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四旬節第2週

光のように白くなる

四旬節第2主日(A年)

イエスは、ペトロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られました。すると、三人の目の前でその姿が変わり、顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなりました。マタイ 17:1–2

上にある「光のように白く」という表現は、なんと心を引くことでしょう。「光のように白い」とは、どれほどの白さなのでしょうか。

四旬節第2週を迎えるわたしたちに、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの目の前で姿が変わるイエスの、希望に満ちた姿が示されます。三人は、神の御子であり、至聖なる三位一体の第二の位格である方の、永遠の栄光と輝きをほんのわずかに垣間見ます。彼らは驚きに打たれ、畏敬の念に包まれ、目を見張り、この上ない喜びに満たされます。イエスの顔は太陽のように輝き、その衣はあまりに白く、清く、まばゆいため、想像しうる限り最も明るく、最も清らかな光のように輝いています。

なぜ、この出来事が起きたのでしょうか。なぜイエスはこのようになさり、この三人の使徒にこの栄光に満ちた出来事を見ることをお許しになったのでしょうか。さらに考えてみるなら、なぜわたしたちは四旬節の初めにこの場面を黙想するのでしょうか。

簡単に言えば、四旬節は、自分の生き方を吟味し、自分の罪をこの上なくはっきりと見つめる時です。日々の生活の混乱からいったん立ち止まり、自分の歩んでいる道を見直すために、毎年与えられる時なのです。自分の罪を見つめることは、つらいものになりえます。気持ちが沈み、落胆や希望の喪失、さらには絶望への誘惑にさえ陥ることがあります。しかし、絶望への誘惑には打ち勝たなければなりません。それに打ち勝つのは、自分の罪を無視することによってではなく、神の力と栄光に目を向けることによってなのです。

主の変容は、イエスの苦しみと死に向き合う備えをする三人の使徒に、希望を与えるために示された出来事です。イエスが彼らの罪を引き受け、その結果を耐え忍ばれる姿を目にする備えとして、彼らはこの栄光と希望を垣間見せていただくのです。

希望を持たずに罪に向き合うなら、わたしたちに破滅は避けられません。しかし、イエスがどなたであり、わたしたちのために何をしてくださったかを心に留めて罪、すなわち自分自身の罪に向き合うなら、そのことはわたしたちを絶望へではなく、勝利と栄光へと導きます。

使徒たちは、目の前でイエスの姿が変わるのを見ていると、天からの声がこう告げるのを聞きました。「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者。この方に聞きなさい」(マタイ 17:5b)。御父はイエスについてこう語られましたが、わたしたち一人ひとりについても、そう語ることを望んでおられます。わたしたちは主の変容のうちに、自分の人生の行き着くところと目標を見いだす必要があります。御父は、わたしたちからすべての罪を取り除き、ご自分のまことの息子、娘であるという大きな尊厳を授けて、この上なく白い光へと変えることを望んでおられます。そのことを、最も深い確信をもって知る必要があるのです。

今日、自分の罪について黙想しましょう。ただし、その際には、変容によって示された、神であるわたしたちの主の栄光に満ちた本性についても黙想してください。主は、わたしたち一人ひとりに、この聖性の賜物を授けるために来られました。これがわたしたちの召命です。これがわたしたちの尊厳です。わたしたちは、このような者とならなければなりません。そのための唯一の道は、神がわたしたちの生活のあらゆる罪を清め、恵みに満ちたご自分の栄光あるいのちへと引き寄せてくださるに任せることです。

変容されたわたしの主よ、あなたは使徒たちの目の前でまばゆく輝き、わたしたちすべてが招かれているいのちの美しさを、彼らが証しできるようにしてくださいました。この四旬節の間、あなたを信頼し、罪をゆるすだけでなく、わたしを造り変えることもできるあなたの力を信頼して、勇気をもって自分の罪に向き合えるようお助けください。あなたの神のいのちの栄光にいっそう豊かにあずかることができるよう、これまで以上に深く罪に死ぬことができますように。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。


栄光のうちに変容する

四旬節第2主日(B年)

イエスは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、人々から離れ、高い山に登られました。すると、三人の目の前でその姿が変わり、衣は、地上のどんなさらし職人にもさらすことができないほど、まばゆい白さになりました。マルコ 9:2–3

イエスの多くの教えは、多くの人にとって受け入れがたいものでした。敵を愛すること、自分の十字架を担ってご自分に従うこと、他の人のために自分のいのちをささげることを命じ、完全な者となるよう招かれたのですから、それらは控えめに言っても、厳しい要求でした。そこでイエスは、わたしたちすべてが福音の求める難しい課題を受け入れる助けとなるよう、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを選び、ご自分が真にどなたであるかを、わずかながら示されました。ご自分の偉大さと栄光を、彼らに垣間見せられたのです。その姿は、間違いなく彼らの心に残り、主が彼らに課された聖なる要求のゆえに、落胆や絶望への誘惑を感じるたびに、彼らを支えたことでしょう。

主の変容に先立ち、イエスは弟子たちに、ご自分が苦しみを受けて死ななければならないこと、そして弟子たちもその足跡に従わなければならないことを教えられました。そのことを思い起こしてください。そこでイエスは、想像も及ばないご自分の栄光の一端を弟子たちに示されました。神の栄光と輝きは、まことに想像を超えるものです。その美しさ、荘厳さ、輝きを理解し尽くすことはできません。天国でイエスと顔と顔を合わせてお会いするときでさえ、わたしたちは神の栄光という理解を超えた神秘の中へ、永遠に、ますます深く入っていくのです。

わたしたちには、この三人の使徒のように、イエスの栄光の姿を目の当たりにする恵みは与えられていません。それでも、彼らが栄光に触れた体験は、わたしたちもその体験の実りを受けられるよう、思い巡らすために伝えられています。キリストの栄光と輝きは、単に身体に現れるものではなく、本質的に霊的な現実でもあるので、主はわたしたちにもご自分の栄光を垣間見させてくださることができます。人生の折々に、イエスは慰めを与え、ご自分がどのような方であるかを、わたしたちの内にはっきりと感じさせてくださいます。祈りを通して、特にわたしたちが何の留保もなく主に従うという徹底した選択をするとき、ご自分がどのような方であるかを感じ取らせてくださるのです。それは毎日の体験ではないかもしれませんが、信仰によってこの賜物を一度でも受けたことがあるなら、人生で困難に直面したとき、そのことを思い起こしてください。

今日、天国で今、ご自分の栄光を余すところなく輝かせておられるイエスを黙想してください。人生の中で絶望や疑いに誘われるとき、あるいは、イエスがあまりにも多くのことを求めておられると感じるときには、いつでもそのお姿を思い起こしてください。イエスが本当はどのような方であるかを、心に呼び起こしてください。この使徒たちが何を見て、何を体験したのか、想像してみてください。彼らの体験を自分自身の体験としても受け止めてください。そうすれば、主がどこへ導かれようとも、日々、主に従うことを選べるようになるでしょう。

栄光の姿に変えられたわたしの主よ、あなたは、わたしの理解を超えるほど、まことに栄光に満ちておられます。あなたの栄光と輝きは、わたしの想像力で捉えられるものをはるかに超えています。いつも心の目をあなたに向け、絶望に誘われるときには、変容されたあなたのお姿によって力づけられるよう、助けてください。わたしの主よ、あなたを愛し、希望のすべてをあなたに置きます。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。


主の変容の喜び

四旬節第2主日(C年)

ペトロはイエスに言いました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために。」 ルカ9:33

ペトロは胸を躍らせていました。おそらく、それまでに経験したことのないほどの高揚を感じていたのでしょう。実際、胸を躍らせていたというだけでは、到底言い尽くせません。圧倒されていたと言うほうがふさわしいかもしれません。なぜでしょうか。神の栄光と輝きを、ほんのわずかながら垣間見る恵みを受けたからです。

これは主の変容の出来事です。イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れ、ともに高い山に登られました。この三人の使徒は、これから何が起こるのか、まったく知りませんでした。おそらく道中では、なぜ山に登らなければならないのかと、心の中で不平を言っていたことでしょう。しかし、この山は、天へと上っていくわたしたちの旅を象徴しています。そこへ行くには、心を集中させることと意欲、献身と決意が必要です。そしてそこは高い所、日常の出来事から離れた場所なのです。

こうして険しい山道を登っていた彼らは、突然、驚きと畏れに打たれて立ち止まりました。目の前で、イエスが栄光に輝く姿に変わられたのです。その衣は、彼らがそれまでに見たどんな白よりも白くなっていました。そして、偉大な律法の授与者モーセと偉大な預言者エリヤが、彼らの前でイエスと語り合っていました。

そのとき、ペトロの頭の中では何が起こっていたのでしょうか。彼は何を体験していたのでしょうか。神の栄光と輝きを、ほんのわずかに垣間見ていたのです。その時までご自分の神性を覆い隠しておられたイエスが、その覆いをほんの少しだけ取り去られました。すると、その覆いの向こうから、この世の何ものにも収まりきらないほど明るく、主の神性が輝き出ました。ペトロ、ヤコブ、ヨハネは、どう考えればよいのか分かりませんでした。それでもペトロは、仮小屋を三つ、一つはイエスのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために建てたいと叫びました。その一瞬の体験の中で、いつまでもそこにとどまっていたいという願いが湧き起こったからです。

では、なぜイエスは、この使徒たちに、ご自分の栄光をほんの短い間だけ体験させられたのでしょうか。この先の道のりで、イエスのいつくしみを味わったその体験が必要になるからです。彼らは、自分たちが最終的にどこへ向かうのかを、いつまでも覚えておく必要がありました。この先に待ち受ける多くの十字架と苦しみに耐えるとき、この体験を大切に心に留めておく必要があったのです。そして、この体験を通して、人生という山を登る旅路で何に耐えなければならないとしても、それには耐えるだけの価値があると思い起こすことになるのです。山頂には、それほど大いなる栄光があるので、どのような苦難に耐えなければならなくても、それが大きすぎて耐えられないということは決してないからです。

神は彼らを通して、このメッセージをわたしたちに伝えたいと望んでおられます。わたしたちが彼らの体験を深く思い巡らし、その体験の中に身を置こうとすることを望んでおられるのです。それは、わたしたちもまた、旅路を進んでいく中で、自ら喜んで歩み続けられるようになるためです。

四旬節の初めにある今日、わたしたちが耐え忍ぶ十字架のすべてを、耐えるに値するものとしてくださる神の栄光について黙想しましょう。ペトロ、ヤコブ、ヨハネのこの体験を糧とし、彼らの体験を自分自身のものとするよう努めてください。神の栄光に慰められ、それこそが、歩み続けるすべての人に神が与えてくださる究極の約束であることを、決して忘れないでください。

栄光の姿に変えられたわたしの主よ、あなたの栄光と輝きによって慰められますように。直面する苦難や試練の中を進んでいくとき、この栄光を信じ、いつも心に留めることができますように。あなたはわたしに先立って道を歩んでおられます。ただあなたを信頼するなら、わたしの旅路を導いてくださいます。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。


心ではなく、行いを判断する

四旬節第2月曜日

「人を裁くのをやめなさい。そうすれば、あなたがたも裁かれません。人を罪に定めるのをやめなさい。そうすれば、あなたがたも罪に定められません。」 ルカ6:37

初めて会った人と、まだ話もしないうちに、その人についてどう思うかを、たちまち決めてしまったことはありませんか。少しよそよそしく見えたからかもしれませんし、どことなく表情に乏しかったり、気が散っているように見えたりしたからかもしれません。自分に正直になれば、他の人を即座に判断してしまうのは、とてもたやすいことだと認めざるを得ないでしょう。距離を置いているように見えたり、よそよそしく見えたり、温かい表情がなかったり、気が散っていたりすると、その人にはきっと何か問題があるのだと、すぐに考えてしまいがちです。

難しいのは、他の人についての判断を完全に差し控えることです。すぐに相手を好意的に受け止め、最もよい可能性だけを考えるのは、難しいことです。

反対に、演技がとても上手な人に出会うこともあります。そういう人は物腰がなめらかで礼儀正しく、こちらの目を見てほほえみ、握手をし、とても丁重に接してくれます。その場を離れるとき、「まあ、あの人は本当に何もかもきちんとしている」と思うかもしれません。

この二つの見方に共通する問題は、そもそも、よいにせよ悪いにせよ、人を判断するのは、本来わたしたちの立場ではないということです。好印象を与える人は、ただ「政治家」のように人付き合いが巧みで、どうすれば人を引きつけられるかを知っているだけかもしれません。しかし、人を引きつける魅力には、惑わされることもあります。

イエスのこの言葉で大切なのは、わたしたちがあらゆる面で、人を裁かないよう努めなければならないということです。人を裁くことは、そもそもわたしたちの役目ではありません。善悪を裁くのは神です。もちろん、善い行いに目を向け、それを見たときには感謝し、そこに見いだした善を認めて励ますべきです。また、よくない振る舞いにも気づき、必要に応じて正すべきであり、それを愛をもって行うべきです。しかし、行いについて判断することと、その人を裁くことは、まったく異なります。わたしたちは人を裁くべきではありませんし、自分も人から裁かれたり、断罪されたりすることを望みません。他の人に、わたしたちの心や動機を知っていると思い込んでほしくはないのです。

イエスのこの言葉から学べる大切な教訓の一つは、この世界には、人を裁かず、断罪しない人がもっと必要だということかもしれません。真の友となるすべを知り、無条件に愛する人が、もっと必要なのです。そして神は、あなたにもそのような一人になってほしいと望んでおられます。

今日、自分がどれほど頻繁に人を裁いているかを振り返り、周りの人が必要としているような友情を、どれほど差し出せているかを黙想しましょう。結局のところ、そのような友情を差し出すなら、あなたもまた、同じような友情を返してくれる人々に恵まれることでしょう。そうして、お互いに祝福を受けるのです。

主よ、人を裁かない心をお与えください。出会う一人ひとりを聖なる愛で愛し、受け入れることができるようお助けください。その人の過ちを優しさと毅然とした態度で正すために必要な愛を持てるように、また、表面にとどまらず、その奥にあなたがお造りになったその人自身を見ることができるようにお助けください。また、他の人々からの真の愛と友情をわたしにお与えください。そうして、あなたがわたしに受けてほしいと望まれる愛を信頼し、喜び味わうことができますように。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。


心の謙遜な人が高められること

四旬節第2火曜日

「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる。」 マタイ23:12

謙遜とは、いかにも矛盾したものに思えます。わたしたちは、偉大な者になるには、自分がうまくできることをすべての人に知ってもらわなければならないと、つい考えてしまいます。多くの人は、自分をできるだけよく見せ、ほかの人がそれに気づいて感心してくれることを望むという誘惑に、絶えずさらされています。わたしたちは、注目され、褒められたいのです。そして多くの場合、ちょっとした行いや言葉によって、そうなるように仕向けようとします。また、自分を実際以上に大きく見せようとしがちです。

その反面、だれかに批判され、悪く思われると、打ちのめされてしまうことがあります。だれかが自分について否定的なことを言っていたと聞くと、家に帰ってからも、その日一日、あるいはその週の残りの日々さえ、落ち込んだり、腹を立てたりするかもしれません。なぜでしょうか。自尊心が傷つけられ、その傷が痛むからです。謙遜というすばらしい賜物を見いだしていなければ、その傷は痛むのです。

謙遜は、わたしたちがありのままでいることを可能にする徳です。自分がまとっているかもしれない偽りの仮面を取り払い、ただありのままの自分でいられるようにしてくれます。自分のよいところも失敗も、落ち着いて受け止められるようにしてくれます。謙遜とは、自分の人生について正直で、偽りなくあり、そのような自分を安らかに受け入れることにほかなりません。

イエスは、上の福音の箇所で、すばらしい教えを与えてくださいます。それを生きるのはとても難しいことですが、幸せな人生を送るためには、まさに欠かせない教えです。イエスは、わたしたちが高められることを望んでおられます。ほかの人に気づいてもらうことを望んでおられます。わたしたちの善の光が、すべての人に見えるように輝き、その光がよい変化をもたらすことを望んでおられます。しかしそれは、偽りの姿を見せることによってではなく、真実のうちに実現することを望んでおられるのです。イエスは、本当の「わたし」が輝き出ることを望んでおられます。それが謙遜なのです。

謙遜とは、誠実で、偽りがないことです。そして人は、わたしたちのうちにそのような姿を見ると、心を動かされます。それは、世間的な意味で感心するというよりも、真に人間らしいあり方に心を動かされるということです。わたしたちを見てうらやむのではなく、わたしたちが本当に持っているよさを見いだし、それを喜び、感心し、見倣いたいと思うのです。謙遜によって、本当のあなたが輝き出ます。そして、信じられないかもしれませんが、本当のあなたこそ、ほかの人が出会い、知りたいと願う人なのです。

今日、自分がどれほど偽りなく生きているかを黙想しましょう。この四旬節を、思い上がりの愚かさが打ち砕かれる時にしてください。本当のあなたが輝き出るように、偽りの自己像をすべて神に取り除いていただきましょう。このように自分を低くするなら、神はあなたを受け入れ、ご自身の仕方で高めてくださいます。そうして、あなたの心は周りの人々に知られ、愛されるようになるのです。

完全な謙遜の主よ、わたしを謙遜な者にしてください。自分が何者であるかについて、誠実で正直でいられるようお助けください。そして、その正直さのうちに、わたしの心に生きておられるあなたのみ心の輝きが、わたしを通して他の人々にも見えるようにお助けください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。


犠牲をささげる生き方

四旬節第2水曜日

イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているのか分かっていない。わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが与えるものではなく、わたしの父がその人たちのために備えておられるものなのだ。」 マタイ20:22–23

よい意図を持つことは簡単ですが、それで十分なのでしょうか。上の福音の箇所は、イエスがヤコブとヨハネの兄弟に語られた言葉です。その前に、二人を愛する母親がイエスのもとに来て、王の座にお着きになるとき、自分の二人の息子をその右と左に座らせると約束してくださるよう願ったのでした。イエスにそのようなことを願うのは、少し大胆だったかもしれません。しかし、その願いの背後に母親の愛があったことは明らかです。

しかし、彼女は実際には自分が何を願っているのか分かっていなかったということに、心を留める必要があります。もし分かっていたなら、この「願い」をイエスに申し出ることはまったくなかったかもしれません。イエスはエルサレムへ上って行かれるところでした。そこで十字架という王座に就き、十字架につけられるのです。そのような状況の中で、ヤコブとヨハネがイエスと共にその王座に就けるかどうかが願われたのです。だからこそ、イエスはこの二人の使徒に、「わたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか」とお尋ねになります。二人は「できます」と答えます。そしてイエスは、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる」と告げて、それを確かめられます。

二人はイエスから、その足跡に従い、ほかの人々への愛のために、勇気をもって自らのいのちをいけにえとしてささげるよう招かれました。あらゆる恐れを捨て、キリストとその使命に仕えようとする中で、自分自身の十字架に進んで「はい」と答える心構えを持つよう求められたのです。

イエスに従うことは、中途半端に行うべきものではありません。キリストの真の弟子でありたいと望むなら、わたしたちも、その尊い御血の杯を魂の奥深くまで飲み、その賜物によって養われる必要があります。それは、自分のすべてを犠牲にするところまで、進んで自らをささげる心構えを持つためです。たとえ最大の犠牲を伴うとしても、何一つ惜しまずささげる覚悟と意志が必要なのです。

確かに、文字どおりの殉教者となるよう招かれる人はごくわずかです。しかし、わたしたちは皆、霊において殉教者となるよう招かれています。つまり、自分に死ぬほどに、キリストとそのみ旨に自分をすっかり委ねなければならないということです。

今日、イエスがあなたに、「わたしが飲もうとしている杯を、あなたは飲むことができますか」と尋ねておられることを黙想しましょう。何一つ惜しむことなく、進んですべてをささげることができますか。神と隣人へのあなたの愛は、その言葉の最も真実な意味で殉教者と呼べるほど、完全で、すべてを尽くしたものになれるでしょうか。「はい」と答える決意をし、イエスの尊い御血の杯を飲み、日々、自分のいのちを余すところなくいけにえとしてささげましょう。それには価値があり、あなたにもできるのです。

ご自身をいけにえとしてささげられるわたしの主よ、あなたと他の人々へのわたしの愛が、何一つ惜しむことのない、まったきものとなりますように。わたしの知性をただあなたの真理に、わたしの意志をあなたの道にささげることができますように。そして、尊い御血の賜物がこの旅路でわたしの力となり、あなたの完全で自己犠牲的な愛に倣うことができますように。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。


真の豊かさ

四旬節第2木曜日

その貧しい人は死ぬと、天使たちによってアブラハムの懐に運ばれた。金持ちも死んで葬られた。金持ちは陰府で苦しみながら目を上げると、はるかかなたにアブラハムと、そのそばにいるラザロが見えた。 ルカ16:22–23

もし選ばなければならないとしたら、あなたはどちらを望むでしょうか。金持ちになって、紫の衣をまとい、この世で欲しいものを何でも手に入れ、毎日ぜいたくに食べて暮らすことでしょうか。それとも、全身をできものに覆われた貧しい物乞いとなり、戸口で暮らし、飢えの苦しみを味わうことでしょうか。表面的に見れば、答えは簡単です。まずは、豊かで快適な暮らしのほうが魅力的に思えます。しかし、この問いを表面的に考えるだけではいけません。もっと深く目を向け、この二人の対照的な姿を全体として捉え、それぞれの内面の生き方が、永遠に生きるその魂にどのような影響を及ぼすのかを考えなければなりません。

貧しい人については、死ぬと「天使たちによってアブラハムの懐に運ばれた」とあります。一方、金持ちについて聖書は、「死んで葬られ」、「陰府で苦しみながら」過ごすことになったと述べています。では、あなたはどちらの人のようになりたいでしょうか。

この世でも、そして来世でも豊かでありたいと望むかもしれませんが、それはイエスの物語の要点ではありません。その要点は単純です。わたしたちはこの地上にいる間に、回心し、罪から離れ、聖書の言葉に耳を傾け、信じ、天の富という真の目標を見つめ続けなければならないのです。

この世で豊かであるか貧しいかは、本来、重要であるべきではありません。心の底からそう確信するのは難しいことですが、それでも、その確信を目指さなければなりません。わたしたちが心を向けるべきなのは、天と、そこで待っている豊かさです。そして、神のことばを聞き、この上なく惜しみない心で応えることによって、天に向けて備えるのです。

金持ちは、この世にいる間に、自分の門口に横たわる貧しい人の尊厳と価値を認め、愛といつくしみをもって手を差し伸べることで、応えることができたはずです。しかし、そうしませんでした。自分自身のことに心を奪われすぎていたのです。

今日、この二人の際立った対照、とりわけそれぞれを待ち受けていた永遠について黙想してください。自分の生活の中に、この金持ちの罪深い傾向が少しでも見られるなら、その罪を悔い改めてください。今日、悔い改めてください。出会う一人ひとりの尊厳と価値を見つめてください。そして、利己的な快楽や度を越した生活に心を奪われ、自分自身のことばかりに目を向けがちであるなら、真に心の貧しさを受け入れることを求めてください。ただ神だけに、そして神がわたしたちに啓示してくださったすべてを全面的に受け入れることからもたらされる豊かな祝福だけに、心を結ぶよう努めてください。

まことの富の主よ、どうかわたしを利己心から解き放ってください。むしろ、すべての人の尊厳に目を向け、その人々に仕えるために自分自身を注ぎ出せるよう助けてください。貧しい人、打ちひしがれた人、へりくだる人のうちに、あなたの姿を見いだすことができますように。そして、その人々の生活の中にあなたの現存を見いだすとき、あなたのいつくしみの道具となることを求めながら、その人々のうちにおられるあなたを愛することができますように。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。


拒絶が変えられるとき

四旬節第2金曜日

家を建てる者の捨てた石が、隅の親石となった。 マタイ 21:42

長い歴史の中で経験されてきたあらゆる拒絶のうち、ほかのすべてにまさって際立つものがあります。それは、神の御子に対する拒絶です。イエスのみ心には、純粋で完全な愛しかありませんでした。イエスは、出会うすべての人にとって最善のことだけを望んでおられました。そして、受け入れる人には誰にでも、ご自分のいのちを賜物として差し出そうとしておられました。多くの人がその賜物を受け入れましたが、拒んだ人もまた多くいました。

イエスが受けた拒絶は、深い痛みと苦しみを残したのだと理解することが大切です。確かに、実際に十字架につけられることは、並外れて苦痛に満ちたものでした。しかし、大勢の人から拒まれたことでみ心に受けた傷こそが、イエスにとって最も大きな痛みであり、最も深い苦しみをもたらしたのです。

この意味での苦しみは、愛の行為であって、弱さの表れではありませんでした。イエスは、高慢やご自分への低い評価のために、内面的な苦しみを味わわれたのではありません。むしろ、それほど深く愛しておられたからこそ、み心が痛んだのです。そして、その愛が拒まれたとき、真福八端で語られている聖なる悲しみが、イエスを満たしました(「悲しむ人々は、幸いである……」マタイ 5:4)。このような悲しみは、絶望の一つの形ではありませんでした。むしろ、相手からの愛を失うことを深く味わうものでした。それは聖なる悲しみであり、すべての人に対する燃えるような愛から生まれたものでした。

拒絶を経験すると、自分の感じている痛みを整理するのは難しいものです。感じている傷や怒りを、悲しみの対象となっている人々へのより深い愛へとわたしたちを駆り立てる「聖なる悲しみ」に変えるのは、非常に難しいことです。これは難しいことですが、わたしたちの主がなさったことなのです。イエスがそうなさった結果、世界に救いがもたらされました。もしイエスがただ諦めてしまわれたらどうなっていたか、想像してみてください。逮捕されたとき、イエスが無数の天使たちに、ご自分を救いに来るよう呼びかけておられたらどうだったでしょうか。「この人々には、そこまでする価値はない」と考えて、そうなさっていたらどうだったでしょうか。その結果、わたしたちはイエスの死と復活による永遠の救いの賜物を、決して受けることがなかったでしょう。苦しみが愛へと変えられることもなかったでしょう。

今日、拒絶は、悪と闘うために私たちに与えられている最も大きな賜物の一つとなりうる、という深い真理を黙想しましょう。最も大きな賜物の一つに「なりうる」のは、すべてが、最終的に私たちがどう応えるかにかかっているからです。イエスは、「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」と叫び、完全な愛をもって応えられました。究極の拒絶を受けるただ中での、この完全な愛の行為によって、イエスは教会の「隅の親石」、それゆえに、新しいいのちの隅の親石となられたのです。私たちはこの愛に倣い、ゆるすだけでなく、いつくしみに満ちた聖なる愛をも差し出す、イエスの力にあずかるよう招かれています。そうするとき、私たちもまた、それを最も必要としている人々にとって、愛と恵みの隅の親石となるのです。

いつくしみの主よ、わたしがその隅の親石となれるよう助けてください。傷つけられるたびにゆるすだけでなく、お返しに愛といつくしみを差し出すこともできるよう助けてください。あなたは、この愛の神としての完全な模範です。わたしもこの同じ愛にあずかり、あなたとともに「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか分からないのです」と叫ぶことができますように。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。


父の揺るぎない愛

四旬節第2土曜日

「急いで、いちばん良い服を持って来て、この子に着せなさい。手には指輪をはめ、足には履物を履かせなさい。肥えた子牛を引いて来て屠りなさい。そして、宴を開いて祝おう。この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」こうして、祝いが始まった。 ルカ 15:22–24

よく知られているこの放蕩息子の物語には、父のもとへ帰ることを選んだ息子の勇気が見られます。息子が帰ってきた主な理由は、どうにもならない窮状にあったとしても、このことには大きな意味があります。確かに、息子はへりくだって自分の過ちを認め、ゆるしてほしい、雇い人の一人のように扱ってほしいと父に願います。それでも、息子は帰ってきたのです。ここで答えるべき問いは、「なぜか」ということです。

息子が父のもとに帰った何よりの理由は、父の善良さを心の中で知っていたからだと言ってよいでしょう。父は善い父親でした。息子の生涯を通じて、愛と心遣いを示してきました。そして、息子が父を拒んだとしても、父に愛されていると息子がいつも知っていたという事実は変わりません。もしかすると息子自身、そのことを実際にどれほど深く分かっていたかさえ、自覚していなかったかもしれません。しかし、心の中にあったこの確かな認識こそが、父の変わらない愛に希望を抱いて父のもとに帰る勇気を、息子に与えたのです。

このことは、本物の愛はいつも働くということを示しています。愛はいつも実を結びます。わたしたちが差し出す聖なる愛を誰かが拒んだとしても、その愛は必ずその人に何らかの影響を及ぼします。真実の無条件の愛は、無視するのも退けるのも難しいものです。息子はこの教訓を悟りました。わたしたちも悟らなければなりません。

父の心を、祈りのうちにじっくりと思い巡らす時間を取りましょう。父が感じたに違いない痛みを思い巡らすとともに、息子の帰りを待ち望みながら抱いていたに違いない、絶えることのない希望にも目を向けましょう。遠くから帰ってくる息子を見たとき、父の心にあふれた喜びを思い巡らしましょう。父は息子に駆け寄り、十分に世話をするよう命じ、祝いの宴を開きました。これらはすべて、抑えきれない愛のしるしです。

これこそ、天の御父が私たち一人ひとりに抱いておられる愛です。御父は、怒りに満ちた神でも、厳しいばかりの神でもありません。私たちを再び迎え入れ、私たちと和解することを切に望んでおられる神です。私たちが困窮のうちに御父に立ち帰る、その瞬間に喜びたいと望んでおられます。たとえ私たちの心が定まらなくても、御父の愛には揺らぎがありません。御父はいつも私たちを待っておられ、私たちは皆、心の奥底でそのことを知っているのです。

今日、天の御父と和解することの大切さを黙想しましょう。四旬節は、ゆるしの秘跡を受けるのにふさわしい時です。この秘跡こそ、この物語そのものです。それは、わたしたちが罪を抱えて御父のもとに赴き、御父が惜しみなくいつくしみを注いでくださる物語です。告解に行くことには、恐れや気後れを感じるかもしれません。しかし、正直で誠実な心でこの秘跡に臨むなら、すばらしい驚きが待っています。神はわたしたちのもとへ駆け寄り、重荷を取り除き、それを過去のものとしてくださいます。この四旬節を、ゆるしの秘跡というすばらしい賜物にあずかることなく過ごしてしまわないようにしましょう。

あわれみ深い御父よ、わたしは確かに罪を犯します。あなたに背を向け、自分勝手に行動してきました。今こそ、心を開き、偽りのない心であなたのもとに帰る時です。ゆるしの秘跡において、その愛を受け入れるために必要な勇気をお与えください。あなたの揺るぎない完全な愛に感謝します。天におられる御父、聖霊、そしてわたしの主イエスよ、わたしはあなたを信頼します。

四旬節第3週

目次


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