日本語

第IX章――魂の夜

親愛なる院長様、もう十分に書いたと思っていましたが、今、院長様はわたしの修道生活について、さらに詳しく知りたいとお望みです。異議を唱えるつもりはありませんが、院長様がわたしと同じくらいよくご存じのことをお話ししなければならないと思うと、ほほえまずにはいられません。それでも、わたしは従います。この原稿が誰にとって何の役に立つのかは問いません。たとえ読まずにわたしの目の前で燃やしてしまわれても、少しも気にしないとお約束します。

修道院に入って以来、お母様はいつもわたしを甘やかしてこられた、という見方は、共同体の中でも珍しくありません。けれども、「人は目に映るものを見るが、主は心をご覧になるのです」。[1] 愛するお母様、わたしを容赦なく鍛えてくださったことに、改めて感謝いたします。イエスは、ご自分の小さな花には、屈辱という命を与える水が必要なことを、よくご存じでした。この花はあまりにも弱く、その水なしには根を下ろせなかったのです。このように大きな恵みを受けたのは、お母様のおかげです。ところがここ数か月、主は、ご自分の小さな花を育てる方法をすっかりお変えになりました。もう十分に水を与えられたとお考えなのでしょう。今は、明るい太陽の暖かな光のもとで、花を開かせてくださっています。主はこの花にほほえみかけてくださり、愛するお母様、この恵みもまた、お母様を通して与えられます。しかし、そのほほえみは小さな花を損なうどころか、不思議なほどに成長させてくれるのです。花は心の奥深くに、かつての克己という貴い露のしずくを大切にしまっています。そのしずくは、自分が小さく、もろいものであることを思い起こさせてくれます。たとえすべての被造物が近づいてきて、ほめそやし、おだてたとしても、花の心を震わせている真の喜びに、むなしい自己満足の影が少しでも差すことはないでしょう。その喜びは、神の目には自分がただ貧しく、何の値打ちもないものにすぎず、それ以上のものではないと悟ることから生まれるのです。

ほめられても心が動かないと申しますのは、愛するお母様が示してくださる愛と信頼のことではありません。それには、むしろ深く心を動かされます。ただ、今ではもう何も恐れることはないと感じていますので、自分のうちにあるよいものをすべて神に帰しながら、心を乱されずにほめ言葉を聞くことができるのです。神が、わたしを実際よりもよく見せることをお望みなら、わたしにはどうでもよいことです。神はみ心のままになさることがおできになります。わたしの神よ、あなたは何とさまざまな道で魂を導かれるのでしょう。亡くなるとき、思い出のよすがとなるどんな小さなものも、書き記した一行さえも、何一つ残さなかった聖人たちのことを、わたしたちは書物で読みます。一方で、わたしたちの聖なる母、アビラの聖テレジアのように、崇高な教えによって教会を豊かにし、神がいっそう知られ、いっそう愛されるようにと、「王の秘密」[2]を明かすことをためらわなかった聖人たちもいます。

この二つの道のうち、どちらがより主に喜ばれるのでしょうか。わたしには、どちらも同じように喜ばれると思えます。

神に愛される人々は皆、聖霊の促しに従ってきました。聖霊は預言者たちに、「正しい人に、すべてはよいと告げよ」[3]と書き記すようお命じになりました。そうです、ただ主のみ旨だけを求めるなら、すべてはよいのです。ですから、貧しい小さな花であるわたしも、この地上でイエスの代理を務めておられるお母様を喜ばせようと努めるとき、わたしのイエスに従っているのです。

ご存じのとおり、聖人になることは、いつもわたしの願いでした。けれども、自分を聖人たちと比べるたびに、わたしと聖人たちとの隔たりは、通りすがりの人に踏みつけられる一粒の砂と、頂が雲に隠れる山との隔たりほどもあると、いつも感じていました。

それでも、わたしは落胆する代わりに、神は実現できない望みを抱かせることはなさらないのだから、こんなに小さなわたしでも聖性を目指してよいのだと考えました。わたしが大きな者になることは不可能です。自分自身と、自分にある多くの不完全さを耐え忍ばなければなりません。それでも、小さな道を通って天に至る方法を探そうと思います。それは、とても短く、まっすぐな、まったく新しい小さな道です。わたしたちは発明の時代に生きています。今では、お金持ちは苦労して階段を上らなくても、代わりにエレベーターを使えます。それなら、わたしも神のもとへ引き上げてもらえるエレベーターを探してみようと思うのです。わたしはあまりにも小さく、完徳の険しい階段を上ることができないからです。切に望んでいるこのエレベーターが何であるのか、その手がかりを聖書の中に探したところ、永遠の知恵そのものが語る、次の言葉を読みました。「小さな者はだれでも、わたしのもとに来なさい」。[4] そこで、探していたものを見つけたと確信して、わたしは神に近づきました。しかし、神がその小さな者に何をしてくださるのか、もっと知りたいと思い、さらに探し続けると、この言葉を見いだしました。「あなたがたは胸に抱かれ、膝に乗せられる。母がその子をいとおしむように、わたしはあなたがたを慰める」。[5]

これほど優しく甘美な言葉に慰められたことは、かつてありませんでした。それなら、イエスよ、あなたの腕こそ、わたしを天にまで引き上げてくださるエレベーターなのです。そこに至るために、わたしは大きくなる必要はありません。それどころか、小さいままでいなければならず、さらに小さくならなければなりません。わたしの神よ、あなたはわたしの期待を超えてくださいました。そして、わたしは……「あなたのいつくしみを歌います。主よ、あなたは若いころからわたしを教えてくださり、わたしは今に至るまで、あなたの驚くべきみ業を告げ知らせてきました。年老いて白髪になっても、そのように告げ知らせます」。[6]

わたしにとって、その老年とはどのようなものになるのでしょうか。それは、後になって訪れるのと同じように、今訪れてもよいように思えます。主の目には、二千年も二十年と変わらず……たった一日とも変わらないのですから! けれども、愛するお母さま、あなたの子があなたのもとを去ることを待ち望み、人生の夕べよりも朝に死ぬほうが大きな恵みだと考えているとは思わないでください。この子が何よりも大切にし、望んでいるのは、イエスに喜んでいただくことです。今、イエスが近づき、天の住まいへと引き寄せてくださるように思えるので、この子は喜んでいます。神が地上で善を行うために、だれをも必要となさらず、ましてほかの人にも増してこの子を必要とはなさらないことが分かったのです。その一方で、愛するお母さま、あなたのお望みも分かっています。あなたは、ご自分のそばで、喜ばしく、しかも容易な務めをわたしが果たすことを望んでおられます。[7] わたしはこの務めを天国で完成させるでしょう。主が聖ペトロにおっしゃったように、あなたはわたしに「わたしの小羊を養いなさい」とおっしゃいました。自分があまりにも小さいと感じるので、わたしは驚いています。あなたの小羊たちはご自分で養い、わたしをその群れの中に置いてくださるよう、お願いしました。あなたは、わたしのこのもっともな願いを一部聞き入れ、わたしを小羊たちの指導者ではなく、仲間と呼んでくださいました。それでも、豊かで木陰のある牧草地へと彼女たちを導き、どこに最も甘く良い草があるかを示し、鮮やかでも毒のある花には警戒するよう教えてほしいとおっしゃいました。そのような花には、足で踏み砕くときのほかは、決して触れてはならないのです。

親愛なるお母さま、わたしの若さや未熟さを前に、どうして不安をお感じにならなかったのでしょうか。わたしがあなたの小羊たちを遠くへ迷わせてしまうのではないかと、恐れてはおられないのでしょうか。このようになさったとき、おそらくあなたは、主がしばしば小さな者たちに喜んで知恵をお授けになることを、思い起こされたのでしょう。

この地上では、自分の狭い考えで神の全能を測らない魂に出会うことは、まことにまれです。世の人々は、この地上のあらゆることについて、いつでも例外を認めようとします。ただ神にだけは、その自由を認めません。人々の間では、年齢によって経験を推し量ることが昔から習わしとなっています。実際、聖なる王ダビデも若いころ、主に向かって「わたしは若く、侮られています」[8]と歌いました。しかし、同じ詩編の中で、ためらうことなくこうも言っています。「わたしは老人たちにまさる悟りを得ました。あなたの戒めを求めたからです。あなたの言葉はわたしの足のともしび、わたしの道の光です。わたしは誓いました。あなたの正しい裁きを守ろうと、心を定めています。」[9]

また、ある日あなたは、神である師がわたしの魂を照らし、長年にわたる経験を授けてくださったと断言することさえ、軽率だとはお考えになりませんでした。今のわたしはあまりにも小さく、虚栄の罪に陥るほどの者ではありません。同じように、立派に響く言葉で自分の謙遜を証明しようと努めるほどの者でもありません。むしろ、ごく素直に「力ある方が、わたしに大きなことをしてくださいました」[10]と認めたいのです。その中でも最も大きなことは、わたしの小ささと、わたしがいかに何一つ善いことをなしえない者であるかを示してくださったことです。

わたしの魂は、さまざまな試練を知ってきました。この地上で多くの苦しみを受けました。幼いころは悲しみながら苦しみましたが、今はすべてのことの中に甘美さを見いだしています。愛するお母さま、わたしを隅々までご存じのあなた以外の方なら、この数ページを読んでほほ笑むことでしょう。わたしほど試練を受けていないように見える魂が、かつてあったでしょうか。しかし、この一年の間にわたしが耐えてきた殉教の苦しみが知られたなら、だれもがどれほど驚くことでしょう! あなたのお望みですから、それを記そうと思いますが、こうしたことを本当に説明できる言葉はありません。言葉はいつも、現実には及ばないのです。

昨年の四旬節には、断食を厳格に守っていたにもかかわらず、それまでになく体調がよく、その状態が聖週間まで続きました。ところが聖金曜日の未明、イエスは、わたしが間もなくその美しい住まいでご自分とともにいられるという希望を与えてくださいました。この思い出は、なんと甘美なことでしょう!

木曜日の夜、一晩中、聖体安置所で目を覚まして祈り続ける許可を得られなかったので、真夜中にわたしたちの修道室へ戻りました。枕に頭を置くか置かないかのうちに、熱いものが唇へと流れ上がってくるのを感じました。自分は死ぬのだと思い、喜びで胸が張り裂けそうになりました。しかし、すでにわたしたちのランプを消していたので、朝まで確かめたい気持ちを抑え、安らかに眠りました。起床の時刻である五時になると、確かめるべきよい知らせがあることをすぐに思い出し、窓辺に行くと、思っていたとおり、わたしたちのハンカチが血で染まっているのが分かりました。最愛のお母さま、わたしの希望はどれほど大きかったことでしょう! ご自分の死を記念するこの日に、愛する方が、その最初の呼び声を聞かせてくださったのだと、わたしは固く確信していました。それは、喜びに満ちたご自分の近づきを告げる、甘美な、遠くからのささやきのようでした。

わたしはこのうえなく熱心に一時課と修道院の集会にあずかり、それから急いでお母さまの膝もとに身を投げ、わたしの幸せを打ち明けました。少しも痛みを感じなかったので、始めたときと同じように四旬節を終える許可を容易に得ることができ、この聖金曜日には、何一つ緩和されることなく、カルメル会のすべての苦行をともに行いました。これらの苦行が、これほど甘美に思われたことはありませんでした。間もなく天国に入れるという希望に、わたしはこのうえない喜びに包まれていました。

その幸せな日の夕べ、なお喜びに満たされてわたしたちの修道室に戻り、静かに眠りに落ちようとしていたとき、優しいイエスは、わたしが間もなく永遠のいのちに入ることを示す、前の晩と同じしるしを与えてくださいました。わたしは、これほど明らかで生き生きとした信仰を感じていたので、天国を思うことだけが喜びでした。人がまったく信仰を持たないことなどありうるとは信じられず、別の世界の存在を否定する人々は、実際には自分の心に偽っているのだと確信していました。

けれども、光に満ちた復活祭の日々に、主はわたしに悟らせてくださいました。信仰と希望を失った魂が実際に存在し、恵みを乱用することによって、清く永続する喜びの唯一の源である、このかけがえのない宝を失ってしまうのだということを。主は、わたしの魂が闇に覆い尽くされることをお許しになりました。そして、ごく幼いころからわたしの慰めであった天国への思いが、今や葛藤と苦悩の種となったのです。この試練は、ほんの数日や数週間で終わるものではありませんでした。わたしは何か月も苦しみ続け、今もなお解放を待っています。自分の感じていることを言い表せればよいのですが、わたしの力には余ります。この暗いトンネルを通り抜けたことのある人でなければ、その闇の深さは分からないでしょう。それでも、一つのたとえを用いて説明してみます。

わたしが深い霧に包まれた国に生まれ、自然の美しさも、一筋の日の光さえも見たことがなかったとしましょう。それでも幼いころから、そうしたすばらしいものについて聞かされていて、自分の住む国が本当の故郷ではないこと、いつも待ち望むべき別の国があることを知っていたとします。これは霧の国の住人が作り上げたおとぎ話ではなく、厳然たる真実です。なぜなら、その日の光に満ちた国の王が、三十三年もの間、闇の国に住まわれたからです。それなのに、ああ、闇は、その方が世の光であることを理解しなかったのです。_[11]

けれども、愛する主よ、あなたの子であるこのわたしは、あなたが神の光であると悟りました。この子は、信じない兄弟たちのためにあなたの赦しを願い、あなたがお望みになるかぎり、悲しみのパンを食べることをいといません。あなたへの愛のために、この哀れな罪人たちが食事をする苦しみの食卓に着き、あなたが合図をくださるまで、そこを離れません。けれども、自分自身の名において、また罪ある兄弟たちの名において、こう申し上げてもよいのではないでしょうか。「神よ、罪人であるわたしたちをあわれんでください。」[12] わたしたちを義とされた者として送り出してください。信仰の光に照らされていないすべての人が、ついに光を見ることができますように。わたしの神よ、彼らが汚しているその食卓を、あなたを愛する一人の者によって清めることができるのでしたら、あなたがわたしを光の王国へお迎えくださるその時まで、わたしは喜んで一人そこにとどまり、涙のパンを食べ続けます。ただ一つお願いする恵みは、決してあなたの御心を傷つけることがないように、ということだけです。

幼いころからわたしは、いつの日かこの闇の国から解き放たれるのだと感じていました。そう信じていたのは、ただ人からそのように聞かされていたからだけではありません。心の最も奥深くに秘められたあこがれが、別の、さらに美しい国、永遠にとどまる住まいが、わたしのために用意されていると確信させてくれたからです。わたしは、その天賦の才によって新世界の発見を予見していたクリストファー・コロンブスのようでした。ところが突然、周囲の霧が魂の奥にまで入り込み、わたしをすっかり包み込んでしまったので、約束されたその国を思い描くことさえできなくなりました . . . すべてが消え去ってしまったのです。周囲の闇に疲れ果てた心が、来世を思うことで少しでも安らぎを得ようとすると、苦悩はかえって増すのです。闇の中から、信じない者のあざける声が聞こえてくるように思えます。「あなたは光と芳香に満ちた国を夢見ている。こうしたすばらしいものの創造主が、永遠に自分のものとなると夢見ている。今あなたが弱り果てているこの霧の中から、いつの日か抜け出せると思っている。いや、死を喜ぶがよい。死があなたに与えるのは、あなたの望むものではなく、さらに暗い夜、まったくの無の夜なのだから!」 . . .

親愛なるお母様、わたしが苦しんでいることについてのこの説明は、描き始めたばかりの粗い下絵がそのモデルとかけ離れているのと同じほど、現実からかけ離れています。けれども、これ以上書けば神を冒瀆することになるのではないかと恐れています . . . すでに話しすぎたのかもしれません。神がわたしを赦してくださいますように。神は、信仰がわずかな慰めさえ与えてくれなくても、わたしが信仰によって生きようと努めていることをご存じです。この一年の間にわたしが信仰を表明した回数は、それまでの生涯すべてを通じて表明した回数よりも多いのです。

敵がわたしに戦いを挑んでくるたびに、わたしは勇敢な兵士として振る舞います。決闘は臆病な行いであると知っていますので、一度も相手の顔を見ることなく敵に背を向け、救い主のもとへと急ぎます。そして、天国への信仰をあかしするためなら、自分の血を流す覚悟があると誓います。哀れな、信じない人々に天国を開いてくださりさえすれば、生涯にわたり、天国を思うことから得られる喜びをすべて犠牲にしてもかまわないと、主に申し上げます。そして、あらゆる慰めを奪うこの試練にもかかわらず、わたしはなお、こう言うことができます。「主よ、あなたは、そのすべてのみ業によって、わたしに喜びをお与えくださいました。」[13] あなたへの愛のために苦しむことより、大きな喜びがあるでしょうか。苦しみが大きければ大きいほど、また、それが人の目に見えなければ見えないほど、いっそうあなたの誉れと栄光になるのです。たとえ――そのようなことはありえないと分かっていますが――あなたがわたしの苦しみを顧みてくださらなかったとしても、わたしはなお喜んでそれを耐え忍ぶでしょう。わたしの涙によって、信仰に背く罪を一つでも防ぐか、あるいは償うことができるかもしれないと希望するからです。

親愛なるお母様、きっとお母様は、わたしが 自分の魂の夜 をいくらか大げさに語っているとお思いになるでしょう。今年わたしが作った詩からお判断になれば、信仰の覆いがほとんど引き裂かれようとしている子どものように、わたしが慰めに満たされていると思われるに違いありません。けれども、それは覆いではないのです。それは天にまでそびえ立ち、星空を遮る壁なのです。

天の国の幸せと、永遠に神をわがものとすることを歌うとき、わたしはそこに何の喜びも感じません。信じたいと願っていることだけを歌っているからです。確かに、ときには一筋の陽光がわたしの暗い夜を照らし、ほんのひととき平安を味わうこともあります。しかし後になると、その光を思い出すことが慰めになるどころか、かえって闇をいっそう深くするのです。

それでも、主がどれほど優しく、いつくしみ深い方であるかを、これほど深く感じたことはかつてありません。主は、わたしが落胆してしまいかねないときには、この重い十字架をお送りにならず、わたしがそれを担えるようになったときにお送りになりました。今、この十字架は、天の国を慕う心に伴う自然な満足を、ただすべてわたしから取り去るだけなのです。

お慕いする修道院長様、今では、天へと向かうわたしの飛翔を妨げるものは何もないように思えます。死ぬまで主を愛することのほかには、もう何も望んでいないからです。わたしは自由です。今は何も恐れません。何よりも恐れていたこと、つまり、長い病のために修道共同体の重荷となることさえも恐れません。いつくしみ深い神がお望みなら、体と心の苦しみが何年続いても、わたしは心から満足です。長く生きることを恐れず、戦いを前にひるむこともありません。主は、わたしが立つ岩です。「わたしの手に戦いを、指にいくさを教えてくださる方。主はわたしを守る方、わたしは主に希望を置いてきました。」[14] わたしは、若くして死なせてくださいと神に願ったことは一度もありません。確かに、自分はそうなるだろうといつも思っていましたが、それは自ら得ようと努めた恵みではありません。

主は、ご自分の栄光のために何かをしたいという願いだけで、満足してくださることがよくあります。そして、わたしの望みがどれほど大きいかは、ご存じのとおりです。また、イエスが、わたしの愛する姉たちを通して、幾度も苦い杯を差し出されたこともご存じです。聖なる王ダビデが、「見よ、兄弟が心を一つにして共に住むことは、なんと善く、なんと喜ばしいことか」[15]と歌ったのは、まことにそのとおりでした。しかし、この地上でそのような一致がありうるのは、犠牲のただ中においてだけです。わたしがこの聖なるカルメル会修道院に来たのは、姉たちと一緒にいるためではありません。それどころか、自然な愛情を抑えることで、多くの苦しみを味わうだろうと、よく分かっていたのです。

家族や友人から離れるほうが、より完全だと、どうして言えるのでしょうか。肩を並べて戦う兄弟や、共に殉教のしゅろを勝ち取る兄弟を、誰かがとがめたことがあるでしょうか。確かに、彼らは互いに励まし合います。しかし、一人ひとりの殉教が、彼ら皆にとっての殉教でもあることも、また確かなのです。

修道生活もそれと同じです。神学者たちは、修道生活を殉教と呼びます。神にささげられた心は、自然な愛情を少しも失いません。それどころか、その愛情は、より清く、より霊的なものとなることによって、いっそう強くなります。お慕いする修道院長様、わたしはこの愛をもって、あなたと姉たちを愛しています。天の王の栄光のために、あなたの傍らで戦うことは、わたしの喜びです。それでも、神である指揮官がただお望みを示されるだけで、わたしは別の戦場へ赴く用意ができています。命令さえ必要ありません。ただ一つのまなざし、一つの合図で十分なのです。

カルメル会修道院に来て以来、もし主がわたしをすぐに天の国へお連れにならないなら、わたしにはノアの鳩と同じ役目が与えられ、いつの日か主が箱舟の窓を開けて、オリーブの枝を携えて、まだ神を知らない人々の地へ飛んで行くようお命じになるだろうと考えてきました。この思いは、わたしがあらゆる被造物を超えて高く舞い上がる助けとなりました。

カルメル会修道院にあっても別れは避けられないと知って、わたしは天の国を自分の住まいとするよう努めました。そして、見知らぬ人々の中で異郷の暮らしをすることだけでなく、それよりもはるかにつらいこと、姉たちが異郷へ旅立つことも受け入れました。実際、わたしたちの修道院が創立したサイゴンのカルメル会修道院から、姉たちのうち二人を迎えたいとの要請がありました。一時は、二人を派遣することが真剣に検討されました。わたしは、二人を待ち受ける試練を思うと胸が痛みましたが、引き留める言葉は一言も口にしようとはしませんでした。今は、その話はすべて終わりました。上長たちが二人の出発に断固として反対したので、わたしはその苦さを味わう間だけ、杯に唇をつけたにすぎませんでした。

お慕いする修道院長様、もし聖母がわたしを癒やしてくださるなら、なぜわたしがハノイの修道院長様方からの招きに応えたいと願っているのか、お話しさせてください。外国のカルメル会修道院で暮らすには、きわめて特別な召命が必要なようです。そして多くの人は、実際には召されていないのに、召されていると思っています。修道院長様は、わたしにはこの召命があり、妨げとなっているのは健康だけだと言ってくださいました。しかし、いつの日かこのカルメル会修道院を去る定めであるとしても、心の痛みなしに去ることはできないでしょう。わたしの心は生まれつき感じやすく、それが多くの苦しみのもとになっているからこそ、この心に耐えられることは何であれ、イエスにおささげしたいのです。ここでは、修道院長様とシスター方皆に愛されており、その愛はわたしにとって、とても甘美なものです。それでもわたしは、誰もわたしを知らず、異郷にある苦さを味わうような修道院を夢見ています。自分がどれほど役に立たない者であるかは、よく分かりすぎるほど分かっています。ですから、わたしが何よりも大切なものをすべて残して去るとしても、それはハノイのカルメル会修道院で何かお役に立てるからではありません。ただ神のみ心を行い、神のために自分をいけにえとしてささげることだけが、その理由なのです。

そして、わたしが失望することはないでしょう。苦しみのほかには何も期待していなければ、ごく小さな喜びさえ驚きとなるからです。さらに、苦しみを尊い宝として求めるようになると、やがて苦しみそのものが、あらゆる喜びの中で最も大きな喜びとなるのです。

けれども、わたしはこの病から決して回復しないと分かっています。それでも、心は平安です。もう何年も前から、わたしは自分自身のものではありません。自分のすべてをイエスにおゆだねしましたから、イエスはお望みのままに、わたしを自由になさることができます。イエスはわたしに追放についてお話しになり、その杯を飲むことを承諾するかとお尋ねになりました。わたしはすぐにその杯を取ろうとしましたが、イエスは手を引かれ、ただわたしの承諾だけを望んでおられることを示されました。

ああ、わたしの神よ。従順の誓願によって、わたしたちはどれほど多くの心の煩いから解き放たれることでしょう。素直な心を持つ修道女は幸いです。長上の意向だけを導きとするので、いつも正しい道を歩んでいると確信でき、たとえ長上が間違っているように見えても、自分が道を誤ることを恐れません。しかし、この誤ることのない羅針盤に頼るのをやめるなら、その魂はたちまち不毛の荒れ野に迷い込み、そこでは恵みの水がすぐに涸れてしまいます。親愛なるお母様、あなたは、永遠の岸辺へとわたしを安全に導くために、イエスがお与えくださった羅針盤です。あなたを見つめ、そうしてわたしの主のみ旨を行うことに、この上ない喜びを感じます。信仰に逆らうこうした誘惑にわたしが苦しむのをお許しになることによって、主はわたしの信仰の精神を大きく育ててくださいました。その信仰によって、あなたの魂のうちに主が生きておられ、あなたを通して聖なるご命令を伝えておられることが、わたしには分かるのです。

あなたがわたしの従順の重荷を軽くしてくださっていることは、よく承知しています。しかし、たとえ厳しくお扱いになったとしても、わたしの態度は変わらず、子としての愛情も薄れないだろうと、心の奥深くで感じています。なぜなら、そのときもなお、わたしの魂のより大きな善のために、神のみ旨が別の形で現れているのを見るはずだからです。

今年いただいた数え切れない恵みの中でも、愛の掟がどれほど広く及ぶものかを理解できたことは、決して小さな恵みではありません。わたしはこれまで、主のこのお言葉を深く悟ったことがありませんでした。「第二の掟も、第一の掟と同じである。隣人を自分自身のように愛しなさい。」[16] わたしは何よりも神を愛そうと努めてきました。そして、神を愛する中で、次の別のお言葉に秘められた意味を見いだしたのです。「『主よ、主よ』と言う者が天の国に入るのではなく、わたしの父のみ旨を行う者が入るのである。」[17]

イエスは最後の晩餐で、使徒たちに新しい掟をお与えになり、 ご自分が彼らを愛したように、互いに愛し合うようにと告げられたとき、このみ旨をわたしに明らかにしてくださいました。[18] わたしは、イエスが使徒たちをどのように愛されたのかを知ろうと努めました。そして、彼らの生まれ持った資質のゆえに愛されたのではないと分かりました。彼らは無学で、この世的な考えに満ちた人々だったからです。それでもイエスは、彼らをご自分の友、ご自分の兄弟と呼ばれます。御父の国で彼らをご自分のそばに置くことを望まれ、彼らをこの国に迎え入れるために、十字架上で死ぬことをお望みになります。そして、こう言われるのです。「友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない。」[19]

この神のお言葉を黙想するうちに、わたしが修道生活を共にする姉妹たちに抱いている愛が、どれほど不完全なものかが分かりました。主が姉妹たちを愛しておられるようには、わたしは彼女たちを愛していないと悟ったのです。今では、真の愛とは、隣人のあらゆる欠点を忍び、その弱さに驚くのではなく、ごく小さな徳からもよい感化を受けることにあると分かっています。何よりも、愛を心の中に閉じ込めておいてはならないと分かっています。なぜなら、「ともし火をともして、それを隠れた所や升の下に置く人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」[20]からです。

親愛なるお母様、このともし火は、わたしたちにとって大切な人々だけでなく、 家の中にいるすべての人々を照らし、喜ばせる愛を表しているように思います。

古い律法のもとで、神がご自分の民に、隣人を自分自身のように愛するようお命じになったとき、神はまだ地上に降っておられませんでした。そして、人がどれほど自分を愛するかをよくご存じでしたから、それ以上のことをお求めになることはできませんでした。しかし、主が使徒たちに新しい掟、すなわち「ご自身の掟」[21]をお与えになったときには、「隣人を自分自身のように愛しなさい」と言うだけでは満足なさいませんでした。ご自分が愛してこられたように、そして世の終わりまで愛されるように、使徒たちにも愛することをお望みになったのです。

ああ、わたしのイエスよ。あなたは決して不可能なことをお求めにはなりません。わたしがどれほど弱く不完全であるかを、わたし以上によくご存じです。そして、愛する主よ、あなたがわたしのうちで姉妹たちを愛してくださらなければ、あなたが彼女たちを愛されたように、わたしには決して愛することができないのもご存じです。この恵みをわたしに与えたいと望んでおられるからこそ、新しい掟をお与えくださったのです。ああ、わたしはこの掟をどれほど愛していることでしょう。この掟によって、あなたがわたしに愛するよう命じられるすべての人を、わたしのうちで愛することこそ、あなたのみ旨であると確信できるのですから。

そうです。わたしが人に愛を示すとき、それはただイエスがわたしのうちに働いておられるのだと、わたしは知っています。そして、イエスと固く結ばれれば結ばれるほど、姉妹たちをいっそう深く愛するようになります。心の中のこの愛を深めたいと願っているときに、悪魔がある姉妹の欠点を目の前に突きつけようとするなら、わたしは急いで、その姉妹の徳や善い動機を探します。その姉妹が過ちを犯すのを一度見たことがあっても、きっと幾度となく自分自身に打ち勝ち、謙遜のうちにその勝利を隠しているのだと思い起こします。わたしには欠点に見えることさえ、その姉妹の善い意向によって、実は徳の行いである可能性が十分にあるのです。わたし自身にも同じ経験があるので、そう考えることに何の難しさもありません。ある日、談話の時間に、門番の姉妹が手伝いの姉妹を一人頼みに来ました。わたしは子どものようにその仕事をしたくてたまらず、たまたまわたしが選ばれました。そこで針仕事をたたんで片づけ始めましたが、あまりゆっくりしていたので、わたしに代わりたいと思っていることが分かっていた隣の姉妹のほうが、先に支度を終えてしまいました。手伝いを頼みに来た姉妹は、わたしのあまりにゆっくりした様子を見て、笑いながら言いました。「その真珠をご自分の冠に加えるおつもりはないのだと思いましたよ。あんまりのんびりしていらっしゃるから」。そして共同体の皆は、わたしが生来の気の進まなさに負けたのだと思いました。この出来事からどれほど多くを得たか、とても言い表せません。おかげで、ほかの人に寛大になれました。今でも、褒められたときに虚栄心が起こると、この出来事がそれを抑えてくれます。わたしのささやかな徳の行いが不完全さと取り違えられるのなら、わたしの不完全さが徳と取り違えられることもあるのではないか、と考えるからです。そして聖パウロとともに、こう言います。「あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、わたしにはごく小さなことです。わたしは自分自身をさえ裁きません。わたしを裁く方は主です」。[22]

そして、わたしを裁く方は主、イエスなのです。ですから、主がわたしを寛大に裁いてくださるように、いえ、むしろまったく裁かずにいてくださるように、わたしはいつもほかの人を寛大な心で見ようと努めます。主は、「裁いてはなりません。そうすれば、あなたがたも裁かれることはありません」と言われるからです。[23]

さて、主がご自分の新しい掟とは何かをはっきりと教えてくださる福音に戻ると、マタイによる福音書にはこうあります。「『隣人を愛し、敵を憎め』と言われているのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしは言います。敵を愛し、あなたがたを迫害する者のために祈りなさい」。[24]

もちろん、カルメル会の修道院に敵はいません。それでもやはり、わたしたちには生まれつきの好き嫌いがあります。ある姉妹には心を引かれ、別の姉妹には会わずに済むように、遠回りをしたくなることもあるでしょう。けれども主は、まさにその姉妹こそ愛し、その人のために祈るべきだと、わたしに言われます。その振る舞いから、わたしのことなど気にかけていないのだと思えても、そうなのです。「自分を愛してくれる人を愛したところで、どんな感謝を受けられるでしょうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる人を愛しています」。[25] そして、愛するだけでは十分ではありません。愛を行いで示さなければなりません。友人を喜ばせたいと思うのは自然なことですが、それは愛の徳ではありません。罪人も同じことをするからです。

主はまた、こう教えてくださいました。「求める人にはだれにでも与えなさい。あなたの物を奪う人からは、取り返そうとしてはなりません」。[26] 求める人すべてに与えることは、自分から進んで与えるほど気持ちのよいものではありません。感じよく頼まれれば、与えるのは容易です。けれども、無礼な頼み方をされると、愛において完全でないかぎり、心の中に反発が起こり、断る口実がいくらでも見つかります。まず頼み方の無礼を指摘したうえで、承知してあげるのがよほどの恩恵であるかのように振る舞い、そのちょっとした手助けをする時間よりも、その件で言い争うために費やす時間のほうが、はるかに長くなってしまうことさえあります。そして、求める人にはだれにでも与えることが難しいとすれば、自分の物を取られても返してほしいと言わずにいることは、はるかに難しいものです。親愛なる院長様、わたしはこれを難しいと言いましたが、むしろ難しく思えると言うべきでしょう。「主のくびきは甘美で、その荷は軽い」からです。[27] そして、そのくびきに身を委ねると、わたしたちはすぐにその甘美さを感じるのです。

イエスは、わたしが自分の物を返してほしいと求めることをお望みにならないと申し上げました。これは、まったくたやすいことに思えてよいはずです。実際、わたしの物は何一つないのですから。ですから、自分が誓願を立てた清貧を身にしみて悟らせてくれる機会が訪れたら、喜ぶべきなのです。以前は、自分は執着から完全に離れていると思っていました。けれども、主のお言葉の意味がはっきり分かるようになってからは、自分が本当に不完全であることが見えるようになりました。

たとえば、絵を描き始めようとしたとき、筆が乱雑に置かれ、定規や小刀がなくなっていると、いら立ちそうになり、その気持ちを表に出さないよう、しっかり自分を抑えなければなりません。もちろん、必要なこれらの道具を求めることはできますし、へりくだってそうするなら、主の命令に背くことにはなりません。そのときの私は、生活に必要なものを求めて手を差し出す貧しい人々と同じです。その人々は、断られても驚きません。誰も自分たちに何かを与える義務を負ってはいないからです。魂がただ自然に湧き起こる感情を超えて高く昇るとき、深い平和が魂を満たします。真に心の貧しい人々が共に味わう喜びに等しい喜びはありません。執着することなく必要なものを求めたのに、それを断られるだけでなく、すでに持っているものまで取り上げられそうになるなら、その人々は師の勧めに従っているのです。「あなたの下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。」[28] 上着を手放すとは、あらゆる権利を放棄し、自分をすべての人のしもべ、奴隷とみなすことだと、私には思われます。上着がなければ歩くにも走るにも身軽です。ですから、師はさらにこう言われます。「一ミリオン行くように強いる者がいれば、その人と共にさらに二ミリオン行きなさい。」[29]

ですから、求める人に与えるだけでは、私には十分ではありません。その望みを先に察し、喜んで力になりたいという心を示すべきなのです。また、自分のものが何か取り去られたなら、それを手放せてうれしいという態度を示すべきです。福音の言葉をいつでも文字どおりに実行できるわけではありません。どうしても頼みを断らなければならない場合もあるからです。それでも、愛が魂に深く根づいているなら、それは外にも現れます。与えられないものを断るにも、たいそう温かく断ることができるので、その断りが、贈り物を受け取ったときと同じほどの喜びを相手にもたらすことさえあります。確かに、人は快く応じてくれる相手には遠慮なく頼むものです。だからといって、断ることになるからという口実で、しつこく頼んでくる姉妹たちを避けるべきではありません。神である師は言われました。「あなたから借りようとする者に背を向けてはならない。」[30] また、親切な人に見られるためや、その姉妹がいつか同じように助けてくれることを期待して、親切にしてはなりません。聖書には、さらにこう書かれているからです。「返してもらえると思う相手に貸したところで、あなたがたに何の感謝が与えられるでしょうか。罪人でさえ、同じだけ返してもらおうとして、罪人に貸すのです。あなたがたは善を行い、何も当てにせずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの報いは大きいでしょう。」[31]

本当に、その報いはこの地上においてさえ大きいのです。この道で苦労するのは、最初の一歩だけです。返してもらうことを期待せずに貸すのは、難しく思えます。むしろ、すっかり差し上げてしまいたくなります。与えてしまえば、それはもう自分のものではないからです。ある姉妹が自信たっぷりに、「何時間か手伝っていただきたいのです。院長様のお許しはいただいていますし、後で必ず同じだけお手伝いしますから、安心してください」と言うとき、この貸した 時間が返ってこないことはよく分かっていて、「それなら、 差し上げる ほうがよいです」と言いたい強い誘惑に駆られるかもしれません。しかし、そう言えば自己愛を満足させることになりますし、その姉妹には、約束をあまり当てにしていないのだと感じさせてしまいます。神の掟は、私たちの生まれながらの傾きに逆らうものです。恵みの助けがなければ、それを理解することさえ不可能でしょう。まして、実行することなどできません。

親愛なる院長様、いつもにも増してまとまりのない書き方になってしまったように感じます。この取り留めのない文章のどこに関心をお持ちいただけるのか、私には分かりません。けれども、私は文学の傑作を書こうとしているのではありませんし、愛についてのこの話で院長様を疲れさせてしまうとしても、少なくとも、院長様の子である私の善意の証しにはなるでしょう。自分の理想どおりに生きるには程遠いことを、認めなければなりません。それでも、そう生きたいという望みそのものが、私に平和を感じさせてくれます。何か過ちを犯しても、すぐにまた立ち上がります。そしてここ数か月は、闘う必要さえありませんでした。私たちの聖なる父、十字架の聖ヨハネと共に、「私の家はまったく平和のうちにあります」と言うことができました。この内なる平和は、私が自分自身に打ち勝ったことによるものだと思っています。その勝利以来、天の軍勢は急いで私を助けに来てくれました。私がこれほど勇敢に闘った今、私が傷つけられるのを許さないのです。

私たちの共同体にいる、ある聖なる修道女のすることは、何もかも私をいら立たせました。悪魔が何かしら関わっていたに違いありませんし、私にその姉妹の嫌なところをあれほど多く見せていたのは、間違いなく悪魔でした。私は、自然に湧く反感に負けたくありませんでした。愛は単なる感情にとどまらず、行いに現れるべきものだと思い起こしたからです。そこで、この姉妹のために、自分が最も愛する人のためにするはずのことをすべて行うよう努めました。会うたびにその姉妹のために祈り、その徳と功徳を神にささげました。これは主にたいそう喜ばれることだと感じました。自分の作品を褒められて喜ばない芸術家はいないからです。魂を造られる神なる芸術家も、私たちが外見にとどまらず、ご自分がお選びになった内なる聖所にまで入り、その美しさをたたえるとき、喜ばれるのです。

わたしは、自分に打ち勝つ機会をこれほど与えてくれるこの姉妹のために祈るだけでは満足せず、できるかぎり多くの奉仕をしようと努めました。そして、きつい言葉を返したいという誘惑を感じたときには、すぐにほほえんで話題を変えました。『キリストに倣いて』に、「言い争いに身を任せるよりも、それぞれの人をその考えのままにしておくほうが、いっそう益になる」とあるからです。また、誘惑がとても激しいときには、その姉妹にわたしの内なる戦いを気づかれずに済むなら、戦場からの脱走兵のように逃げ出すこともありました。

ある日、その姉妹は晴れやかな顔でわたしに言いました。「親愛なるシスター・テレーズ、わたしのどこにそんなに心を引かれるのか、教えてください。会うたびに、あんなに優しいほほえみであいさつしてくださるのですもの。」ああ、わたしの心を引きつけていたのは、その姉妹の魂の奥深くに隠れておられるイエスでした。最も苦いものさえ甘美なものにしてくださるイエスだったのです。

親愛なるお母さま、先ほどわたしは、敗北を免れるための最後の手段である逃走についてお話ししました。立派なことではないと認めますが、修練期にこの手段に頼ったときは、いつも必ず成功しました。きっとお母さまもおもしろく思われるに違いない、印象深い一例をお話ししましょう。お母さまは気管支炎で数日間寝込んでおられ、わたしたちは皆、案じていました。ある朝、わたしは香部屋係の務めで、聖体拝領用の格子戸の鍵を戻しに来ました。これはわたしの仕事でしたし、お母さまにお目にかかる機会ができて、とてもうれしかったのですが、それを表に出さないよう十分気をつけていました。ある姉妹は、お母さまへの心遣いから、わたしがお母さまを起こしてしまうのではないかと心配し、わたしから鍵を取ろうとしました。わたしはできるだけ丁寧に、物音を立てないようにという思いはわたしも同じだと伝え、鍵を戻すのはわたしの権利だと言い添えました。今なら、ただ譲るほうが、より完全な行いだったと分かりますが、そのときには分からず、その姉妹の後について部屋に入りました。間もなく、その姉妹が恐れていたことが起こりました。物音でお母さまが目を覚まされたのです。非難はすべてわたしに向けられました。わたしと言い争った姉妹は長々と話し始めましたが、その要点は、物音を立てたのはすべてシスター・テレーズだ、ということでした。わたしは自分を弁護したくてたまりませんでしたが、幸いにも恵みによるひらめきが与えられました。弁明を始めたら、きっと心の平和を失ってしまうと思ったのです。そして、不当に責められても何も言い返さずにいるほどの徳はわたしにはなかったので、無事に切り抜ける最後の望みは、逃げることにありました。思うが早いか、すぐに実行しました。急いで立ち去ったものの、心臓があまりにも激しく打つので遠くまでは行けず、階段に腰を下ろして、勝利の実りを静かに味わうほかありませんでした。確かに、これは風変わりな勇気です。それでも、敗北が確実なときには、あえて自分を危険にさらさないのがいちばんだと思います。

修練期のあの日々を思い起こすと、自分が完全さからどれほど遠かったかが分かりますし、あることを思い出すと笑ってしまいます。わたしの魂を鍛え、翼を与えてくださった神は、なんといつくしみ深いことでしょう。もはや、猟師のどんなわなもわたしをおびえさせることはできません。「翼あるものの目の前で網を張っても、むだである」[32]からです。

いつの日か、今の自分の状態が欠点だらけに見えることもあるかもしれません。けれども今では、何があっても驚きませんし、これほど弱い自分に心を痛めることさえありません。それどころか、その弱さを誇りとし、毎日、新たな不完全さを見いだすものと覚悟しています。いえ、告白しなければなりませんが、自分の無に等しさについて与えられるこの光は、信仰にかかわる事柄についての光よりも、わたしの魂にとっていっそう益となるのです。「愛は多くの罪を覆う」[33]ことを思い起こし、救い主が福音の中でわたしたちに開いてくださった、この豊かな鉱脈からくみ取ります。わたしは主の尊い言葉の奥深くを探り、ダビデとともに叫びます。「あなたがわたしの心を広げてくださったので、わたしはあなたの掟の道を走りました。」[34] そして、心を広げることができるのは、ただ愛だけです。ああ、イエスよ。その甘美な炎がわたしの心を焼き尽くしているので、わたしは喜んであなたの新しい掟の道を走ります。そして、あなたに従うおとめたちとともに、あなたの新しい歌、愛の歌を歌いながら、果てしないあなたの国をあなたの後について行く、あの幸いな日まで、この道を走り続けたいと願います。 ______________________________

[1] 列王記上 16:7.

[2] トビト記 12:7.

[3] イザヤ書 3:10 参照.

[4] 箴言 9:4.

[5] イザヤ書 66:12, 13.

[6] 詩編 70[71]:17, 18 参照.

[7] シスター・テレーズは、修練長という肩書きを与えられないまま、修練者たちの指導を担当していました。

[8] 詩編 118[119]:141.

[9] 詩編 118[119]:100, 105, 106.

[10] ルカ 1:49.

[11] ヨハネ 1:5 参照.

[12] ルカ 18:13 参照.

[13] 詩編 91[92]:5.

[14] 詩編 143[144]:1, 2.

[15] 詩編 132[133]:1.

[16] マタイ 22:39.

[17] マタイ 7:21 参照.

[18] ヨハネ 13:34 参照.

[19] ヨハネ 15:12.

[20] ルカ 11:33.

[21] ヨハネ 15:12.

[22] コリントの信徒への手紙一 4:3,4.

[23] ルカ 6:37.

[24] マタイ 5:43, 44.

[25] ルカ 6:32.

[26] ルカ 6:30.

[27] マタイ 11:30.

[28] マタイ 5:40.

[29] マタイ 5:41.

[30] マタイ 5:42.

[31] ルカ 6:34, 35.

[32] 箴言 1:27.

[33] 箴言 10:12.

[34] 詩編 118[119]:32.


『ある霊魂の物語』の目次

『聖テレーズの教え――神の小さな花の知恵』の目次


 

このページを共有: