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いつくしみのおこぼれを乞い願う
年間第20主日(A年)
そのとき、イエスはティルスとシドンの地方へ退かれました。すると、その地方のカナン人の女がやって来て、叫びました。「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています。」マタイ 15:21–22
ファリサイ派の人々から厳しく異議を唱えられた後、イエスは弟子たちとともに北西へ35マイルの道のりを進み、異教徒の領域にあり、ヘロデとユダヤ人の指導者たちの管轄外にある地方へ向かわれました。それは、イエスと弟子たちにとって休息の時であり、イエスが弟子たちをより直接的に養成する機会でもあったのかもしれません。こうして退いておられた間に、一人の異教徒の女性がイエスに助けを求めてやって来ました。
物語が進むにつれ、この女性の祈りが、わたしたち皆の模範であることが分かります。第一に、彼女はイエスがどなたであるか、すなわちダビデの子であることを認めています。これは彼女の信仰の表れであり、イエスがガリラヤの多くの人々のうちに見てこられた信仰の欠如とは、はっきりと対照をなしています。第二に、彼女の願いは、「わたしをあわれんでください」、そして「主よ、わたしをお助けください」という、率直で簡潔な言葉で表されています。第三に、彼女の祈りは粘り強いものです。イエスは、まずその願いに沈黙し、次に「子供たちの食べ物を取って、犬に投げてやるのはよくない」と言うことで、彼女がその粘り強さを示せるようになさいます。イエスがこう言われるのは、明らかに、失礼な態度を取るためではなく、粘り強く信仰を示すよう彼女を招くためです。そして彼女は、まさにそうします。最後に、彼女の祈りは深い謙遜に満ちています。彼女は答えます。「主よ、どうかお願いします。犬でさえ、主人の食卓から落ちるおこぼれはいただくのですから。」彼女はイエスのいつくしみの「おこぼれ」を乞い願い、そのいつくしみを豊かに受けたのです。
犬が飼い主の食卓の食べくずを欲しがるように、あなたもイエスのいつくしみのかけらを求めているでしょうか。そうであってほしいものです。これこそ、祈りにおいてわたしたち皆が持つべき心構えです。時にわたしたちは、傲慢さから、神のいつくしみを受ける権利が自分にはあると思ってしまいます。神は自分に何かを与えて当然だと考えてしまうのです。いつくしみは自分の功績によって受けるものではないと分かっていても、その真実を心の奥深くにまで浸透させなければなりません。この物語がこれほど大切なのは、そのためです。この物語は、理想的な祈り方と、神に近づくときに持つべき謙遜な心のあり方を示してくれます。
食卓の食べくずをねだる犬の姿を、祈りのうちにじっくりと思い浮かべてみてください。犬は食べ残しをもらうと、大喜びします。わたしたちにとって、ほかの人の皿の食べくずを口にすることは、望ましいことではありません。しかし、その「皿」が世の救い主のものであり、その「食べ物」が救い主の恵みといつくしみであるなら、話はまったく変わります。最後には、主人はわたしたちを食卓にも招き、最上の霊的な糧で養ってくださいます。けれども、この謙遜な女性が模範として示す謙遜な心構えを、わたしたちがいつも持たなければならないという事実は変わりません。
今日、この聖なる女性について黙想してみてください。最後にイエスは、「婦人よ、あなたの信仰は偉大だ」と声を上げられました。しかし、それは彼女が謙遜に、粘り強く、心を尽くして自分の信仰を表した後のことでした。彼女を輝かしい模範として、自分がどのように神に祈っているかを振り返ってみてください。自分には神のいつくしみを受ける資格があるかのように、独りよがりな態度で祈ってはいないでしょうか。神は自分に何かを与えて当然だと考えがちではないでしょうか。神が自分の要求にすぐに応えてくださらないと、神に腹を立ててはいないでしょうか。この女性のように、へりくだるよう努めてください。神があなたに与えたいと望んでおられるものを、何であれ願い求めてください。忍耐強く、この上ない信頼をもって、そうしてください。そうするなら、主はいつくしみのかけらを注いでくださるだけでなく、あなたを抱き上げ、豊かな恵みの栄光に満ちた宴へと招いてくださいます。
いつくしみ深いイエスよ、あなたのいつくしみの食卓から、ただ食べくずだけをいただけますように、切に願います。心を尽くして、このことを願い求めます。わたしはあなたをいただくにふさわしくありませんが、それでもあなたを求めます。愛する主よ、わたしに何が必要かを、あなたはご存じです。その必要のために、どうかあなたのいつくしみをお与えください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
聖体によって変えられる
年間第20主日(B年)
イエスは群衆に言われました。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べる人は、だれでも永遠に生きる。そして、わたしが与えるパンは、世を生かすためのわたしの肉である。」ヨハネ 6:51
イエスのこの言葉を初めて聞いた人々は、少なからず衝撃を受けたことでしょう。この言葉のすぐ後に、「ユダヤ人たちは、『どうしてこの人は自分の肉をわたしたちに食べさせることができるのか』と言って、互いに激しく議論し始めた」と記されています。イエスは彼らの戸惑いに対して、さらに率直にこう言われました。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。」戸惑っていた人々は、ますます戸惑ったに違いありません。一方、信じていた人々は、イエスがこれほど明確に、深く教えられるのを聞いて、信仰をいっそう深めたことでしょう。
もちろん、イエスは聖体について語っておられました。聖体は、まことにイエスの御体と御血、霊魂と神性です。わたしたちはそのことを知っています。そのことを信じています。それでも、折に触れて、主のこのきわめて率直で決定的な教えに立ち返ることは、霊的生活に役立つ実践です。最も深い次元において、聖体はいつまでも信仰の深遠な神秘であり続けます。どうしてわたしたちは、主の肉を食べ、その血を飲むことができるのでしょうか。信仰を持たず、聖体についての基本的な理解もない人にとって、この教えは衝撃的で、信じがたいものに思えます。実際、この教えを最初に聞いた人々の中に、戸惑いのあまり互いに激しく議論した人がいたことは、容易に理解できます。だからこそ、わたしたちは、戸惑う人々の仲間にならないよう、聡明という霊的な賜物をもってイエスの言葉に耳を傾けなければなりません。聡明は聖霊の賜物であり、イエスが啓示しておられる霊的な深い真理に向けて、わたしたちの心を開いてくれます。人間の理性だけでこの教えに耳を傾けようとしても、決して理解することはできません。
聖体についてのイエスの教えを考えるとき、あなたは何を理解し、何を信じているでしょうか。特に、ミサに参加し、聖体拝領のために前に進むとき、心に何が浮かぶかを考えてみてください。その瞬間、普段あなたの内では何が起きているでしょうか。気が散ったまま、あるいは関心さえ持たずに前に進み、聖体よりも周囲の人々に気を取られている人もいます。いつもそうしてきたからというだけで、習慣のままに前に進む人もいます。聖体を、神の宴に共にあずかることの象徴として捉える傾向のある人もいます。しかし、神を求める深い霊的な飢え渇きをもって前に進み、信仰をもって主を受け、主をいただきながら深く愛する人もいます。そして、この聖なる賜物を受けることで自分が内側から変えられ、聖性への道にいっそう堅く立たせていただけるという、希望に満ちた期待を抱いています。あなたは、どの人に最も似ているでしょうか。
聖体を信じ、この上ない信仰と信心をもって拝領することは、わたしたちが信じるときにのみ実現します。しかし、信じることは自動的に生じるものではありません。まず理解が必要です。そして理解は、イエスの神秘と教えに心を向け、それを思い巡らし、観想し、その奥深くへと分け入り、神の優しい、啓示をもたらす声に自らを開くときにのみ与えられます。この神秘を説明するには、言葉だけでは足りません。神の声に自らを開く祈りだけが、それを可能にします。
今日、毎週どのような心で聖体拝領に臨んでいるかを黙想しましょう。まず、聖体のうちに主をお迎えするために進み出た、ここ数回のことを思い返してください。そして、その瞬間をどれほど深く理解しているかを考えてみましょう。それはあなたを変えるものとなっていますか。あなたはイエスに飢え渇く人々の一人でしょうか。聖体を拝領することによって、自分の内に生じる霊的な実りに気づいていますか。もしそうなら、次にミサにあずかるときには、より祈りに満ちた心で参加することを決意し、信仰を深めてください。もしそうでないなら、一歩引いて、自分が実際に何を信じ、何に戸惑い、何を信じていないのかを見つめ直してみてください。わたしたちが人生で受ける贈り物のうち、聖体にまさるものはありません。そのことを心から信じてください。そうすれば、聖体はあなたの人生を変えるでしょう。
聖体のうちにおられるわたしの主よ、わたしは信じます。信仰の足りないわたしをお助けください。聖体拝領において、ご自身をそのままわたしに与えてくださることを感謝します。愛する主よ、この賜物について、どうかわたしを教え続けてください。いつもこの上ない信仰と愛と希望をもって聖体を拝領しに進み出ることができるよう、わたしの心を開き、悟らせてください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
霊的な一致
年間第20主日(C年)
「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂をもたらすためだ。今から後、一つの家の五人は分かれ、三人は二人に、二人は三人に対立するようになる。父は息子に、息子は父に、母は娘に、娘は母に、しゅうとめは嫁に、嫁はしゅうとめに対立して分かれるようになる。」ルカ 12:51–53
イエスは、この箇所に先立って、「わたしが来たのは、地上に火を投じるためである。その火がすでに燃え上がっていたらと、どれほど願っていることか」と語られます。ここで語られる「火」とは、世の救いのためにご自分のいのちをささげたとき、十字架から注がれた、清めをもたらすいつくしみの火です。そのいつくしみは、わたしたちを罪から解放し、魂を清めて、神ご自身がわたしたちの内に来て住まわれるようにするために与えられます。これこそ、わたしたちが存在する理由です。神はわたしたちの内に住むことを望み、わたしたちがご自分と完全に一致することを望んでおられます。
神と一致することがもたらすすばらしい実りの一つは、同じく神と一致している人々との間にも、霊的な絆が生まれることです。わたしたちは神との交わりのために造られましたが、互いの交わりのためにも造られています。神はとりわけ、家族がこの一致にあずかるよう招いておられます。わたしたちが互いに結ぶ友情や一致にはさまざまな深さがありますが、最も深い絆は、二つの魂がそれぞれ神と一致していることから生まれます。たとえば、二人が同じスポーツチームを好きだったり、共通の関心を持っていたりすることで、絆やある種の友情が生まれることがあります。それはよいことです。しかし、その友人同士がそれぞれ神とも深く一致しているなら、その一致は、より表面的な何かではなく、神から生まれるものとなります。
上に掲げた、わたしたちに厳しく問いかける福音の箇所は、家族の一人、あるいはそれ以上の人が、神の愛の清める火に自分を開かず、そのため神との一致のうちに生きていないとき、何が起こるかを示しています。その結果は、少なくとも最も深い、最も真実な次元での不一致です。不一致の原因は神ではなく、罪です。一人が神と一致し、もう一人が罪の生活に浸っているとき、真の霊的な一致は成り立ちません。もちろん、二人にはなお共通の関心があり、表面上は日々仲よく過ごすことさえできるかもしれません。しかし、どちらか一方、あるいは双方の心に神がおられないなら、真の霊的な友情と交わりを経験することは決してできません。
イエスが、家族の中に分裂をもたらすために来たと言われるとき、それは、家族全員が神と一致していなければ、実際に家族の中に分裂が生じるということを指摘しておられるのです。さらにイエスは、家族の誰かが、自分と一緒に罪の生活を送るようわたしたちを引き込もうとするなら、その誘いを拒まなければならないと警告しておられます。そして、そのように拒むと、その拒絶はしばしば、その人自身への拒絶として受け止められ、不一致がいっそう深まります。要するに、罪やどのような形の偽りのうちにも、真の一致は成り立たないのです。
今日、あなたの内にある最も深い霊的な望みについて黙想しましょう。自分に正直になれば、心の最も深いところにあるその望みは、愛を求める望みであると気づくでしょう。わたしたちは、愛を与え、愛を受けるために造られています。まず、この望みは、神の愛に自分を開くことによって満たされます。そうすると、神の愛を他の人々と分かち合い、その人々から神の愛を受け取ることができるようになります。人生において、これほど深い満たしを与えてくれるものはほかにありません。
いつくしみ深い主よ、あなたはすべての人を愛のうちに一つにするために来られました。しかし、あなたの愛が拒まれるとき、わたしたちは不一致のうちに生きています。どうかわたしのもとに来て、わたしの内にいっそう満ちあふれてお住まいください。わたしの人生にあなたがおられることによって、あなたとの霊的な交わりだけでなく、この同じ愛を分かち合う人々との霊的な交わりも生まれますように。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
完全であること
年間第20週月曜日
「完全な者になりたいのなら、行って、持っている物を売り、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つことになる。それから、来て、わたしに従いなさい。」この言葉を聞くと、青年は悲しみながら立ち去りました。多くの財産を持っていたからです。マタイ19:21–22
これは、イエスのもとに来て、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と尋ねた裕福な青年と、イエスとの対話の結びです。イエスは続いて、掟を守るようにとおっしゃいました。青年は、幼いころからそうしてきたと答え、ほかに何ができるのかを知りたいと願いました。そこでイエスは、その問いにお答えになりました。しかし、その答えは青年には受け入れきれないものでした。
「完全な者になりたいのなら、行って、持っている物を売り、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つことになる。それから、来て、わたしに従いなさい。」あなたは完全な者になりたいと願っていますか。そうであれば、イエスはその目標に高い基準をお示しになっています。キリストに従う多くの人は、ただそこそこ善くあれば、それでよいと思っているようです。言い換えれば、完全さを目指して心を尽くす人は、なかなか見つからないように思えます。善い志を持つ人は多いかもしれませんが、わたしたち皆が招かれている完全さに真に達するために必要なすべてのことに、全身全霊を傾ける人は少ないようです。
注目したいのは、この裕福な青年に対するイエスの最初のお答えが、永遠の命に入るための条件、つまり天国に至るための最低限の条件を説明していたことです。簡単に言えば、イエスは、掟を守って重大な罪を避けるなら、永遠の命を受け継ぐことになるとおっしゃったのです。もちろん、そこには、信仰の賜物を受けており、それゆえ救いの賜物に心を開いているという前提もあります。では、あなたはそれで満足しているのでしょうか。天国に至るために必要な最低限のことをするだけで、満足していますか。
完全であるということは、自分の手には届かないように思えるかもしれません。わたしたちは、とかく「わたしもただの人間だから」と考えてしまいます。しかし、神に呼ばれた人間として、わたしたちは、より深い聖性という到達可能な目標に向かって努力するよう招かれています。いつも至らなさは残るとしても、何一つ惜しまず、自分にできる限り聖なる者となるよう努めなければなりません。
この青年に向けられた「行って、持っている物を売り、貧しい人々に施しなさい」という招きは、主がすべての人に課しておられる条件ではありませんが、文字どおりにそうするよう、主が招いておられる人々もいます。しかし、それ以外のすべての人にとっても、この招きは依然として生きています。ただし、文字どおりの意味ではなく、霊的な意味においてです。それは、内なる心の貧しさへの霊的な招きです。わたしたちは一人ひとり、財産を持ち続けていても、心の内では、この世の物への執着から完全に自由になるよう招かれています。神の愛と、そのみ旨に仕えることだけを、自分の唯一の財産としなければなりません。これほど深く執着から離れるとは、神とその聖なるみ旨だけを人生で望むということです。そして、もし神が、文字どおりすべてを手放すようお呼びになることがあれば、わたしたちはためらわずにそうするでしょう。それは極端に思えるかもしれませんが、実際には、まさにわたしたちに最も大きな益をもたらすことなのです。それこそが、人間として十分に生き、本来なるべき自分に十分になるための唯一の道です。そして最後の報いは、天国に至ることだけでなく、天国で計り知れないほどの栄光を受けることでもあります。この地上で聖なる者となればなるほど、天国での永遠の報いは大きくなります。永遠にあなたと共にあるその宝を蓄えるために、できる限りのことをするのをためらわないでください。
今日、神があなたに与えておられる、完全さへの崇高な招きについて黙想しましょう。自分はただそこそこ善くあればよいと思っているのか、それとも、はるかに大きなものを望んでいるのか、心から誠実に自分に問いかけてください。天国で最も大きな富を得たいと望んでいますか。今蓄えている霊的な宝が、永遠に自分と共にあるような永遠の命を望んでいますか。イエスからのこの崇高な招きを受け入れるのを、ためらわないでください。裕福な青年に向けられたイエスの招きが、あなた自身への個人的な招きとしても、心の中に響くようにしてください。イエスに「はい」と答えましょう。そう答えたことを、あなたは永遠にわたって感謝するのだと心に留めてください。
愛に満ちたわたしの主よ、あなたは裕福な青年を、完全を目指して努めるよう招かれました。また、わたしと、あなたのすべての子どもたちを、この聖なる崇高な召しへと招いておられます。この目標を妨げるすべてのものへの執着を離れるために必要な恵みをお与えください。あなたとあなたの聖なるみ旨を、わたしの人生の中心に据え、唯一の目標とすることができますように。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
針の穴
年間第20週火曜日
「重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方が易しい。」弟子たちはこれを聞いて大変驚き、「それでは、だれが救われるのでしょうか」と言いました。イエスは彼らを見つめておっしゃいました。「人間にはできないことだが、神にはすべてのことができる。」マタイ19:24–26
ある伝承によれば、「針の穴」とはエルサレムの城壁にあった門を指していました。昼間は大きな門が開かれていて、らくだも難なく通ることができました。しかし夜になると、その大きな門は閉ざされ、人々は門の中央にある小さな出入り口を通りました。ところが、らくだがその小さな出入り口を通るには、ひざをつき、背中の荷を降ろして、はって進まなければなりませんでした。この話に触れて、聖アンセルモは「富む者は、罪と富の重荷を降ろすまで、すなわち、それらを愛することをやめるまでは、いのちに至る狭い道を通ることはできない」と述べています(『黄金の鎖』)。では、らくだが「針の穴」を通り抜けることは可能なのでしょうか。そして、それゆえに、富む者が天の国に入ることも可能なのでしょうか。可能です。ただし、ひざをついてへりくだり、富という「荷物」を手放すという条件のもとでのみ可能なのです。
この世の物に本当に恵まれている人にとって、この福音の箇所を読んで黙想するのは難しいかもしれません。この言葉は、永遠のいのちに入るにはどうすればよいかとイエスに尋ねた、裕福な青年に関して語られました。イエスの答えは、「行って、持っている物を売り、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つことになります」というものでした。これを聞いて、裕福な青年は悲しみながら立ち去りました。自分の財産に執着していたことが明らかだったからです。
しかし、先に述べたイエスの説明は、この高い要求に応えようと苦闘しているすべての人に、希望を与えるはずです。弟子たちはイエスの言葉にひどく戸惑いました。だからこそ、イエスは続けてこう言われたのです。「人間にはこれは不可能ですが、神にはすべてが可能です。」神にはすべてが可能なのです。この事実を述べた言葉を、物質的な富への過度の執着に苦しむ人は皆、注意深く思い巡らし、信じるべきです。また、富を持っていなくても、富に執着することはあるという点にも注意が必要です。清められなければならない執着とは、さらに多くを求める欲望であって、実際に富を所有していることではありません。実際、多くの財産を持っていても、それにまったく執着しないことは可能です。ここに、心の貧しさの美しさがあります。ただし、この真福の教えをすでに完全に生きていると、早々に思い込まないよう気をつけてください。先のイエスの言葉は、この世の物に過度に執着する人々への愛から語られたものです。ですから、それがあなた自身に当てはまるなら、自分自身にもいつくしみをもって接し、イエスの言葉と、このことをめぐる自分の内なる葛藤によく心を向けてください。
今日、イエスのこの明確で曖昧さのない言葉を黙想しましょう。「富む者が神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通り抜けるほうが易しいのです。」あなたはこれを信じますか。受け入れることができますか。イエスはこの箇所を通して、あなたに語りかけておられるのでしょうか。繰り返しますが、たとえ物質的には貧しくても、富を求める思いは強くありませんか。そうであれば、この箇所はあなたにも同じように当てはまります。この言葉を祈りのうちに心にとどめ、読みながら、できるかぎり自分に正直であろうとしてください。この世の過ぎ去る物よりも、天の真の富を選ぶことをためらわないでください。結局のところ、霊的な富の価値は、この地上での短い間に所有するどんな物の価値をも、限りなく上回るのです。
真の富の主よ、あなたは、この世で得られるどんなものよりもはるかにまさる霊的な富で、わたしたち一人ひとりが満たされることを望んでおられます。どうか、物質的な富への執着からわたしを解き放ち、その重荷から自由になって生きられるようにしてください。あなたの恵みといつくしみという宝の価値を悟り、この真の富だけを人生の中心に据えることができるよう助けてください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
妬みを乗り越える
年間第20週水曜日
五時ごろに出かけると、ほかにも立っている人たちがいたので、彼らに言いました。「なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのですか。」彼らは答えました。「だれも雇ってくれないからです。」彼は言いました。「あなたたちも、わたしのぶどう園に行きなさい。」マタイ20:6–7
これは、ぶどう園の主人が語った、とても気前のよい言葉です。たとえ話にあるように、この主人は朝早く、自分のぶどう園で働く労働者を雇い、その後も九時、正午、三時、そして最後に五時にも人を雇いました。しかし一日の終わりには、全員が朝早くから働いていたかのように、皆に同じ一日分の賃金を支払いました。最初に雇われた人たちは、たった一時間しか働かなかった人たちが自分たちと同じ賃金を支払われるのは不公平だと思い、腹を立てました。しかし主人は最後にこう言います。「この最後に来た人にも、あなたと同じだけ与えたいのですが、それがいけませんか。自分のお金を思いどおりに使う自由が、わたしにはないのですか。わたしが気前よくしているので、あなたは妬んでいるのですか。」神は、そのいつくしみによって、わたしたちの理解を超えるほど気前よく与えてくださいます。しかし、堕落した人間であるわたしたちは、自分が公平な分け前を得ているかどうかを絶えず確かめ、ほかの人と自分を比べています。わたしたちは、もっともっと欲しいと思いがちで、ほかの人が成功したり、自分にはない恵みを受けたりするのを見ると、すぐに妬んでしまいます。たとえば、だれかが自分よりもソーシャルメディアで人気があったり、もっと立派な車に乗っていたり、もっと大きな家に住んでいたり、お金のかかる休暇旅行に出かけたりすると、その人が持っているものを自分は持っていないと気づき、ある種の悲しみを覚えがちです。それが妬みなのです。
妬みを癒やすのは、心からの寛大さです。お金について寛大であるだけでなく、愛情を惜しまず、ほかの人が受ける恵みを喜べる心を持つことです。たとえば、あなたがずっと行きたいと思っていた場所へ、来月すてきな休暇旅行に出かけるのだとだれかに言われたら、どう反応するでしょうか。冗談めかして、「わあ、うらやましい!」と言うかもしれません。うらやましさは、たちまち妬みに変わることがあります。妬みとは、ほかの人が持っていて自分にはない恵みを悲しむことです。そして、ほかの人の恵みに対するその悲しみは、やがて怒りへと変わることもあります。
ぶどう園で一日中働き、わずか一時間しか働かなかった人たちと同じ額を受け取った労働者たちは、後から来た人たちを祝福することもできたはずです。冗談交じりに、「運がよかったね。私も五時に来ればよかった!」とさえ言えたでしょう。ところが彼らは不平を言い、「この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに、あなたは、一日の重荷と暑さに耐えた私たちと同じ扱いをなさいました」と言って、主人の寛大な振る舞いを妨げようとしました。これもまた、ねたみです。主人の寛大さを悲しく思うあまり、ほかの人たちが受けた恵みを妨げようとしたからです。
自分の内にこのような、聖性に反する悲しみを見いだしたときには、いつでも心を留めてください。それは、ほかの人に対する無私の寛大さが欠けているということです。神がほかの人を霊的な豊かさで祝福しておられるのを見たら、惜しみない心でそれを喜ぶように努めてください。神の善良さをたたえ、感謝をささげてください。自分のことばかり考えず、人と比べようとするあらゆる誘惑を退けてください。多くの点で、私たちは皆、一時間しか働かなかったのに一日分の賃金を全額受け取った人たちに重なります。それは、私たちが救いの恵みを自分の働きによって獲得することなど、決してできないからです。永遠の救いという賜物も、神が与えてくださるほかのあらゆる恵みも、私たちが受けることのできる唯一の理由は、神が限りなく寛大であられることにあります。ですから、私たちは常に神の善良さと寛大さに目を向け、その寛大さが自分に示されるときにも、ほかの人に示されるときにも、喜ばなければなりません。
今日、自分の中にあるねたみの傾向について黙想してください。自分には与えられていないのに、ほかの人には与えられている祝福について考えてみてください。それに対する自分の内なる反応を誠実に見つめ、その祝福を惜しみない心で喜ぶことができるよう、神に賜物を願ってください。神が与えてくださる祝福はすべて、それが自分に与えられるものであれ、ほかの人に与えられるものであれ、私たちの喜びの源となるべきものです。
限りなく寛大な主よ、あなたはすべての人に、あふれるほど豊かに祝福を注いでくださいます。他の人々があなたから祝福を受けているのを目にするとき、その人たちが受けたすべてのものに対して、心からの感謝を育むことができるよう助けてください。あなたがご自分の民すべてをさまざまな仕方で祝福してくださることを、心から喜べるようにしてください。愛する主よ、ねたみという醜い罪に押しつぶされることのないよう、わたしをねたみから解き放ってください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
御父からの招き
年間第20週木曜日
「天の国は、息子のために婚宴を催した王にたとえることができる。王は、招いておいた客たちを婚宴に呼ぶために家来たちを遣わしたが、客たちは来ようとしなかった。」マタイ 22:2–3
このたとえ話の王は父である神であり、婚礼はキリストと教会との婚姻です。御父は私たち一人ひとりを、教会の一員となり、御子イエスと神のいのちにおいて一つに結ばれ、こうして三位一体のいのちにあずかるよう招いておられます。ところが、このたとえ話では、招かれた客たちが「来ようとしなかった」ことがすぐに分かります。話が進むにつれ、王はいっそう熱心に客たちを招こうとしますが、その反応は皆、二つのいずれかでした。「ある者たちは招きを無視して立ち去り……」、そして「残りの者たちは王の家来たちを捕らえ、乱暴を働き、殺してしまった」のです。明らかに、これは寛大な王が望んでいた応答ではありませんでした。
この二つの反応には、イエスの時代と同じように今日の世界にも存在する、福音を拒む二つの段階が見られます。第一の段階は無関心です。今日、多くの人はとても忙しくしています。私たちは、結局のところあまり重要ではない多くの事柄に、たやすく心を奪われてしまいます。スマートフォンやパソコン、タブレットにすっかりとらわれている人が大勢います。テレビを見ることに数えきれないほどの時間を費やす人も大勢います。また、仕事中毒になり、時間の大半を仕事に費やして、家族や祈り、奉仕といった最も大切なことのためには、ほとんど時間を残さない人もいます。その結果、信仰にかかわる事柄に無関心になり、神のみ旨を探し求め、それを実行するために日々祈ることを怠りやすくなります。この無関心は、非常に深刻なものです。
私たちの世界にはまた、教会や道徳に対する敵意の高まりを通して表れる、信仰の拒絶もあります。世俗の世界は、さまざまな形で、福音に反する文化を広め続けています。そして、キリスト者が声を上げ、こうした新しい文化の傾向に反対すると、非難され、しばしば偏見に満ちているとか、人を裁いているなどと評されます。このような悪意は、たとえ話の中で「王の家来たちを捕らえ、乱暴を働き、殺してしまった」客たちにも見られました。教会と信仰、そして神が定められた明確な道徳的原則に対する敵意は、年々強まっているように見えます。このように福音を拒むことは、先に述べた単なる無関心よりも、さらに大きな害をもたらします。今日のこのたとえ話で、イエスは、無関心や敵意を示した人たちに対して、王が「軍隊を送り、あの人殺したちを滅ぼし、その町を焼き払った」と語っておられます。
このたとえ話は、私たちがまるで王であり、人を裁く権利を持っているかのように、ほかの人に目を向けて断罪するために読むべきものではありません。私たちにその権利はありません。それをお持ちなのは神だけです。むしろ、このたとえ話は、自分自身の生き方に照らして読むべきです。あなたが福音に敵意を抱く人の一人でないことを願います。けれども、あなたもほかの多くのキリスト者も、第一の拒み方、すなわち無関心と闘っているのかもしれません。私たちは、さまざまな面で、またさまざまな程度に、たやすく無関心になってしまいます。無関心の反対は、心を向けること、そして招かれたときに婚宴へ行くことを、心から大切にすることです。
今日、あなたが招かれている婚宴について黙想しましょう。あなたは、世の救い主と一つになる栄光に満ちた祝いに加わるよう招かれています。自分の人生を余すところなく主に委ねるよう招かれています。聖性へ、道徳的な誠実さへ、神への揺るぎない忠実さへ、人々への奉仕へ、限りを知らない愛へ、そして、さらに多くのものへと招かれているのです。小羊の婚宴に入ることは、これからの生涯、日々、一日のあらゆる瞬間に実現されなければなりません。神はあなたを招いておられます。あなたは全身全霊で「はい」と答えますか。
わたしたちを招いてくださる主よ、あなたは、霊的婚姻を通してあなたと一つになるようにとの招きを、すべての人が余すところなく受け入れることを望んでおられます。あなたはわたしたちを、栄光に満ちた婚宴と永遠の喜びへと招いておられます。あなたの招きに決して無関心になることなく、いつも心を尽くして応えることができますように。愛する主よ、あなたを愛しています。ますます深くあなたを愛することができるよう助けてください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
困難な状況の中で愛すること
年間第20週金曜日
「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。これが最も重要な、第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。隣人を自分のように愛しなさい。」マタイ 22:37–39
わたしたちは、上の箇所をよく知っています。これは、イエスを試そうとしてやって来たファリサイ派の人々に対する、イエスの答えです。それより前に、サドカイ派の一団がイエスをわなにかけようとして失敗していました。そこで今度はファリサイ派の人々が、主をわなにかけようと全力を尽くしたのです。もちろん、イエスの答えは完全なものでした。そして答え終えると、今度はイエスのほうから、ファリサイ派の人々に答えられない問いをいくつかなさいました。そのとき、彼らはそれ以上、あえてイエスに質問しようとはしませんでした。
信仰にかかわる事柄について人から問いを突きつけられることは、ときにわたしたちの助けとなります。自分が実際に何を信じているのかを明確にする機会になるからです。イエスは、ご自身のために何かを明確にする必要はありませんでした。それでも、策略を前にして明確な答えを示されたのは、ファリサイ派の人々と、注意深く耳を傾けていたご自分に従う人々の双方を助けるためでした。
信仰にかかわる事柄について、誰かから問いを突きつけられたことがありますか。もしあるなら、どのように応じたでしょうか。聖霊から与えられる導きと明晰さによって答えることができましたか。それとも、混乱し、答えられないままその場を離れたでしょうか。人から自分の信仰を問われるとき、その結果は、わたしたち自身の混乱にも、理解の深まりにもなり得るのです。
イエスはこの問いにそのように答えることで、モーセを通して十戒として与えられた律法全体を、新しい、要約された形で示されました。十戒の最初の三つは神への愛にかかわり、後の七つは隣人への愛にかかわります。イエスが示された第二の掟、「隣人を自分のように愛しなさい」は、第一の掟から導かれるものです。どのように「自分を愛する」のでしょうか。それは、イエスが示された第一の掟、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」を実行することによってです。何よりも神を愛するなら、隣人を愛するとは、神がその隣人を愛されるのと同じように、その人のうちに住まわれる神を愛することにほかなりません。
神への愛に反する形で隣人を「愛する」こともあり得ると心に留めておくのも役立ちます。たとえば、隣人への愛が神への愛に反する形で表されるなら、それは真の愛ではありません。隣人が、道徳に著しく反する生き方を選んだとしましょう。その人を神の愛をもって愛するには、どうすればよいのでしょうか。「あなたの不道徳な生き方を支持します」と言うことではありません。そうするのは神の愛ではなく、その人の永遠の魂を気遣うことよりも、その人が自分にどう応じるかを気にする、利己的な愛の形です。客観的に見て道徳に反する道へと迷い込んだ人への正しい愛の示し方は、その人を愛していること、けれどもその人が行っている選択を支持するわけではないことを伝えることです。相手がそれに否定的な反応を示すかもしれません。それでも、その人の永遠の救いを気遣うことは、ただ仲良くしていたいというどんな望みにも優先されなければなりません。
隣人を愛することは、ときに難しいものです。とりわけ、その「隣人」が神から離れてしまった家族の一員であるときは、なおさらです。けれども、そのようなときには、サドカイ派やファリサイ派の人々が、絶えずイエスをわなにかけようとしたことを思い起こしてください。イエスはいつも、愛に満ちた完全な答えを与え、彼らの誤った方向へ導く言葉によって混乱が残ることを決してお許しになりませんでした。わたしたちも同じように、人を愛するのが難しいときには、神の知恵と愛に頼らなければなりません。そのような場合には、相手が自分は愛されていると分かるように、また、わたしたちの愛が神の純粋な愛からそれることのないように、一つひとつの対話を神に導いていただかなければなりません。
今日、何よりも神を愛し、神に向けるその同じ愛をもって隣人を愛するという、あなたに与えられた崇高な招きについて黙想しましょう。誰かを愛することが難しいと感じるなら、ただ神の愛のうちに、その人に対して忠実であり続けるために必要な知恵を祈り求めてください。また、自分の愛が試されていると感じるなら、主に頼ってください。主があなたを導き、言葉を最も必要とするときに、必要な言葉を与えてくださるように。
愛に満ちた主よ、あなたはすべての人を完全な愛で愛し、わたしたち皆に、心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くしてあなたを愛するよう呼びかけておられます。また、あなたが他の人々に注がれる愛をもって、その人たちを愛するよう呼びかけておられます。あなたとすべての人、特に愛することが最も難しい人々への愛で、わたしの心を満たしてください。愛する主よ、あなたに結ばれて他の人々をどのように愛すればよいかを悟る知恵をお与えください。その人たちが自らの人生の中で、あなたの完全な愛を体験できますように。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
謙遜……偉大さへの道
年間第20週土曜日
「あなたがたの中で最も偉い者は、あなたがたに仕える者でなければなりません。自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。」 マタイ 23:11–12
自分にとって理想的な未来を思い描くとしたら、それはどのようなものでしょうか。予算や使える資源に制約がないと想像してみてください。したいことは何でも選べ、行きたい所にはどこへでも行け、望むどんな活動でも楽しめると想像してみてください。自分にできる最高の体験を思い描いてみてください。それはどのようなものでしょうか。ほとんどの人は、想像できるかぎりの最高の楽しみに浸ることを、すぐに思い浮かべるでしょう。最高にぜいたくな滞在先、最上の食事、最も美しい景色、そして、この上なくくつろいだ楽しいひとときに満ちた生活です。けれども、それは本当に「自分にとって理想的な未来」なのでしょうか。
上に掲げた福音の箇所は、きわめて明快です。偉大さは、仕えることのうちにあります。高められるのは、謙遜を通してのみです。理想の生き方とは、享楽や娯楽、ぜいたくなどに満ちたものでしょうか。決してそうではありません。理想の人生、最も偉大な人生、最も高められた人生とは、できるかぎりへりくだって人々に仕える人生です。この箇所でイエスがわたしたちに語っておられることは、基本的にそういうことです。あなたはそれを信じますか。
イエスが同じ文の中で「最も偉大な者」と「しなければならない」という言葉を使っておられることに注目してください。この二つは、どちらもきわめて明確な言葉です。「最も偉大な者」より偉大な人はいません。そして、その偉大さに至る道を歩むには、例外なく、ほかのすべての人に仕える者とならなければなりません。この真理は、多くの点で、人間が偉大さについて抱くたいていの考えに反しています。ふつう、ある人が「偉大だ」と見なされると、その人は人々に仕えてもらい、ほかの大多数の人には向けられないような敬意と尊重をもって扱われます。たとえば、たいへん重要な人物を自宅の夕食に招いたなら、おそらくあなたはその人の世話をするでしょう。もちろん、ここでいう奉仕は、食卓で給仕したり食事を用意したりすることにとどまりません。それも人に仕え、愛を表す祝福された方法ですが、イエスが考える奉仕は、それをはるかに超えています。真に偉大な者として、わたしたちはどのように仕えればよいのでしょうか。とりわけ、自らへりくだることによってです。謙遜は、わたしたちが人にささげることのできる、最も偉大な奉仕の形なのです。
イエスは、疑いなく、これまで生きたすべての人の中で最も謙遜な方でした。この聖なる徳を完全に分かち合っていたのは、その母だけでした。謙遜によって、人はあらゆる利己的な傾きから抜け出し、他者の善のために自らの愛を向けることができます。イエスはまず、愛する母の胎内で受肉することによって、これを実践されました。永遠の神の御子が人となられたのは、それが何らかの形でご自分の利益になるからではありません。わたしたちを愛し、ご自分の受肉がわたしたちの益となるからこそ、そうなさったのです。神の御子が、人々にあざけられ、侮辱され、ついには殺されるままになさったのは、それが何らかの形でご自分の益となるからではありません。死の中に入り、死を滅ぼすことによって、わたしたちがご自分とともに復活できるようにするためでした。わたしたちのために、そうしてくださったのです。福音書のどの箇所をたどっても、イエスがなさったすべてのことは他者のためであり、利己的な望みからなされたことは一つもないと分かります。主が日々ささげられた、この自分自身を与える奉仕は、主が生きられた驚くべき謙遜の実りでした。イエスは、人々への愛から、また謙遜をもって、すべてのことを行われました。それは、人々の永遠の魂に救いと変容をもたらすためでした。
わたしたちは人生において、根本的な選択をしなければなりません。わたしは自分のために生きるのでしょうか。それとも、他者のために生きるのでしょうか。全面的に他者のために生きている人は、ごくわずかしかいないように思われます。自分から目を離し、他者の善だけに目を向けるのは難しいことです。しかし、他者のために生きることが、自分自身の偉大さと、最終的に高められることへの道でもあると気づくなら、それはずっと容易になります。人々に仕えること、とりわけ、人々が神により近づけるよう力を尽くすという霊的な仕方で仕えることこそが、あなたを偉大にします。それ以外の何ものにも、それはできません。このことを信じ、実践してください。
今日、真に偉大な人生について黙想してください。とりわけ、どうすればそのような人生を生きられるかを黙想してください。どうすれば、もっと徹底して人々に仕えることができるでしょうか。どうすれば、人々が聖性に至ることを自分の第一の目標にできるでしょうか。どうすれば、人々が神への愛を深めるのを助けることができるでしょうか。へりくだり、自分から他者へと目を向けてください。そうすることは、人々にとっても、あなた自身にとっても、永遠にかかわる変化をもたらすでしょう。
至高の主よ、あなたは他のすべてのものをはるかに超えて高くおられます。あなたは偉大さそのものです。愛する主よ、あなたが歩まれた生涯は、この上なく謙遜なものでした。しかし、あなたが世の救いを成し遂げられたのは、まさにこの謙遜のうちにおいてでした。他の人々に仕えることを人生の最も中心となる使命とし、あなたの偉大さに倣うことができるよう助けてください。わたしの主よ、あなたを愛しています。あなたとともに他の人々を愛し、仕えることができますように。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
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