もうやめましょう!
この章には、ある種の困難を抱えている方にとって、よい知らせがあります。特に、一つの考えにとらわれたり、分析しすぎたり、罪への過度の恐れから行動したり、神のみ旨を生きようとして疲れ果てたりしがちな方には、まさにこの章が役立つでしょう! ここから受け取れる、単純明快なメッセージの一つは、「もうやめましょう!」ということです。考えすぎるのをやめましょう。分析しすぎるのをやめましょう。霊的な事柄について、必要以上に自分を不安にさせるのをやめましょう。罪を過度に恐れるのをやめましょう。そして、自分自身のことばかり考えるのをやめましょう!
これは大切なことです。霊的な完全さを求める人は、ときに頑張りすぎてしまうからです。実際には、力みを少なくし、霊的にも、知的にも、感情的にも、過度の重荷を自分に課すのをやめる必要があります。ときには、ただ神をもっと信頼し、自分自身に頼ることを少なくする必要があるのです。
さらにこの章では、観想の祈りを通して神によって霊魂に注賦される、信仰、希望、愛の徳を取り上げます。これらの注賦された徳を理解することは、霊魂がそれらをより十全に受けるために、どのようにふさわしく自らを整えればよいのかを明らかにする助けとなります。それを踏まえて、この章では、完全に至るために必要な浄化の次の段階、すなわち霊の能動的な夜を取り上げます。
全体の概観
霊的成長のこの時点では、以前の黙想の祈りに戻るのではなく、持続する注賦的観想の祈りを受けるために、自らを整えなければなりません。黙想、内省、思考、推論がもたらしうるもの以上のものが必要だからです。あなたに必要なのは、純粋な姿の神ご自身です。これは、注賦的観想が習慣的なものとなるに任せることによってのみ可能になります。この注賦的観想が完成され、習慣的なものとなるのは、霊的成長の次の段階である霊の受動的な夜に至ってからですが、霊魂は、この霊の能動的な夜の段階のうちに、この祈りを受け入れる態勢をさらに整え始めなければなりません。
観想の祈りが、感覚的な霊的欲求をいかに浄化し、人を霊的な罪(霊的な高慢、貪食、怠惰など)から解き放ち、霊魂を数えきれないほどの徳で満たすかについては、すでに述べました。今度は、注賦的観想がどのように成長し続け、知性、記憶、意志をすっかり造り変えていく必要があるのかを見ていかなければなりません。注賦された信仰によって与えられる新たな認識は成長し続け、注賦された希望によって人生の新たな方向がいっそう十全に与えられ、注賦された愛によって神と隣人への新たな愛が強められます。
たとえだけで明確な全体像を示すことはできませんが、一つのたとえを用いて、この変化を説明してみましょう。あなたが看護師になるために学校に通っているとします。最初の三年間は、教室や家庭で学び、看護についてあらゆることを勉強します。用語や理論、そのほか多くのことを学びます。しかし、看護について学ぶだけでは、看護師になることはできません。そこで、看護学校の最終学年には実習に入り、実際に看護師の仕事をします。学校で学んだことはすべて役に立ちますが、実際に看護師として働くことで、その学びは現実のものとなります。看護師として行動することを通して、新たな認識が与えられるのです。それまでの学校での学びがこの時点への備えとなったとしても、実地の経験を通して新しい仕方で学ぼうとしなければ、いつまでも「理論上の」看護師にとどまり、本当の看護師にはなれません。
霊的成長のこの新たな段階も、それと同じです。霊的成長の歩みの中でこれまで学んできたことは、すべて大きな価値があります。しかし、神との完全な一致に入るには、それだけでは十分ではありません。今しなければならないのは、いわば「実地訓練」を受け入れることです。それは、継続する注賦的観想を通して実現します。信仰、希望、愛の新たな深みが、あなたの霊のうちに、きわめて深いところまで習慣的に根づかなければなりません。それまでに与えられた信仰、希望、愛の賜物は、深まり、清められ、変容しなければなりません。これは、「絶えず祈る」ことを学び、毎日、一日のどの時間にも神の霊に導かれるようになるにつれて起こります! 注賦的観想が絶え間ない習慣となるとき(霊の受動的な夜の間に)、あなたは神との霊的婚姻、すなわち神との一致の深みへと引き入れられます。
信仰、希望、愛があなたの知性、記憶、意志に習慣的に注賦されるようになるためには、注賦された信仰、注賦された希望、注賦された愛とは何か、また、それらが最も純粋な形でどのように神からあなたに伝えられるのかを理解することが不可欠です。霊の能動的な夜の間、霊魂は、この三つの注賦された徳を受けるうえでのさまざまな妨げを取り除くことによって、これらの賜物を受けるために自らを整えます。ここからは、この三つの徳が霊魂に注賦されるときに何が起こるのかを見ていきます。その後で、この過程の能動的な部分、すなわち、それが実現する助けとなるように、あなた自身に何ができるのかを見ていきます。
純粋な注賦的信仰と知性
霊魂は、最初の回心を経験し、安定したキリスト者としての生活を送り始めると、まず神について多くのことを学びます。神について多くの真理を発見していくこの過程は、心を躍らせ、奮い立たせ、慰めと励ましを与えてくれます。神が啓示された真理について祈り、黙想するにつれて、信仰による新たな内的発見が、キリストとともに歩むキリスト者の道への大きな熱意を呼び起こします。霊魂は自らの生活を変え始め、習慣となった罪やこの世への執着から離れる最初の過程を経て、新たに見いだした神との関わりによって、自らの生活に安定と明確さがもたらされるようになります。
多くの場合、霊的成長のこの段階は何年も続きます。キリスト者は、私心なく、人を思いやり、福音を宣べ伝え、忠実に生きることを学び、神と他の人々のために多くのことを行います。キリストと教会の教え、福音書、そして聖人たちの生涯にも、深く親しむようになります。
伝統的に、霊的成長のこの段階は「照明の道」と呼ばれ、非常に安定した、心安らかな生き方です。この状態にあって、神が魂をさらに深みへと招き始め、また、その人が祈りのうちに当初ほどの慰めを感じられないことに気づき続けるとき、忍耐強く続けることが欠かせません。そのような時期を歩み続けることで、魂はより強くなり、神にいっそう深く献身するようになります。霊的な慰めを失うことによって、魂は、祈りたい、信じたいと感じるからではなく、もっと深い何かによって、祈り、神を信じることができるようになります。信仰が神によってより直接に注がれるにつれて、魂の神を知る知識は清められていきます。
魂と神との関係が深まっていることを示す最も明らかな徴は、祈りの中で、また愛のわざを忍耐強く続ける中で経験する霊的な渇きです。また、それまできわめて明瞭で情熱的だった信仰が、いくらか不明瞭で、それほど情熱的ではないものへと変わり始めていることに気づくかもしれません。それは、信仰が、神についての知識から、神ご自身を知る知識へと移りつつあるからです。知性に信仰の賜物が注がれるにつれて、魂は、神が自分の理解できる範囲を超えておられることに気づき始めます。神は「解き明かせる」方ではありません。神のいのちのさまざまな側面について魂が以前に持っていた知識は、次第に明瞭さを失い、視覚的でも、個別的でも、感覚的でもなくなっていきます。それに代わって、魂には、霊的な次元で神ご自身についての、より全般的な知識が与えられ始めます。しかしそれは、感覚を通して得た概念や観念を用いるのではなく、神によって直接に注がれるため、以前よりも確かな知識です。その結果、魂は確信を深め、神についてはるかに広い理解に至ります。しかしこれは、以前のように感覚的な概念や形象を用いて説明することのできない知識です。
それは、人間の知性が理性的な推論を用いても、神を完全に理解することはできないからです。ですから、実際に神をより深く知り始めると、かえって神を以前ほど明瞭には知らないように感じる経験をすることになります。無限である神を知れば知るほど、神がまさに無限であり、理解し尽くすことも、知り尽くすこともできず、どれほど思いを巡らせても及ばないほど驚くべき方であることに気づくのです。このように新しく、より純粋な仕方で神を見いだすことによって、魂はへりくだり、その知識は、より豊かでありながら、実際にはいっそう不明瞭になります。そのため、十字架の聖ヨハネは、信仰が知性に一種の「闇」をもたらすと述べています。それは否定的な意味ではなく、へりくだって無限なるものを見いだすという意味です。
たとえば、太陽について知りたいと思ったと想像してみてください。そのために、太陽の光をもっと取り込めるよう、瞳孔を広げてもらうとします。それから、よく晴れた日に外へ出て、太陽を直接、一時間見つめ続けようとします。そのようなことをしたら、どうなるでしょうか。失明してしまうでしょう。瞳孔は、太陽そのものの輝きを受け止めきれません。あまりにも強すぎるからです。
人間の知性についても同じことがいえます。注賦的観想を通して、神がご自身についての知識を知性に直接注いでくださることにより、神がより純粋な姿で認識されると、知性は神の無限の神秘の前で目がくらみ、暗くされ、圧倒されます。しかし、ここで理解しておく必要があるのは、太陽を直接見つめることとは違い、神についての注賦的観想は知性を損なわず、むしろ知性を照らし、光を与え、強めるということです。ただし、この注がれた信仰の経験においては、神ご自身を知り始めることができるように、これまでの神についての知識すべてが暗くされるのです。
このたとえをさらに進めて、新しい仕方で太陽の輝きのすべてに出会うことができるという、特別な恵みを与えられたと想像してみてください。その熱によって傷つくことも、その明るさによって目がくらむこともないと想像してください。さらに、太陽まで運ばれ、すぐ近くで見たり触れたりできると想像してみてください。さまざまな箇所を調べ、その中心そのものに入り、太陽に関するあらゆることを調べます。それは驚くべきことでしょう。そして、それこそ、神があなたに望んでおられることなのです。神は、ご自身の純粋な姿にあなたが出会うことを望んでおられます。しかし、そのためには、神の本質そのものを知ることができるよう、あなたの自然的な知性が変容されなければなりません。これには時間がかかります。それでも、あなたは、神をより確かに知っていることが分かるでしょう。同時に、その知識はより全般的で、個別性の少ないものとなり、これまでの知識すべてが暗くされることとして経験されるでしょう。
純粋な注賦的希望と記憶
初心者の状態から熟達者の状態へと進み、今は照明の道を歩んでいる人々は、霊的な概念という形で、神についてのすばらしい記憶を数多く持っているでしょう。神が自分の人生においてしてくださったすべてのことについて、多くの記憶を持っているはずです。これまで学び、経験し、望み、見いだしてきたすべてのことの記憶は、その人のあり方に大きな影響を与え、その人格に欠かせないものとなっているでしょう。
神や祈り、そしてキリスト者としての生活の中での経験について持っている、数多くのよい霊的な記憶に加えて、一人ひとりは、自然的な記憶をほかにも数多く、さらには罪にまつわる記憶さえ抱えています。過去の傷、喜び、労苦、人間関係、活動などは、無数の経験を記憶に刻み込みます。よいものもあれば、それほどよくないものもあります。
わたしたちの記憶は、わたしたちの希望に直接影響します。十字架の聖ヨハネは、希望はわたしたちが所有していないものに向けられると説明しています。そこで、記憶の中に「所有する」ものが多ければ多いほど、神への希望は小さくなると続けて説明しています。地上的な仕方で何かにしがみつき、それを振り返り、思い巡らし、考えることが多ければ多いほど、神への純粋な希望を抱くことは難しくなるのです。
記憶が生き生きと活発に働いているとき、わたしたちの希望は、長年にわたって神と人生について学んできた多くの事柄に、良くも悪くも基づくものとなります。神は忠実な方であり、困難な時にも導いてくださると学んできたなら、新たな苦難が生じたときにも、より容易に神を信頼できるでしょう。その場合、その人の希望は、自分の人生における神の忠実さを過去に体験したことに基づいています。これは初心者にとってはよいことですが、魂が完徳を目指すにつれて、やがて危険も生じてきます。
さらに、ほかにも多くの自然的な体験や罪の体験をしてきた熟達者でさえ、それらの体験を何度も振り返りたいという誘惑にしばしば駆られます。そこで十字架の聖ヨハネは、霊の能動的な夜においても、また受動的な夜においてはいっそう、記憶は「忘れる」という過程を経なければならないと説明します。それによって記憶は、罪の体験であれ、自然的な体験であれ、さらには霊的な体験であれ、過去のあらゆる体験をもはや「所有」しなくなるのです。
人生における悪や世俗的な体験を忘れることは、賢明な目標として多くの人に受け入れられやすいでしょう。そうした記憶の多くが、怒りや分裂、同じことを執拗に考え続けること、その他の罪などにつながるのは明らかです。過去のことに思いを巡らせて、膨大な時間と労力を浪費してしまう人さえいます。
しかし、人生におけるよい霊的な体験を「忘れる」ことについてはどうでしょうか。なぜそれが賢明なのでしょうか。十字架の聖ヨハネは、注賦された信仰が、神について多くを知ることから、神そのものをより純粋に知ることへと魂を導くように、注賦された希望も記憶に同様の働きを及ぼすと説明します。神によって希望が記憶に注がれると、魂は、過去のあらゆる体験や神についての知識を、もはや希望のよりどころとはしなくなります。将来に向けて自分なりの「よい」考えを生み出す必要もなくなります。その代わりに、魂は突然、もっとよいものを得始めます。過去の考えや体験に基づいて知性で推論する自らの働きによってではなく、神ご自身によって導かれるのです。こうした霊的な考えを所有することを手放すので、記憶はいわば「貧しく」なります。しかし、希望が生まれるのは、この貧しさの中においてのみです。希望が目を向けるのは、自分が所有していないもの、目にしていないものです。「信仰とは、希望する事柄の確かさであり、見えない事実の証しです」(ヘブライ人への手紙 11:1)。
注賦された希望の働きによって、魂が、神について過去に抱いていたあらゆる考えや、かつての洞察、啓示、体験、その他の形で得た神についての知識を忘れ始めるというのは、奇妙に聞こえるかもしれません。しかし、神についての知識が薄れ始め、もはや希望のよりどころではなくならないかぎり、純粋に注賦された希望、すなわちわたしたちには見えないものは、まだ知られていない神のみ旨へと魂を最も完全な仕方で導く助けとはなりえません。
だからこそ、この章の冒頭で、分析しすぎたり、考えすぎたり、良心の過敏さにとらわれて行動したり、多くのことに不安を感じたりする人には、うれしい知らせがあると述べたのです。その知らせとは、何もかも理解しようとするのをやめてよい、ということです。まず、神との一致へ向かう歩みにとって有害で役に立たない、過去のあらゆる記憶への執着を手放すことから始められます。わたしたちが思い出したくなる事柄の中には、忘れるほうがよいものが数多くあります。日常のごく普通の活動でさえ、自分の務めを果たすために必要な場合にのみ思い起こすべきです。その務めを終えたら、記憶は神に立ち帰り、ただ神だけに心を向けるべきです。
さらに、魂は神のみ旨を果たしながら前進しようとする中で、自分でつくり上げた希望を脇に置き、神、ただ神だけを希望の源とし始めるよう努めるべきです。考えすぎる人は、自分が確かに神に希望を置いていることに、突然気づくでしょう。しかしその希望は、神について記憶しているすべての事柄をもとに、長く複雑な思考や推論を重ねた結果に基づくものではありません。また、自分が最善だと考えること、つまり神の計画についてのあくまでも自分自身の考えに基づくものでもありません。そうではなく、この新たな希望は純粋であり、注賦されたものです。それはただ、そこにあるのです。そのとき魂は、新たな安らぎと信頼、確信を見いだします。信仰と同じく、この希望の賜物にも、いくらか明瞭には捉えられないところがあり、一連の論理的な結論に基づくものではありません。それは、その人の人生における神の現存だけに基づいており、その神の現存が、神のみに希望を置く心を植え付けるのです。
純粋に注賦された愛と意志
キリスト者として歩み始めた人は、利己心ではなく愛を選ぶ決断を、一つまた一つと重ねていかなければなりません。魂は神のことばを聞き、神の法に従って行動するよう促され、自らの行いを糾明し、罪深い生き方を改めようと努めます。こうするのは、魂の行いが、よりはっきりと神の愛にかなうものとなるためです。これが初心者における愛の段階です。魂は、よい決断を一つまた一つと重ね、愛をもって行動し始めると、自らの行いに大きな喜びを味わいます。その結果、神に用いられることを愛するようになります。愛は魂の霊的な糧となり、さらに愛するよう魂を促します。
しかし、やがて神は、単なる初心者の段階を超えた過程において、その人の意志に愛を注ぎ込み、意志を清め始められます。心地よい感情や慰め、喜びは、その人の行動を促す力では次第になくなっていきます。その代わりに、神はその人の意志に直接、愛を注ぎ込み始められます。そして魂は、慰めに動機づけられた自分自身の判断によってではなく、神のうちに、神によって愛し始めるのです。
注賦された愛において成長するこの過程は、心を引きつけるだけでなく、畏敬の念を呼び起こすものでもあります。そこで、初心者の生活における愛と、熟達者や完徳に達した人の生活における注賦された愛との違いを、さらに明確に見ていきましょう。
キリスト者としての生活の初めの段階では、人の意志は、しばしば霊的な感化を受けた情念や感情によって動かされます。初心者が神とそのみ旨を見いだすにつれ、魂の感覚的な部分に高揚感が生まれ、その高揚感が実際に動機となります。意志を動かすほかの要因には、すでに述べた希望、悲しみ、恐れといった自然的な情念があります。
人が進歩者としてこのより高い状態に生き始めると、愛は情念を通してではなく、直接意志に注がれ始めます。情念、すなわち神に仕える喜びや、神のために偉大なことを成し遂げたいという、より自然的な希望は薄れ始めます。さらに、自然的な悲しみや恐れも、その人に及ぼす影響が小さくなります。その結果、その人の意志はもはや情念に、たとえ善い情念であっても、導かれなくなります。それに代わって、神のみ旨そのものがその人の意志に愛を注ぎ、こうして神のみ旨が、その人の愛を動かす唯一の源となります。
しかし、それで終わりではありません。愛が直接その人の意志に注がれ、神だけがその行いを導かれるようになると、その人は、自分に働きかける神のみ旨が、自分の情念をも捉え、導き始めていることに気づくようになります。つまり、ある意味で完全な逆転が起こるのです。初めは、自然的な情念(喜び、希望、恐れ、悲しみ)が意志に影響を与え、それを導いていました。今や、注がれた愛だけが意志を導き、その人の意志が今度は自らの情念を導き、それを整え、神と隣人への愛のために用いるのです。
恒常的な観想への準備
ここまで読んで、信仰、希望、愛が注がれるこの過程で、自分はどのような役割を果たすのだろうと思っているかもしれません。確かに、皆さんには欠かせない役割があります。その役割は、積極的に、意識して、神の働きを妨げないように身を引くことと要約できるでしょう。
魂が、神がこの新しい、注賦という仕方で自分の生活に入ってこられるのを体験し始めると、しばしば、何かがしっくりこない、奇妙で、目新しく、戸惑うように感じることがあります。そのため、魂は神が注がれる働きにしばしば干渉し、神がその精神、記憶、意志を変容させるのを妨げてしまいます。そこで、神の働きを妨げないように身を引き、神が自分のうちで働かれるに任せるための、実践的な助言をいくつか挙げましょう。
信仰—神が皆さんの知性に信仰を注ぎ始められたら、それに抵抗しないでください。この注賦的観想が始まると、黙想したり考えたりしようと努めるよりも、静かに座っている必要があると感じるかもしれません。これまで神について知っていたことはすべて、神ご自身に比べれば何ものでもないと気づき始めるでしょう。それゆえ、これまで抱いていた神についての考えを、進んで手放し始めてください。それらが間違っていたということではありません。ただ不完全だったのです。聖パウロが、注がれる純粋な信仰を見いだすこの過程を歩んだときの言葉を思い起こしてください。
わたしたちが知ることは部分的であり、預言することも部分的だからです。しかし、完全なものが来ると、部分的なものは過ぎ去ります。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように考え、幼子のように判断していました。大人になったとき、幼子のすることを捨てました。今、わたしたちは鏡に映すようにおぼろげに見ていますが、そのときには顔と顔を合わせて見るのです。今、わたしが知ることは部分的ですが、そのときには、わたしが完全に知られているように、完全に知ることになるのです。(コリントの信徒への手紙一 13:9-12)
聖パウロは、物事を部分的にしか見ない幼子のあり方から、霊的に大人となり、よりはっきりと見るあり方へと移っていく途上にありました。
ですから、注がれた信仰において成長するための、最もよい実践的な助言は、ただ「それが起こるに任せる」ということです。それを無理に起こすことはできません。できるのは、神が自分のうちでそれをなさるに任せられるよう、自分を整えることだけです。実際、その過程に干渉することで、それをまったく止めてしまうことさえありえます。ですから、神がこの賜物を与え始められたら、その働きを妨げないように身を引き、変容が起こるに任せてください。神が望まれるときに、この新しく、より深い仕方でご自身を伝えてくださるに任せましょう。これを体験し始めたとき、奇妙に思えても驚かないでください。神についてのこれまでの知識を手放すことを恐れないでください。信仰が注がれるにつれ、まったく新しい、知るための過程を通らなければならなくなります。神についての明確な形をもった考え、概念、理解、洞察は薄れ、神を、新しく、全体的で、おぼろげでありながらも、深い確かさを伴う仕方で知り始めるでしょう。「太陽を見つめる」ようになり、その結果、生来の知性では、ある程度、目が見えなくなったような状態や暗闇を体験するようになるでしょう。しかし、霊のうちに受ける光は、それがどのように起こるのかを解き明かす必要さえなく、皆さんを変えていきます。考えることを控え、いっそう自分を委ねてください。
希望—信仰が注がれる場合と同じように、神が皆さんの記憶に純粋な希望を注ごうとされるときには、そうしていただいてください。そのためには、自分自身で思い描いた希望を手放します。言い換えれば、人生についての考えや想像、計画、野心などを自分で生み出し、過去の神の体験を土台として将来への希望を組み立てることはしないでください。初心者にとっては、それでよいのです。しかし今、照明の道を歩む進歩者として、より高い仕方で希望するように招かれます。記憶は、過去のすべての罪、自然的な知識、さらには霊的な知識さえも忘れる過程を通らなければなりません。最後に挙げた霊的な知識については、かつて抱いていた霊的な考えや希望が悪いということではありません。むしろ、それらは、なりうるほどには完全ではないのです。それゆえ、神は皆さんを直接導こうとされ、これまで学んだことの多くを「忘れる」よう望んでおられます。
この過程であなたにできる最善のことは、安らぎ、沈黙し、過去だけでなく現在も未来も神に委ね、すべてを導いていただくことです。もうすべてを自分で理解しようとする必要はありません。これまで自分がしてきたことをすべて分析する必要もありません。未来への道筋を自分で定める必要もありません。それは神がしてくださり、一歩ずつあなたを導いてくださいます。このように、神によって注がれる希望は、魂を大いに自由にし、人間的、この世的な喜び、希望、悲しみ、恐れから生じる多くの重荷を取り除いてくれます。
愛――愛が注がれ始めると、情念と意志の働き方が全面的に秩序づけ直されていくのが分かるようになります。もはや、神や他の人々への情念に駆られて愛そうとするのではなく、神だけがあなたを愛へと動かす源になります。そのため、あなたの意志は清められなければなりません。情念ではなく神に自分を動かしていただくことに、戸惑いを感じるかもしれません。神があなたの内でこのことを行ってくださるようにするには、情念が静まり、沈黙し、安らぐままにする心構えが必要です。そうして、神があなたの愛の純粋な源となってくださると、情念が新たな形で戻ってくるのが分かるでしょう。今や神のみ旨に所有されたあなたの意志が情念を治め、もはやその逆ではなくなっていることに気づくでしょう。あなたの意志は、確かにあなたの行動を司り、あなたの意志は、確かに神から注がれる純粋な愛によって導かれます。あなたは、英雄的に、深く、揺らぐことなく愛するための新たな力を得るでしょう。
あなたの果たすべき務めは、この移行が起こるのを受け入れることです。情念が後に意志の統御のもとで再び立ち上がることができるように、まずそれが静まるのを受け入れなければなりません。神が、ただ神だけが、あなたの人生を司ってくださるように、神のみ旨に自分を委ねることを求めなければなりません。初めのうち、この委ねは、あなたの側からの明確な意志をもってなされる必要があります。しかし、あなたが同意するにつれて、神が引き受け、愛のうちにこの変容を完成してくださいます。
忍耐――最後にもう一つ、実践的な助言があります。魂はあらゆる形の苦しみを耐え抜くことを学び、忍耐の徳において深く成長しなければなりません。知性、記憶、意志の変容は容易なことではなく、多くの場合、苦しみを伴います。その苦しみは、内的な渇き、激しい誘惑、試練、屈辱を通して訪れることがあります。しかし、魂が、いわば「試験に合格し」、徳において強くなるためには、こうした苦闘が必要なのです。祈りがこれまで述べてきた注賦的観想へと変えられるにつれて、忍耐は成長していきます。そして、次章で述べる霊の最終的な受動的浄化を通してのみ、完成へと至ります。
祈るときに……
霊的成長のこの段階、すなわち進歩者の段階にある人は、日常的に観想へと引き寄せられ、それまでの黙想の実践を手放す必要がありますが、それでも、ある決まった仕方で祈ることや、特定の黙想を始めることさえ必要になるときがあります。以下に掲げるのは、ロヨラの聖イグナチオが記した優れた祈りです。知性、記憶、意志を委ねようとする祈りなので、この段階で用いることができます。
主よ、わたしの自由のすべてを取り、お受けください。
わたしの記憶も、知性も、
そして意志のすべてを、
わたしが持ち、自分のものと呼ぶすべてを。
すべては、あなたがわたしに与えてくださったものです。
主よ、それをあなたにお返しします。
すべてはあなたのものです。み旨のままにお用いください。
ただあなたの愛と恵みだけをお与えください。
それだけで、わたしには十分です。
アーメン。
この祈りに加えて、祈りを始めるときには、次の三つを求めることが助けになります。
- 純粋な信仰の暗さと何も見えない状態の中に、知性を深く沈めるよう努めてください。そのためによいイメージは、神を、太陽そのものよりも明るく、あなたの上に輝き注ぐ純粋な光として、心の目で見ることです。その輝きはあまりにも圧倒的なので、神についてあなたが持っているほかのあらゆる知識は見えなくなります。あなたに見えるのは、ただ神の輝きだけです。
- 神について記憶していることをすべて忘れるよう努めてください。ただ祈るのではなく、神について考えようとする誘惑が、何度も繰り返し訪れるでしょう。自分の人生のさまざまな断片をつなぎ合わせようとして、あれこれと筋道を立てて考えたくなるでしょう。それを忘れてください。すべて手放してください。記憶を空にするよう努めてください。そうすれば、神は、純粋なご自身と注賦された希望の賜物だけで、あなたの記憶を完全にご自分のものとしてくださるのです。
- 自分がしなければならないあらゆる選択を手放すよう努めてください。あらゆる好み、あらゆる霊的な望み、神が自分に求めておられると自分で「考える」すべてのことへの執着を離れてください。その代わりに、ただ神のみ旨のうちに安らいでください。神を待ち望んでください。神がお望みになるとき、ふさわしい時に、ふさわしい仕方で導いてくださいます。神があなたの意志から、あなた自身のあらゆる決定や好みを取り去ってくださるのを受け入れて初めて、神はご自分のみ旨によって、あなたの意志を完全にご自分のものとすることがおできになるのです。