シスター・テレーズから姉セリーヌへの手紙
I
J.M.J.T.
1888年5月8日。
最愛のセリーヌ姉さんへ。自分は本当にカルメル会の修道院にいるのだろうかと思うことがあります。時には、とても信じられないほどです。こんなにもたくさんの恵みを注いでくださるなんて、私は神のために何をしたというのでしょう。
私たちが別れてから、まるひと月がたちました。でも、どうして「別れた」などと言うのでしょう。たとえ広い海が私たちを隔てていても、私たちの魂は一つのままです。それでも、私がそばにいないことが姉さんにとって本当の苦しみであるのは分かっています。自分の気持ちに従うなら、姉さんに代わってその悲しみを担わせてくださいと、イエスにお願いするでしょう。でも、ご覧のとおり、そうはしていません。よりよいほう、つまり苦しみを自分のために望むのは、利己的ではないかと恐れるからです。姉さんの言うとおり、人生はしばしば重荷となり、苦いものです。労苦に満ちた一日を始めるのはつらいことです。とりわけ、イエスが私たちの愛からご自分を隠しておられるときには。この優しい友は、いったい何をしておられるのでしょう。私たちの苦悩や、私たちを押しつぶす重荷をご覧になっていないのでしょうか。なぜ来て、慰めてくださらないのでしょう。
恐れないでください……イエスはすぐそばにおられます。見守っておられ、この痛みを、この涙を私たちに求めておられるのは、ほかならぬイエスなのです……イエスは人々の魂のために、私たちの魂のために、それらを必要とし、私たちにすばらしい報いを与えたいと切に望んでおられます。確かに、私たちを苦しみで満たすことは、イエスにとっても大きな痛みなのです。それでも、それこそが、イエスがご自分を知っておられるように私たちもイエスを知り、私たち自身も神的な者となるための、唯一の備えの道だとご存じなのです。私たちの魂はまことに偉大で、その行く末は栄光に満ちています。過ぎ去るすべてのものを超えて高く上り、地上から遠く離れていましょう。高いところでは、空気がなんと澄んでいることでしょう……イエスはご自分を隠されるかもしれませんが、私たちは、そこにおられることを知っています。
II
1888年10月20日。
最愛の姉さんへ。自分の弱さのために悲しまないでください。朝、徳を実践する勇気も力も感じられないとき、それは実は恵みなのです。そのときこそ、ただイエスだけに頼って、「木の根元に斧を置く」[1]ときです。たとえ倒れても、愛の行い一つですべては正され、イエスはほほえんでくださいます。イエスは、助けているとは見えないようにして私たちを助けてくださいます。そして、罪人たちのために流される涙は、私たちの貧しく弱い愛によってぬぐわれるのです。愛には何でもできます。どんなに不可能に思える務めも、愛にとってはたやすく、喜ばしいものに思えます。主がご覧になるのは、私たちの行いの偉大さでも、難しさでさえもなく、むしろ、その行いをどれほどの愛をもってするかであることを、姉さんはよく知っています。それなら、私たちに何を恐れることがあるでしょう。
姉さんは聖人になりたいと望み、それは望みが高すぎるのではないかと私に尋ねています。セリーヌ、私は、特別に恵まれた魂たちの熾天使のような聖性を目指すようにとは言いません。それよりも、「天の父が完全であるように、完全な者」[2]となるようにと言います。姉さんの夢が、私たちの夢も願いも、空想ではないことが分かりますね。イエスご自身が、それを実現することを掟として私たちにお命じになったのですから。
III
1889年1月。
愛する小さなセリーヌへ。イエスは姉さんに十字架を、とても重い十字架を差し出しておられます。そして姉さんは、くずおれることなくそれを担えるだろうかと恐れているのですね。なぜでしょう。私たちの愛する方ご自身、カルワリオへの道で三度倒れられました。それなら、私たちも花婿に倣ってよいのではないでしょうか。これはイエスからのなんという恵みでしょう。これほど大きな悲しみをお与えになるとは、どれほど私たちを愛しておられることでしょう。この恵みのためにイエスをたたえるには、永遠でさえ足りません。イエスは、最も偉大な聖人たちに対するように、私たちに恵みを幾重にも注いでくださいます。それでは、私たちの魂に対して、どのような愛の計画をお持ちなのでしょう。それは、天の故郷で、「主が私たちの涙をことごとくぬぐってくださる」[3]日に初めて明かされる秘密です。
今や私たちには、地上で望むものはもう何もありません。「涼しい夕べは過ぎ去り」[4]、私たちには苦しみだけが残されています。私たちに与えられた境遇はうらやましいもので、天の熾天使たちも私たちの幸せをねたんでいます。
先日、心に深く響くこの一節に出会いました。「神のみ旨を甘受することと、神のみ旨に一致することとは同じではありません。その二つの間には、結びつきと一体であることとの間にあるのと同じ違いがあります。結びつきにおいては、なお二つのものがありますが、一体であるときには、ただ一つしかありません。」[5]そうです、この世にいる今から、神と一つになりましょう。そのためには、ただ甘受するだけにとどまらず、喜びをもって十字架を抱きしめるべきなのです。
IV
1889年2月28日。
愛する小さな姉さんへ。イエスは「血の花婿」[6]です。私たちの心の血を、一滴残らずご自分のために望んでおられます。姉さんの言うとおり、イエスが求めておられるものをおささげするには、大きな犠牲を伴います。でも、犠牲を伴うということは、なんという喜びでしょう。自分たちの十字架を担い、その中で自分の弱さを感じることは、幸せなのです。
セリーヌ、主が私たちにお与えになるこの十字架について、私は主に不平を言うどころか、このように私たちをお扱いになる、その限りない愛を測り知ることができずにいます。大切なお父さまが、これほど多くの苦しみを与えられるとは、神にどれほど愛されていることでしょう。聖人となるには、辱めを受けるほかに道はないことを、私は知っています。また、私たちの試練は、私たちが生かすべき金鉱であることも知っています。小さな砂粒にすぎない私は、勇気も力もありませんが、働き始めたいと願っています。そして、この力のなさこそが、私の務めをよりたやすくしてくれるでしょう。私は愛のために働きたいのですから。私たちの殉教が始まろうとしています……愛する姉さん、共に苦しむために歩み出しましょう。そして、人々の魂の救いのために、私たちの苦しみをイエスにおささげしましょう。
V
1899年3月12日。
……わたしはこの世を忘れなければなりません。ここでは何もかもがわたしを疲れさせます。見いだせる喜びはただ一つ、苦しむ喜びだけです。そして、感覚によるものではないこの喜びは、あらゆる喜びにまさります。人生は過ぎ去り、永遠が近づいています。まもなく、わたしたちは神ご自身のいのちを生きるようになるでしょう。あらゆる苦さの源で存分に飲んだ後、あらゆる甘美さの泉そのもので、わたしたちの渇きはいやされるのです。
「この世の有様は過ぎ去ります」[7]。まもなく、わたしたちは新しい空を見るでしょう。いっそう輝く太陽が、その光で水晶のような海と果てしない水平線を照らすでしょう。わたしたちはもはや流浪の地の囚人ではなくなり、すべては過ぎ去り、天の花婿とともに果てしない海を渡るでしょう。今は、「わたしたちの竪琴は、バビロンの川のほとりに生える柳に掛けられています」[8]。けれども解放の日には、その竪琴はどれほどすばらしい調べを奏でることでしょう。わたしたちはどれほど喜ばしく、その弦をことごとく響かせることでしょう。今は、「シオンを思い起こして涙を流します。どうして流浪の地で主の歌を歌うことができるでしょうか」[9]。わたしたちの歌の主題は苦しみです。イエスは、深い苦さに満ちた杯をわたしたちに差し出しておられます。その杯から唇を離すことなく、平和のうちに苦しみましょう。平和 という言葉は 喜び、 少なくとも感覚的な喜びを意味するものではありません。平和のうちに苦しむためには、主がお望みになるすべてを心から望むだけでよいのです。苦しみなしに愛を見いだせると思ってはなりません。わたしたちの本性はそのまま残っており、それを考慮しなければならないからです。けれども苦しみは、大きな宝をわたしたちの手の届くところに置いてくれます。苦しみこそ、まことにわたしたちの生きる糧です。それはあまりにも貴いので、イエスはそれを得るためにこそ、地上に降って来られたのです。わたしたちは、惜しみなく気高く苦しみたいと願います。決して倒れたくないと願います。なんという思い違いでしょう。たとえ刻一刻と倒れたとしても、それがわたしにとって何だというのでしょう。そうすることで自分の弱さを悟り、それによって得るものがあるのです。わたしの神よ、あなたに抱かれているときでさえ、わたしがどれほど役に立たないかを、あなたはご覧になります。そして、もしわたしを一人にしておかれるなら、それは、わたしが地面に横たわる姿をご覧になることをお望みだからなのです。それなら、なぜ思い煩う必要があるでしょうか。
自分に満足できないという試練を、進んで平和のうちに耐え忍ぶなら、あなたは神である師のために、自分の心の中に住まいをおささげすることになります。確かに、あなたは苦しむでしょう。自分の家にいながら、よそ者のようになるからです。けれども、恐れないでください。あなたが貧しければ貧しいほど、イエスはいっそうあなたを愛してくださいます。花を敷き詰めた道を真昼の光の中で歩むあなたよりも、石だらけの道で夜の闇につまずくあなたをご覧になるほうが、イエスはお喜びになると、わたしは知っています。その花々が、あなたの前進を妨げるかもしれないからです。
VI
1889年7月14日。
大切なお姉さま、わたしはいつも心のうちであなたとともにいます。そうです、この地上で生きるのは本当に大変なことです。けれども明日、ほんのしばらくの後には、わたしたちは安らぎのうちにいるでしょう。ああ、わたしの神よ、そのとき、わたしたちは何を見るのでしょう。終わりのないこのいのちとは、どのようなものなのでしょう。主は、わたしたちの魂の魂となられます。ああ、計り知れない神秘です。「神がご自分を愛する者たちのために備えてくださったことは、目が見たことも、耳が聞いたこともなく、人の心に思い浮かんだこともありません。」[10] そして、わたしたちがイエスを熱烈に愛するなら、このすべてがまもなく、本当にまもなく実現するのです。一つの魂のうちに愛のわざを完成なさるのに、神は何年もの歳月を必要とはなさらないように思えます。そのみ心からの一筋の光は、一瞬のうちにご自分の花を咲かせ、二度としおれないものにすることができるのです。……セリーヌ、わたしたちに残された、たちまち過ぎ去るひとときの間に、魂を救いましょう。わたしたちの花婿は、魂を、とりわけ司祭たちの魂を、わたしたちに求めておられると感じます。……このことをあなたに伝えるよう、わたしにお命じになるのは、ほかならぬあの方なのです。
この地上でなすべきことは、ただ一つです。イエスを愛し、イエスがいっそう愛されるように、イエスのために魂を救うことです。どんなに小さくても、イエスに喜びをおささげする機会を逃してはなりません。イエスに何一つ拒んではなりません。イエスは、それほどまでに愛を必要としておられるのです。
わたしたちは、イエスがお選びになった百合です。イエスは王としてわたしたちのただ中に住まわれ、ご自分の王としての栄誉にわたしたちをあずからせてくださいます。その尊い御血は露となってわたしたちの花びらを潤し、その茨はわたしたちを傷つけながら、わたしたちの愛の香りをあたりに広げるのです。
VII
1889年10月22日。
最愛のセリーヌ、聖なるみ顔のご絵を送ります。この神聖な主題を観想することは、わたしの小さな妹、まことにわたしの魂の妹に、とりわけふさわしいように思えます。彼女がもう一人のベロニカとなり、自分の唯一の愛であるイエスの血と涙をすべてぬぐうことができますように。イエスに魂をおささげすることができますように。兵士たち、すなわち世間のただ中をかき分けて、イエスのおそばに近づくことができますように。……天の花婿の渇きをいやしたあの神秘に満ちた飲み物の価値を、天国で知るとき、彼女はどれほど幸せなことでしょう。かつて燃えるような渇きに乾いていたその唇が、ただ一つの永遠の言葉、愛を語り、終わることのない感謝を自分に伝えてくださるのを見るとき、どれほど幸せなことでしょう。……
さようなら、愛する小さなベロニカ。[11] 明日、きっとあなたの愛する方は、新たないけにえを、ご自分の渇きを新たにいやすものを、お求めになるでしょう。……けれども、「わたしたちも行って、あの方とともに死にましょう」。
VIII
1890年7月18日。
愛する小さな妹よ、あなたの慰めとなるイザヤ書の一節を送ります。遠い昔、この預言者の魂は、今のわたしたちの魂と同じように、神の聖なるみ顔に秘められた美しさへの思いに満たされていました。それから幾世紀もの時が過ぎました。そのことを思うと、時とは何なのだろうと不思議になります。時は、はかない幻、夢にすぎません。神はすでに、栄光のうちにいるわたしたちをご覧になり、わたしたちの永遠の至福を喜んでおられます。この思いは、わたしにどれほど大きな益をもたらしてくれることでしょう。今では、神がなぜわたしたちの苦しみをお許しになるのかが分かります。
わたしたちの愛するお方が「ただひとりで酒ぶねを踏まれた」[12]のですから、そしてその酒ぶねからわたしたちに飲ませてくださるのですから、わたしたちも、血に染まった衣をまとうことや、イエスの渇きを癒やす新しいぶどう酒を踏み搾ることを拒まないようにしましょう。「周りを見回される」とき、もはや「わたしはひとりだ」[13]とはおっしゃれないでしょう。わたしたちがそこにいて、お助けするのですから。
「そのお顔は、いわば隠されていました。」[14] ああ、今日に至るまでそのとおりであり、だれもその涙を理解していません。「わたしの妹、わたしの花嫁よ、開けておくれ」と、主はわたしたちにおっしゃいます。「わたしの頭は露に、髪は夜のしずくにぬれているのだから。」[15] 見捨てられ、忘れられるとき、イエスはこのようにわたしたちの魂に嘆きを訴えられます…… 忘れられること。 これこそが、イエスに最も深い苦しみを与えるのだと思います。
そして、わたしたちの愛するお父さまのこと! 胸が張り裂けそうです。けれども、主ご自身が「神に打たれ、苦しめられた者」[16]と見なされたのですから、どうしてわたしたちが不平を言えるでしょうか。この大きな悲しみの中で、わたしたちは自分を忘れ、司祭たちのために祈らなければなりません。わたしたちの生涯は、すべて司祭たちのためにささげられなければなりません。神であるわたしたちの師は、あなたとわたしに求めておられるのはこのことなのだと、ますます深く感じさせてくださいます。
IX
1890年9月23日。
ああ、セリーヌ、わたしの内で起きていることを、どうしたらすべてあなたに伝えられるでしょう。わたしは何と深い傷を受けたことでしょう! それでも、この傷を与えたのは愛に満ちた御手、神としてのねたむほどの愛をもつ御手なのだと感じています。
わたしの婚礼の支度はすべて整っていました。[17] けれども、その祝いにはまだ何かが欠けていたと思いませんか。確かに、イエスはすでにたくさんの宝石でわたしを飾ってくださっていましたが、きっと、比べようもなく美しい宝石が一つ、まだ足りなかったのでしょう。そのかけがえのないダイヤモンドを、今日、与えてくださったのです……明日、パパはここに来られません! セリーヌ、打ち明けますが、わたしは激しく泣きました……今もまだ泣いていて、ペンを持つのがやっとです。
わたしがどれほど強く、最愛のお父さまにもう一度会いたいと願っていたか、あなたは知っていますね。けれども今は、お父さまがわたしの祝いに出席なさらないことが、神のみ旨なのだと感じています。神がこれをお許しになったのは、ただわたしたちの愛を試すためです。イエスは、わたしが孤児となり……ただひとり、イエスだけと共にいることを望んでおられます。ご自分を、いっそう親しくわたしと結び合わせるためです。また、わたしが願うのもまったく正当でありながら、この地上ではお与えにならなかったこの喜びを、天国で返してくださることも望んでおられるのです。
今日の試練は、理解しがたい悲しみの一つです。わたしたちの前には、ごく自然で、たやすく手に入る喜びが置かれていました。わたしたちは手を伸ばしました……すると、待ち望んでいたその喜びは取り去られたのです。けれども、これをなさったのは人間の手ではありません。神のみ業なのです。セリーヌ、あなたのテレーズの心を分かってください。そして、差し出されたこのとげを、喜んで受け入れましょう。明日の祝いは涙の祝いとなるでしょう。けれども、イエスは大いに慰められると感じています……。
X
1890年10月14日。
最愛の姉妹へ。あなたが苦しんでいることは、すべてよく分かっています。あなたの苦悩を知り、わたしもそれを共にしています。ああ、この上なく苦い涙のただ中で、イエスがわたしの魂に与えてくださった平和を、あなたに分け与えることができたなら。心を安らかにしてください。すべては過ぎ去ります。昨日のわたしたちの命は、もう過ぎ去りました。死もまた訪れては過ぎ去り、その後わたしたちは、数えきれない世々にわたり、とこしえに、命を、まことの命を喜ぶのです。それまでの間、わたしたちの心を、優しい救い主が訪れて憩うことのできる喜びの園にしましょう。そこにはゆりだけを植え、十字架の聖ヨハネと共に歌いましょう。
「そこでわたしは深い忘却のうちにとどまり、愛するお方に頭をもたせ、自分もすべても忘れました。わたしは思い煩いを投げ捨て、もはや顧みることなく、ゆりの間に横たわるままにしました。」[18]
XI
1891年4月26日。
愛する小さな妹へ。三年前、わたしたちの心はまだ傷ついておらず、人生は喜びに満ちたほほえみそのものでした。そのときイエスがわたしたちに目を注がれ、すべては涙の大海に変わりました……けれども同時に、恵みと愛の大海にも変わったのです。神は、わたしたちがあれほど深く愛していた人を、わたしたちからお取りになりました。それは、わたしたちがこれまで以上に真実を込めて、「天におられるわたしたちの父よ」と言えるようになるためではなかったでしょうか。この神聖な言葉は、何という慰めでしょう。そして、何と広大な地平をわたしたちの前に開いてくれることでしょう!
最愛のセリーヌ、幼いころ、あなたはわたしにあれほどたくさんの質問をしたのに、「どうして神さまはわたしを天使にお造りにならなかったの」と、一度も尋ねなかったのはなぜでしょうね。では、わたしがお話ししましょう。主は、天にお持ちであるように、この地上にもご自分の宮廷を持つことを望んでおられます。天使のような殉教者たち、天使のような使徒たちを望んでおられるのです。そして、あなたを天の天使にお造りにならなかったのは、ご自分への愛のために苦しむことができるよう、あなたが地上の天使となることを望んでおられるからです。
最愛の姉妹よ、影は間もなく消え去り、永遠の太陽の光が冬の白い霜を溶かすでしょう……もう少しすれば、わたしたちは真の故郷にいるでしょう。そして、幼いころの喜び、あの日曜日の夕べ、あの心を打ち明け合ったひとときが、永遠にわたしたちに返されるのです!
XII
1892年8月15日。
愛する小さな妹へ。今日あなたに手紙を書くために、主のための時間を少しだけ拝借しなければなりません。これから二人でお話しするのは主のことですから、主はおゆるしくださるでしょう。あなたの目の前に広がる、人けのない広大な土地や魅惑的な眺めは、きっとあなたの魂を高めてくれることでしょう。わたしにはそれらを見ることはできませんが、十字架の聖ヨハネが『霊の賛歌』で歌っている言葉を、共に口にすることで満ち足りています。
キリストのうちに、わたしは山々を、木々に覆われた静かな谷々を持っています。
このところ、霊魂の救いのために何ができるだろうかと考えていましたが、福音のこの素朴な言葉が光を与えてくれました。イエスはあるとき、実り豊かな麦畑を指して弟子たちに言われました。「目を上げて畑を見なさい。もう刈り入れを待って白くなっている」。[19] また、こうも言われました。「収穫は確かに多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、働き手を送ってくださるよう願いなさい」。[20]
ここにこそ、まことに神秘があります! イエスは全能ではないのでしょうか。被造物は、それを造られた方のものではないのでしょうか。それなのに、なぜわざわざ「収穫の主に、働き手を送ってくださるよう願いなさい」とおっしゃるのでしょう。それは、わたしたちへの愛があまりにも計り知れず、あまりにも優しいので、ご自分のなさるすべてのことに、わたしたちをあずからせたいと望んでおられるからです。宇宙の創造主は、一人の貧しい小さな霊魂の祈りを待っておられます。その霊魂と同じように、ご自分の血を代価として贖われた、ほかの多くの霊魂を救うために。
わたしたちの召命は、御父の畑に出て行って刈り入れをすることではありません。イエスはわたしたちに、「下を見て、収穫を刈り入れなさい」とはおっしゃいません。わたしたちの使命は、さらに崇高なものです。神である師はおっしゃいます。「目を上げて、見なさい。天に空いた玉座があるのを見なさい。それを満たすのは、あなたたちです……。あなたたちは、山の上で祈るモーセのような者です。だから、わたしに働き手を願い求めなさい。そうすれば、働き手は遣わされます。わたしはただ一つの祈り、一つのため息を待っているのです! 祈りによる使徒職は、いわば、言葉による使徒職よりも高いものではないでしょうか。祈りによって働き手を育てること、それがわたしたちの務めです。その人たちは福音の喜ばしい知らせを広め、数えきれないほどの霊魂を救うでしょう。そして、わたしたちはそれらの霊魂の霊的な母となるのです。そうであれば、主の司祭たちの何をうらやむことがあるでしょうか。
XIII
最愛の姉へ――幼いころのわたしたちの愛情は、思いも心もこの上なく深く結ばれる一致へと変わりました。イエスは、わたしたちを一緒にご自分のもとへ引き寄せてくださいました。あなたはもう、イエスのものではありませんか。イエスは世をわたしたちの足の下に置いてくださいました。わたしたちはザアカイのように、イエスを仰ぎ見るため木に登りました。それは、わたしたちをあらゆるものよりも高く引き上げてくれる、不思議な木です。そこから、こう言うことができます。「すべてはわたしのもの、すべてはわたしのためにあります。地も天もわたしのもの、神ご自身もわたしのもの、そして、わたしの神の御母もわたしのためにおられます」。[21]
その祝福された御母のことを話したついでに、わたしの素朴な習慣を一つお伝えしなければなりません。ときどき、御母にこんなふうに申し上げている自分に気づきます。「いとしいお母さま、わたしはあなたよりも幸せなように思えます。わたしには母としてあなたがいらっしゃいますが、あなたには、愛することのできる聖母がいらっしゃいませんから……。確かに、あなたはイエスの御母ですが、そのイエスをわたしにくださいました。そしてイエスは十字架の上から、あなたをわたしたちの母として与えてくださいました。ですから、わたしたちはあなたよりも豊かなのです! ずっと昔、あなたは謙遜な心で、神の御母の小さなはしためになりたいと願っておられました。それなのに、貧しい小さな被造物であるわたしは、あなたのはしためではなく、あなたの子なのです! あなたはイエスの御母であり、また、 わたしの母でもあるのです!」
いとしいセリーヌ、イエスにおけるわたしたちの偉大さは、本当に驚くべきものです。イエスは、先ほどお話しした神秘的な木にわたしたちを登らせることによって、多くの神秘を明らかにしてくださいました。では今、どのような知識を教えようとしておられるのでしょうか。わたしたちはすでに、すべてをイエスから学んだのではないでしょうか。
「急いで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まらなければならない」。[22] イエスはわたしたちに、降りて来るようにとお命じになります。では、どこへ行かなければならないのでしょうか。ユダヤ人たちはイエスに尋ねました。「先生、どこにお泊まりですか」。[23] するとイエスは答えられました。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。[24] わたしたちがイエスの住まいとなるためには、ここまで降りて行かなければなりません。つまり、枕する所さえないほど貧しくならなければならないのです。
この光の恵みは、黙想会の間に与えられました。主は、わたしたちが心のうちにご自分を迎え入れることを望んでおられます。そして、わたしたちの心には、きっと被造物への執着はないのでしょう。けれども、悲しいことに、わたしの心にはまだ自分への執着が残っています。だからこそ、イエスはわたしに降りて来るようお命じになるのです。わたしは地面にまで降りて行きましょう。イエスがわたしの心のうちに、その聖なる頭を休める場所を見いだし、少なくともそこでは愛され、理解されていると感じてくださるために。
XIV
1893年4月25日。
わたしの小さなセリーヌへ――あなたの霊魂についてイエスが望んでおられることを、お伝えしに来なければなりません。イエスは、「わたしは庭園の花、丹念に手入れされたばらである」とはおっしゃらず、「わたしは野の花、谷間のユリである」と言われたことを忘れないでください。[25] ですから、あなたはいつも、この美しい谷間のユリの奥に隠れた、一滴の露のようでなければなりません。
一滴の露――これほど素朴なもの、これほど清らかなものがあるでしょうか。それは雲の子ではありません。星空の下に生まれ、ただ一夜だけ生きるのです。太陽が燃えるような光を放つと、草の葉一枚一枚を飾っていた繊細な真珠は、たちまちこの上なく軽やかな水蒸気へと変わります……。ここに、わたしの小さなセリーヌの姿があります! セリーヌは一滴の露、まことの故郷である天から生まれた子です。この世の生涯という夜の間、セリーヌは 野の花 の黄金の花の杯の中に身を隠していなければなりません。その住まいは、誰の目にも見つかってはならないのです。
神だけがご存じの、幸せな露のしずくよ、この世の激しく流れる奔流のことなど考えてはなりません。牧草地を縫って流れる澄みきった小川さえ、うらやんではなりません。そのせせらぎは確かに心地よいものですが、被造物の耳にも聞こえます。それに、野の花は、その花の杯に小川を収めることなど決してできません。イエスに近づくには、本当に小さくならなければなりませんが、小さく、だれにも知られない者になることを望む魂は、わずかしかありません。人々はこう言い張ります。「川や小川のほうが、露のしずくよりも役に立つではありませんか。露のしずくが何の役に立つのでしょう。その役目といえば、哀れな小さな野の花を、ほんのひととき潤すことだけではありませんか。」
ああ、その人たちは、まことの野の花をほとんど知らないのです。この方を知っていたなら、主がマルタをおとがめになったわけを、もっとよく理解できるでしょう。わたしたちの愛する方は、わたしたちの華々しい行いも、美しい思いも必要となさいません。もし崇高な考えを求めておられるのなら、地上のどんな大天才をもはるかに超える知識を持つ天使たちが、おられるではありませんか。わたしたちのうちに、知性やほかの才能を求めて来られたのではありません……。この方が野の花となられたのは、素朴さをどれほど愛しておられるかを示すためなのです。
谷間のゆりが求めるのは、ただ一滴の露のしずくだけです。そのしずくは、だれの目にも触れず、一晩、その花の杯にとどまります。しかし、闇が薄れ始め、野の花が義の太陽[26]となられるとき、この方の流謫の暮らしをつつましく分かち合った露のしずくは、愛の蒸気となって、この方のもとへ昇ってゆくでしょう。この方は、ご自分の光をひとすじ、そのしずくに注がれます。そして、天の宮廷のすべての者の前で、そのしずくは、神なる太陽をまばゆく映す鏡となり、貴い真珠のように永遠に輝くでしょう。
XV
1893年8月2日。
親愛なるセリーヌへ――あなたの書いてくださったことは、わたしを喜びで満たしてくれます。あなたは王道を歩んでいるのですね。雅歌の花嫁は、憩いの時に愛する方を見いだせず、その方を捜しに町へ出てゆきました。けれども、それはむなしいことでした……その方を見いだしたのは、城壁の外に出てからだったのです。イエスが、ご自分の礼拝すべき現存をわたしたちに見いだしてほしいとお望みになるのは、甘美な憩いのうちにおいてではありません。ご自分を隠し、闇に包まれるのです。確かに、群衆に対しては、そのようにはなさいませんでした。語りかけられるやいなや、人々は皆、心を奪われたと記されているからです。
イエスは、弱い魂たちを、ご自分の神としての雄弁さで引きつけられました。それは、誘惑と試練の日に備えて、その人たちを強めるためでした。しかし、裁く者たちの前で「沈黙しておられた」[27]あの日、イエスの忠実な友はわずかでした。神である師のあの沈黙は、わたしの心にとって、なんと甘美な調べなのでしょう。
イエスは、貧しい人に施すように、ご自分に施しをしてほしいと望まれ、いわば、わたしたちの情けに身を委ねておられます。喜んで差し出されるものでなければ、何もお受け取りになりません。そして、ごくささやかなものでさえ、神であるこの方の目には貴いのです。イエスが手を差し伸べて、わずかな愛を受け取ろうとなさるのは、輝かしい裁きの日に、わたしたちに、あの言い尽くせないほど優しい言葉をかけるためです。「さあ、わたしの父に祝福された者たちよ。わたしが飢えていたとき、あなたがたは飲ませてくれ、旅人であったとき、迎え入れてくれ、病気のとき、見舞ってくれ、牢にいたとき、訪ねてくれたからです。」[28]
最愛のセリーヌ、わたしたちに与えられた境遇を喜びましょう。与え、さらに与え、王のように惜しみなく与えましょう。わたしたちの愛する方は、隠された宝であり、その見いだし方を知る魂はわずかしかいないことを、決して忘れずにいましょう。さて、隠されているものを見つけるには、わたしたちもその隠れ場所に身を隠さなければなりません。ですから、隠れた生活を送りましょう。『キリストにならいて』の著者は、こう語っています。
「真に役立つことを知り、学びたいと望むなら、だれにも知られず、取るに足りない者とみなされることを愛しなさい……[29] すべてを捨てた人は、自分自身をも捨てなければなりません……[30] ある人がこれを誇り、別の人があれを誇るとしても、あなたは、これもあれも喜びとせず、自分自身を軽んじることを喜びとしなさい。」[31]
XVI
親愛なるセリーヌへ――わたしの手紙があなたのためになっていると言ってくださいますね。本当にうれしく思います。でも、これだけは確かに言えます。わたしは少しも思い違いをしてはいません。「主が家を建ててくださらなければ、建てる人の労苦はむなしいのです。」[32] どれほどすぐれた雄弁さも、心に触れる恵みなしには、ただ一つの愛の行いさえ引き起こすことはできません。
ほのかなばら色を帯びた、美しい桃を思い浮かべてください。その味わいはとても甘く、人間のどんな技をもってしても、これほどの甘露を生み出すことはできません。ねえ、セリーヌ、神が、目にこれほど美しい色や、触れるとこれほど柔らかなビロードのような皮をお造りになったのは、桃自身のためでしょうか。あれほど甘くなさったのは、桃自身のためでしょうか。いいえ、わたしたちのためです。桃がまったく自分だけのものとして持ち、その存在に欠かせないものは、ただ種だけです。それ以外には、何も自分のものとして持ってはいないのです。
同じようにイエスは、さらにほかの魂をご自分のもとに引き寄せるために、ある魂たちに惜しみなく賜物をお与えになることを喜ばれます。そして、いつくしみによってその魂たちを内面からへりくだらせ、自分たちの無と、主の全能の力とを認めるよう、優しく促されます。この謙遜の心は恵みの種のようなもので、神はあの祝福された日に備えて、その種を急いで育ててくださいます。その日、魂たちは朽ちることのない美しさをまとい、もはや危険にさらされることなく、天国の宴の食卓に置かれるのです。愛する小さな姉妹、わたしの魂の優しいこだまよ、テレーズは今、熱愛の高みからは遠く離れています。けれども、霊的な渇きの中にあり、祈ることも徳を実践することもできないとき、わたしは愛するイエスに喜んでいただくための小さな機会を、ごくささやかなことを探します。たとえば、黙っていたかったり、退屈していることを表したかったりするときに、ほほえみかけることや、優しい言葉をかけることです。そのような機会さえなければ、せめて、イエスを愛していると繰り返し申し上げるようにします。これは難しいことではなく、心の中の火を絶やさずにいてくれます。たとえ愛の火が消えてしまったように見えても、わたしはなお、その灰の上に小さなわらを投げ入れるでしょう。そして、その火はまた燃え上がると確信しています。
確かに、わたしはいつも忠実であるわけではありません。それでも、決して勇気を失いません。わたしは主の腕に身を委ねます。主は、わたしのうちに見いだされる善からも悪からも、あらゆることから益を得るように教えてくださいます。[33] 主は、愛の銀行で投資することを教えてくださいます。いえ、むしろ、わたしのために投資してくださるのは主ご自身です。その方法はお教えになりません。それは主のお仕事であって、わたしの仕事ではないからです。わたしはただ、何の留保もなく、すべてを主に委ねればよいのです。それによって自分が何を得るのかを知る満足さえ求めずに。 . . . 結局のところ、わたしは放蕩の子ではありませんから、イエスはわたしのために宴を整えようと心を煩わせる必要はありません。わたしはいつもイエスとともにいるからです。[34]
わたしは福音の中で、善い羊飼いが、群れの忠実な羊たちを荒れ野に残し、迷い出た羊を追って急いで行くと読みました。この信頼に、わたしは深く心を打たれます。主はその羊たちを信頼しておられるのです。どうして彼らが迷い出たりするでしょうか。彼らは愛に捕らえられているのです。同じように、わたしたちの魂の愛する羊飼いも、罪人たちに慰めをお与えになるために、ご自分の現存の甘美さをわたしたちから取り去られます。あるいは、わたしたちをタボル山へと導かれるとしても、それはほんの束の間のことです . . . 牧草地はほとんどいつも谷間にあり、「主が真昼に憩われるのは、そこなのです」。[35]
XVII
1893年10月20日。
親愛なる姉妹へ――雅歌の中に、あなたにぴったり当てはまると思われる一節を見つけました。「あなたは愛する人の中に、武装した陣営の楽隊のほかに、何を見るのですか。」[36] 苦しみを通して、あなたの人生は本当に戦場となりました。そこには楽隊が必要ですから、あなたはイエスの小さな竪琴となるのです。けれども、歌のない演奏会は完全ではありません。イエスが奏でられるなら、セリーヌも自分の声で調べを添えなければならないのではないでしょうか。音楽がもの悲しいときには、彼女は故郷を離れて生きる歌を歌い、音楽が喜ばしいときには、天の故郷の調べを軽やかに歌うでしょう。 . . .
何が起ころうとも、地上のあらゆる出来事は、喜ばしいものも悲しいものも、遠くに聞こえる音にすぎず、イエスの竪琴を震わせることはできないでしょう。その弦にそっと触れる権利を、主はご自分だけのものとしておられます。
あの優しい聖女チェチリアを思うと、喜びを感じずにはいられません。なんとすばらしい模範を示してくれるのでしょう。異教の世界のただ中で、危険のまさに中心に身を置き、その愛がまったく地上的なものでしかない男性と結ばれようとしていたそのとき、彼女は恐れに泣き、震えていても不思議ではなかったように思えます。ところが、そうではなく、「婚宴の音楽が流れる間、チェチリアは心の中で歌い続けていました」。[37] なんと完全なゆだねでしょう。きっと彼女には、この世のものとは異なる調べが聞こえていたのでしょう。神である花婿も歌っておられ、天使たちは声を合わせて、ベツレヘムの祝福された夜の折り返しを繰り返していたのです。「いと高きところには神に栄光、地には善意の人々に平和。」[38]
神の栄光! 聖チェチリアはそれをよく理解し、心を尽くして待ち望んでいました。愛するイエスが魂を渇望しておられることを、彼女は察していたのです . . . だからこそ、彼女の願いはただ、人間の栄光しか考えていないあの若いローマ人の魂を、一刻も早くイエスのもとへ連れて行くことでした。この賢いおとめは、彼を殉教者にするでしょう。そして、大勢の人々が彼の足跡に従うでしょう。彼女は恐れを知りません。天使たちがその歌の中で平和を約束したからです。平和の君が必ず彼女を守り、その処女性を守り、彼女に報いてくださると知っているのです。 . . . 「ああ、貞潔な人々の世代は、なんと美しいのでしょう!」[39]
最愛の姉妹よ、自分が何を書いているのか、わたしにもほとんど分かりません。ただ心の赴くままに筆を走らせています。あなたは自分の弱さを感じていると言いますが、それは恵みです。あなたの魂に、自分自身を頼みとしない心の種をまいておられるのは、主なのです。恐れないでください。小さなことにおいて主を喜ばせることを怠らなければ、主は大きなことにおいても、あなたを助けずにはいられなくなるでしょう。
使徒たちは主がおられないまま、長い間働きました。一晩中苦労したのに、魚は一匹も捕れませんでした。主はその労苦をお喜びにならなかったのではありません。ただ、すべてをお与えになるのはご自分であることを、お示しになりたかったのです。そこで使徒たちは、へりくだることを求められました。愛に満ちた主は、彼らにこう呼びかけられました。「子たちよ、何か食べる物はありますか。」[40] 聖ペトロは自分の無力さを認め、叫びました。「主よ、わたしたちは夜通し苦労しましたが、何も捕れませんでした。」[41] それで十分でした。イエスのみ心は動かされたのです……。もしこの使徒が小さな魚を少しでも捕っていたなら、神であるわたしたちの師は、奇跡を行われなかったかもしれません。けれども、何一つ捕れなかったので、神の力といつくしみによって、その網はたちまち大きな魚でいっぱいになりました。これが主のなさり方です。主は神として、神ならではの惜しみなさでお与えになりますが、心のへりくだりをお求めになるのです。
XVIII
1894年7月7日。
愛する小さな妹へ――この前お手紙をくれたときと、今も同じ心の状態でいるのかどうか、わたしには分かりません。おそらくそうだと思いますので、雅歌の次の一節でお返事をします。この箇所は、まったくの霊的な渇きのうちにあり、何のうちにも喜びや慰めを見いだせない魂の状態を、実によく言い表しています。「わたしはくるみの園に下って行きました。谷の実りを見、ぶどうの木が花を咲かせ、ざくろが芽吹いているかを確かめるために。わたしはもう、自分がどこにいるのか分からなくなりました。アミナダブの戦車のために、わたしの魂は乱されたのです。」[42]
ここに、わたしたちの魂のありのままの姿があります。わたしたちはしばしば、心が好んで糧を求める肥沃な谷へと下って行きます。幾度となく開かれ、この上なく豊かな宝を与えてくれた聖書の広大な野も、今はただ、乾ききった、水のない荒れ地にしか見えません。自分がどこに立っているのかさえ、もはや分からなくなります。平和と光に代わって、すべてが悲しみと闇になります。けれども、雅歌の花嫁のように、わたしたちはこの試練の原因を知っています。「アミナダブの戦車のために、わたしの魂は乱されたのです。」わたしたちはまだ、まことの故郷にはいません。金が火の中で試されるように、わたしたちの魂も誘惑によって清められなければなりません。ときには、見捨てられたと思うこともあります。ああ、戦車――つまり、わたしたちを取り囲み、心を乱すむなしい騒ぎ――は、魂の内にあるのでしょうか、それとも外にあるのでしょうか。わたしたちには分かりませんが、イエスはご存じです。わたしたちの悲しみをすべてご覧になり、夜の闇の中で、突然、そのお声が聞こえます。「帰っておいで、帰っておいで、シュラムの女よ。帰っておいで、帰っておいで、わたしたちがあなたを見ることができるように。」[43]
ああ、なんと恵み深い呼びかけでしょう。わたしたちはもう、自分自身を見る勇気さえありませんでした。その姿を見ると、恐ろしさでいっぱいになったからです。それなのにイエスは、心ゆくまでわたしたちを見つめようと、お呼びになるのです。わたしたちをご覧になりたいのです。イエスはおいでになり、礼拝すべき三位一体の他の二つの位格も共においでになって、わたしたちの魂をご自分のものとなさいます。
主はかつて、言い表せないほどの優しさをもって、こうおっしゃり、このことを約束してくださいました。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守ります。わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに行き、その人のもとに住みます。」[44] ですから、イエスの言葉を守ることは、わたしたちの幸せの一つの条件であり、イエスへの愛の証しです。そして、この言葉とは、イエスご自身のことだと、わたしには思われます。イエスはご自分を、御父の造られざるみことばと呼んでおられるからです。
同じヨハネによる福音書で、イエスはこの崇高な祈りをささげておられます。「あなたのみことばによって、彼らを聖なる者としてください。あなたのみことばは真理です。」[45] また別の箇所では、ご自分が「道であり、真理であり、命である」[46] と教えておられます。ですから、守らなければならないこの言葉が何であるかを、わたしたちは知っています。ピラトのように「真理とは何か」[47] と言うことはできません。わたしたちは真理を持っているのです。愛する方が、わたしたちの心に住んでおられるからです。
しばしば、この愛する方は、わたしたちにとって没薬の小袋です。[48] わたしたちはその苦しみの杯を共にします。けれども、いつの日か、この優しい言葉を聞くとき、どれほどの甘美さを味わうことでしょう。「あなたがたは、わたしが誘惑を受けていた間、わたしと共にとどまっていた人たちです。わたしの父がわたしに王国を授けてくださったように、わたしもあなたがたに王国を授けます。」[49]
XIX
1894年8月19日。
愛する小さな妹よ、あなたと話すために手紙に頼らなければならないのは、おそらくこれが最後でしょう。神はそのいつくしみによって、わたしのいちばん切なる願いをかなえてくださいました。いらっしゃい、一緒に苦しみましょう……。やがてイエスはわたしたちのうちの一人をお迎えになり、ほかの者たちは、もうしばらくこの流謫の地にとどまるでしょう。さあ、これから言うことをよく聞いてください。神は決して、決して、わたしたちを引き離されません。もしわたしがあなたより先に死んでも、遠くへ行ってしまうなどと思わないでください。そのときほど、わたしたちが固く結ばれたことはないはずです。わたしの子どもじみた予言を聞いて、悲しまないでください。わたしは病気ではありませんし、鉄のように丈夫な体をしています。でも主は、鉄を粘土のように砕くこともおできになります。
大好きな父は、わたしの心を深く動かすような仕方で、自分がそばにいることを感じさせてくれます。五年もの長い間、死にも等しい状態が続いた後で、父が以前の父に戻った、それどころか、これまで以上に父親らしくなったと分かるのは、なんという喜びでしょう。あなたが惜しみなく尽くした世話に、父はこれからどれほど報いてくれることでしょう。あなたは父の天使でした。今度は父があなたの天使になるのです。天国に行ってまだ一か月しかたっていないのに、父の取り次ぎの力によって、あなたの計画はもうすべて順調に進んでいます。今では、わたしたちのために物事を整えるのも、父にはたやすいことですし、セリーヌのために苦しんだのも、かわいそうな小さな女王のために苦しんだほどではありませんでした。
あなたはずいぶん前から、修練院の様子、とりわけわたしの仕事について知らせてほしいと言っていましたね。今、その願いにお応えしようと思います。修練者たちに接するときのわたしは、獲物の匂いを追うセッター犬のようです。この役目はとても骨が折れるので、わたしには心配の種が尽きません。本当にそうなのか、あなた自身で判断してください。朝から晩まで、一日中、わたしは獲物を追いかけています。修道院長様と修練長様は狩人の役ですが、狩人は体が大きすぎて、茂みの中をくぐって進むことはできません。その点、小さな犬なら、どこへでも入り込めます……そのうえ、鼻がとても利くのです! わたしは小さなうさぎたちを注意深く見守っています。傷つけるつもりは少しもありませんが、優しくこう言うのです。「毛並みはつやつやにしていなければいけませんよ。巣穴に住むうさぎのように、きょとんとして辺りを見回してはいけません」。つまり、魂の狩人が望まれるような、ほかのことには目もくれず草を食べ続ける、素直な小さな生き物になるように努めているのです。
今は笑いながら話していますが、まじめな話、このうさぎたちの一匹――どの子のことか、あなたには分かりますね――には、このセッター犬の百倍もの価値があると、わたしは固く信じています。その子は幾多の危険をくぐり抜けてきました。もしわたしがその子の立場にいたなら、とっくの昔に、この世という大きな森の中で永遠に迷い、滅びていたでしょう。そう認めずにはいられません。
XX
いとしいセリーヌ、カルメル会に入ることを考えても、とくに心を引かれないと聞いて、わたしはとてもうれしく思っています。それこそ、主があなたを特別に慈しんでおられるしるしであり、あなたの手から贈り物を受け取りたいと望んでおられる証しです。受けるよりも与えるほうが、どれほど甘美であるか、主はご存じなのです。愚かとさえ思えるほどにわたしたちを愛してくださる方のために苦しみ、世間の目には愚か者と映るとは、なんという幸せでしょう! 人は自分を物差しにして他人を判断します。世間は道理に耳を貸そうとしないので、わたしたちのことまで道理にかなわないと言うのです。
わたしたちは慰められてよいのです。こう言われるのは、わたしたちが初めてではありません。ヘロデが主をとがめることのできた罪は、愚かさだけでした……そして、結局のところ、ヘロデは正しかったのです。そうです、ケルビムの上に座しておられる栄光の王が、死すべき人間の貧しい心を探しに来て、それをご自分の玉座になさろうとは、まさに愚かなことでした! 主は御父と、愛の聖霊とともにおられて、この上なく幸せではなかったのでしょうか。それなのに、なぜ地上に降り、罪人を探し求めて、ご自分の最も親しい友になさるのでしょう。いいえ、わたしたちの愚かさが主の愚かさを超えることなど決してありませんし、わたしたちの行いは十分に道理の範囲内にあります。世間には、わたしたちを放っておいてもらいたいものです。繰り返しますが、正気を失っているのは世間のほうです。永遠の滅びからこの世を救うために、イエスが何を行い、何を苦しまれたかを、心に留めようとしないからです。
わたしたちは怠け者でも、浪費家でもありません。神であるわたしたちの師は、自らわたしたちを弁護してくださいました。ラザロの家での場面を思い出してください。マルタが給仕をしていた一方、マリアは食べ物のことなど考えず、ただ、愛する方にどうすれば喜んでいただけるかだけを思っていました。そして「彼女は石膏の壺を割り、高価なナルドの香油を救い主の頭に注ぎかけました。[50] すると家は香油の香りで満たされました」。[51]
使徒たちはマグダラのマリアに不平を言いました。同じことは今も起こっています。人々はわたしたちに対しても、そのように不平を言うのです。熱心なカトリック信者の中にさえ、わたしたちの生き方は行き過ぎであり、自分の生涯というかぐわしい香油をイエスに注ぐ代わりに、マルタとともにイエスのお世話をするべきだと考える人がいます。けれども、この香油の壺――わたしたちの生涯――が砕かれたとしても、それが何だというのでしょう。主が慰められ、世間も、望むと望まざるとにかかわらず、そこから放たれる香りを吸わずにはいられないのですから。世間には、自らが吸っている不健全な空気を清めるために、この香りが大いに必要なのです。
いとしい姉妹、ほんのしばらくのお別れです。あなたの小舟は、もう港の近くに来ています。その帆を満たしているそよ風は、愛のそよ風――稲妻のひらめきよりも速く舟を進める風です。さようなら! あと幾日かすれば、わたしたちはこのカルメルの壁の内で一緒になります……そして、いつの日か、天国でも一緒になるのです。イエスはご受難の間に、こう言われたではありませんか。「今から後、あなたがたは、人の子が神の力の右に座り、天の雲に乗って来るのを見ることになる」。[52]……わたしたちもそこにいるのです!
テレーズ。 _____________________________
[1] マタイ 3:10.
[2] マタイ 5:48.
[3] 黙示録 21:4.
[4] 十字架の聖ヨハネ。
[5] スヴェチーヌ夫人。
[6] 出エジプト記 4:25.
[7] コリントの信徒への手紙一 7:31.
[8] 参照:詩編 136:2.
[9] 参照:詩編 136:1, 4.
[10] コリントの信徒への手紙一 2:9.
[11] スール・テレーズがこの名を姉のセリーヌに用いたことは注目に値します。セリーヌは後に、テレーズの霊感に導かれて、トリノの聖骸布から主の真のお姿を、きわめて忠実に描き出すことになるからです。[編者注] [この肖像、その複製、および関連事項について論じる長い脚注の残りの部分は、この電子版では省略されています。]
[12] イザヤ 63:3.
[13] 参照:イザヤ 63:5.
[14] イザヤ 53:3.
[15] 雅歌 5:2.
[16] イザヤ 53:4.
[17] スール・テレーズは1890年9月24日にヴェールを受けました。
[18] 十字架の聖ヨハネ: 『魂の暗夜』、 第8節。
[19] ヨハネ 4:35.
[20] マタイ 9:37, 38.
[21] 十字架の聖ヨハネ。
[22] ルカ 19:5.
[23] ヨハネ 1:38.
[24] ルカ 9:58.
[25] 雅歌 2:1.
[26] マラキ 4:2.
[27] マタイ 26:23.
[28] マタイ 25:34-36.
[29] 『キリストに倣いて』, 第I巻、第ii章、3.
[30] 同書, 第II巻、第xi章、4.
[31] 同書, 第III巻、第xlix章、7.
[32] 詩編 126[127]:1.
[33] 十字架の聖ヨハネ.
[34] ルカ 15:31参照.
[35] 雅歌 1:6.
[36] 雅歌 7:1参照.
[37] 聖チェチリアの聖務日課.
[38] ルカ 2:14.
[39] 知恵の書 4:1.
[40] ヨハネ 21:5.
[41] ルカ 5:5. シスター・テレーズは、二度の奇跡的な大漁の出来事を一つにまとめています。[編者注]
[42] 雅歌 6:10, 11参照.
[43] 雅歌 6:12.
[44] ヨハネ 14:23.
[45] ヨハネ 17:17参照.
[46] ヨハネ 14:6.
[47] ヨハネ 18:38.
[48] 雅歌 1:12参照.
[49] ルカ 22:28, 29.
[50] マルコ 14:3参照.
[51] ヨハネ 12:3.
[52] マタイ 26:64.
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イエスのアグネスお母さまへの手紙
抜粋
I
(1887年、テレーズがカルメル会に入会する少し前に書かれたもの。)
大好きな小さなお母さま——どの杯にも苦い胆汁が一滴は入っているはずだとおっしゃるのは、そのとおりです。試練は、地上のものへの執着を離れるための大きな助けになると感じています。試練によって、この世よりも高いところに目を向けるようになるからです。この世のものは何一つ心を満たしてはくれません。神のみ旨を行う用意をいつも整えていることのうちにしか、安らぎは見いだせないのです。
わたしのか弱い小舟は、港にたどり着くまでに大変な苦労をしています。ずっと前から港は見えていたのに、今もまだ遠く離れたところにいます。それでも、この小舟のかじを取ってくださるのはイエスですから、定めてくださった日には、カルメルという祝福された港に無事に着くと確信しています。ああ、ポーリーヌ、イエスがこの恵みをお与えくださったなら、わたしは自分をすべてささげ、いつもイエスのために苦しみ、ただイエスのためだけに生きたいのです。イエスのむちを恐れはしません。痛みが最も激しいときでさえ、打っておられるのは優しいその御手だと感じられるからです。
喜んで耐え忍んだ苦しみの一つ一つによって、永遠にわたっていっそう深く神を愛するようになると思うと、本当にうれしくなります。死を迎えるとき、たった一人の魂でもイエスにおささげできたなら、どんなに幸せでしょう。地獄に行く魂が一人減り、天で神をたたえる魂が一人増えるのですから。
II
(着衣前の黙想中に書かれたもの。)
1889年1月。
無味乾燥と眠気——イエスと語り合うときのわたしの魂は、そんな状態です! けれども、わたしの愛する方が眠ることをお望みなら、そのお邪魔はしません。よそよそしくではなく、むしろ身内のように親しく扱ってくださることが、ただただうれしいのです。イエスはご自分の「小さなまり」を、針で何度も突いて穴だらけになさいます。それは本当に痛いのですが、この愛に満ちた友の御手から来るものなら、その触れ方があまりにも優しいので、痛みはすべて甘美なものとなります。人の手とは、なんと違うことでしょう!
それでも、苦しむことは幸せです。このうえなく幸せなのです! イエスご自身がわたしを刺し貫かないときにも、そうする人の手を導いておられます。お母さま、地上のものにまったく心をとらわれずにいたいと、わたしがどれほど願っているか、また、造られたもののあらゆる美しさが、わたしにとってどれほど取るに足りないものか、お分かりいただけたらと思います。それらを手に入れたら、わたしはかえって不幸になるでしょう。地上のよいものを思うとき、わたしの心はとても広く感じられます。それらをすべて集めても、この心を満たすことはできないのです。けれども、イエスのそばでは、なんと小さく見えることでしょう! 間もなくわたしの花婿となられるこの神は、わたしに限りなくよくしてくださいます。はかない喜びのとりこになることをお許しにならないこの方は、神にふさわしいほど愛すべき方です。地上の幸せのほんの影でも与えてくださったなら、わたしが心の激しい熱意をすべて注いでそれにしがみついてしまうことを、イエスはよくご存じです。それで、その影さえお与えにならないのです……。ご自分ではない偽りのかすかな光を与えるよりも、わたしを闇の中に置いておくことをお選びになります。
わたしの愛は、そのほんのひとかけらさえ、被造物に渡したくありません。すべてをイエスにささげたいのです。ただご自分だけが完全な幸せであることを、イエスが悟らせてくださるからです。すべてを——何もかも、イエスのものにします! そして今夜のように、何も持っていないときにも、この無そのものをおささげします……。
III
1889.
. . . . . . .
心を傷つけるあの痛み、あれほどの苦しみをもたらす針の刺し傷を、わたしは待ち望んでいます。どのような脱魂の喜びよりも、わたしは犠牲を選びます。そこにこそ幸せを見いだすのであり、ほかのどこにも見いだせません。細い葦は、折られることを恐れません。愛の水のほとりに植えられているからです。ですから、強風に吹かれて身をかがめるときにも、さわやかな流れの中で力を得て、また別の嵐が通り過ぎ、その穂先を揺らしてくれることを待ち望むのです。まさにわたしの弱さが、わたしを強くしてくれます。どのようなことが起きても、そこにイエスの優しい御手だけを見ているのですから、わたしを損なうものは何もありません……。それに、栄光のしゅろの枝を得るためなら、どのような苦しみも高すぎる代価ではありません。
IV
(誓願前の黙想中に書かれたもの。)
1890年9月。
最愛のお母さま——お母さまの小さな隠修者は、旅の様子をご報告しなければなりません。出発する前に、わたしの愛する方は、どの国を旅したいか、どの道を通りたいかとお尋ねになりました。わたしは、望みはただ一つ、愛の山の頂に達することだけです、とお答えしました。
すると、目の前に無数の道が広がりましたが、完全な道があまりにもたくさんあったので、自分の自由な意志でどれかを選ぶことはできないと感じました。そこで、神であるわたしの導き手にこう申し上げました。「わたしの望む目的地がどこにあるか、また、どなたのためにこの山に登りたいのか、あなたはご存じです。わたしの心の愛がどなたのものかも、ご存じです。ただその方のためだけに、わたしはこの旅に出ます。ですから、その方がお選びになる道へとお導きください。その方に喜んでいただけさえすれば、わたしの喜びは満ちあふれます。」
すると主はわたしの手を取り、地下の通路へと導いてくださいました。そこは暑くも寒くもなく、日の光も差さず、風も雨も入り込めないところです。そこでは、半ば覆われた光、イエスのみ顔の伏せられた目から輝き出る光のほかには、何も見えません。
わたしの花婿は一言もお話しになりません。わたしも、自分自身よりもこの方を愛していると申し上げるほかは、何も言いません。そして心の奥底で、それが真実だと分かっています。わたしは、自分のものである以上に、この方のものだからです。地下の道を旅しているので、旅の目的地に向かって進んでいるかどうかは分かりません。それでも、どうしてかは分からないまま、山の頂に近づいているように思えるのです。
私を闇の中で歩ませてくださるイエスに感謝します。この闇の中で、私は深い平和を味わっています。イエスが導き入れてくださったこの暗い道に、修道生活の生涯を通してとどまることを、私は喜んで受け入れます。ただ、私の闇が罪人たちのために光を得るものとなることだけを望みます。私はあらゆる慰めを失っても満ち足りています。いいえ、喜びに満ちています。もし私の愛が、花婿からの贈り物をいつも待ち望み、自分を喜ばせてくれる愛情に満ちたほほえみを求め続ける、この世の花嫁たちの愛のようであったなら、私は恥ずかしく思うでしょう。
イエスの小さな花嫁テレーズは、イエスご自身のゆえにイエスを愛しています。愛する方のみ顔を見つめるのは、その涙をひと目見たいからにほかなりません。その涙は、秘められた魅力によって彼女を喜ばせるのです。彼女はその涙をぬぐい、あるいはかけがえのないダイヤモンドのように集めて、花嫁衣装を飾りたいと願っています。 イエス! . . . ああ、どれほどイエスを愛したいことでしょう! これまで誰からも愛されたことのないほどに、イエスを愛したいのです! . . .
どんな犠牲を払っても、私は聖アグネスの勝利のしゅろを勝ち取らなければなりません。血を流すことによって得られないのなら、愛によって勝ち取らなければなりません。
V
1891.
愛は長い生涯に代わることができます。イエスは永遠の方ですから、時の長さをお考えになりません。ただ愛だけをご覧になります。大好きなお母さま、その愛をあふれるほど私に授けてくださるよう、イエスに願ってください。私が望むのは、自分で感じ取れる愛のときめきではありません。イエスがそのときめきを感じてくださるなら、私にはそれで十分です。イエスを愛し、人々から愛されるようにすることは、何と甘美なのでしょう。もし生き続けることで、いつかイエスに背くことになるのでしたら、誓願の日に私をご自分のもとへ召してくださるよう願ってください。私は、第二の洗礼の白い衣を汚すことなく、天に持っていきたいからです。[1] けれどもイエスは、私が二度とご自分に背かない恵みを、いえ、むしろ、ご自分に背くことも悲しませることもない過ちしか犯さない恵みを、私にお与えになることができます。そのような過ちは、ただ私をへりくだらせ、私の愛を強めるために役立つものです。イエスのほかに、頼れる方はいません。ただイエスだけは、決して私を裏切られません。この方が決してお変わりにならないと思うと、限りない喜びが湧いてきます。
VI
1891.
私の最愛のお母さま――お手紙は、私にとって本当に大きな助けとなりました。「人々の目に自分を高めるような言葉は、一言も口にしないようにしましょう」という一文は、まことに私の魂を照らしてくれました。そうです、私たちは、何ものにも奪われないよう細心の注意を払って、すべてをイエスのために取っておかなければなりません。ただイエスのためだけに働くのは、何とすばらしいことでしょう。それは心を喜びで満たし、魂に翼を与えてくれます。イエスの一粒の砂であるテレーズが、短い間に大勢の魂を救ってイエスにおささげし、少しでも早く、礼拝すべきそのみ顔を仰ぐことができるよう、イエスに願ってください。
VII
1892.
この「一粒の砂」の夢は、ただイエスだけを愛し、ほかには何も愛さないことです! この砂粒はあまりにも小さいので、もしイエス以外の何かに心を開こうとすれば、愛するこの方のための場所は、もうなくなってしまうでしょう。
誰も私たちのことを心に留めないほどに、すっかり隠れていること、一緒に暮らす人たちにさえ知られずにいることは、何という幸せでしょう! 大好きなお母さま、私は神がお造りになったどの被造物にも知られずにいたいと切に願っています! 人々の間で栄誉を得たいと望んだことは一度もありません。かつては人々の軽蔑に心を引かれたこともありましたが、それさえ私には栄誉が大きすぎると気づきました。そして今は、忘れ去られることを渇き求めています。
イエスの栄光――それだけが私の望みです。自分の栄誉はイエスにお任せします。たとえ私をお忘れになったように見えても、そうなさるのはイエスのご自由です。私はもはや自分のものではなく、イエスのものだからです。私が待つことに疲れるより先に、イエスのほうが私を待たせることにお疲れになるでしょう。
VIII
[One day when Soeur Thérèse was suffering acutely from feverishness, one of the Sisters urged her to help in a difficult piece of painting. For a moment Thérèse’s countenance betrayed an inward struggle, which did not escape the notice of Mother Agnes of Jesus. That same evening Thérèse wrote her the following letter.]
1897年5月28日。
最愛のお母さま――私はたった今まで、甘美な涙を流していました。悔い改めの涙でしたが、それにもまして、感謝と愛の涙でした。今日私は、自分の忍耐の宝がどれほどのものか、そして自分がどれほど有徳であるかを、お母さまにお見せしましたね。人にはあれほど立派に説く私が! 私の不完全さを見ていただけたことを、うれしく思います。私は叱られて当然でしたのに、お母さまはお叱りになりませんでした。それでも、お母さまの優しさはいつも、厳しい言葉にもまして力強く私の心に語りかけます。私にとって、お母さまは神のいつくしみを映すお姿です。
それに対して、シスターN.は、神の厳しさを映すお姿であることのほうが多いのです。ところが、つい先ほどお会いすると、冷たく通り過ぎるどころか、私を抱きしめてこうおっしゃいました。「かわいそうな小さなシスター、本当にごめんなさい……。あなたを疲れさせたくはないのです。手伝いをお願いしたのが間違いでした。仕事はそのままにしておいてください。」私は心の底から深く悔やんでいましたので、何のおとがめも受けなかったことにとても驚きました。シスターが本当は私を不完全な者と思っておられるに違いないことは、分かっています。あのようにおっしゃったのは、私がもうすぐ死ぬと思っておられるからです。いずれにしても、シスターから聞いたのは、親切で優しい言葉ばかりでした。それで私は、シスターはこの上なく親切な方で、自分は愛想のない者だと思っています。
私たちの修道室に戻ったとき、イエスはどう思っておられるだろうと考えていると、突然、姦通の現場で捕らえられた女性に語られたイエスの言葉を思い出しました。「誰もあなたを罪に定めなかったのか。」[2] 私は目に涙を浮かべて、イエスにお答えしました。「主よ、誰も……。あなたのいつくしみを映す、大好きなお母さまも、あなたの正義を映すシスターN.も。私は安心して行けると感じています。あなたもまた、私を罪に定められないからです。」
正直に申しますと、恵みに支えられて忍耐の模範となっていた場合よりも、私は自分の弱さのゆえに、はるかに幸せなのです。イエスがいつも私に優しく、温かく接してくださるのを見ることは、私にとって本当に大きな助けとなります。まことに、感謝に満ちた愛のあまり、死んでしまいそうなほどです。
大好きなお母さま、今夜、あなたの子である私のために、神のいつくしみの器がどれほどあふれたか、お分かりくださるでしょう。 . . . 今すでに、私には分かっています! そうです、私の望みはすべて満たされるのです . . .
まことに主は、わたしのために不思議なわざを行ってくださり、それはわたしの限りない望みをも、はるかに超えるでしょう。_____________________________
[1] ここでテレーズ修道女は、修道誓願の日に立てる誓願によって、洗礼の場合と同じように、罪のあらゆる汚れが取り除かれ、罪に伴うすべての有限の罰が免除されるという、神学者たちの蓋然性のある見解に言及しています。[編者]
[2] ヨハネ 8:10.
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聖心のマリー修道女への手紙
I
1888年2月21日。
親愛なるマリー姉さん、先週パパがわたしにどんなすてきな贈り物をしてくれたか、とても想像できないでしょう。百回、いえ千回当ててみても、きっと分からないと思います。実は、大好きな父が、生まれたばかりの、真っ白でふわふわした子羊を買ってくれたのです。わたしがカルメル会に入る前に、この喜びを味わわせてやりたかったと言っていました。わたしたちは皆、大喜びしました。とりわけセリーヌがそうでした。何よりも心を打たれたのは、パパの思いやりでした。それに、子羊には象徴的な意味があり、ポーリーヌのことを思い起こさせてくれました。
ここまではよかったのですが、続きがあります。わたしたちは早くも夢を膨らませ、二、三日もすれば、子羊がわたしたちの周りを元気に跳ね回るだろうと思っていました。ところが、そのかわいい子は、その日の午後に死んでしまったのです。かわいそうな小さな命は、生まれたばかりなのに、苦しんで死んでしまいました。あまりにも穏やかで無垢な姿だったので、セリーヌがその絵を描き、それからパパが掘ったお墓に寝かせました。まるで眠っているようでした。土で覆ってしまいたくなかったので、かわいがっていたその子に雪をかけました。こうして、すべてが終わりました。
大好きな代母の姉さん、この小さな命の死が、わたしにどれほど深く考えさせたか、お分かりにならないでしょう。たとえどれほど無垢なものであっても、何ものにも執着してはならないのだとはっきり分かります。思いもよらないときに、わたしたちの手からすり抜けてしまうからです。永遠のもの以外に、わたしたちを満たせるものはありません。
II
(着衣前の黙想中に書かれたもの。)
1889年1月8日。
大好きな姉さん、姉さんが愛情を込めてそう呼んでくださる、小さな 子羊は、姉さんから少し力と勇気を借りたいと思っています。わたしは主にお話しすることができず、主もまた沈黙しておられます。魂の秘密を読み取られる唯一の方の聖心に、わたしの黙想がかなうものとなるように祈ってください。
確かに、人生は犠牲に満ちています。でも、なぜここで幸せを求めるのでしょう。わたしたちの聖なる母、聖テレジアが言うように、人生は「みじめな宿で過ごす一夜」にすぎないのですから。本当に、わたしの心は幸せを激しく渇望しています。けれども、どんな被造物もその渇きを癒やせないことが、はっきり分かります。それどころか、こうした心を引く水を飲もうとすればするほど、わたしの渇きはいっそう激しくなるでしょう。わたしは、「飲む者はなお渇く」[1]という泉を知っています。けれどもそれは、甘美な渇き、いつでも癒やすことのできる渇きなのです。……その泉とは、イエスだけがご存じの苦しみです。
III
1889年8月14日。
姉さんは、小さな子羊からの言葉を求めておられますね。でも、何をお話ししましょう。わたしに教えてくださったのは、姉さんではありませんか。わたしが姉さんの膝に座り、姉さんが天国のことを話してくださった日々を思い出してください。
姉さんの言葉は、今でも耳に残っています。「お金持ちになりたい人たちを見てごらんなさい。お金を得るために、どれほど苦労しているでしょう。でもね、かわいいテレーズ、わたしたちは一日のどの瞬間にも、ずっと少ない苦労で、天に富を積むことができるのよ。ダイヤモンドはそれほどたくさんあって、熊手でかき集めるように集められるの。何をするにも神への愛のために行うことで、そうできるのよ。」それを聞いたわたしは、喜びで心をいっぱいにし、大きな富を蓄えようと固く心に決めて、姉さんのもとを離れたものでした。
愛しいわが家でともに過ごした、あの幸せなひとときから、時は飛ぶように過ぎました。イエスはわたしたちを訪れ、苦しみのるつぼで試されるにふさわしい者とお認めくださいました。神は、終わりの日に「わたしたちの目から涙をことごとくぬぐってくださる」[2]と言われました。ぬぐっていただく涙が多ければ多いほど、きっと幸せも大きいでしょう。
明日は、姉さんに育てていただいたこの小さな者のために祈ってください。姉さんがいなければ、カルメル会に来ることもなかったかもしれないのです。
IV
(誓願前の黙想中に)
1890年9月4日。
姉さんのこの子の耳に、天の音楽はかすかにしか届かず、婚礼の日へと向かう道のりは寂しいものでした。確かに、花婿はこの子を肥沃な土地や見事な景色の中へと導いてくださいました。けれども、暗い夜のために、周囲の美しさに見とれることもできず、ましてそれを心ゆくまで楽しむことなどできませんでした。姉さんは、それがこの子を悲しませたとお思いかもしれません。いいえ、そうではありません。この子は、花婿の贈り物のためではなく、花婿ご自身のために従っていくことを幸せに思っています。沈黙しておられるときさえも、お姿を隠しておられるときさえも、あの方は心を奪うほど美しいのです。地上の慰めに疲れた姉さんの小さな子は、ただ愛する方だけを望んでいます。この黙想の間、イエスがなさっていたのは、ご自分以外のすべてから、わたしの心を離すことだったと思います。わたしの唯一の慰めは、今与えられている、この上ない力と平和です。それに、わたしは、あの方が望まれるとおりの者になりたいと願っています。わたしの幸せのすべては、そこにあります。
あらゆる喜びをすっかり奪われることによって、イエスに喜んでいただけることが、わたしにとってどれほど大きな喜びか、知っていただけたらと思います。……本当に、これこそ、あらゆる喜びが最も純められたもの、すなわち、感じることのできない喜びなのです。
V
1890年9月7日。
明日、わたしはイエスの花嫁になります。その方の「お顔は、いわば隠され、さげすまれていた」[3]のです。この結びつきは、何という未来を開いてくれるのでしょう。どのように感謝をささげればよいのでしょう。これほど大きなお恵みに、どうすれば少しでもふさわしい者となれるのでしょう。
わたしは天を渇き求めています。そこは、イエスへのわたしたちの愛が限りないものとなる、祝福された住まいです。確かに、そのふるさとにたどり着くには、苦しみと涙を通らなければなりません。それでも、愛する方がよしとしてお送りになることは、すべて苦しみ受けたいと願っています。ご自分の「小さなまり」を、思いのままになさっていただきたいのです。最愛の代母さま、わたしの婚礼の日のために、わたしの幼子イエス像が美しく飾られているとおっしゃってくださいますね。[4] けれども、なぜ新しいばら色のろうそくを立てなかったのかと、不思議に思っていらっしゃるかもしれません。わたしには、古いろうそくのほうが心にかなうのです。着衣式の日に初めて火がともされたものだからです。あのときはまだ新しく、ばら色に輝いていました。パパがくださったものでした。パパもそこにいて、何もかもが喜びに満ちていました。でも今は、その色もあせてしまいました。あなたの小さなテレーズにとって、この地上にはまだ、ばら色の喜びがあるのでしょうか。いいえ、この子には、天の喜びだけしかありません。あらゆるものの空しさに代わって、造られざる実在そのものに満たされる喜びだけなのです。
VI
最愛の姉さま、お返事するのは少しも難しくありません。……わたしが神を愛するように、ご自分も神を愛することができるのかと、どうしてお尋ねになるのでしょう。わたしの殉教への望みなど、取るに足りないものです。心を満たしている限りない信頼は、その望みから来るのではありません。そのような望みは、霊的な富ともいえるでしょう。そして、それを何か偉大なもののように思って自己満足するなら、それは 不正な富[5]なのです。……こうしたあこがれは、わたしのような弱い魂に、イエスが時折お与えになる慰めです。そのような魂はたくさんいます。でも、この慰めをお与えにならないとき、それは特別な恵みなのです。ある聖なる修道士の言葉を思い出してください。「殉教者たちは喜びのうちに苦しみ、殉教者の王は悲しみのうちに苦しまれた。」イエスも、「父よ、この杯をわたしから取りのけてください」[6]と叫ばれたではありませんか。ですから、わたしの望みが愛の証しだとは思わないでください。実際、神がわたしの魂を喜んでくださるのは、決してこうした望みのためではないと、よく分かっています。神がお喜びになるのは、わたしが自分の小ささ、自分の貧しさを愛しているのをご覧になることです。それは、神のいつくしみに寄せる、何も見ずにすべてを委ねる信頼なのです。……最愛の代母さま、これこそがわたしの唯一の宝です。それが、あなたの宝にもならないはずがあるでしょうか。
神がお望みになることなら、どんな苦しみも受ける覚悟がおありではありませんか。もちろん、おありです。ですから、喜びを味わい、苦しみを愛したいと願うなら、それは実のところ、ご自分の慰めを求めているのです。ひとたび愛するようになれば、すべての苦しみは消え去るからです。本当に、もしわたしたちが一緒に殉教へと向かうなら、姉さまは大きな功徳を積まれるでしょうが、わたしには何の功徳もないでしょう。主がよしとして、わたしの心のあり方を変えてくださらないかぎりは。
愛する姉さま、イエスを愛し、その愛のいけにえとなるには、わたしたちが弱く、惨めであればあるほど、焼き尽くし、変容させるこの愛にとって、よりよい素材となることがお分かりになりませんか。……いけにえになりたいという、ただそれだけの望みで十分です。けれども、いつまでも貧しく、無力なままでいることにも同意しなければなりません。難しさはここにあります。『キリストに倣いて』の著者は、「真に心の貧しい人を、どこに見いだせるだろうか。遠くまで探し求めなければならない」と言っています。[7] 偉大な魂の中に探し求めなければならないとは言わず、「遠くまで」、つまり、低くされることと、無であることのうちに、と言うのです。自分の小ささを愛し、喜びがなくても満ち足りて、華やかに輝くすべてのものから遠く離れていましょう。そうすれば、わたしたちは真に心の貧しい者となり、どれほど遠くにいようとも、イエスが探しに来てくださり、わたしたちを愛の炎に変えてくださるでしょう。……わたしの感じていることを、どうにかして分かっていただきたいのです。信頼だけが、わたしたちを愛へと導かなければなりません。……恐れは、罪人への警告として告げられる厳しい正義を思わせるのではないでしょうか。しかし、それは、ご自分を愛する者たちにイエスがお示しになる正義ではありません。
もし神が、ご自分のいつくしみ深い愛のいけにえとなる恵みを備えておられないなら、その望みをお授けになるはずはありません。いえ、むしろ、その恵みはすでに与えられているのです。あなたはご自分をすっかり神に委ね、神に焼き尽くされることを切に望んでいらっしゃるのですから。そして神は、ご自分がかなえることのできない望みを、決してお起こしにはならないからです。
道ははっきりと開かれています。わたしたちは、その道を共に走らなければなりません。イエスはわたしたちに同じ恵みを授けたいと望んでおられる、と感じます。わたしたち二人に、天の国への自由な入場をお許しになりたいのです。最愛の代母さま、イエスがあなたの子に打ち明けてくださる秘密を、もっとお聞きになりたいのですね。でも、人の心そのものがようやく思い描けるかどうかということを、人の言葉では語り尽くせません。それに、イエスはあなたにも同じように秘密を打ち明けておられます。わたしにはそれが分かります。神であるイエスの教えに耳を傾けることを、わたしに教えてくださったのは、ほかならぬあなただからです。わたしの洗礼の日、あなたはわたしに代わって、わたしがただイエスにのみお仕えすると約束してくださいました。あなたは、この異郷での日々にわたしを導き、道を示し、主にささげてくださった天使でした。子どもが母親を愛するように、わたしはあなたを愛しています。わたしの心にあふれるほど満ちている感謝を分かっていただけるのは、天においてだけでしょう。
あなたの小さな娘より、
幼いイエスのテレーズ。 _____________________________
[1] シラ書 24:29.
[2] ヨハネの黙示録 21:4.
[3] イザヤ書 53:3.
[4] 自ら特に世話をしていた、修道院の回廊にある幼子イエス像のことを指しています。[編者注]
[5] ルカ 16:2.
[6] ルカ 22:42.
[7] 『キリストに倣いて』 II, xi. 4. 参照。
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シスター・フランソワーズ・テレーズへの手紙[1]
I
1893年8月13日。
愛する小さな姉妹へ、とうとうあなたの望みがかなえられましたね。箱舟から放たれた鳩のように、あなたはこの地上に憩う場所を見いだせず、長い間飛び続け、心が永遠の住まいと定めた、あの祝福された住まいに戻ろうと探し求めてきました。イエスはあなたを待たせてこられましたが、ついに、ご自分の鳩の切ない鳴き声に心を動かされ、神であるその手を差し伸べて鳩をつかみ、愛の聖所であるご自分の心のうちに置いてくださいました。
わたしのこの喜びは、まことに霊的な喜びです。というのも、わたしはもう二度とあなたの姿を見ることも、あなたの心にわたしの心を注ぎ出しながら、その声を聞くこともないからです。それでも、天の故郷へと旅するわたしたちにとって、この地上はただの旅の宿にすぎないと知っています。たどる道が離れていても、何の問題があるでしょう。目指すところは同じです。それは、再び出会い、もはや離れ離れになることのない天国です。そこでわたしたちは、地上のわが家の甘美な喜びを永遠に味わうでしょう。この異郷での暮らしが終わったら、互いに語り合うことがたくさんあるでしょう。この世の言葉はあまりにも不十分ですが、かなたにあるわたしたちの故郷では、ひと目見交わすだけで完全に分かり合えるでしょう。そして、この地上で一度も離れたことがなかった場合よりも、わたしたちの幸せは大きくなると信じています。
それまでの間、わたしたちは犠牲によって生きなければなりません。犠牲がなければ、修道生活に功徳はないでしょう。ある方が講話の中で、こうおっしゃいました。「森の樫の木があれほど高く梢を伸ばすのは、四方を囲まれているため、下の方に枝を出して樹液を無駄にすることなく、高くそびえ立つからです。同じように修道生活でも、会則と共同生活の実践によって四方を囲まれた魂は、必然的に、そこに天に向かって高く頭を上げるすべを見いだすのです。」
心から愛する姉妹よ、あなたの小さなテレーズのために祈ってください。この地上での異郷の暮らしと、天国に向けて功徳を積むために豊かに与えられた手段とを、十分に生かせますように。
II
1895年1月。
愛する小さな姉妹へ。この過ぎ去った一年は、天国のために、なんと豊かな実りをもたらしたことでしょう!……わたしたちの大切なお父さまは、人間の目には見えないものを見、天使たちの奏でる音楽を聞きました……今、その心は悟り、その魂は「神が、ご自分を愛する人々のために備えてくださったもの」[2]を楽しんでいます。……わたしたちにもその時が来ます。わたしたちの帆が永遠の岸辺へ向けて張られていると思うと、この上なく甘美な思いに満たされます。
愛するお父さまの死によって、わたしたちは天国にいっそう近づいたと、あなたもわたしと同じように感じませんか。わたしたちの愛する人たちの半数以上は、すでに神を仰ぎ見る喜びを味わっており、なお異郷に残る五人も、間もなくその後に続くでしょう。人生は短いというこの思いが、わたしに勇気を与え、旅の疲れに耐える助けとなっています。地上でのわずかな労苦が、何だというのでしょう。わたしたちは通り過ぎてゆきます……「わたしたちは、この地上に永続する都を持っていません。」[3]
幼子イエスにささげられたこの月の間、あなたのテレーズを思い起こし、いつまでもごく小さな子どもでいられるよう、幼子イエスに願ってください。わたしもあなたのために同じ祈りをささげます。あなたの望みも、謙遜があなたの最も愛する徳であることも知っているからです。
どちらのテレーズが、より熱心になるでしょうか。……より謙遜で、より深くイエスと結ばれ、あらゆる行いの原動力を愛とすることに、より忠実なほうです。犠牲をささげる機会を、ただの一度も逃してはなりません。修道生活では、何もかもがそれほどの価値を持つのです……愛の心から一本のピンを拾い上げるなら、それによって一つの魂を回心へ導くことができるかもしれません。わたしたちの行いにそれほどの価値を与えることができるのは、イエスおひとりです。ですから、心の隅々まで尽くしてイエスを愛しましょう。
III
1896年7月12日。
わたしの愛する小さなレオニーへ。あなたの手紙がわたしに渡されていたら、先の日曜日にお返事をしたはずです。でも、ご存じのとおり、わたしは末っ子なので、姉たちが読んでからかなりたつまで手紙を見せてもらえなかったり、時にはまったく見せてもらえなかったりすることもあるのです。あなたの手紙を読んだのは、ようやく金曜日になってからでした。ですから、返事が遅れたことをゆるしてください。
あなたの言うとおりです。イエスは、優しいまなざしや愛のため息だけで満足なさいます。わたし自身は、完全を実践することはとても易しいと感じています。それはただ、イエスのみ心に訴えてイエスをとりこにすることなのだと、今では分かっているからです。かんしゃくを起こしたり、言うことを聞かなかったりして、母親を困らせたばかりの幼い子どもを見てください。その子が隅に隠れてすねたり、罰を恐れて泣いたりするなら、母親はきっと、その過ちをゆるさないでしょう。けれども、小さな両腕を広げて母親のもとへ駆け寄り、「お母さん、キスして。もうしないから!」と言うなら、すぐに愛情を込めてわが子を胸に抱き、その子がしたことをすべて忘れない母親がいるでしょうか。……母親は、その子がまた同じ過ちを繰り返すことを、よく知っています。それでもかまわないのです。母の心に訴えるかぎり、愛しいわが子はどんな罰も免れるでしょう。
主が来られる前、恐れの律法がなお効力を持っていた時代でさえ、預言者イザヤは、天の王の名によってこう語りました。「女がその乳飲み子を忘れることがあろうか。……たとえ彼女が忘れたとしても、わたしはあなたを忘れない。」[4]なんと心を打つ約束でしょう!愛の律法のもとに生きるわたしたちは、花婿が愛をもって近づいてくださるのを、受け入れて生かさずにいられるでしょうか。「わたしたちの首にかかる一本の髪」[5]で、ご自分がとりこになるのをお許しになる方を、どうして恐れることができるでしょうか。
この方をとりことしてお引き留めすることを学びましょう。この神は、愛を乞い求める方なのです。一本の髪がこの不思議を成し遂げることができると告げることで、神は、ご自分への愛からなされる最も小さな行いこそが、み心を魅了するのだと示してくださいます。もし偉大なことをしなければならないのであれば、わたしたちは哀れむべき者でしょう。けれども、わたしたちはこの上なく幸せです。イエスは、最も小さな行いによって、ご自分がとりこにされるのをお許しになるからです。……愛するレオニー、あなたには小さな犠牲が絶えることはありませんね。あなたの生活は、そのような犠牲から成り立っているのではありませんか。あなたがこれほどの豊かさに恵まれているのを見ると、わたしはうれしくなります。とりわけ、あなたが自分のためだけでなく、哀れな罪人たちのためにも、それを生かすすべを知っていると思うと、なおさらです。イエスが尊い御血を代価としてあがなわれた魂、深淵に落ちずにすむために、ただわたしたちの助けを待っている魂を救うために、イエスのお手伝いをするのは、なんと甘美なことでしょう。
わたしたちの犠牲がイエスをとりこにするなら、わたしたちの喜びもまた、この方をとりこにするのだと思います。そのために必要なのは、ただ、自分だけの幸せに身を委ねるのではなく、わたしたちの花婿が心を引きつけ、ご自分のもとへと導くために、わたしたちの歩む道にちりばめてくださる小さな喜びを、この方におささげすることです。
わたしの体の具合を尋ねてくださったのですね。咳はすっかり治まりました。喜んでくださいますか。けれども、だからといって、主がお望みになるときにいつでも、わたしをご自分のもとにお召しになる妨げにはなりません。それに、その旅の支度をする必要もありません。わたしがひたすら努めているのは、幼子のままでいることだからです。旅の費用も、天国に入るための代価も、すべてイエスご自身に払っていただかなければなりません。
それでは、愛する姉さん、姉妹のうちでいちばん末の、いちばん小さな妹のために、どうか忘れずにイエスに祈ってください。
IV
1897年7月17日。
親愛なるレオニー姉さん、またお手紙を書けることが、とてもうれしいです。数日前には、もう二度とこの慰めを味わえないのではないかと思っていましたが、神はわたしの流謫の時をもう少し延ばそうとお望みのようです。それでも、わたしは心を乱されません。自分の望みで、一瞬たりとも早く天国に入ろうとは思わないからです。この地上でのただ一つの本当の幸せは、イエスがくださる杯について、いつも「なんとすばらしい杯でしょう」[6]と思うよう努めることです。愛するレオニー姉さん、姉さんの杯は、本当にすばらしいものです。聖人になりたいと望むなら――それは難しいことではありません――ただ一つの目的だけを見つめていてください。イエスに喜んでいただき、いっそう固くこの方と結ばれることです。
それでは、愛する姉さん、わたしが天国に入ることを思うとき、姉さんの心が喜びで満たされますように。そのときには、姉さんへのわたしの優しい愛を、今よりもよく示すことができるからです。天の花婿のみ心のうちに、わたしたちはこの方ご自身のいのちを生きるでしょう。そして永遠に、わたしは変わることなく、
姉さんのほんとうに小さな妹であり続けます。
幼いイエスのテレーズ。 _____________________________
[1] シスター・テレーズが姉レオニーに宛てて書いた手紙は、ほとんどすべて失われている。ここにあるわずかな手紙が再び見いだされた。レオニーがカーンの聖母訪問会修道院に入ったことは、ご記憶のとおりである。113ページの注を参照。
[2] 参照 コリント一 2:9.
[3] ヘブライ 13:14.
[4] イザヤ 49:15.
[5] 雅歌 4:9.
[6] 詩編 22[23]:5.
_____________________________
いとこマリー・ゲランへの手紙
I
1888.
打ち明けてくださる前から、[1]あなたが苦しんでいることを感じ、心を合わせていました。あなたの小さなテレーズに、へりくだって助言を求めてくださったのですから、テレーズの考えをお伝えします。あなたが聖体拝領を控えたことで、わたしはとても悲しみました。それは、あなたが主を悲しませたからです。このようにして一つの魂を欺くとは、悪魔はなんとずる賢いのでしょう。愛するマリー、そうすることで、悪魔が目的を果たすのを手伝っているとは気づかないのですか。この不実な者は、神にすべてをささげようと努めている魂を罪に陥れることはできないと、よく知っています。そこで、ただ、その魂に、自分は罪を犯したと思い込ませようとするのです。それは悪魔にとって大きな成果ですが、その憎しみを満足させるには足りません。それで、さらに先をねらい、イエスが切に望んでおられる聖櫃から、イエスを締め出そうとするのです。自分ではこの聖所に入れないので、せめてそこが空のまま、神のおられない場所であってほしいと願うのです。ああ、あのかわいそうな小さな心は、どうなってしまうのでしょう。悪魔は、一つの魂を聖体拝領から遠ざけることに成功すれば、その目的をすべて果たしたことになるのです……その間、イエスは泣いておられるのです!……
かわいいマリー、心に留めてください。この優しいイエスは、ほかでもないあなたのため、あなただけのために、聖櫃におられるのです。あなたの心に入りたいという望みに燃えておられることを、忘れないでください。サタンの言葉に耳を貸してはいけません。あざ笑って退け、平和と愛の神であるイエスを迎えに、恐れずに行ってください。
あなたはこう言うでしょう。「テレーズがそんなふうに考えるのは、わたしの苦しみを知らないからだわ」と。テレーズは知っています。よく知っています。すべてを分かったうえで、あなたのただ一人の真の友を迎えに、恐れずに行ってよいと、確信をもって伝えているのです。テレーズもまた、良心の呵責にとらわれる苦しみという殉教を経験しました。けれどもイエスは、大きな罪を犯したと思い込んでいたときでさえ、いつも聖体を拝領する恵みを与えてくださいました。わたしは、悪魔を追い払う手段はこれしかないと悟ったのです。本当にそうです。悪魔は、時間を無駄にしていると分かると、わたしたちをそっとしておくのです。
実際、聖櫃を観想するときにしか安らぎを見いだせない心が――あなたの心もそうだと、話してくださいましたね――主を迎えられなくなるほど主に背くなど、ありえません……イエスを悲しませ、そのみ心を傷つけるのは、信頼の欠如なのです。
人生の最もよい時期が、根拠のない恐れに覆われてしまわないよう、たくさん祈ってください。神の栄光のためにささげられるのは、人生の短いひとときだけです。サタンはそのことをよく知っています。だからこそ、あらゆる策略を用いて、わたしたちがその時間をむなしい労苦に費やすように仕向けるのです。愛する姉妹、たびたび聖体拝領をしてください。本当にたびたび。それが、あなたのただ一つの治療法です。
II
1894
あなたは、力ある王から結婚を申し込まれながら、自分には十分な財産もなく、宮廷の作法も知らないと言って、あえて受け入れようとしない、村の幼い乙女のようです。けれども、その乙女を愛する王は、彼女の貧しさや無知がどれほどのものか、彼女自身よりもよく知っているのではありませんか。
マリー、あなたが無であっても、イエスはすべてであることを忘れないでください。
あなたはただ、自分の無を、その無限のすべてのうちに沈め、
それからは、あなたの愛を受けるにふさわしい唯一の方である、
そのすべてである方だけを思えばよいのです。
あなたは、自分の努力の実りを見たいと言うのですね。それこそ、イエスがあなたから隠しておきたいと思っておられるものです。イエスは、わたしたちの徳のこの小さな実りを、ご自分だけで眺めることを喜ばれます。それらはイエスをお慰めするのです。
マリー、テレーズが犠牲の道を進んで歩んでいると思うなら、それは大きな思い違いです。テレーズは今もなお、とても弱く、日々、新たな有益な体験を通して、そのことをいっそうはっきりと思い知らされています。それでもイエスは、テレーズに自分の弱さを誇ることを喜んで教えてくださいます。[2] これは大きな恵みです。この恵みとともに心の平和と安らぎが与えられるので、あなたにも授けてくださるよう、イエスに祈っています。自分の惨めさを知るとき、わたしたちは自分自身ではなく、ただ愛するお方だけを見つめたいと思うのです。
あなたは、完全に至るための方法をわたしに尋ねています。わたしが知っているのは愛、ただ愛だけです! わたしたちの心は、ただ愛するために造られています。時には、愛に代わる別の言葉を探そうとします。けれども、この追放の地では、「始まりと終わりのある言葉」[3] では魂の思いを十分に言い表すことがまったくできません。ですから、ただ一つの素朴な言葉、「愛」にとどまらなければならないのです。
けれども、わたしたちの貧しい心は、誰にこの愛を惜しみなく注げばよいのでしょうか。誰がこの宝にふさわしいのでしょうか。この愛を理解してくれる人がいるでしょうか。そして何よりも、この愛に報いることのできる人がいるでしょうか。マリー、イエスだけが愛を理解してくださいます。わたしたちがささげうる最大限のものすべてに報い、いえ、それを無限に超えるものを返してくださるのは、イエスだけです。 _____________________________
[1] ここでは、マリーを苦しめていた良心の過敏さに触れている。頻繁な聖体拝領を強く勧めるこの手紙を読んだピオ十世教皇は、これを「まことに時宜を得たもの」と評した。テレーズがこれを書いたのは、わずか十五歳のときであった。[編者注]
[2] コリント二 11:5.
[3] 聖アウグスティヌス。
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いとこのジャンヌ・ゲラン(ラ・ネール夫人)への手紙
1895年8月。
親愛なるジャンヌ、神があなたの愛するマリーをカルメル会へとお招きになったことで、あなたにお求めになったのは、実に大きな犠牲です。けれども、神への愛のために父、母、あるいは姉妹を捨てた者には誰にでも、百倍の報いを約束してくださったことを思い出してください。[1] 今、あなたはイエスへの愛のために、言葉では言い尽くせないほど大切な妹と別れることをためらいませんでした。ですから、イエスは必ずその約束を果たしてくださらなければなりません。この言葉が一般には修道生活に入る人々に当てはめられることは、わたしも知っています。けれども、自分の命よりも大切にしている愛する人々さえ、惜しみなく神にささげる人々のためにも語られた言葉なのだと、わたしの心は告げています。 _____________________________
[1] マルコ 10:30.
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兄弟である宣教師たちへの手紙
I
1895.
わたしたちの主である神は、力に余る犠牲をお求めにはなりません。確かに時には、わたしたちの唇に差し出される杯の苦さを、余すところなく味わわせられます。そして、地上で最も大切なものすべてを犠牲としてお求めになるとき、特別な恵みがなければ、主が園で苦悶されたときのように、「わが父よ、この杯をわたしから過ぎ去らせてください!」と叫ばずにはいられません。けれども、わたしたちはすぐに、「しかし、わたしの望むままにではなく、あなたの望まれるままに」と付け加えなければなりません。[1] 「力ある神」[2] であるイエスが、わたしたちのあらゆる弱さを身に感じ、あれほど熱烈に望んでおられた、まさにその苦い杯を目にして身震いされたことを思うと、深い慰めを覚えます。
あなたに与えられた道は、本当に美しいものです。主ご自身があなたのためにそれを選び、あなたの唇に差し出される杯に、まずご自分の唇をおつけになったのですから。ある聖人はこう言っています。「神が一つの魂にお与えになれる最大の誉れは、大きなものを与えることではなく、大きなことを求めることである。」イエスはあなたを、特別に恵まれた子として扱っておられます。今すでに宣教を始め、[3] 十字架を通して魂を救うこと、それがあなたに対するイエスの望みです。イエスが世を贖われたのも、苦しみと死によってではありませんでしたか。あなたが、イエスのために命をささげる幸いを切望しておられることを、わたしは知っています。けれども、心の殉教は、血を流す殉教に劣らず豊かな実を結ぶものであり、この殉教は、すでにあなたに与えられています。それならば、あなたに与えられた道は、キリストの使徒にふさわしい美しいものだと申し上げるのには、十分な理由があるのではないでしょうか。
II
1896.
魂の救いのために、ともに働きましょう! 魂を救い、そうして主にわたしたちの愛の証しをささげるために与えられているのは、この世の生涯という、ただ一日だけです。明日はもう永遠です。そのときイエスは、ご自分のためにあなたが手放した甘美な喜びに対して、百倍に報いてくださるでしょう。イエスは、あなたの犠牲がどれほどのものかをご存じです。あなたの愛する人々の苦しみが、あなた自身の苦しみを増していることもご存じです。けれども、イエスもまた、わたしたちの救いのために、これと同じ殉教をお受けになりました。イエスも母のもとを離れ、罪のないそのおとめが、悲しみの剣に心を貫かれ、十字架のもとに立っているのをご覧になりました。イエスが、あなたの愛するお母様をも慰めてくださることを、わたしは願っています。……そうしてくださるよう、心から切に願っています。
ああ、神である師が、あなたがその方への愛のために間もなく別れを告げようとしている人々に、あなたのために備えられている栄光と、あなたに付き添って天へと向かう無数の魂の群れとを、ほんのひと目でも見ることをお許しくださるなら、その人々は、目前に迫った大きな犠牲に対する報いを、もう受けたことになるでしょう。
III
1896年2月24日。
どうか毎日、わたしのためにこの短い祈りを唱えてください。わたしの望みはすべて、この祈りに込められています。
「いつくしみ深い御父よ、あなたの優しいイエス、聖なる
おとめ、そしてすべての聖人の名によってお願いいたします。わたしの姉妹を
あなたの愛の霊で燃え尽くし、あなたが深く愛されるように働く
恵みを、この姉妹にお与えください。」
もし主が間もなくわたしをご自分のもとへお召しになるとしても、どうかこの祈りを続けてください。わたしの望みは、地上においても天においても変わらず、イエスを愛し、人々からもイエスが愛されるようにすることだからです。
IV
. . . . . . .
わたしが望むのは、ただ神の聖なるみ旨だけです。もし天国で神の栄光のために働けなくなるのであれば、わたしは故郷に帰るよりも、追放の地にとどまることを選びたいと思います。
V
1897年6月21日
あなたが神のいつくしみを歌うのは、まことにふさわしいことです。そのいつくしみは、あなたのうちにまばゆく輝いています。あなたは聖アウグスティヌスと聖マリア・マグダレナを愛しておられますね。この方々は、多く愛したがゆえに、多くの罪をゆるされた魂です。わたしもこの方々を愛しています。その悲しみを、そして何よりも、その大胆な愛を愛しています。マリア・マグダレナがシモンの客たち皆の前に進み出て、師の足を涙で洗う姿を見るとき――彼女がその足に触れるのは、これが初めてなのです――彼女の心は、愛といつくしみの深淵であるイエスのみ心の奥底まで達したのだと感じます。そしてイエスは、ただゆるそうとされただけでなく、神との親しい交わりの恵みを惜しみなく与え、彼女を祈りの最も高い境地にまで引き上げようとされたのだと感じます。
兄弟よ、わたしにもイエスのみ心の愛を悟る恵みが与えられましたので、心からあらゆる恐れが追い払われたことを打ち明けます。自分の過ちを思い出すと、わたしはへりくだらされます。それは、弱さでしかない自分の力に決して頼らないための助けとなりますが、それにもまして、いつくしみと愛をわたしに語りかけてくれます。子どものような信頼をもって、魂が自分の過ちを、すべてを焼き尽くす愛の炉に投げ入れるなら、その過ちがどうして完全に焼き尽くされずにいられるでしょうか。
多くの聖人が、自分の罪を償うために、驚くほどの苦行を重ねて生涯を送ったことを、わたしは知っています。けれども、それがどうしたというのでしょう。「わたしの父の家には、住む所がたくさんある。」[4] これはイエスのお言葉です。ですから、わたしはイエスが示してくださる道を歩みます。自分自身のことも、イエスがわたしの魂のうちに成し遂げようとしてくださることも、少しも思い煩わないように努めています。
VI
1897.
すべてが移り変わるこの地上で、ただ一つ決して変わらないものがあります。それは、天の王がご自分の友に対してなさる扱いです。王が十字架の旗を掲げられた日から、すべての人はその陰で戦い、勝利を収めなければなりません。「どの宣教師の生涯にも、十字架が満ちている」とテオファン・ヴェナールは言いました。また、こうも言っています。「真の幸福は苦しむことにあり、生きるためには死ななければならない。」
兄弟よ、あなたの使徒職の最初の働きに十字架の刻印が押されていることを、喜んでください。イエスは、雄弁な説教によるよりも、はるかに多く、苦しみと迫害によってご自分の国を築こうと望んでおられます。
あなたは、ご自分がまだ言葉を話せない幼子だと言われます。あなたとともに叙階されたマゼル神父も、やはり話せませんでした。それでも、もう勝利のしゅろを手にされたのです……。神のお考えは、わたしたちの思いをはるかに超えています。この若い宣教師が、働くはずの地に足を踏み入れる前に亡くなったと知ったとき、わたしはこの方に取り次ぎを願うよう心を引かれました。栄光に輝く殉教者の群れの中に、この方の姿が見えるようでした。確かに、人の目には殉教者という称号に値しないでしょう。しかし神の目には、この栄誉に包まれない死も、信仰のために命をささげる人の犠牲に劣らず尊いのです。
この上なく聖なる神のみ前に出るには、極めて清くなければなりませんが、それでも、神は限りなく正しい方であるとわたしは知っています。そして、これほど多くの魂を恐れさせるその正義こそが、わたしの信頼と喜びのすべての源なのです。正義とは、罪ある者に対する厳しさだけではありません。善い意向をくみ取り、徳に報いを与えるものです。実にわたしは、神のいつくしみに望みを置くのと同じほど、神の正義にも望みを置いています。神が正しい方であられるからこそ、「神は憐れみ深く、慈しみ深く、忍耐強く、いつくしみに満ちておられる。わたしたちがどのように造られたかを知り、わたしたちが塵にすぎないことを覚えておられる。父が子らを憐れむように、主はわたしたちを憐れんでくださる」のです。[5]
ああ、兄弟よ、このように美しく慰めに満ちた
王なる預言者の言葉を聞いた後で、どうして神の力を疑えるでしょうか。神は、
完全な犠牲をささげるまでにご自分を愛した子らに、み国の門を
開くことのできる方です。その子らは、神が知られ、愛されるために
家も祖国も離れただけでなく、神のために命をささげることさえ
切望しているのです……。これ以上に大きな愛はないと、イエスはまことに言われました。
寛大さにおいても、イエスが誰かに劣ることはありません。神の愛の火に焼き尽くされた魂を、どうして
煉獄の炎で清められるでしょうか。
自分の思いを表すために多くの言葉を重ねましたが、それでも十分に伝えられなかったのではないかと案じています。わたしがお伝えしたいのは、わたしの考えでは、宣教師は皆、その意志と望みにおいて殉教者であり、一人として清めの炎を通ることはないはずだということです。
以上が、神の正義についてのわたしの考えです。わたし自身の道は、ひたすら信頼と愛の道です。これほど愛情深い友を恐れる魂のことが、わたしには理解できません。ときおり、完全への道を示しながら、その行く手を無数の障害で塞いでしまうような本を読むと、わたしの貧しい小さな頭は、たちまち疲れてしまいます。頭を疲れさせ、心を干上がらせる学識豊かな論考を閉じて、わたしは聖書に向かいます。すると、すべてが明るく、はっきりしてきます。たった一つの言葉が限りない眺めを開き、完全に至ることが容易に思われ、自分が無にすぎないことを認めて、子どものように、いつくしみ深い神の腕に身を委ねれば、それでよいのだと分かるのです。わたしには理解することも、まして実行することもできない立派な書物は、偉大で高邁な知性を持つ方々にお任せして、わたしは自分の小ささを喜びます。なぜなら、「幼子と、幼子のような人だけが、天の宴に迎え入れられる」からです。[6] 幸いなことに――「わたしの父の家には、住む所がたくさんある」のです。[7] もし、わたしには理解できない住まいと、そこへ通じる不可解な道しかなかったなら、わたしはきっと、決してそこに入れないでしょう……。
VII
1897年7月13日。
あなたの魂は、地上の慰めにしがみつくにはあまりにも偉大です。その住まいは、今すでに天にあるべきです。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」と書かれているからです。[8] イエスこそ、あなたの唯一の宝ではありませんか。今、イエスが天におられるのですから、あなたの心もそこに住まうべきです。この優しい救い主は、あなたの不忠実をとうの昔にお忘れになりました。ただ、あなたが完全を切望していることだけをご覧になり、その姿にみ心を喜ばせておられます。
どうか、もうみ足のもとにとどまらず、み腕の中に身を投げ出したいという、初めに湧いた思いに従ってください。あなたの居場所はそこです。そして、以前のお手紙を読んだときよりも、いっそうはっきりと分かります。あなたの小さな妹が歩む道のほかには、天に至るどの道も、あなたには閉ざされているのです。
イエスのみ心は、敵が犯す過ちよりも、たとえそれが重大なものであっても、友の幾多の小さな不完全さによって、いっそう悲しまれるとあなたがおっしゃることに、わたしも同感です。けれども、愛する兄弟よ、わたしには、イエスに属する人々がいつも思いやりを欠き、赦しを願おうとしない場合にだけ、イエスはこうおっしゃるのだと思えます。「あなたがわたしの両手の中に見るこの傷は、わたしを愛する人々の家で受けたものです。」[9] しかし、真に愛し、小さな過ちを犯すたびに、赦しを懇願しながらみ腕の中に身を投げ出す人々に接するとき、イエスのみ心はあなたとともに喜びに震えます。放蕩息子の父親が召し使いたちに言ったように、イエスは天使たちにおっしゃいます。「この子の指に指輪をはめて、喜び祝おう。」[10] ああ、兄弟よ。まことに、神のみ心の善良さといつくしみ深い愛は、ほとんど知られていません。この宝を味わうには、へりくだり、自分が無に等しいことを認めなければならないのは確かです……そして、まさにここで、多くの魂が後ずさりしてしまうのです。
VIII
1897.
わたしを天の故郷へと引き寄せるのは、主の呼び声です。ついに、望みがすべて満たされるほどに主を愛することができるという希望です。そして、永遠にわたって主をほめたたえる多くの魂の愛を、主のために得ることができるという思いです。
わたしは、若くして死ねますようにと神に願ったことは一度もありません。わたしにとって、それは臆病な祈りだからです。けれども神は、幼いころから、わたしの生涯は短いものになるという強い確信を、恵み深くも抱かせてくださいました。
わたしたちは、天に向かって同じ道、苦しみと愛の道を歩まなければならないと感じています。わたしが港に着いたなら、父の愛と、危険なときにも父が見守ってくれることをよく知っている子どものように、すべてを委ねて、この世の荒れ狂う海を最もよく渡るすべを、あなたにお教えしましょう。
イエスのみ心が、どれほどの愛をもってあなたを待ち望んでおられるかを、ぜひ分かっていただきたいのです。あなたの前のお手紙に、わたしの心は甘美な喜びに震えました。あなたの魂が、わたしの魂とどれほど親しいきょうだいであるかが分かったからです。神はその魂に、恐れの険しい階段を上ることなく、愛の昇降機でご自分のもとへ上るようにと招いておられるのですから。イエスと親しくなるのが難しいと感じておられても、驚きません。一日でそうなれるものではありませんから。けれども、これだけは確かに分かっています。この朽ちる体の重荷を下ろしたなら、あなたがこの美しい道を歩めるよう、今よりもずっとよくお助けできるでしょう。やがてあなたも、聖アウグスティヌスとともに、こう叫ぶでしょう。「愛こそ、わたしを引き寄せる磁石です!」
IX
1897年7月26日。
この短い手紙をお読みになるころには、わたしはもうこの世にいないかもしれません。先のことは分かりません。それでも、わたしの花婿が戸口におられることは、確信をもって言えます。わたしをこの追放の地にとどめておくには、奇跡が必要でしょう。そして、イエスがその奇跡をなさるとは思いません。イエスは、何の役にも立たないことはなさらないからです。
兄弟よ、わたしは死ぬことがとても幸せなのです。そう、幸せなのです……苦しみから解き放たれるからではありません。むしろ、この涙の谷では、愛と結ばれた苦しみこそが、望むに値するただ一つのものに思えます。死ぬことが幸せなのは、わたしが大切に思う魂たちを、地上にいるときよりも、はるかによく助けられるようになるからです。
イエスはいつも、わたしを甘やかされた子どものように扱ってくださいました……。確かに、揺りかごのころから主の十字架はわたしとともにありましたが、その十字架への熱烈な愛を、主は与えてくださったのです……
X
1897年8月14日。
わたしは今、神のみ前に出ようとしています。そして、ただ一つ必要なのは、神のためだけに働き、自分のためにも被造物のためにも何もしないことだと、これまで以上によく分かります。イエスは、あなたの心をすべてご自分のものとすることを望んでおられます。そうなるまでには、多くの苦しみを味わわなければならないでしょう……けれども、ああ、故郷へ帰る幸せな時が訪れるなら、何という喜びでしょう。わたしは死ぬのではありません。ただ、いのちに入るだけなのです……そして、この地上であなたにお伝えできないことはすべて、天の高みから分かるようにしてさしあげます……。 _____________________________
[1] マタイ 26:39.
[2] イザヤ 9:6.
[3] この手紙と次の手紙は、ある神学生に宛てられたものです。[編者注]
[4] ヨハネ 14:2.
[5] 詩編 102[103]:8, 14, 13.
[6] マタイ 19:14 参照.
[7] ヨハネ 14:2.
[8] ルカ 12:34.
[9] ゼカリヤ 13:6 参照.
[10] ルカ 15:22 参照.