
エリサベトがマリアの挨拶を聞くと、胎内の子が躍りました。エリサベトは聖霊に満たされ、大声で叫んで言いました。「あなたは女性の中で最も祝福された方、あなたの胎の実も祝福されています。わたしの主の母が来てくださるとは、どうしてこのようなことがわたしに起こるのでしょう。あなたの挨拶の声が耳に届いたそのとき、わたしの胎内の子は喜びに躍りました。主がお告げになったことは実現すると信じたあなたは、幸いな方です。」 ルカ 1:41-45
わたしたちの聖母は、御子の十字架の前に立ち、長い三時間にわたって、御子の地上の生涯における、心を強く揺さぶるあらゆる瞬間や出来事を思い巡らすことができました。おそらくその心は、洗礼者聖ヨハネがエリサベトの胎内からイエスを証しした、初めのころへと戻っていたことでしょう。
聖ヨハネは、世の救い主がそこにおられることを感じ取りました。知性ではこの神秘を十分に理解できませんでしたが、霊においては理解していました。喜びに触れられたヨハネは躍りました。それは自分の意志による応答ではなく、聖霊の促しによるものでした。ヨハネはこの喜びの賜物を受け、胎内から応えたのです。エリサベトはその喜びを感じ取り、神の母に、そしてわたしたち皆に、それを表しました。
わたしたちの聖母が十字架につけられた御子を見つめていたとき、何年も前に味わったあの瞬間の喜びが、平安と慰めをもたらしていたことでしょう。御父は、十字架上の御子をお見捨てになったのではありません。どうしてお見捨てになることなどあるでしょう。この瞬間に、御父と聖霊がおられないなどということが、どうしてあるでしょう。何年も前、聖ヨハネのうちに喜びを呼び起こしたのは聖霊でした。そして今、イエスの母のうちに、御子の死さえも超える喜びを再び呼び起こしていたのも、聖霊でした。
母マリアが十字架につけられた御子を見つめていたとき、その喜びは、ただ御子を見つめているという事実から生まれていたのでしょう。マリアは、血とあざに覆われたその奥に、御子の神聖な魂を見ていました。十字架刑の恐ろしさにもかかわらず、御子の受肉の喜びが消え去ることは決してありませんでした。御子は神であり、同時に、マリア自身の血肉を分けた息子でもあったのです。なんという喜び、なんという祝福、なんという賜物でしょう。
今日、人生でどのようなことを経験しても、神はいつもあなたとともにいてくださるという事実を黙想してください。どれほど大きな苦しみのただ中にあっても、神はともにいてくださいます。その現存こそ、喜ぶに値するものです。この喜びは、人生で出会うありとあらゆるものをしのぎます。今日、わたしたちの聖母とともに神の御子の苦しみを見つめながら、神がともにいてくださる喜びを心に迎え入れてください。
こよなく愛する母よ、あなたの目は、かつてないほど恐ろしい光景を見つめていましたが、あなたの心は喜びに躍っていました。あなたが感じた喜びは、人々が御子に何をしようとも、御子は依然として神であり、あなたの息子であり続けるという、聖なる、そして単純な事実から生まれたものでした。御子がともにおられることは、いつも希望と喜びを呼び起こし、何ものもそれを奪うことはできませんでした。
愛する母よ、人生でどのようなことに耐えなければならなくても、神である御子がともにいてくださることから目を離さずにいられるよう、わたしのために祈ってください。神である御子の現存が、わたしをいつも喜ばせてくれる喜びとなりますように。
わたしの最も尊い救い主よ、あなたがどれほど打ちたたかれ、傷つけられていても、神であるあなたがわたしの人生にともにいてくださることを、わたしは喜びます。あなたの受肉と、わたしとの一致を喜びます。人生の苦しみによって、あなたがともにいてくださる喜びがかき消されることを、決して許しませんように。
愛する母よ、わたしのために祈ってください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
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