす理由があります。キリストの力と助けに信頼しているからです。キリストは、わたしたちには想像もできないところから、彼に助けを送ってくださいます。そして、神があなたの味方であるなら、だれもあなたに敵対することはできないと、あなたもご存じです。
それゆえ、神を畏れ、その正義の鞭の下で震えましょう。自らを改め、これ以上先へ進むのをやめましょう。ご自分にいつくしみ深くあってください。そうすれば、神のいつくしみをご自分の上に呼び求めることになるでしょう。あなたのために滅びつつある多くの魂を憐れんでください。その魂について、あなたは死の間際に、神の前で申し開きをしなければならないのです。わたしたちには、まだ癒やしがあり、立ち帰るための時も残されています。そして神は、大いなる慈愛をもってあなたを迎えてくださいます。ご自分の魂にも体にも、残酷ではなくいつくしみ深くあろうとなさるなら、きっとそうしてくださり、あなたの治める人々をも憐れんでくださると、わたしは確信しています。そうでなければ、それはかないません。ですから、わたしは、あなたがご自分の魂に対して残酷ではなく、いつくしみ深くあるのを見たいと申し上げたのです。そこで、十字架につけられたキリストの愛にかけて、お願いします。せめて、あなたとこの世のほかの君主たちに告げられた真理を堅持し、その真理が堅持されることを望んでください。もし「わたしにはまだ疑わしい」とおっしゃるのでしたら、明らかになるまで中立を保ち、してはならないことをしないでください。神を畏れていると見える人々に、光と助言を求めてください。自分では守らないことについて、あなたによこしまな助言をする悪魔の手先に求めてはなりません。神を畏れ、畏れてください。神を目の前に置き、神があなたをご覧になり、その目があなたに注がれていること、そして神の正義は、あらゆる過ちが罰せられ、あらゆる善が報われることを望んでいるのだと考えてください。いつくしみ深く、ああ、ご自分にいつくしみ深くあってください! あなたに申し上げることは、ほかにありません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。甘美なイエス、愛なるイエス。 ページの先頭へ
ジェノヴァ滞在中の説教者修道会のブラザー・ライモンドへ
カタリナは、これまでに述べたどんなことにもまして痛ましい形で、友の家で傷つけられることになります。すでに紹介した手紙から、「あの優しい母マリアから与えられた」霊的な父との関係が、霊的な面だけでなく、人間的な面でも、いかに優しく親密なものであったかが分かります。聖人伝を読むと、善良なライモンド神父に対する彼女の愛情を、わたしたちも共にするようになります。彼の姿は、その後のいっそう苛烈な時代よりも、むしろ十四世紀にふさわしいものだったかもしれません。彼はこの上なく素朴で謙虚な人でしたが、日常的な事柄についての抜け目のなさも、決して欠いてはいませんでした。また、英雄的な気概には、とりわけ乏しい人でもありました。カタリナは、高い精神を持つ人々の多くがそうであるように、愛する人々に英雄的であることを当然のように求めました。ほかの人々は、愛する者のために安楽や喜び、野心や願望の充足を望みます。しかしカタリナが求めたのは、悲しみ、苦難、そして教会と世界の罪のために、気高い犠牲として自らの命をささげる機会でした。彼女は、自分自身のために望むのにわずかに劣るほどの熱意で、彼らのためにも、すべてを締めくくる殉教の恵みを切望していたのです。ところが、フラ・ライモンドには、殉教に心を引かれるところがまったくありませんでした。あの厳しい時代の巡り合わせの中で、その機会が訪れましたが、彼はすぐさまそれを退けました。ウルバノ教皇は、おそらくカタリナの勧めで、彼をフランス王のもとへ派遣していました。ライモンドは、自分の霊的な娘であり母でもある人に、おごそかな別れを告げました。おそらく、もう二度と彼女の顔を見ることはないだろうと考えていたのでしょう。彼は、そこから船でフランスへ渡るつもりで、ジェノヴァの港に向かいました。しかし、対立教皇のガレー船団がその航路を封鎖しようとしていました。ライモンドはその障害を受け入れ、(想像するに、さしてためらうこともなく)使節としての旅を断念することにしたのです。
カタリナは、この件について彼に二通の手紙を書きました。最初のものは短く、半ば冗談めいた調子です。「ああ、わたしの困ったお父様(_cativello padre mio_)」と彼女は言います。「もしあなたが、ご自分の血で聖なる教会の石の一つに封印を押すことがおできになっていたら、あなたの魂もわたしの魂も、どれほど幸いだったことでしょう! あなたが子どもっぽさを脱し、乳歯が抜けて、パンを召し上がる姿を、本当に見たいものです。かび臭ければかび臭いほどよいパンを!」明らかに、ライモンドはこの手紙に返事を書いています。おそらく弁解がましい調子で書き、自分の失敗のためにカタリナの愛が薄れることを恐れながらも、結局のところ、彼女は自分が難を逃れたことを喜んでくれるだろうと考えていたのでしょう。友も自分と同じように考えるはずだという、わたしたちの期待は、それほど強いのです。ここに掲げる返事で、彼女は心のすべてを語っています。失望しながらも変わらぬ愛情を抱き続ける心を、これほど痛切に示す言葉は、幾世紀もの時の流れに運ばれてわたしたちに届いたものの中にも、そう多くはないでしょう。この時、カタリナ自身も、苦難の道をすでに遠くまで歩んでいました。その悲しみの道の一つの留は、友との別れでした。「そして、あなたはわたしをここに残して、神と共に去って行かれました。」ここには、さらに深い痛みを刻む、もう一つの留がありました。「忠実な従順は、神と人々の前で、人間のあらゆる思慮分別にまさる働きをしたことでしょう。わたしの罪のために、あなたのうちにそれを見ることができませんでした。」彼女は喜びを伴う苦しみのうちに、ライモンドを神への奉仕に送り出しました。しかし今、彼がその召命に背くのを見て、恥辱に満ちた苦い苦しみを味わったのです。彼女は無益な非難を口にしません。彼女らしく、まず真剣に自らを責めることから始め、次いで、変わらぬ愛情を、優しく、また細やかに筋道を立てて保証することによって、本来なら自分の導き手であるべき人の弱さを慰めます。同時に、彼の罪と、自分の失望を、容赦なく厳しく述べることからも退きません。思いやりがあり、繊細で、かなりの礼節さえ備えた手紙ですが、それでも、その一行一行には、ライモンドの行動によって彼女が味わうことになった孤独が表れています。彼女の心に反抗はありません。「それでも、わたしは平安のうちにとどまっています。何事も神秘なしには起こらないと確信しているからです」と彼女はため息をつきます。しかし、まさに今、彼女が足を踏み入れつつある受難の中で、その心の最も深いところを、ほかならぬライモンドに打ち明けなければならなかったのだと気づくとき、わたしたちは、彼女の偉大な魂の孤独を、畏れにも似た新たな思いで悟り、悲しまずにはいられません。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおける、最愛の父上。イエス・キリストのしもべたちの召使いであり奴隷であるわたしカタリナは、主の尊い御血のうちに、あなたの中にいとも聖なる信仰の光を見たいとの願いをもって、お便りいたします。この光は、わたしたちに真理の道を示します。この光がなければ、わたしたちのいかなる活動も、望みも、働きも、実を結ぶことなく、それを始めた目的に達することもありません。すべてが不完全なものとなり、神と隣人を愛することにも、わたしたちは鈍くなってしまうでしょう。その理由はこうです。愛の大きさは信仰の大きさに等しく、信仰の大きさは愛の大きさに等しいように思われます。愛する人は、愛する相手にいつも忠実であり、死に至るまで忠実に仕えます。このことからわたしは、自分が本当には神を愛しておらず、神を通して被造物を愛してもいないことを悟ります。もし本当に神を愛しているなら、御名の栄光と賛美のために、必要であり可能であるならば、一日に千回でも自分を死に渡すほどに忠実であるはずだからです。そして、神と徳と聖なる教会への愛のために、耐え忍ぶ覚悟をしているはずですから、信仰を失うこともないでしょう。そうであれば、喜びをもって殉教の場へ赴いたあの栄光ある殉教者たちにとってそうであったように、神はわたしの助け手であり、守り手であると信じるはずです。忠実であれば恐れることなく、彼らのためにいてくださった同じ神が、わたしのためにもいてくださると確信するはずです。また、わたしに必要なものを備えてくださる神の力は、その能力においても、知識においても、意志においても、衰えてはいないと確信するはずです。けれども、わたしは愛していないので、本当には自分を神に委ねていません。わたしの内にある肉的な恐れが、わたしの愛は生ぬるく、創造主への不忠実と、自分自身に頼ることによって、信仰の光が暗くされていることを示しています。この悪の根が、いまだわたしの魂から抜き去られていないことを、わたしは告白し、否みません。そのため、神がなさろうとする働き、あるいはわたしに託される働きが妨げられ、神がそれを始めさせられた、明るく実り豊かな目的に達しないのです。ああ、ああ、わが主よ。惨めなわたしは、なんと不幸なのでしょう。わたしはいつも、どこにいても、どのような境遇にあっても、このような自分を見いだすのでしょうか。わたしは自分の不忠実によって、あなたの摂理の道をいつまでも閉ざし続けるのでしょうか。まことに、そうなるでしょう。あなたがいつくしみによって、わたしをいったん打ち壊し、新たに造ってくださらないならば。ですから、主よ、わたしを打ち壊し、心のかたくなさを砕いてください。わたしが、あなたのみわざを損なう道具とならないためです。
そして、最愛の父上、わたしとあなたがともに、へりくだった小羊の御血の中に自らを沈め尽くすことができるよう、熱心に祈ってくださるようお願いいたします。その御血が、わたしたちを強く、忠実な者にしてくださいます。わたしたちは神の愛の炎を感じ、神の恵みに協力する者となり、その恵みを無にしたり、損なったりする者とはならないでしょう。こうしてわたしたちは、神に忠実であり、自分の知識にも、人々の知識にも頼らず、神の助けに信頼していることを示すのです。
この同じ信仰をもって、わたしたちは被造物を愛するようになるでしょう。隣人への愛が神への愛から生まれるように、信頼についても、すべてのものに対しても、個々のものに対しても同じことが言えるからです。あらゆる被造物に広く抱くべき愛に応じた、すべてに向けられる信頼があるように、より親しく愛し合う人々の間には、その人々に固有の特別な信頼があります。わたしたち二人の間にあるのも、そのような信頼です。それは、すべての人に向ける愛を超えて、親密で特別な愛をわたしたちの間に築きました。その愛を、信頼が明らかにするのです。この信頼が示す愛はあまりにも大きく、わたしたちの一方が、相手の善以外の何かを望むなどとは、信じることも想像することもできません。そして、相手の善を心から信じます。神と人々の前で、ひたすら強くそれを求め、相手のうちに神の御名の栄光と、その魂の益を絶えず求めるからです。そして、神の助けに切に迫り、重荷を増し加えられるにつれて、力と、長く耐え忍ぶ心も増し加えてくださるよう願います。愛する人は、このような信頼を抱き、どのような理由があっても、それを弱めることはありません。人の言葉によっても、悪魔の惑わしによっても、居場所が変わることによっても、弱めることはないのです。もしそうでない行いをする人がいれば、それは、その人の神と隣人への愛が不完全であるしるしです。
お手紙から察するに、あなたはさまざまな戦いに見舞われ、悪魔の欺きとご自身の感覚的な欲情によって、心を乱す思いに悩まされたようです。そして、耐えられる以上の重荷を課せられたと感じておられたのでしょう。私が自分の物差しであなたを測るには、ご自身の力が足りないと思われ、そのため、あなたに対する私の親愛と愛が薄れたのではないかと疑われたのですね。けれども、その見方は正しくありませんでした。私の愛が増し、あなたの愛が減ったことを示したのは、あなたご自身だったのです。私は自分自身を愛するその愛をもってあなたを愛し、あなたに欠けているすべてを、神がそのいつくしみによって満たしてくださると、生き生きとした信仰をもって信じています。けれども、それはまだ実現していません。あなたは、自分の荷を地面に投げ出す手立てを見つけてしまったからです。あなたは、信仰に欠けるご自身の弱さを覆い隠そうと、こまごまとした言い訳をいくつも私たちに差し出しています。しかし、それによって、今の私にその弱さが十分見えなくなるわけではありません。私以外の誰にも気づかれないのであれば、それはよいことだと思います。そうです、まさしく私は、あなたへの愛が私のうちで増しており、衰えてはいないことを示しているのです。それにしても、何と言えばよいのでしょう。どうしてあなたは、無知のために、そのような思いをほんのわずかでも受け入れてしまったのでしょうか。私があなたの魂のいのち以外の何かを望んでいるなどと、どうして信じることができたのでしょう。あなたがいつも抱いていた、そして抱くべき信仰は、どこにあるのでしょう。また、物事は実行される前に神のみ前で見通され、定められているという、あなたが抱いていた確信は、どこにあるのでしょう。それは、これほど大きな行いだけでなく、どんなに小さなことについても同じです。もし忠実であったなら、あなたはそれほど揺れ動くことも、神と私に対する恐れに陥ることもなかったでしょう。むしろ、従順であろうとする忠実な子として、出かけて行き、できることをしたはずです。まっすぐ立って行けなければ、四つんばいになってでも行ったでしょう。修道士として行けなければ、巡礼者として行ったでしょう。私たちにお金がなければ、物乞いをしてでも行ったでしょう。この忠実な従順は、神のみ前でも、人々の心の中でも、人間のあらゆる思慮分別より大きなことを成し遂げたはずです。私の罪のために、あなたのうちにそれを見ることができませんでした。
それでも私は、そこに利己的な欲情があったとはいえ、神のみ旨と、地上のキリストである教皇ウルバノ六世の意志とを、よりよく果たそうとする聖なる善い心遣いを、あなたが当時も持ち、今も持っておられると固く信じています。とはいえ、あなたにとどまっていてほしかったわけではありません。そうではなく、どのような形であれ、どのような道であれ、可能な手段で直ちに旅立ってほしかったのです。ほかの多くの事柄についても、私は昼も夜も神に迫られていました。しかし、それらを行うべき人の怠慢によって、そして何よりも、あらゆる善を妨げる私の罪によって、すべてが無に帰そうとしています。こうして、ああ、私たちは自分たちが溺れつつあるのを目の当たりにし、多くの苦しみとともに、神に背く行いが増してゆくのを見ています。そして私は、遅延の苦悩のうちに生きています。神がいつくしみによって、この影のような人生から、早く私を取り去ってくださいますように。
ナポリ王国では、このたびの災いが前の災いよりもひどいことが分かります。そして、そこでは多くの悪いことが起こりそうです。どうか神がそれらを正してくださいますように。けれども神は、憐れみによって、その災いと、講じるべき対策を示してくださいました。しかし、先ほど申し上げたように、私の過ちの多さが、あらゆる善を妨げています。あなたと再会する前に、この地上から解き放たれるという最大の恵みを頂くのでなければ、これらの事柄について、あなたにお話しすることがたくさんあるでしょう。
そうです、申し上げたとおり、あなたに行っていただきたかったというのが、まったく偽りのない私の願いです。それでも私は平安を保っています。何事も神秘なしには起こらないと確信しているからです。また、フランス王のもとに使者が送られるよう、できることをして、良心の重荷を下ろしたからでもあります。聖霊がその慈愛によって、これを成し遂げてくださいますように。私たちは自分たちの力だけでは、役に立たない働き手なのですから。
ハンガリー王のもとへ急いで向かうことについては、教皇様が十分に喜ばれることは明らかで、あなたがほかの同伴者たちとともに行くよう計画しておられました。ところが今は、理由は分かりませんが、お考えを変えられ、あなたが今いる所にとどまり、できる限りの善を行うことを望んでおられます。どうか、そのことに熱心に取り組んでください。
自分自身を、そしてあらゆる個人的な楽しみと慰めを捨ててください。死んだ者たちの上には芝土をかぶせ、へりくだった望みと聖なる祈りの綱で、神の正義の手を、また悪魔と肉の欲望を縛ってください。わたしたちは、聖なる教会という庭で、死んだ者として、その庭の主である地上のキリストにささげられています。ですから、死んだ者にふさわしいわざを行いましょう。死者は見ず、聞かず、感じません。憎しみと愛の刃で自分を死に渡す強さを持ってください。そうすれば、聖なる教会を迫害する者たちがあなたに浴びせようとする、世の嘲りも侮辱も非難も耳に入らなくなります。何事も実行不可能なものとして目に映すことなく、また、その後に続くかもしれない苦痛に目を向けることもなく、十字架につけられたキリストによってすべてができること、そして神は担いきれないほど重い荷を負わせることはなさらないと、信仰の光のうちに見つめてください。そうです、重い荷をこそ喜ぶべきです。そのとき神は、剛毅の賜物を与えてくださるからです。耐え忍ぶことを愛するなら、肉の感じやすさは失われます。こうして死んで、死にきってこそ、わたしたちはこの庭で養われることができるのです。これを目にするとき、わたしは自分の魂を幸いなものとみなすでしょう。この上なく愛する父よ、申し上げます。わたしたちが望もうと望むまいと、今日という時代は、わたしたちに死ぬよう呼びかけています。ですから、もはや生きていてはなりません。苦しみのうちに苦しみを終わらせ、その苦しみのうちに聖なる望みの喜びを増し加えてください。わたしたちの生涯が、十字架につけられた望みのうちにのみ過ぎゆくため、また、進んで自分の体を獣の餌食として差し出すためです。つまり、徳への愛のために、獣のような人々の舌と手に、進んで身を投じましょう。この麗しい庭で、死んだ者として働き、自らの血で、けれどもそれに先立って涙と汗で、この庭を潤した人々がそうしたように。そしてわたしは――ああ、何と嘆かわしいわたしの生涯でしょう――この庭に十分な水を注がなかったため、自分の血を注ぐ許しを与えられませんでした。もうこのままであることを、わたしは望みません。わたしたちの生涯が新たにされ、望みの火がいっそう燃え盛りますように。
あなたは、ビンセンチオの火、ラウレンチオの火、愛しいパウロの火、そして慕わしいヨハネの火を与えてくださるよう、いつくしみ深い神に祈ってほしいとわたしに頼み、そうすれば大きなことを成し遂げるとおっしゃいます。それならば、わたしも喜ぶでしょう。確かに、わたしが申し上げることは真実です。この火がなければ、あなたは小さなことも大きなことも、何一つ成し遂げられず、わたしもあなたを喜ぶことはできないでしょう。
ですから、そうであることを思い、またそれが実証されるのを見てきたので、神の優しいまなざしのもと、大きな熱意とともに、わたしのうちに一つの衝動が湧き上がってきました。あなたが身近にいてくださるなら、それが本当であることを、確かにお見せし、言葉だけではないものをお渡しするでしょう。わたしは喜んでいますし、あなたにも喜んでいただきたいのです。この望みが増してゆくのですから、神はあなたとわたしのうちに、それを成し遂げてくださるでしょう。神は聖なる真実の望みを受け入れてくださるからです。ただし、神のみ旨の真実を知るために、いとも聖なる信仰の光のうちに、あなたが心の目を開くことが必要です。み旨を知れば、それを愛するようになり、愛すれば忠実になり、悪魔のどのような策略によっても、あなたの心が陰に覆われることはなくなります。忠実であれば、神において、あらゆる大きなことを成し遂げるでしょう。神があなたの手に委ねられることは、完全に成し遂げられます。つまり、あなたの側から、その完成を妨げることはなくなるのです。この光によって、あなたは言葉や語らいにおいて、またすべての行いと振る舞いにおいて、慎重で、慎み深く、重みのある者となるでしょう。しかし、この光がなければ、あなたの振る舞いや習慣はまったく逆のものとなり、ほかのすべてのことも、あなたにとって望みとは逆の結果になるでしょう。
ですから、そうであることを知っているわたしは、いとも聖なる信仰の光があなたのうちにあるのを見たいと願いましたし、今も、あなたにその光を持っていただきたいと望んでいます。わたしはこれを望み、あなたの救いのために限りなくあなたを愛し、あなたが完全な者の境地にあるのを見たいと切に願っています。それゆえに、言葉を尽くしてあなたにお願いするのです。けれども、できることなら、言葉よりも行いをもってそうしたいと願っています。また、あなたが絶えず自分自身に立ち返るよう、あなたを叱責することもあります。神の誉れのために、完全な者の重荷をあなたに担っていただこうと、わたしは力を尽くしてきましたし、これからもそうするでしょう。そして、いつくしみ深い神に、あなたを完全さの最終の境地にまで至らせてくださるよう願います。すなわち、あなたに仕える肉が望もうと望むまいと、聖なる教会のために血を流すことです。十字架につけられたキリストの御血のうちに自分を忘れ、わたしの過ちと言葉を、よく忍耐して耐え忍んでください。そして、自分の過ちを示されるときはいつでも、喜び、いつくしみ深い神に感謝してください。神は、あなたのために労し、み前であなたを見守る者を、あなたのために定めてくださったのです。
反キリストとその手の者たちが、あなたを捕らえようと懸命になっていると書いてくださったことについては、恐れないでください。神には、彼らの光と力を取り去り、その望みを遂げられなくする力がおありになるからです。それに、あなたはこれほど大きな恵みにふさわしい者ではないと考えるべきですから、恐れる必要はありません。信頼を持ってください。優しいマリアと、真理である方が、いつもあなたの味方でいてくださるからです。
御血への愛のゆえに血が流された野に置かれている、卑しいはしためであるわたしは、あなたのために働くことを決してやめません。(あなたはわたしをここに残し、神とともに去って行かれました。)どうか、わたしが嘆くことにも、神の御前で恥じ入ることにもならないようにしてください。神の誉れのために行い、耐え忍ぶ意志を約束なさるときに男であるなら、いざ錠を下ろすときになって女に変わらないでください。そうなれば、わたしは十字架につけられたキリストとマリアに、あなたを訴えねばなりません。後になって、サンタンティモの修道院長に起こったことが、あなたにも起こらないように気をつけてください。彼は恐れから、神を試みないためという口実のもとにシエナを去り、ローマに来ました。そして、自分は牢獄から逃れ、安全になったと思っていましたが、結局は投獄され、あなたもご存じの罰を受けたのです。臆病な心はこのようにして癒やされるのです。ですから、どうか、どこまでも男であってください。あなたに死が与えられますように。
神の誉れにも、あなたに対するしかるべき敬意にもかなわないことを、わたしが何か申したとすれば、どうかおゆるしください。愛に免じておゆるしくださいますように。これ以上は何も申しません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。あなたの祝福をお願いいたします。甘美なイエスよ、愛なるイエスよ! ページの先頭へ
ウルバノ六世へ
これは、現存するウルバノ宛ての手紙のうち、最後のものです。おそらくそうであると思われますが、これがカタリナが彼に書き送った最後の手紙でもあるとすれば、1380年の六旬節の主日の翌月曜日に、次に掲載する手紙で彼女自身が述べている状況のもとで書かれたに違いありません。この時、彼女はすでに、自らの_死去_に先立つ神秘的な苦悶に入っていました。
この手紙は、わたしたちには知るすべもなく、また関心もない歴史上の細かな事情に触れています。それでも、この手紙にはまれに見る興味深さがあります。カタリナの権威ある語調に、しばしば独特の仕方で溶け合う、あの繊細な優しさが、これほどはっきりと表れたことはありません。ウルバノの衝動的で一貫性を欠く言動や、この頃には友人たちさえも遠ざけつつあった理不尽な怒りの爆発を、これ以上明確に、しかも優しくたしなめることはできないでしょう。この感受性豊かで高潔な女性が、信仰ゆえに、忠誠を尽くすだけでなく擁護までせざるを得なかった相手がどのような人物であったかを思うと、胸が痛みます。カタリナは、その活動的な生涯を通じて、明快な大義のために、あるいは少なくとも共感が分かれることのない大義のために戦うことを、一度も許されませんでした。その状況の痛ましさは、彼女の語調にある柔和で忍耐強い毅然さのうちにはっきりと表れています。しかし、これが本当に彼に宛てた最後の手紙であるなら、そこにはさらに深い関心を引くものがあります。執筆時の状況を知れば、彼女の思考と言葉の明晰さ、そして外の世界で起こる出来事の推移を論じる際の、揺るぎなく明確な知恵に驚かずにはいられません。続く手紙に示されるような体験のただ中にある女性が、このような調子で書くことができたという事実は、心理学者にとっても確かに意味深いものでしょう。実際、カタリナの全生涯は、神秘家には、この世の入り組んだ事柄について健全な判断や、一貫して賢明な行動を期待できないという通念を覆しています。
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
甘美なイエス・キリストにおいて、最愛の、いとも慕わしい父よ。あなたの貧しく、ふさわしくない娘であるわたしカタリナは、あなたのうちに賢慮と甘美な真理の光を見たいという強い望みをもって、この手紙を書いています。それは、あなたが栄光ある聖グレゴリオに倣い、聖なる教会を賢慮をもって治めてくださる姿を見たいからです。そうすれば、教皇聖下が命じられ、あるいは行われたことは、どのようなことも、ほんの一言さえも、撤回する必要が決してなくなるでしょう。そして、まことの聖なる大祭司にふさわしく、真理に根ざしたあなたの確固たる姿勢が、神と人々の前で明らかになるでしょう。わたしは、計り知れない愛である神に、あなたの魂をこの賢慮と光で包んでくださるよう祈ります。なぜなら、光と賢慮は、わたしたちにとって、そしてとりわけ聖下と、あなたの立場に立つであろう誰にとっても、まことに必要だと思われるからです。とりわけ、この今の時代にはそうです。あなたがこれらをご自分のうちに見いだしたいと望んでおられることを知っていますので、わたしはあなたご自身の魂の望みを示しつつ、これらのことを改めて心に留めていただこうとしているのです。
聖なる教皇様、長官が激しい調子で返答したことを伺いました。それはまさに、怒りに任せ、ローマの使節たちに無礼を働く返答でした。その返答を受けて、人々は総評議会を開き、その後、各区の長と幾人かの善良な人々が教皇様のもとに参上するようです。いと聖なる教皇様、すでに始めておられるように、これからも彼らとたびたびお会いになり、思慮深く愛の絆で結んでくださいますよう、お願いいたします。ですから、評議会が開かれた際に彼らが申し上げることについても、できるかぎり柔和に彼らを迎え、何をなすべきとお考えなのかをお示しくださるよう、お願いいたします。どうかおゆるしください。愛に促されて、申し上げるまでもないことを口にしているのかもしれません。教皇様は、ご自分の子であるローマの人々の気質を、よくご存じのはずだからです。彼らの心を引き寄せ、つなぎとめるのは、どのような力や厳しい言葉にもまして、柔和さなのです。また教皇様は、この民が教皇様への従順と敬意を保つことが、ご自身にとっても聖なる教会にとっても、いかに切実に必要であるかを、ご存じです。わたしたちの信仰のかしらと始まりが、ここにあるからです。そして、後になって損失や恥辱、混乱が生じないよう、十分に実行できるはずのことだけを約束するように、常に思慮深く心がけてくださいますよう、謙遜にお願いいたします。いと優しく聖なる教皇様、このようなことを申し上げるわたしをおゆるしください。教皇様はその謙遜と慈愛のゆえに、こうした言葉が語られることを快くお受けくださり、それがまことに卑しい女の口から出たからといって、不快に思ったり、軽んじたりなさらないと、わたしは確信しております。謙遜な人は、誰が自分に語っているかを問題にせず、神の誉れと真理、そして自らの救いに心を留めるからです。
どうか心を強くお持ちください。教皇様に背くこの者が、どれほど悪意ある返答をしたとしても、またこれからするとしても、恐れないでください。神は、聖なる教会という船と教皇様を導き助ける方として、このことも、ほかのすべてのことも、お心にかけてくださいます。どうかわたしのためにも、聖なる神への畏れのうちに、雄々しくあってください。言葉においても、日々の振る舞いにおいても、すべての行いにおいても、余すところなく模範となってください。すべてが神と人々の前で、澄んだ輝きを放ちますように。聖なる教会の燭台に置かれた光として、すべてのキリスト者が仰ぎ、また仰ぐべき光となってください。
また、レオがお話しした件について、わたしたちに何らかの助けをお与えくださるよう、お願いいたします。このつまずきのもとは、日ごとに大きくなっています。シエナの使節に対してなされたことだけでなく、日々目にするほかの事柄も、弱い人の心を怒りへと駆り立てるに十分だからです。今、教皇様に必要なのはこの人物ではなく、戦いではなく平和をもたらす人です。この人は正義への善い熱意から行動しているのかもしれませんが、多くの人は、そのように行動しながらも、あまりに秩序を欠き、怒りの衝動に駆られるために、理性と節度をすっかり失ってしまいます。ですから、人々の弱さに歩み寄り、この人よりもその弱さをよく癒やすすべを知る医師を遣わしてくださるよう、教皇様に切にお願いいたします。死に至るほど長くお待ちにならないでください。ほかに助けが見いだされなければ、その病はいよいよ重くなると、わたしは申し上げます。
そして、悪い統治者たちへの備えを怠ったために、イタリア全土に降りかかった災いをお思い起こしください。彼らの統治のあり方が、神の教会から財を奪う原因となったのです。教皇様がこのことをご存じであることは承知しております。今こそ、何をなすべきかをお見極めください。どうか心を強く、穏やかに心を強くお持ちください。神は、教皇様の願いも、ご自分のしもべたちの祈りも、おさげすみにはなりません。これ以上は申し上げません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。謙遜にご祝福をお願いいたします。優しいイエス、愛なるイエス。 ページ上部へ
死に先立つ体験を記した手紙
「内にも外にも、戦いと恐れ」があることは、長い間カタリナの身に与えられた定めでした。今、その終わりが近づいていました。少女のころから、彼女は大きな矛盾に直面してきました。あらゆる時代を通じて、キリスト教信仰にとって最も厳しい試練は、おそらく、目に見えるキリストの教会が呈する姿でしょう。理想と現実の対照を絶えず示すこのたとえは、カタリナの時代ほど、信心深い魂に苦痛を与えたことはなかったかもしれません。そして、それによって彼女ほど苦しんだ人はいなかったと言っても、おそらく差し支えないでしょう。彼女の生涯そのものが、一つの信仰宣言でした。霊的な疑いと絶望の繰り返す攻撃に抗して保たれたからこそ、その信仰はいっそう英雄的なものでした。彼女の歩みの幾つもの場面で、神の御計画が失敗したかに見えることに打ちのめされながらも、全存在を神のみ前へと引き上げ、そこで再び確信を与えられる姿を見ることができます。その確信は、神秘的な脱魂を通して伝えられたものでしたが、だからといって、彼女の力強い知性を満たす力が劣ることはありませんでした。
ここで、そのような体験の一つを引用してもよいでしょう。それは、グレゴリウスに対する彼女の失望が最も深まった時期のものと思われます。後に彼女がこの体験をさらに詳しく書き記し、『対話』の第一の書の土台としたことから、その意義と深さをうかがうことができます。彼女はライモンドにこう書いています。「親愛なる神父様、キリストの愛しい花嫁のことで、どうか心を強くお持ちください。花嫁が苦難と苦しみに満ちれば満ちるほど、神なる真理は、それだけいっそう豊かな甘美さで花嫁を満たすと約束しておられるからです……。お手紙の内容を十分に理解したとき、わたしは神の一人のしもべに、花嫁のため、また『お父様』の弱さのゆえに、神のみ前で涙と汗をささげるよう頼みました。
「するとたちまち、神の恵みによって、彼女のうちに計り知れないほどの望みと喜びが湧き起こりました。その日はマリアの日だったので、彼女はミサにあずかろうと朝を待ちました。そしてミサの時刻になると、自分自身をありのままに知り、自らの不完全さのゆえに神の前にへりくだって、自分の席に着きました。そして、熱い望みをもって自分自身を超えて高く昇り、心の目で永遠の真理を見つめながら、そこで四つの願いをささげ、自分自身とその父を真理の花嫁の前に置きました。
「第一の願いは、聖なる教会の改革でした。すると神は、涙に心を動かされ、その望みの綱にご自身を縛られるままにして、こう言われました。『わたしのいとしい娘よ、教会が不純と自己愛によってその顔を汚し、その懐で養われる者たちの傲慢と貪欲によって膨れ上がっているのが見えるであろう。しかし、わたしの神なる愛の泉から涙と汗をくみ取り、それをもって教会の顔を清めなさい。教会の美しさは、剣によってでも、残虐さや戦争によってでもなく、平和と、わたしの僕たちの悲しみに満ちた望みからあふれ出る、へりくだった絶え間ない祈りと涙と汗によって回復されると、あなたに約束する。こうして、長く耐え忍ぶうちにあなたの望みはかなえられ、わたしの摂理は決してあなたがたを見捨てることはない。』
「この願いにはすでに全世界の救いが含まれていましたが、それでも祈りはさらに、とりわけ全世界のための嘆願へと広がっていきました。すると神は、ご自身がどれほど大きな愛をもって人間を造られたかを示し、こう言われました。『今や、だれもがわたしに打ちかかっているのが見えるであろう。娘よ、彼らがどれほど多種多様な罪によってわたしを打っているかを見なさい。とりわけ、あらゆる悪の源である、惨めで忌まわしい自己愛によって、彼らは全世界を毒してしまった。だから、わたしの僕であるあなたがたは、多くの祈りをもって、わたしの前で自らを飾りなさい。そうすれば、神の正義の怒りを和らげることになる。そして、だれもわたしの手から逃れることはできないと知りなさい。心の目を開き、わたしの手を見つめなさい。』そこで彼女が目を上げると、全世界がその手の中に握られているのが見えました。すると神は言われました。『だれもわたしから奪い去られることはないと、あなたに知ってほしい。すべての者は、正義か、いつくしみのいずれかのもとにあるからであり、それゆえ、すべての者はわたしのものなのである。そして、彼らはわたしから出た者であるから、わたしは言葉では言い尽くせないほど彼らを愛しており、わたしの僕たちを通して彼らにいつくしみを示すであろう。』すると、望みの炎がいよいよ燃え上がり、その女性は、至福と悲しみをともに抱きながらとどまり、神のいつくしみ深さに感謝をささげました。神が被造物の過ちを示されたのは、自分がいっそうの熱意と、より大きな望みをもって立ち上がらずにはいられなくなるためだと悟ったからです。そして、愛の聖なる炎はあまりにも激しくなり、彼女は、自分の体から血の汗が流れ出るのを見たいという大きな望みのあまり、流している水の汗を取るに足りないものとみなし、自分自身にこう言いました。『わたしの魂よ、お前は一生を無駄にしてきた。だからこそ、世にも聖なる教会にも、全体にも個々にも、これほど大きな損失と災いが降りかかったのだ。だから今、わたしはお前に、血の汗をもって償ってほしい。』すると、その魂は聖なる望みに駆り立てられ、はるかに高く昇り、心の目を開いて神の愛を見つめました。そこで彼女は、魂の救いのうちに神のみ名の栄光と賛美を求めることが、わたしたちにどれほど強く課せられているかを見て、感じたのです。」
この驚くべき一節には、カタリナの高く、ますます深まっていく責任感が表れています。彼女の涙と汗は教会の顔を清めるためのものであり、神の僕たちの悲しみに満ちた望みを通して、贖いが成し遂げられることになっています。わたしたちが知るとおり、彼女は、楽観するあまり何もせずにいるような、宿命論的なキリスト者の一人では決してありませんでした。ためらいながらも小さな自室を出たその日から、当時の社会が抱える問題が生来の気質にどれほどそぐわなくとも、彼女は倦むことのない粘り強さと勇気をもって、その時代の営みに力を注ぎました。しかしカタリナは、社会の救いは活動だけでなく、祈りによっても成し遂げられると深く確信していました。いえ、むしろ、この二つを対立させること自体が誤りであり、社会を造り直す力は、目に見えない領域で動き始めるのだと確信していたのです。絶え間ない執り成しと、彼女の教えの合言葉であるあの「聖なる望み」を、犠牲をささげる熱情へと高めること――これらこそ、改革と清めをもたらすものとして、彼女が希望を寄せていた手段でした。若いころ、ほかの魂が地獄に入るのを防ぐために、自分を地獄の入口をふさぐ栓にしてほしいと祈ったと伝えられています。この風変わりな中世の比喩には、彼女の生涯を貫いていた衝動が読み取れます。
カタリナが年を重ねるにつれて、宗教上の展望はますます暗くなっていきました。現実の政治における目標が一つひとつ実現するのを目にしましたが、それらは霊的な失敗に終わり、かえって彼女をあざけるかのようでした。最も愛していた人々は、彼女の理想を裏切りました。彼女は、宗教界の高位にある人々の不正と、真理を守るために暴力や腐敗が用いられるさまを目の当たりにしました。こうしたことを見つめるうちに、内面において成し遂げるべき償いがあるという思いが、抗いがたいものとなっていきました。その思いは彼女を死へと呼び寄せると同時に、ほかにはない慰めを与えたのです。
ここからは、これらの手紙そのものに語ってもらわなければなりません。これらはカタリナが亡くなる少し前に、修道士ライムンドに宛てて書かれたものです。彼は、悲しいことに彼女の期待に応えられなかったとはいえ、なお彼女が最も信頼する友であり続けました。カタリナの緩やかな_この世からの旅立ち_については、ほかの資料にも心を打つ記録が残されています。それは、彼女が文字どおり、しかも自らの選びによって、張り裂ける心の苦しみのうちに死へと向かっていた、長い数週間の記録です。それらは、ここに記されている多くの細部を裏づけています。しかし、それにもまして価値があるのは、魂の奥深くでの体験を彼女自身が書き留めたこの記録です。細部に至るまで丹念に記されていながら、明らかに激しい心の高ぶりのもとで書かれています。最初の手紙は、筋道立てて語ることがほとんど不可能なほど、強い感情に圧倒されながら書かれています。その現実をおぼろげにでも示すことのできる人間の言葉を探そうとしても、知性は途方に暮れてしまいます。カタリナが描き出さなければならないのは、その地上の生涯の頂点です。すなわち、絶望に対する信仰の最後の勝利であり、神の明白な声だと彼女が信じるものに従って、自分自身をいけにえとしてささげる最後の奉献です。二通目の手紙は、より落ち着いています。そのいけにえは受け入れられました。彼女は死に向かっています。それは、自らも同じ運命にあずかりたいと切望してきた殉教者たちのように、人の暴力による死ではありません。聖なる教会の罪のために張り裂ける、自分自身の心の苦悶による死です。「私はこのようにして、聖なる殉教者たちは血によって」と、彼女は喜びに満ちて書いています。そして、その苦悶は穏やかで、喜びに満ちています。最後まで思いを向けるのは他の人々のことであり、その魂は平和の勝利に満たされています。外から見れば、彼女の周囲はすべて混乱していました。しかし、彼女自身の生涯は――私たちが一致に達することのできる唯一の領域は、自分自身の生涯なのですが――調和のとれた一つの全体として完成されたのです。手紙に表されたその生涯を読むことは、世界の救いとなる悲劇の一つをたどることなのです。 ページの先頭へ
カプアのライムンド師へ
……私は、神のみ前で新たに心に宿った、十字架につけられた望みから生じる悲しみに、息もできないほどでした。というのも、知性の光は永遠の三位一体のうちに自らを映し出していたからです。そして、その深淵のうちに、理性を備えた存在の尊厳と、人が大罪を犯すことによって陥る惨めさ、そして聖なる教会が必要としているものが見えました。神はそれを、ご自分のはしための胸の内に示されたのです。また、その甘美な花嫁を通してでなければ、誰も三位一体の深淵のうちに神の美しさを享受するに至ることはできないと分かりました。すべての人は、十字架につけられたキリストという門を通るべきであり、この門は聖なる教会のほかには見いだせないからです。彼女は、この花嫁が人々にいのちをもたらしているのを見ました。花嫁は、誰にも滅ぼすことのできないいのちをその内に持っているからです。また、花嫁が力と光を与えており、その真の姿においては、誰も花嫁を弱めることも、闇に投げ込むこともできないのを見ました。そして、その実りは決して絶えることなく、永遠に増し加わるのを見ました。
すると、永遠の神は言われました。「あなたの知性では捉えきれなかったこの尊厳のすべては、わたしがあなたたち人間に与えるものだ。だから、悲しみと苦しみのうちに思い巡らしなさい。そうすれば、人々がこの花嫁に近づくのは、ただその上着、すなわちこの世の財産のためであると分かるだろう。しかし、花嫁の本質そのもの、すなわち御血の実りを求める者たちからは、まったく見捨てられているのが見えるだろう。真の謙遜と、いとも聖なる信仰の光をもって愛の代価を払わない者が、この実りにあずかろうとするなら、それはいのちのためではなく、死のためとなる。その者は、自分のものではないものを奪う盗人と同じことをするのだ。御血の実りは、愛の代価を払う者たちのためにある。花嫁は愛のうちに基を置き、まことの愛そのものだからだ。そして、わたしは望む」と永遠の神は言われました。「わたしがしもべたちにそれぞれ異なる仕方で仕える務めを与えるのに応じて、一人ひとりが受けたとおりに、愛によって花嫁にささげることを。しかし、そこで仕える者が誰も見いだせないことを、わたしは悲しむ。いや、誰もが花嫁を見捨ててしまったように見える。それでも、わたしはもう一度、仲介者となろう。」
そして、彼女の望みの痛みと炎がいっそう増すと、彼女は神の御前で叫びました。「ああ、測り知れない炎よ、わたしには何ができるでしょうか。」すると、神は慈しみ深くお答えになりました。「あなたのいのちを、あらためてささげなさい。あなたは、自分に決して休息を与えずにいることができる。この務めのために、わたしはあなたを任命した。あなたと、あなたに従うすべての者、またこれから従う者たちを。それゆえ、あなたがたは決して気を緩めず、常に望みを増し加えるよう心しなさい。愛に駆られて、わたしは肉体と霊魂のための恵みによってあなたがたを助けようと、よく心を配っているからである。また、あなたがたの心がほかの何ものにも占められないよう、わたしは備えをした。あなたがたを治めるために任命したあの女性を奮い立たせ、神秘と新たな道を通して彼女を導き、この務めに就かせたのである。こうして彼女はこの世の財をもってわたしの教会に仕え、あなたがたは絶え間ない、謙遜で忠実な祈りと、必要とされるさまざまな働きをもって仕える。その働きは、わたしの善によって、あなたにも彼らにも、それぞれの身分に応じて定められる。それゆえ、わたしのために、自分のことを顧みることなく、あなたのいのちと心と思いを、ことごとくこの花嫁にささげなさい。わたしを観想し、この花嫁の花婿、すなわち最高の教皇を見つめ、その聖なる善い意向を、何の留保もない意向を見なさい。そして、花嫁がひとりであるように、花婿もまたひとりである。わたしは彼が、度を越して用いる手段によって、また、その配下の者たちに抱かせる恐れによって、聖なる教会を清めることを許している。しかし、別の者が来て、愛のうちに彼女に近づき、彼女を満たすであろう。この花嫁には、霊魂に起こるのと同じことが起こる。初めは恐れが彼女をとらえるが、罪を脱ぎ捨てると、愛が彼女を満たし、徳をもって彼女を包むのである。愛は、真実のうちに彼女の胸もとで彼らを養う人々の、甘美で柔和な支えによって、このすべてを成し遂げるであろう。だが、あなたはこうしなさい。わたしの代理者に、自分にできる限り心を鎮め、平和を受け入れるすべての者に平和を与えるよう伝えなさい。また、聖なる教会の柱である者たちには、大きな災いを正したいと望むなら、次のようにするべきだと伝えなさい。彼らは一致し、父である者の、過ちと思われかねないやり方を覆う外套となりなさい。また、よく秩序づけられた生活を送り、わたしを畏れ愛する人々のそばにあり、低い本性を捨てて、互いに固く結ばれなさい。そうするなら、光であるわたしが、聖なる教会に必要な光を彼らに与える。そして、彼らの間でなすべきことがあると分かったなら、真の一致のうちに、速やかに、大胆に、十分に熟慮したうえで、それをわたしの代理者に申し出なさい。そうすれば、彼は彼らの善意に逆らわずにはいられなくなるであろう。彼は本当に、聖なる善い意向を抱いているからである。」
このような神秘を、また知性が見たこと、愛情が心に抱いたことを語るには、言葉が足りません。そして、驚くべきことに満ちた一日が過ぎ、夕べが訪れました。わたしは、愛の力にこれほどまでに心を引き寄せられ、祈りの場に行かずにはいられないと感じ、また、自分が死を迎えた時にあったあの状態が訪れるのを感じて、深い痛悔のうちにひれ伏しました。わたしが多くの無知と怠慢をもってキリストの花嫁に仕え、ほかの人々も同じことをする原因となっていたからです。そして立ち上がると、先に述べたことの印象が心の目の前にあるまま、神はわたしをご自身の御前に置かれました。いつも御前にいないというのではありません。神はすべてをご自身のうちに包んでおられるからです。しかしそれは新しい仕方であり、記憶も知性も意志も、わたしの体とはまったく関わりがないかのようでした。そして、この真理がこれほどの光をもってわたしのうちに映し出されたので、その深淵の中で、聖なる教会の神秘と、これまでの生涯に受けた過去と現在のすべての恵み、そしてわたしの魂が神と結ばれた日が、あらためて現れたのです。それらはみな、内なる炎が増すにつれて、わたしから消え去りました。そしてわたしは、なすべきことだけに心を向けました。すなわち、聖なる教会のために、また、神がわたしの手に委ねられた人々から無知と怠慢を取り除くために、自分自身を神へのいけにえとすることでした。すると悪魔たちは、わたしに災いを浴びせようと叫び、恐怖によって、わたしの自由で燃え立つ望みを妨げ、弱めようとしました。こうして彼らは体という殻を打ちつけましたが、望みはいっそう燃え上がり、叫びました。「ああ、永遠の神よ、聖なる教会というこの神秘的な体のうちに、わたしのいのちのいけにえをお受けください。あなたがわたしにお与えくださったもののほかに、ささげるものは何もありません。それゆえ、わたしの心をお取りください。そして、あなたの花嫁がその上に顔を寄せることができますように。」すると永遠の神は、いつくしみのまなざしを向け、わたしの心を取り出して、聖なる教会にささげられました。神はそれほどの力をもって、その心をご自身のもとに引き寄せられたので、もし直ちにご自分の力でそれを包み支えてくださらなかったなら、わたしのいのちは失われていたことでしょう。神は、わたしの体という器が壊れることをお望みではなかったのです。すると悪魔たちは、耐え難い苦痛を感じたかのように、さらに激しく叫びました。わたしのうちに恐怖を残そうと躍起になり、このような行いが成し遂げられないよう、思うままにわたしを翻弄すると脅したのです。しかし、地獄は、いとも聖なる信仰の光を伴う謙遜の徳には抗えないので、霊はますますひたむきになり、炎の道具を用いて働き、神の威光の御前で、心をこの上なく引きつける言葉と、喜びを与える約束を聞きました。そして、これほど大いなる神秘のうちに、まことにそのとおりのことが起こったので、もはや言葉では、それをこれ以上語り尽くすことができません。
今、わたしは申します。いと高き永遠の神に感謝、感謝をささげます。神は、その花嫁のために、この上なく聖なる信仰を盾として戦う騎士として、わたしたちを戦場に置かれました。人類を支配していた悪魔を打ち破ったあの徳と力によって、わたしたちには戦いの場が自由に開かれています。悪魔が打ち破られたのは、人性の力によってではなく、神性の力によってでした。それゆえ、悪魔は、わたしたちの体の苦しみによって打ち破られるのではなく、これからもそうではありません。神の、この上なく熱烈で計り知れない愛の炎の力によってこそ、打ち破られるのです。 ページの先頭へ
説教者会のカプアのライムンド師へ
十字架につけられたイエス・キリストと、優しきマリアの名によって。
優しいイエス・キリストにおいて、こよなく愛する、いとも優しい神父様。イエス・キリストのしもべたちの召使いであり奴隷であるわたしカタリナは、キリストの尊い御血のうちに、お手紙を差し上げます。あなたが、そうあるべきとおり、真理の忠実な花婿として、聖なる教会の庭に新たに据えられた柱となられるのを見たいと願っています。そのとき、わたしは自分の魂を幸いなものと思うでしょう。ですから、どのような逆境や迫害のためにも後ろを振り返ることなく、むしろ逆境を誇りとしていただきたいのです。わたしたちが愛と揺るぎなさを示し、神のみ名に栄光を帰するのは、忍耐によってであり、それ以外の方法によってではないからです。最愛の神父様、今こそ、自分自身を完全に捨て、自分のことをみじんも考えないときです。あの栄光ある働き手たちも、そうしました。彼らは、あれほどの愛と望みをもって自分の命をささげる覚悟をし、血と、へりくだった絶え間ない祈りと、死に至るまでの忍耐とをもって、この庭を潤したのです。あなたの臆する姿をわたしに見せることのないよう、心してください。ご自分の影を恐れず、勇ましい戦士となり、教皇があなたに負わせた従順のくびきを決して捨てないでください。また、修道会の中では、神の誉れになると認められることを行ってください。神の大いなる慈しみが、わたしたちにそれを求めておられ、神がわたしたちをお立てになったのも、ただそのためなのです。
聖なる教会がどれほどの窮状にあるかを見てください。教会はまったく独りきりにされているではありませんか。別の手紙にも書いているとおり、真理である方が、そのようにお示しになりました。そして、花嫁が独りにされたように、その花婿も独りにされています。ああ、いとも優しい神父様、わたしは神の偉大な神秘について、あなたに黙っていることはしません。この弱い舌が語り表すことのできる限り、できるだけ簡潔にお伝えします。さらに、あなたにしていただきたいことも申し上げます。けれども、わたしの申し上げることを、心を痛めずに受け止めてください。神の慈しみがわたしをどうなさるのか、ここにとどまらせてくださるのか、それともご自身のもとへお呼びになるのか、わたしには分からないからです。
神父様、わが父、そしてこの上なく愛しい息子よ、割礼の祝日から今に至るまで、神は驚くべき神秘を行われました。それは、どのような言葉をもってしても語り尽くせないほどです。しかし、その間のことはすべて飛ばして、六旬節の主日のことに移りましょう。その日に起こった神秘を、今こうして手短に書き送りますので、お聞きください。わたしはかつて、このようなことに耐えた覚えがありません。心の痛みがあまりに激しく、身に着けていた衣の、両手でつかめるだけの部分が裂けてしまいました。そして、けいれんを起こした人のように、礼拝堂の中をぐるぐると動き回りました。わたしを捕らえていた方は、確かにわたしの命を取り去ってしまわれたのでした。やがて月曜日になり、その夕方、わたしは地上のキリストと三人の枢機卿に手紙を書かずにはいられなくなりました。そこで人の助けを借り、書斎へ行きました。地上のキリストに宛てて書き終えると、体の痛みがあまりにも増していたため、それ以上はどうしても書くことができませんでした。しばらく待っていると、悪霊どもによる恐怖が始まり、わたしはまったく打ちのめされてしまいました。悪霊どもは、虫けらにすぎないこのわたしが、彼らが聖なる教会の中で長い間手にしていたものを奪う手だてとなったかのように、わたしに怒り狂っていました。体の痛みとともに、その恐怖はあまりにも激しく、わたしは書斎から逃げ出して礼拝堂へ行きたくなりました。まるで書斎が痛みの原因ででもあるかのようでした。そこで立ち上がりましたが、歩くことができず、わが息子バルドゥッチョに寄りかかりました。ところが突然、わたしは投げ倒されました。そこに横たわっていると、魂が体から離れたように思われました。しかし、それは実際に魂が体から離れたときと同じではありませんでした。あのとき、わたしの魂は不死なる者たちの幸いを味わい、彼らとともに、かの至高の善を受けていたからです。けれども今回は特別な場合のように思われました。自分が体の中にいるとは思えず、自分の体を、まるで他人の体のように見ていたのです。わたしの魂は、そばにいた人の悲しみを見て、その人に「息子よ、恐れてはいけません」と言うために、自分に体を動かす力が少しでもあるかどうかを知りたいと思いました。しかし、まったく死んだ体と同じように、舌も体のどの部分も動かせないことが分かりました。そこで体はそのままにしておきました。そして知性は、三位一体の深淵に注がれていました。記憶は、聖なる教会とすべてのキリスト者が必要としていることへの思いで満たされていました。わたしは神のみ前で泣き、確信をもって神の助けを求めました。自分の願いを神にささげ、小羊の血と、耐え忍ばれた苦しみとによって、神に強く迫ったのです。その願いはあまりにも切実であったので、神がこの嘆願を退けられることはないと、わたしには確かに思われました。次に、あなたがたほかの皆のために願い、皆のうちに神のみ旨とわたしの願いを実現してくださるよう祈りました。それから、わたしを永遠の断罪から救ってくださるよう願いました。こうして非常に長い間とどまっていたので、家族の者たちは、わたしが死んだものとして嘆いていましたが、そのときには悪霊どもによる恐怖はすべて消え去っていました。すると、へりくだった小羊がわたしの魂の前に現れ、こう言われました。「恐れるな。わたしはおまえの願いと、わたしのほかのしもべたちの願いをかなえるからである。わたしが、おのれの望むままに器を壊し、また造り直す陶工のような、善い主人であることを、おまえに分からせたい。わたしは、自分のものであるこれらの器を、どのように壊し、どのように造り直せばよいかを知っている。それゆえ、わたしはおまえの体という器を取り、聖なる教会の園で、これまでとは異なる仕方で造り直すのである。」そして、この真理である方が、ここでは省きますが、この上なく心を引きつける仕草と言葉でわたしを抱き寄せておられると、体がかすかに息をし始め、魂がその器に戻ったしるしを見せました。わたしは驚きでいっぱいになりました。そして心には、それほどの痛みが残り、今もなお、その痛みを抱えています。そのとき、あらゆる喜びも、あらゆる慰めも、あらゆる食物も、わたしから取り去られました。その後、上の場所へ運ばれると、部屋は悪魔どもで満ちているように見えました。彼らはまた別の戦いを仕掛け始めました。それは、それまでに経験した中で最も恐ろしい戦いでした。彼らは、わたしがこの体の中にいる者ではなく、汚れた霊なのだと、信じ込ませ、そう思わせようとしたのです。わたしは、優しく心を込めて神の助けを呼び求め、どのような苦労も拒むことなく、それでもこう言いました。「神よ、わたしの助けを求める声をお聞きください。主よ、急いでわたしをお助けください。あなたは、この戦いでわたしが、魂の父からの慰めもなく、独りになることをお許しになりました。わたしは自分の恩知らずのために、その父を奪われているのです。」
この嵐のうちに、二晩と二日が過ぎました。確かに、精神と望みは休むことなく、その対象に絶えず向けられていましたが、体はもはや力尽きたかのようでした。その後、聖母マリアの清めの祝日に、わたしはミサにあずかりたいと望みました。そのとき、すべての神秘が新たにされ、神は、後に明らかになったように、どれほど大きな必要があるかをお示しになりました。というのも、ローマ全体が反乱の瀬戸際にあり、恥ずべき陰口と、はなはだしい不敬に満ちていたからです。ただ、神が人々の心に油を注いでくださったので、事はよい結末を迎えるだろうと思います。そのとき神は、わたしに次の従順をお命じになりました。この聖なる四旬節の間ずっと、一家の皆の望みをいけにえとしてささげ、ただ一つの意向、すなわち聖なる教会のためという意向だけで、神の御前でミサをささげてもらい、わたし自身も毎朝、夜明けにミサにあずかるようにとのことでした。ご存じのとおり、それはわたしには不可能なことですが、神に従うことによって、すべてが可能になりました。そしてこの望みは、これほどまでにわたしの身の一部となり、記憶はほかの何ものもとどめず、知性はほかの何ものも見ることができず、意志はほかの何ものも望むことができなくなりました。だからといって、そのために魂がこの地上の事柄から離れるというのではありません。むしろ、真の市民たちと語り合いながらも、魂は彼らの喜びを喜ぶことができず、またそうしようともせず、彼らが今なお感じている飢え、そしてこの世で旅人、巡礼者であったときにも感じていた飢えを喜ぶのです。
このようにして、また語り尽くせない多くの仕方で、わたしの命はこの愛しい花嫁のために燃え尽き、注ぎ出されてゆきます。わたしはこの道によって、栄光ある殉教者たちは血によってそうするのです。わたしは、神がその善良さによって、ご自分の民の贖いを早く見せてくださるよう祈っています。第三時課の時刻になると、わたしはミサから立ち上がります。するとあなたは、死んだも同然の女が聖ペトロ大聖堂へ向かう姿を見ることでしょう。そしてわたしは、聖なる教会という船の中で働くため、再び中に入ります。そこで晩の祈りの時刻近くまで、そのようにしてとどまります。そして、この民がその父との平和のうちに、少なくとも少しはしっかりと落ち着いた姿を見るまでは、昼も夜もここを離れたくありません。このわたしの体は何の食べ物も取らず、一滴の水さえ口にしないままです。これまで一度も耐えたことのないほど甘美な肉体の苦しみのうちにあり、命は一本の糸にかかっているようです。今、神がその善良さによってわたしをどうなさるのか、わたしには分かりません。内なる思いについて言えば、このことに関する神のみ旨が分かるとは申せません。しかし、体の感覚からすると、今度こそ、魂の甘美さのうちに新たな殉教をもって、それらを確証することになるように思われます。すなわち、聖なる教会のためにです。その後、もしかすると、神はわたしをご自分と共に再び立ち上がらせてくださるかもしれません。そうして、わたしの惨めさと、十字架につけられたわたしの望みに終わりをもたらしてくださるでしょう。あるいは、いつもの仕方でわたしの体を強めてくださるかもしれません。わたしは神のいつくしみに願ってきましたし、今も願っています。み旨がわたしのうちに実現し、あなたもほかの人々も、みなしごとして残されることがありませんようにと。しかし、神が真実でこの上なく完全な光をもって、真理の教えの道において、いつもあなたを導いてくださいますように。神がそうしてくださることを、わたしは確信しています。
今、あの優しい母マリアから与えられた父であり子であるあなたに、切に願い、強くお願いします。もし神がいつくしみのまなざしをわたしに向けてくださっているなら、神はあなたの生き方を新たにしようと望んでおられるのだと受け止めてください。そして、肉のあらゆる衝動に対して死んだ者として、聖なる教会という船に身を投じてください。また、人との語らいでは、いつも思慮深くあってください。実際の小部屋にこもることはあまりできないでしょうが、心の小部屋はいつも保ち、どこへ行くにも携えていてほしいのです。ご存じのとおり、その中に閉じこもっているかぎり、敵はわたしたちに害を及ぼすことができません。そうすれば、あなたの行うすべてのことが神に導かれ、整えられるでしょう。また、聖なる真の賢明さによって心を成熟させてくださるようお願いします。そして、決して世の習わしに倣わないことによって、あなたの生き方が世の人々の模範となりますように。これまで常に実践してこられた、貧しい人々への寛大さと自発的な清貧が、真の完全な謙遜によって、あなたのうちに新たにされ、生き生きとしたものになりますように。神がどのような地位や栄誉をお与えになっても、これらをおろそかにせず、十字架の食卓を喜びながら、謙遜の谷へといっそう深く下ってください。そこで、魂の糧を受けてください。母である、謙遜で忠実なたゆみない祈りと、聖なる徹夜の祈りを抱きしめ、特別な理由がないかぎり、毎日ミサをささげてください。無益で軽はずみな話を避け、言葉においても、あらゆる振る舞いにおいても、成熟した者であり、またそのような者として身を示してください。自分への甘さと、奴隷のような恐れをすべて捨て去ってください。愛すべき教会が必要としているのは、そのような人々ではなく、自分には厳しく、教会にはあわれみ深い人々だからです。以上のことを、心を尽くして守ってくださるようお願いします。また、あなたとバルトロメオ修道士、トンマーゾ修道士、そして師が、あの本と、見つかるかぎりのわたしの書き物を手元に集め、神の誉れに最もかなうと思われるように取り扱ってくださるようお願いします。あなたもトンマーゾ殿も、そうしてください。それらは、わたしがいくらかの慰めを見いだしたものです。また、できるかぎり、この家族にとって、父として牧者となり、導き手となってくださるようお願いします。愛の喜びと完全な一致のうちに彼らを保ち、牧者のいない羊のように散り散りにならないようにしてください。わたしは、生きている間よりも、死んだ後のほうが、彼らとあなたのために、もっと多くのことができると思っています。永遠の真理である方が、わたしの魂に与えてくださったであろう恵みと賜物の豊かさを、余すところなくあなたがたにも注いでくださるよう、祈ります。あなたがたが燭台に置かれたともし火となるためです。永遠の花婿が、わたしに命じられたことを勇敢に果たさせてくださり、わたしの数多くの不義を赦してくださるよう、祈ってください。また、あなたに示し、あるいはあなたに対して犯した、あらゆる不従順、無礼、恩知らずな行いと、わたしが与えてしまったかもしれないすべての苦痛と苦しみを、どうかお赦しください。そして、わたしたちの救いに対するわたしの熱意が乏しかったことも、お赦しください。あなたの祝福をお願いします。
十字架につけられたキリストへの愛のために、わたしのために熱心に祈り、ほかの人々にも祈ってもらってください。苦い言葉を書き送ったことをお赦しください。けれども、あなたを苦しませるために書いたのではありません。わたしは確信が持てず、善そのものである神がわたしをどうなさるのか分からないからです。自分の務めを果たしておきたいのです。また、わたしたちが肉体において互いに離れていることを、悲しまないでください。あなたがそばにいてくだされば、わたしにとってこの上ない慰めとなったでしょう。それでも、あなたが聖なる教会のうちで結んでおられる実りを見ることは、わたしにとってそれにもまさる慰めであり、喜びです。ですから今、なおいっそう熱心に働いてくださるようお願いします。教会は、これほど大きな助けを必要としたことが、かつてなかったからです。また、どのような迫害を受けても、わたしたちの主である教皇の許可なしに、決してその場を離れないでください。優しいイエス・キリストのうちに、何の苦々しさもなく、慰めを得てください。これ以上は申し上げません。神の聖なる甘美な恵みのうちにとどまってください。優しいイエス、愛であるイエス。 ページの先頭へ
