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主の変容の栄光
主の変容の祝日、8月6日
するとペトロはイエスに言いました。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために。」ペトロは何を言えばよいのか、ほとんど分からなかったのです。彼らはそれほど恐れていたからです。すると雲が現れて彼らを覆い、その雲の中から声がしました。「これはわたしの愛する子。彼に聞きなさい。」マルコ 9:5–7
ご変容の少し前、イエスは弟子たちに、ご自分が多くの苦しみを受け、長老たちに排斥され、殺され、三日目に復活することを明かし始められました。弟子たちは、主から告げられたこの心を揺さぶる啓示を受け止めようと苦闘し、大きな恐れを抱きました。イエスは弟子たちに対する断固とした姿勢を変えず、恐れていたペトロを叱責さえなさいましたが、その一方で、三人の弟子にかけがえのない贈り物をお与えになりました。
各地を巡り、教えを宣べ伝え、奇跡を行い、十二人だけにご自分の受難について幾度も語られた後、イエスはペトロ、ヤコブ、ヨハネを誘い、祈るために一緒に高い山へ登られました。この弟子たちは、間もなく何を目にすることになるのか、おそらく全く知らなかったでしょう。険しく骨の折れる道を進みながら、彼らは、それまでの数か月間にイエスが行われた力ある業だけでなく、これから受ける苦しみについて語られた言葉をも、思い巡らしていたに違いありません。彼らがそのことに思い悩んでいると、驚いたことに、イエスは「彼らの目の前で姿が変わり、その服はまばゆいほど白く輝きました」。突然、律法と預言者を代表するモーセとエリヤが、彼らの前に現れました。旧約聖書のこの二人の人物の出現は、イエスが弟子たちに告げておられたことはすべて、昔からご自分について予告されていたことをことごとく成就するために起こるのだと、弟子たちに示すものでした。イエスは、弟子たちがご自分の言葉に十分に耳を傾けようとしないなら、モーセとエリヤの姿を見れば助けになるとお考えになったのかもしれません。しかし、イエスはさらに先へと進まれました。御父ご自身の声がとどろき、こう告げたのです。「これはわたしの愛する子。彼に聞きなさい。」つまり、この弟子たちが結局、イエスお一人の言葉には耳を傾けず、モーセとエリヤでさえ彼らを納得させられないとすれば、最後の望みは御父ご自身にあったのです。そしてイエスは、そのような恵みをお与えになりました。
ご変容は、まことにいつくしみのわざでした。この弟子たちは、それまでこのようなことを一度も見たことがありませんでした。しかし、イエスがこれから受ける苦しみと死について教えようとしておられた厳しい真実を、彼らが最終的に受け入れる助けとなったのは、おそらくこのいつくしみのわざだったのでしょう。天の御父ご自身がイエスについて証しなさったのであれば、イエスが語られたことはすべて信頼できるものだったのです。
福音書と、神が教会を通して与えてくださった多くの教えを読むとき、受け入れるのに苦労している教えがないか、考えてみてください。また、ご自身の生活の中で、個人的なこととして、神が求めておられると分かっていながら、受け入れ難いと感じることはないでしょうか。混乱が生じるとき、それは、わたしたちが耳を傾けていないか、神が語りかけておられることを十分に聞き取っていないか、あるいは理解していないことを意味します。わたしたちは、この三人の弟子のように、ご変容の主をこの目で見たり、御父の声をこの耳で聞いたりすることはありません。それでも、ご変容の主がモーセとエリヤと共におられ、御父ご自身がわたしたちにはっきりと直接語りかけておられるかのように、神が語られたすべてを信じることを選ばなければなりません。「これはわたしの愛する子。彼に聞きなさい。」この言葉は、弟子たちのためだけに語られたのではありません。わたしたちにも語られているのです。
今日、主がこの弟子たちにお与えになった、心を深く揺り動かす体験について黙想しましょう。その場に身を置き、モーセとエリヤがいる中、御父の声がとどろく中で、イエスがこの上なく栄光に満ちた姿へと変容されるのを目の当たりにするつもりで思い描いてみてください。御父があなたにも語りかけ、聖書と教会を通して、またあなた自身の良心のうちに語られたことはすべて真実であると告げてくださるのを、受け入れてください。この啓示を通して、心の最も深いところで確信へと導かれ、イエスの神性を認めるだけでなく、あらゆることにおいて「イエスに聞く」ようにしてください。
変容されたわたしの主よ、あなたは想像をはるかに超える栄光に輝いておられます。弟子たちがあなたをより深く信頼できるようにと、その栄光をほんのわずか垣間見せてくださいました。あなたがわたしに語られたことはすべて真実であると知り、わたしもいっそう深くあなたを信頼できますように。あなたの聖なるみ旨を受け入れる妨げとなるものが何もないよう、わたしの生活からあらゆる疑いと恐れを取り除いてください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
すべてを失い、さらに多くを得る
聖ラウレンチオ助祭殉教者の祝日、8月10日
自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至ります。ヨハネ 12:25
これは、イエスの数多くの力強い言葉の一つであり、衝撃的とさえいえる言葉です。これに似たイエスの言葉は、四つの福音書すべてに見られます。このヨハネの記述では、「愛する」と「憎む」という言葉が使われています。自分の命を愛することでそれを失い、自分の命を憎むことでそれを保つのです。初めて読むとき、「愛する」と「憎む」が誤って逆になっているのではないかと思うかもしれません。イエスが言おうとなさったのは、「自分の命を憎む者はそれを失う」、そして「自分の命を愛する者はそれを保つ」ということだと考えるかもしれません。しかし、イエスはそうおっしゃったのではありません。実際には、その反対をおっしゃったのです。
ここでの「愛する」と「憎む」という言葉は、わたしたちが普段使う意味で用いられているのではないと理解する必要があります。この箇所で、イエスは「愛する」という言葉によって、利己心や自己中心的なあり方を指しておられます。また、「憎む」という言葉によって、無私の心や、犠牲を伴って自分をささげることを指しておられます。言い換えれば、利己的に生きる者は最後にはすべてを失いますが、真に無私の心で自分をささげて生きる者は、最終的にすべてを得るのです。
主のこの深い教えは、恵みの賜物なしには理解しがたいものです。人間の理性だけでは、無私の生き方が善いものであるという考えを受け入れるのは難しいかもしれません。理屈で考えるなら、誰よりも自分を高めるほうがはるかによい、と結論づけるのは容易です。理性は、富や地位、権力、そしてすべての人からの尊敬を得ることに、幸福や「よい人生」があると結論づけるかもしれません。しかし、このような利己的で自己中心的な生き方は、人間的な次元だけで見れば魅力的であっても、実際には、真に善いものをすべて失う道です。それとは反対に、利己的であるよりも無私であることこそ最善だという結論に至るのは、神の恵みによって人間の理性が照らされるに任せるときだけです。無私であるとは、いつも他者の善に目を向けていることです。座り込んで自分のことばかり考え続けないことです。自分がどのような代償を払うことになっても、神と隣人への奉仕に身を尽くすことです。わたしたちは、神に仕え、神を愛するために、すべてを差し出さなければなりません。そうすることによってのみ、神はわたしたちが望みうる以上のものを返してくださるのです。
今日わたしたちが記念する聖ラウレンチオは、三世紀の助祭であり殉教者でした。この偉大な聖人は、神に「はい」と答えるために、自分の命さえも含め、文字どおりすべてを差し出しました。ローマの司教座聖堂の助祭として、困窮する人々に施しを分配する務めを託されていました。258年8月、皇帝は、すべての聖職者を死刑に処するという勅令を出しました。教皇が殺された後、彼らはラウレンチオを捕らえに来て、殺す前に、教会の財宝をすべて引き渡すよう求めました。ラウレンチオは、その宝を集めるために三日間の猶予を願い、その三日の間に、分け与えられるものをすべて貧しい人々に分け与えました。そして三日目に長官の前に出たとき、彼が連れてきたのは、教会の物質的な富ではなく、真の富でした。彼は、貧しい人々、体の不自由な人々、目の見えない人々、苦しむ人々を連れてきて、教会はまことに豊かであり、自分とともにいるこの人々こそ教会の真の宝であると宣言しました。長官は怒り、ラウレンチオに火刑を言い渡しましたが、ラウレンチオは自ら進んでそれを受け入れました。
今日、あらゆる面で完全に無私で、自分を与える生き方をするようにと、キリスト者として与えられた崇高な召命について黙想しましょう。自分のことばかり考えている場合が多いと気づいたなら、その習慣を変えるよう努めてください。神に、そして人々への奉仕に目を向けてください。自分自身の心配事よりも、周りの人々が必要としていることを大切にするよう努めてください。イエスがわたしたちにそうするよう呼びかけておられるからこそ、そうしてください。そして、イエスがわたしたちをそのような無私の生き方へと招いておられるのなら、それが最後には価値あるものとなることを、わたしたちは知り、信じなければなりません。
ご自身をいけにえとしてささげられたわたしの主よ、あなたは愛のゆえに、尊いいのちをすべての人のために与えてくださいました。そのいのちを余すところなくささげられたことによって、この栄光に満ちた賜物を受け入れる人々に救いがもたらされました。無償で与えてくださるこの賜物に心を開くだけでなく、あなたと人々に仕えるために自分自身をささげ、あなたの無私の生き方に倣うことができるよう助けてください。助祭殉教者聖ラウレンチオ、わたしたちのために祈ってください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
神の母の被昇天
聖母の被昇天の祭日、8月15日
「わたしの魂は主の偉大さを告げ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。神は身分の低いはしために目を留めてくださったからです。今から後、代々の人々はわたしを幸いな者と呼ぶでしょう。全能の方がわたしに偉大なことをしてくださったからです。そのみ名は聖なるものです。」 ルカ 1:46–49
今日は、ローマ典礼暦にある、聖母マリアをたたえる十七の記念日・祝日・祭日のうちの一つを祝います。今日の祝いは、聖母をたたえる四つの大きな祭日の一つです。言うまでもなく、主を除けば、神の母ほど荘厳にたたえられ、祝われる方はほかにいません。
聖母の被昇天の祭日は、聖母マリアが地上の生涯を終えられたとき、復活された御子とともにいて、至聖なる三位一体を永遠に礼拝するため、体も魂も天に上げられたという事実をたたえます。新しい天と地が創造され、すべての信者が復活し、新たな体をもって神とともに永遠に生きる、その栄光の日に先立って、マリアが天において体と魂を一つに結ばれたまま保っておられることを思うと、驚かずにはいられません。
わたしたちの信仰のこの教義は、教会のごく初期から信者たちによって受け継がれ、信じられてきました。とりわけ、聖母の栄光に輝く被昇天の際、最も近くにいた人々がその証人となったからです。しかし、教皇ピオ十二世がこれを荘厳に宣言し、この信仰の教えを、すべての人が受け入れ、信じなければならない信仰箇条として定めたのは、1950年11月1日になってからでした。教皇は、その宣言の中で次のように述べました。「……わたしたちは、次のことを神によって啓示された信仰箇条として宣言し、表明し、定義します。すなわち、汚れのない神の母、終生おとめであるマリアは、地上の生涯の歩みを終えられた後、体も魂も天の栄光へと上げられたのです。」
上に引用した福音の箇所は、マリアの賛美の歌、「マニフィカト」の冒頭です。この歌によって、マリアは神にこの上ない栄光を帰するだけでなく、ご自分がどのような者であるかをも明らかにしています。マリアは、「代々の人々」が「幸いな者」と呼ぶ方です。「全能の方が偉大なことをしてくださった」方です。永遠に「主の偉大さ」を告げ、その霊が救い主である神をとこしえに喜びたたえる方です。そして、神がこの上ない栄光へと高められた、最もへりくだったはしためなのです。
今日、全教会とともに、この上なく栄光に輝く、終生おとめであるマリアについて黙想しましょう。マリアは罪なく宿り、生涯を通して罪のない方であり続け、体も魂も天に上げられました。今はそこで至聖なる三位一体を礼拝し、あなたと全教会のために執り成しておられます。これは大きな喜びの祭日です。全教会と、天にいるすべての聖人とともに、この喜びを分かち合いましょう。
いとも栄光に輝く、常におとめなるマリア、神があなたのために成し遂げられたこの上なく栄光あるわざを、今日、あなたと、また全教会とともに喜びます。あなたはあらゆる美しさを超えて美しく、すべてにおいて汚れなく、わたしたちの最も深い愛を受けるにふさわしい方です。今やからだも魂も天の栄光にあずかっておられるあなたに願います。わたしのため、そして地上にいるあなたの愛するすべての子どもたちのために祈ってください。あなたの愛のマントでわたしたちを覆い、いつも神のいつくしみをわたしたちの上に注いでください。天に上げられた母マリア、あなたにより頼むわたしたちのために祈ってください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
バルトロマイの信仰
聖バルトロマイ使徒の祝日、8月24日
フィリポはナタナエルに出会い、こう告げました。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書き記した方を見つけました。ナザレの人、ヨセフの子イエスです。」しかし、ナタナエルは言いました。「ナザレから何かよいものが出るだろうか。」フィリポは言いました。「来て、見てください。」ヨハネ 1:45–46
バルトロマイとも呼ばれるナタナエルは、約束されたメシアを見つけたという友人フィリポの知らせに、強い反応を示しました。なぜナタナエルはこのように反応したのでしょうか。おそらく、約束されたメシアはナザレではなくベツレヘムから来るということが、ユダヤ人の間で広く知られていたからでしょう。そのためナタナエルは、イエスの出身地とされていた場所を理由に、すぐに疑問を口にしました。もちろん、イエスは実際にはベツレヘムで生まれ、その後にナザレへ移り住まれたのですが、ナタナエルはすぐにはそのことに気づきませんでした。
今日、まず心に留めたい教訓は、わたしたちもナタナエルと同じように、十分に理解していないために、信仰に関わることをたやすく疑ってしまうということです。もしフィリポが来て、イエスはベツレヘムで生まれ、ナザレで育ったと伝えていたなら、ナタナエルはもっとすぐに心を開いていたかもしれません。しかし、この出会いが、ナタナエルの最初の疑いを伴ってこのように展開したのは、おそらく、この聖書の言葉に霊感を与えられた聖霊が、わたしたちに大切な教訓を学んでほしいと望まれたからでしょう。わたしたちが学ぶべき教訓は、何かがすぐには理解できないというだけで、真理に対して心の扉を閉ざしてはならないということです。疑いは決して神から来るものではありません。この福音の箇所にある喜ばしい知らせは、ナタナエルがすぐにある疑いを口にしたにもかかわらず、フィリポの言葉に心を開き続けたということです。フィリポはその疑いに対して、これ以上ないほどふさわしい言葉で答えました。「来て、見てください」と言ったのです。
自分の人生について、あるいはわたしたちの信仰の多くの真理について、あなたには理解できずに戸惑っていることがあるでしょうか。このように思い悩んでいることがあるなら、フィリポの言葉に耳を傾け、それを自分に向けられた言葉として受け止めてください。「来て、見てください。」
フィリポがナタナエルをイエスのもとへ連れて行くと、ナタナエルはすぐに、イエスが「神の子」であり「イスラエルの王」であると、全面的な信仰を告白しました。これらの真理をナタナエルに確信させるために、イエスが語られた言葉はごくわずかでした。イエスはただ、いちじくの木の下に座っていたナタナエルを見たこと、そしてナタナエルが偽りのない人であると知っていることを告げられたのです。偽りがないとは、裏表がなく、実に正直で率直な人であるということです。ナタナエルがすぐにイエスの偉大さを悟ったのは、その魂のうちに働く恵みの賜物によるとしか考えられません。彼はイエスに会いに来て、内なる信仰の賜物によって信じたのです。
ナタナエルの姿から学べるのは、信仰をもって心を開き、自分の戸惑いを主のもとへ携えていくなら、すべてが明らかにされるということです。疑いへの誘惑は取り除かれ、人間の理性だけでは及ばないところにはるかに達する信仰を持つことができるようになります。
今日は、ナタナエルの心の誠実さと開かれた姿勢について黙想しましょう。必要なものを受けられると期待しながら、抱いているどんな問いも、すべて主のもとへ携えていってください。信仰は、通常、説得力のある議論や綿密な演繹的推論を通して生まれるものではありません。ふつうは、魂の内で語りかける神の声に、清く素直に心を開くことによって生まれます。しかし、信仰の賜物が与えられるとき、そこには疑いようのない聖なる確信も伴います。
愛に満ちたわたしの主よ、あなたはわたしたち皆を、ご自分のもとに来て、ご自分を見、ご自分を信じるよう招いてくださいます。あなたはまことに神の子、すべてを治める王です。どうかわたしの心を開き、あなたが語りかけようとしておられることをすべて受け入れられるようにしてください。疑いを捨て、あらゆることにおいてわたしを変えてくださる信仰へと至ることができますように。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
苦しみの中での忠実さ
洗礼者聖ヨハネの殉教の記念日、8月29日
ヘロデは、自分が結婚した、兄弟フィリポの妻ヘロディアのことで、洗礼者ヨハネを捕らえ、牢につないだ者でした。ヨハネはヘロデに、「自分の兄弟の妻を妻とすることは、律法で許されていません」と言っていたからです。ヘロディアはヨハネを恨み、殺そうと思っていましたが、できずにいました。マルコ 6:17–19
洗礼者聖ヨハネの苦しみと死は、イエスの苦しみと死に多くの点で重なります。二人はいとこ同士でした。マリアがエリサベトを訪問したとき、ヨハネは母の胎内で喜び躍り、わたしたちの主が神としてそこにおられることを、いち早く認めた一人でした。ヨハネは主の道を整える使命を受け入れ、聖なる簡素な生活を送りました。旧約の預言者のうち、最後にして最も偉大な預言者でした。イエスはヨハネについて、およそ女から生まれた者の中で、ヨハネより偉大な者はいないと言われました。こうした理由から、ヨハネの苦しみと死が、世の救い主の死と重なり、その前表となったことは、少しも驚くべきことではありません。
ヘロデはヨハネを神に仕える聖なる人と信じ、恐れていました。ヨハネが無実であることを知っていたので、ある種の後悔を抱きながら彼を投獄しました。同じように、ピラトもイエスに死刑を宣告する前、イエスには何の罪もないと認めていました。ピラトはイエスが無実だと知っていましたが、恐れに左右され、わたしたちの主を死刑に処することを選んだのです。
ヨハネがついに殺されたのは、ヘロデの、律法に反する妻であったヘロディアの憎しみと策略によるものでした。ヘロディアの怒りが武器となり、ヘロデにヨハネを死に追いやらせたのです。同じように、イエスの死を引き起こし、そこへと駆り立てたのは、当時の宗教指導者たちのねたみと怒りでした。ピラトはヘロデと同じく、初めはわたしたちの主に死刑を宣告することを望んでいませんでした。しかし、ヘロディアの憎しみがヘロデにヨハネを殺させたように、律法学者やファリサイ派の人々の執拗な憎しみが、ピラトにイエスの死刑を宣告させたのです。
ヨハネの死後、弟子たちの幾人かが遺体を引き取り、葬るためにやって来ました。ヘロデは、おそらく罪悪感から、それを許しました。わたしたちの主の場合も同じように、ピラトは幾人かの弟子と聖なる婦人たちに、イエスの遺体を墓へ運んで葬ることを許しました。
最終的に、イエスの死がもたらした善い実りは、イエスに対して犯された罪を限りなく上回りました。ヨハネについても同じです。殉教者として、キリストをあかしするために流したその血が、公の宣教活動で成し遂げたすべてを超える霊的な実りを結んだことは、確かだと言えます。
わたしたちは一人ひとり、主に倣うよう招かれています。ですから、洗礼者聖ヨハネからも励ましを受けるべきです。二人とも無実でありながら、大きな苦しみを受けました。二人とも、一部の人々から憎まれても、真理を語りました。二人とも、御父の計画に従っていのちをささげました。イエスはヨハネの救い主であり、ヨハネはただ、わたしたちの主に先立って道を備える者、主に仕える者でした。
今日、洗礼者ヨハネの主と一つに結ばれることによって、ヨハネの生き方に倣うようにと、神があなたに与えてくださった招きについて黙想しましょう。倣うための最初の形は、自分の使命に従って真理を告げ知らせることに身をささげるときに実現します。神はあなたにどのような使命をお与えになりましたか。勇気と力と決意をもって、最後まで忠実に福音を告げ知らせるよう、どのように招いておられますか。また、まずヨハネに、そしてわたしたちの主に加えられた不正についても黙想しましょう。その際、これまでの人生で受けたあらゆる不正を、ヨハネとイエスの生涯に照らして見つめてみてください。二人は不正から逃げませんでした。それをいけにえとして受け入れ、天の御父にささげました。イエスのいけにえは世の救いをもたらしました。ヨハネのいけにえは、その栄光に満ちた奉献にあずかるものにほかなりませんでした。二人とともに自分自身のささげものをし、御父の計画への深い愛と信頼をもって、ためらうことなくそうしてください。
この上なく栄光に満ちた主よ、あなたは洗礼者聖ヨハネを、あなたの到来と死に備えて道を整えるよう招かれました。ヨハネは殉教者としていのちをささげ、そのいけにえは豊かな善い実りを結びました。どうかわたしにも、勇気と力をもって人生の使命を忠実に果たし、ヨハネの足跡をたどる恵みをお与えください。不正に直面しても決して揺らぐことなく、それを受け入れて、あなたへの霊的なささげものとすることができますように。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
神の母の誕生
聖マリアの誕生の祝日、9月8日
「ダビデの子ヨセフ、恐れずに妻マリアを家に迎えなさい。マリアの胎内に宿ったこの子は、聖霊によって身ごもられたからである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子が、自分の民をその罪から救うからである。」マタイ 1:20–21
今日、わたしたちは世界の歴史の中でも、ひときわ重大な意味をもつ誕生の日を祝います。確かに、これより重要な誕生の日は、神である主ご自身の誕生の日だけです。しかし今日は、主の母であり、わたしたちの母でもある方をたたえます。
聖なるおとめマリアは、原罪の汚れを受けずにこの世に生まれました。無原罪の御宿りという賜物によって、堕落した人間の本性を経験することから守られていたのです。こうしてマリアは、堕落の後、人間の本性の完全さのうちに生まれた最初の人となりました。そして生涯にわたってこの恵みを受け続け、歩みの一歩一歩において、自由意志をもって神に応えました。
わたしたちは皆、誕生日を祝うことを喜びます。とりわけ子どもたちは大喜びしますが、たいていの人は、家族や友人が自分を大切にし、特別な仕方で祝ってくれる、年に一度のその日を楽しみにしています。ですから、聖母も地上におられた間、ご自分の誕生日を喜び、天国でもこの特別な祝いを喜び続けておられると、わたしたちは確信できます。もちろん聖母は、甘やかされたり、特別な注目を集めたりしたかったから誕生日を喜ばれたのではありません。ご自分の人生に神がなさったすべてのことに対して、霊的な深い感謝を抱いておられたからこそ、誕生日を喜ばれたのです。その喜びは、神である御子を除けば、おそらくだれの喜びにもまさるものだったでしょう。
聖母ご自身の立場に立って、その心と魂について思い巡らしてみてください。聖母は生涯を通して、至聖なる三位一体のそれぞれの位格と親しく結ばれておられたことでしょう。ご自分の魂のうちに生きておられる神を知り、神がご自分になさったことに畏敬の念を抱いておられたことでしょう。これらの恵みを、深い謙遜と並外れた感謝をもって思い巡らしておられたことでしょう。神がご自分のためになさったすべてのことを深く自覚しながら、神の視点から、ご自分の魂と使命を見つめておられたことでしょう。
聖母の誕生日を祝うことは、神がわたしたち一人ひとりに与えてくださった、驚くべき祝福について思い巡らす大切な機会でもあります。確かに、わたしたちは母マリアのように無原罪ではありません。わたしたちは皆、原罪を負って生まれ、生涯にわたって罪を犯してきました。それでも、一人ひとりに与えられている恵みの祝福は、まぎれもない現実です。わたしたちに必要なのは、これらの恵みを見る目を持つよう努めることだけです。たとえば洗礼は、魂に永遠に続く変容をもたらします。わたしたちの罪が、時としてその変容を曇らせることはあっても、その変容は永遠に続きます。わたしたちの魂は変えられるのです。わたしたちは新たにされます。心に恵みが注がれ、神の子どもとなります。そして、神がほかにも数え切れない仕方で祝福を与えてくださることに気づける魂にとって、ふさわしい応答はただ感謝だけなのです。
今日、神の母である聖なるおとめマリアの誕生日の、栄光に満ちた祝いについて黙想してください。まず、聖母ご自身の目を通して、その生涯を喜ぶよう努めてみましょう。恵みに満たされたご自分の魂を見つめたとき、聖母には何が見えたのか、想像してみてください。そして、そこから、あなた自身の魂についても喜ぶよう努めてください。神があなたのためになさったすべてのことに感謝してください。こうした数え切れない恵みを見る目を持つよう努め、聖母とともに神の祝福を喜びましょう。
最愛の母よ、お誕生日おめでとうございます。今日、あなたが無原罪の御宿りとこの世への誕生において神から受けられた、驚くべき賜物を喜びます。この日、あなたをふさわしく敬うことができ、とりわけ、恵みに満たされたあなたの魂の美しさを、よりはっきりと理解できますようにと祈ります。いつくしみ深い神がわたしに注いでくださった数えきれない恵みを、わたしも喜ぶことができるよう、お祈りください。愛する母よ、あなたを愛しています。尊いイエスよ、聖なるおとめマリアの心を通して、わたしはあなたを信頼します!
変容をもたらす十字架の力
十字架称賛の祝日、9月14日
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されました。それは、御子を信じる者が皆、滅びることなく、永遠のいのちを得るためです。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子を通して世が救われるためです。 ヨハネ 3:16–17
もしイエスが、世の救いのために十字架上でご自分のいのちをお与えにならなかったなら、十字架が「歓喜」のうちに仰がれることは決してなかったでしょう。十字架は、それ自体では死の道具、それも恐ろしく残酷な死をもたらす道具です。また、屈辱と拷問の道具でもあります。それなのに今日、十字架は聖なる、祝福されたものと見なされています。わたしたちは家に十字架を掛け、首から下げ、ロザリオの先に付いた十字架をポケットに入れ、その前で祈りの時を過ごします。今や十字架は、わたしたちが祈り、身を委ねて神に向かうための、崇められるしるしとなっています。しかし、そうなったのは、わたしたちが十字架上で救われ、永遠のいのちへと導き入れられたからにほかなりません。
一歩引いて、拷問と死をもたらす最悪の道具の一つが、今では地上で最も聖なるしるしの一つと見なされているという驚くべき真実を考えるなら、畏敬の念に満たされるはずです。この事実を理解することは、神にはどんなことでも、すべてのことがおできになるという気づきへと、わたしたちを導くはずです。神は最悪のものを用い、それを最善のものへと変えることがおできになります。死を用いて、いのちを生み出すことがおできになるのです。
今日祝う「十字架称賛」の祝日は、何よりもまず、神である御子の位格において御父がなさったことのゆえに、御父に栄光を帰す日です。同時に、神はわたしたちが人生で耐え忍ぶあらゆる十字架を「高く上げ」、それらを通して豊かな恵みをもたらすことがおできになると、謙虚に悟るべき日でもあります。
あなたにとって最も重い十字架は何でしょうか。最も大きな苦しみの源は何でしょうか。それを思い浮かべると、きっと心が痛むことでしょう。多くの場合、十字架や苦しみは、わたしたちが取り除こうとするものです。わたしたちはすぐに、人生の十字架を指して、幸せでないのはそのせいだと考えます。あれかこれが変わるか、取り除かれさえすれば、自分の人生はもっとよくなるのに、と考えてしまいがちです。では、あなたの人生におけるその十字架は何でしょうか。
実は、あなたにとって最も重い十字架がどのようなものであっても、それには、あなたの人生と世界において、恵みの真の源となる計り知れない可能性があるのです。ただし、それが可能になるのは、あなたが信仰と希望をもってその十字架を受け入れる場合に限られます。そうすることで、主はそれを御自分の十字架と結び合わせることができ、あなたの十字架もまた、キリストの十字架の称賛にあずかることができるのです。これは信仰のきわめて深い神秘であると同時に、わたしたちの信仰におけるきわめて深い真理でもあります。
今日、あなた自身の十字架について黙想してください。そのとき、それらを重荷として見ないように努めてください。むしろ、その十字架に秘められた可能性に気づいてください。祈りのうちに、自分の十字架を、キリストの十字架にあずかるようにとの招きとして見つめてください。自分の十字架に「はい」と答えてください。自ら進んでそれを選んでください。それをキリストの十字架と結び合わせてください。そうする中で、あなたが自由に十字架を受け入れることを通して、神の栄光があなたの人生と世界に現れるという希望を抱いてください。これらの「重荷」は、神の変容させる力によって変えられ、あなたの人生において、あなたを高く上げる源となることを心に留めてください。
いと高きわたしの主よ、救いをもたらすあなたの神としての力にこの上ない信仰を置き、助けを必要とするわたしはあなたに立ち返ります。あなたへの希望と信仰をもって、人生のあらゆる十字架を余すところなく受け入れるために必要な恵みをお与えください。どうかわたしの十字架を変容させてください。それらを通してあなたがあがめられ、それらがあなたの栄光と恵みをもたらす道具となりますように。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
母マリアの悲しみのみ心
悲しみの聖母の記念日、9月15日
イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアが立っていました。 ヨハネ 19:25
わたしたちの聖母、神の御子の母は、完全な愛をもって御子を愛しました。聖母はあらゆる徳を完全に体現していました。御子へのその愛は、わたしたちには到底想像もできないほどのものでした。マリアは奇跡によって御子を身ごもり、胎内に宿し、産み、乳を与え、育て、そのご生涯を通して愛し続けました。マリアがイエスに抱いていた愛の深さと美しさを想像することさえ困難です。一般に、母の愛は力強く、揺るぎなく、深く、優しさに満ちています。母マリアの汚れなきみ心と、そのみ心の中に生きている愛の驚くべき深さを想像してみてください。
上に引用した福音の箇所に描かれている場面も想像してください。この愛に満ちた母は十字架のもとに立ち、十字架につけられた御子を見つめながら、母としてのあらゆる徳を表し続けていました。御子への愛の深さを推し量るのが難しいのと同じように、イエスに対する残酷な仕打ちが繰り広げられるのを見つめながら、マリアが耐え忍んだ悲しみと内なる苦しみの深さを想像することも、非常に難しいことです。その極限の苦悶の時、マリアにできたのは、御子のそばに立ち、御子と共にいることだけでした。その時、マリアの愛は、御子への忠実さによって表されていました。
愛と悲しみ、あわれみと苦しみが、マリアの汚れなきみ心の中で一つに結ばれていたと知ることは、何と美しいことでしょう。その美しいみ心の中には、人間のあらゆる感情があり、それらは神の恵みによって力を与えられていました。その恵みによってマリアは、自分の持つ最も大きな贈り物、すなわち母であることそのものを、御子にささげることができたのです。マリアは生涯を通して真の母であり、御子が十字架にかけられていたこの時、母であることは、人間としての完全な表現において頂点に達しました。
わたしたちは皆、誰かに愛されることを切望しています。愛を与え、愛を受けることは、わたしたちが与え、また受けることのできる最高の贈り物です。わたしたちは愛するために造られたのであり、愛は人生に充足をもたらす源です。母マリアが十字架のもとに立っておられたとき、その人間としての心は、かつてないほど深く満たされていたに違いありません。その心が満たされていたのは、母としての愛を完全に実践しておられたからです。
今日、神の母の姿をじっと見つめてください。とりわけ、その人間としての心のうちに、どのようなことを経験しておられたのか、思い巡らしてください。神学者たちはこの黙想について何巻もの本を書くことができるでしょうが、その愛に満ちた心を理解する最良の道は、祈りのうちに黙想することです。今日、聖母に、ご自分の心を示してくださるよう願ってください。完全な母の愛を表すこの聖なる姿を、静かな崇敬のうちに見つめて座る時間を取ってください。そのとき、二つのことを心に留めてください。第一に、母マリアは、あなたにもこれと同じ深い愛を抱いておられるということです。それを疑ってはなりません。たとえあなたが罪のうちにあっても、あなたを見つめるマリアの心は、あわれみに燃えています。第二に、聖母の愛は、あなたの心をも満たし、あふれ出て、他の人々の人生へと注がれなければならないということです。わたしたちは皆、聖母のあわれみ、心遣い、忠実さ、いつくしみが、自分の心を通して流れ出るようにしなければなりません。あなたが聖母の心をもって愛する必要のある人は誰でしょうか。神の母の心にある愛を受けることを求め、その愛を与えることを求めてください。その愛を内に受け入れ、そして外へと流れ出るままにしてください。この愛を表す聖なる姿ほど美しく、畏敬の念を呼び起こすものは、この世にまことに何もありません。
わたしの汚れなき悲しみの母よ、あなたは完全な母の愛をもって、御子の十字架の下に立たれました。あなたの心は、あらゆる聖なる徳と結ばれた悲しみに満たされていました。この愛をいっそう深く理解し、わたしもあなたの愛に心を開くことができるよう、わたしのためにお祈りください。そうすることによって、わたしの周りで苦しみ、優しい思いやりといつくしみを最も必要としている人々に、あなたの心の愛を届ける道具となれますように。マリアの悲しみのみ心よ、わたしたちのためにお祈りください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
真の満たしを求めて
聖マタイ使徒福音記者の祝日、9月21日
「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのですか。」イエスはこれを聞いて言われました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人です。『わたしが望むのはいつくしみであって、いけにえではない』という言葉の意味を、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」マタイ 9:11–13
上に引用した箇所の直前で、イエスは、徴税人マタイが収税所に座って税を徴収しているのをご覧になりました。イエスは彼に近づき、「わたしに従いなさい」と、たった二語の簡潔な言葉で呼びかけられました。マタイはどうしたでしょうか。立ち上がってイエスに従い、ご自分の家での食事にイエスを招きました。これを見たファリサイ派の人々は、人を裁く冷酷な態度を示しました。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのですか」と言ったのです。彼らの反応と、それに続くイエスの答えは、わたしたちの主のいつくしみ深さをよく表しています。
イエスが「正しい人を招くためではなく、罪人を招くため」に来たと言われたとき、本当に正しい人々のことを指しておられたのではありません。たとえば、当時生きていた人の中で、イエスを除いて最も正しい方は、イエスの愛する母でした。そして、イエスが母を招かれたことだけでなく、母がいつも心を尽くしてその招きに応えたことも、確かだと言えます。しかし、イエスがここで語っておられたのは、「自分を正しいとする」人々のことでした。自分を正しいとする人とは、自分を高く評価し、神の真理を無視して、代わりに、自分自身の目にも他の人の目にも自分を立派に見せようとする人です。簡単に言えば、自分を正しいとすることは、偽りを信じることであり、実際、最悪の偽りを信じることです。それが最悪の偽りなのは、この罪によって、人がかたくななまま、自分の罪から抜け出せなくなるからです。自分を正しいとする人は、悔い改めることも、生き方を変えることも必要だとは思いません。ですから、神のことばに心を開かず、そのことばによって自分を変えていただこうともしないのです。
今日、わたしたちが敬う聖マタイは違いました。彼は確かに罪人でした。おそらく貪欲で、自分のお金に執着しすぎていたのでしょう。当時、徴税人は尊敬されていませんでした。ローマ人のために働くユダヤ人であり、そのため同胞への裏切り者と見なされていたからです。さらに、彼らはしばしば本来徴収すべき額を超えて金を取り立て、その一部を懐に入れていたため、盗人とも見なされていました。このため、多くのユダヤ人は徴税人を恐れてもいました。こうした不正な行為において、徴税人がローマの後ろ盾を得ていることを知っていたからです。
驚くべきことに、イエスは罪人であり徴税人であったマタイに近づき、確信をもって、ご自分に従う者となるよう招かれました。おそらくイエスには、彼の心の内が見えていたのでしょう。マタイが自分の生き方に満足しておらず、もっと大きなものを求めていることをご存じだったのです。ですから、イエスが従うようにと招かれたその瞬間、マタイの魂の内で何かが起こったことは明らかです。彼が立ち上がって主に従ったという事実は、イエスへと引き寄せられる霊的な力が、地上の富への欲望よりもはるかに強かったことを示しています。
この同じ真理は、わたしたち一人ひとりにも当てはまります。何に心を引かれようとも、人生の満足をどのように求めようとも、わたしたちを満たすものはただ一つしかない、というのが超自然の真理です。世界中のお金、地上のあらゆる権力や名声を手に入れたとしても、イエスに向き直り、従うまでは、魂の奥深くに平和を見いだすことはできません。この真理を人生の早い時期に学ぶ人もいれば、後になって学ぶ人もいます。そして、まったく見いださないままの人もいるのです。
今日、自分の人生にどれほど満足しているか、黙想してみましょう。何かが欠けているでしょうか。もしそうなら、人生の目標と、何を優先しているかを見つめてみてください。何について考え、語り、思いを巡らすことに、最も多くの時間を費やしているでしょうか。思いと心、そしてあらゆる望みを占めているのが主でないなら、人生に満たされなさを感じることになるでしょう。その場合は、聖マタイのあかしに目を向けてください。彼が今日、聖人であるのは、罪と貪欲に満ちた生活を捨て、貧しさのうちに従うようにというイエスの招きに応えたからです。しかし、聖マタイは、この世の目には貧しく、地上のものを手放したその生き方の中で、豊かに満たされ、天においても永遠にその豊かさのうちにとどまるのです。
すべての満ち足りる喜びの源である主よ、あなたはご自分の民すべてに、あなたに従うよう呼びかけておられます。その呼びかけにわたしの思いと心を開き、あなたの声を聞くだけでなく、心を尽くして応えることができるようにしてください。あなたからわたしを遠ざけるこの世のものへの執着を離れ、あなたが導かれる所ならどこへでも従っていけるよう、助けてください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
天の天使の軍勢
聖ミカエル、聖ガブリエル、聖ラファエル大天使の祝日、9月29日
「はっきり、はっきり言っておく。あなたがたは、天が開け、神の天使たちが人の子の上に上り下りするのを見ることになる。」ヨハネ 1:51
天国では、わたしたちはすべてを神がご覧になるとおりに見るようになります。その全体を見渡す眺めは、栄光に満ちているという言葉では言い尽くせないものです。そして、天国からの眺めの中でわたしたちを驚かせる多くの事柄の一つは、天上の存在が、神の国の実現に驚くほど力強い仕方であずかっていることです。熾天使、智天使、座天使、主天使、力天使、能天使、権天使、大天使、そして守護の天使は皆、オーケストラの一人ひとりが力を合わせて一つの美しい楽曲を奏でるのと同じように、神の恵みに協力しています。指揮者は神ですが、これらの天上の存在は、神の恵みの生きた道具として働き、神のみ旨が壮大に成し遂げられることにあずかっています。
今日の祝日は、聖書に記されている偉大な大天使のうち、ミカエル、ガブリエル、ラファエルの三人をたたえる日です。大天使ミカエルは、旧約聖書のダニエル書では守護する者として、ヨハネの黙示録とユダの手紙ではサタンと戦う者として描かれています。黙示録では、ミカエルはサタンを、ほかの堕落した天使たちとともに天から追い出します。大天使ガブリエルもダニエル書に登場し、ダニエルの幻を解き明かす者として語られています。新約聖書では、大祭司ザカリアが神殿でいけにえをささげているときに現れた天使がガブリエルであると記されています。その出現の際、ガブリエルはザカリアに、妻は高齢であるにもかかわらず、子を産むことを告げました。ガブリエルはおそらく、おとめ聖マリアのもとに遣わされ、世の救い主の母となることを告げた天使として最もよく知られています。最後に、大天使ラファエルは旧約聖書のトビト記に登場し、トビトの目を癒やすために遣わされたとされています。
この三人の大天使をたたえるにあたり、わたしたちは、彼らが、神に協力してこの世界に神の恵みとみ旨をもたらす無数の天使たちのうちの三人であると確信できます。この深い真実を思い描いてみてください。ある天使たちは、神の玉座の前で絶えず神を礼拝することに自らの存在をささげ、神の国を築いています。その最も高い位にいるのが熾天使です。また、ほかの天使たちは、神のみ旨に従ってわたしたちの生活に介入し、神の恵みと真理をわたしたちにもたらすことによって、神の国を築いています。とりわけ守護の天使がそうです。今日わたしたちがそのうちの三人をたたえる大天使たちは、特に、神からの最も重要な知らせと恵みをわたしたちに伝える務めを担っています。
今日、天上の存在の全軍という栄光に満ちた現実について黙想しましょう。特に、わたしたちがその名を知っているミカエル、ガブリエル、ラファエルという三人の天上の存在に、また、わたしたちの守護の天使と、そのほかすべての天上の存在にも、取り次ぎを願いましょう。そうすることで、わたしたちは彼らの愛に満ちた配慮に身を委ねるだけでなく、神がご自分の国を実現するためにこれらの天上の存在を用いることをお選びになったと信じていることを表し、神への信仰を行いで示すのです。天使たちは、自分たちだけの力では何もできません。しかし、彼らはただ神のみ旨と一致して働くので、その取り次ぎは神の恵みと同じほど力強いものです。彼らを通して働いておられるのは神だからです。今日、彼らの存在を認め、その取り次ぎを願い、神の国を築くために彼らが行う栄光に満ちた働きへの信仰を表しましょう。
栄光に輝く大天使ミカエル、ガブリエル、ラファエルよ、どうかわたしを助けに来てください。わたし自身と家族、わたしたちの教会、そして全世界を、あなたがたの愛に満ちた取り次ぎに委ねます。わたしたちの生活に神の恵みをもたらし、神のことばと聖なるみ旨を伝え、あらゆる害からわたしたちを守り、癒やしを必要とする人々に癒やしをもたらしてください。神の天使たちよ、わたしたちのためにお祈りください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
あなたを守り導く方
守護の天使の記念日、10月2日
「これらの小さな者の一人をも軽んじないように気をつけなさい。あなたがたに言っておくが、彼らの天使たちは、天でいつもわたしの天の父の顔を仰いでいるのです。」 マタイ18:10
天使の存在は、多くの人々、とりわけ子どもたちの心を引きつけます。特に守護の天使は、宗教美術の中で、子どもたちと手をつないで歩く姿でよく描かれます。それは確かですが、天使たちはまた、わたしたち一人ひとりと、生涯にわたって手をつないで歩んでくださいます。これこそ、神から託された天使たちの聖なる務めです。『カトリック教会のカテキズム』は、聖バジリオの言葉を引用しながら、守護の天使の存在についてこう説明しています。「人間の生涯は、その始まりから死に至るまで、天使たちの注意深い配慮と取り次ぎに包まれています。『信じる人一人ひとりの傍らには、その人をいのちへと導く守り手、牧者として、一人の天使が立っています』」(#336)。
地上の生活にたとえて、生涯にわたり昼も夜もあなたの世話をする、専属の護衛がいると想像してみてください。おそらく、二つの異なる感情が湧いてくるでしょう。まず、身近に危険が迫っているときには、きっと心強く感じるはずです。自分は独りではなく、身体に危害が及ばないよう守ってもらえると分かるからです。もう一つは、個人のプライバシーが失われるという感覚かもしれません。誰かが昼も夜もあなたを見守っているなら、そのまなざしをいつも意識することでしょう。あなたの言葉も行いも、すべて見られることになります。人によっては、これは必ずしも歓迎できることではないでしょう。なぜでしょうか。それは、その人が、あなたの罪を含め、あなたの行いをすべて見るということだからです。裁かれることへの恐れや、個人のプライバシーが失われることなどは、受け入れがたいかもしれません。
しかし今度は、この「護衛」が、あなたを裁くことなく、完全な愛をもって行動し、秘密を完全に守り、ただあなたの幸せだけを心にかける存在だと想像してください。そのような存在がいるとは想像しにくいかもしれませんが、その存在は、あなたの守護の天使として、確かにいるのです。
あなたの守護の天使は実在し、鋭く力ある知性を備え、その意志は神のみ旨と完全に一致しています。そして、あなたを守り、神のみ旨を果たすよう導くという、ただ一つの目的のために造られました。あなたが罪を犯し、道をそれるとき、守護の天使が心にかけるのは、あなたを神のもとへ連れ戻すことだけです。あなたが恐れを抱いたり、困難の中にあったりするとき、守護の天使が心にかけるのは、あなたを守り、神の平和と勇気で満たすことだけです。神は、天使を仲介させることなく、これらすべての恵みを直接あなたに与えることもおできになりました。それでも、あなた自身の守護の天使の仲介を通して与えることをお選びになったのです。これらの天使たちがわたしたちに注ぐ愛と守り、心遣いの深さを十分に理解できるのは、天国において初めてのことでしょう。
今日、守護の天使があなたをどれほど深く知っているかを黙想してみましょう。この現実を思い巡らしながら、あなたをこれほどよく知り、完全な愛で愛してくれる存在がいることを喜んでください。あなたの天使は、あなたを完全に愛するだけでなく、あなたを守り導いて人生の使命を果たさせるために、神から大きな力を託されています。守護の天使があなたにとってどれほど大きな賜物であるかを、祈りのうちに認め、この天使の仲介に、より全面的に身を委ねてください。
神の天使、わたしの親しい守護者よ、神はその愛によって、この地上でわたしをあなたに委ねてくださいました。今日もいつもわたしのそばにいて、照らし、守り、治め、導いてください。アーメン。守護の天使よ、わたしのためにお祈りください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
世界に福音を伝える
聖ルカ福音記者の祝日、10月18日
主イエスは七十二人の弟子を任命し、ご自分が訪れるつもりのすべての町や場所へ、二人ずつ先に遣わされました。そして言われました。「収穫は多いが、働き手は少ないのです。だから、収穫のために働き手を送ってくださるよう、収穫の主に願いなさい。」 ルカ10:1–2
今日わたしたちがたたえる聖ルカは、真に福音を伝える人でした。福音を伝える者として、主からの促しに従い、神の救いの知らせを地の果てにまで届けるために用いられました。そして、その奉仕の働きが世の終わりまで多くの人々の人生を変え続けることは、ほぼ間違いありません。伝承によると、聖ルカはオリーブの木につるされて殉教しました。新約聖書では、医者であり、聖パウロの弟子であったとされています。ルカによる福音書と使徒言行録は、いずれも彼の著作とされています。
聖ルカは、異邦人に福音を伝えた人とよく言われます。彼の福音書は、ユダヤ教の信仰や慣習を十分に理解していることを前提とせずに書かれています。そのため、主にユダヤ人ではない人々に向けて書かれたと考えられています。ですから、聖ルカの生涯と使命は、すべての人、とりわけ神との深い、支えとなる関わりを持たない人々に福音を伝える必要があることを、わたしたちに思い起こさせるはずです。
今日のルカによる福音書には、イエスが七十二人の弟子を「ご自分が訪れるつもりのすべての町や場所へ」遣わされたと記されています。七十二人の弟子を遣わすという、より大規模な派遣について述べているのはルカだけです。他の福音書は、十二人の派遣についてだけ述べています。この七十二人の弟子の多くはユダヤ人の地域へ行ったことでしょうが、中には間違いなく、ユダヤ人ではない人々の地域へ行った者もいたでしょう。この七十二人の使命は、出会うすべての人がイエスの宣教と神の国の確立を迎える準備を整えることでした。
今日、聖ルカをたたえ、その福音書のこの箇所を読むとき、わたしたちは皆、主によって遣わされていることを思い起こします。わたしたちは、家族や友人、同じ小教区の仲間など、信仰を共にする人々のもとへ遣わされています。その人々を愛し、彼らの信仰と神への愛が深まるよう、できる限りのことをするために遣わされているのです。しかし、イエスを自分の救い主としてまだ知らない人々に福音を伝えることも、わたしたちの召命です。日々出会う人々の中には、主と真に出会ったことのない人が大勢います。あなたの生活の中に、神があなたに働きかけるよう呼びかけておられる人はいますか。あなたの知っている人の中で、神があなたに福音を伝えるよう呼びかけておられるのは、誰でしょうか。
今日、福音はすべての人のためのものであることを黙想しましょう。主に語りかけ、主の救いの知らせを人々に届けるために、ご自分を用いていただく用意があり、そう望んでいることをお伝えしてください。そして、主を待ち望み、その促しに耳を傾け、呼びかけられたときには応えましょう。神があなたに福音を伝えるよう呼びかけておられると感じる相手が思い浮かんだら、その人のために祈り始めてください。その人のために毎日祈り、神の愛と救いの知らせをその人に伝えるために神が与えてくださる、どのような促しにも心を向けてください。聖ルカのように福音を伝える人となることを恐れないでください。そうすることで、誰かの人生に永遠に関わる違いが生まれるかもしれません。
わたしを救ってくださる主よ、あなたは救いの知らせをすべての人と分かち合う使命を弟子たちに与え、遣わされました。今日、聖ルカの生涯と奉仕の働きのために、特に感謝をささげます。愛する主よ、聖ルカのすばらしい模範に倣い、あなたの栄光に満ちたいのちを人々と分かち合うために、わたしを用いてください。とりわけ、あなたがわたしの人生に置いてくださった人々に手を差し伸べることができるよう、導き、励ましてください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
キリストによって遣わされて
聖シモン 聖ユダ使徒の祝日、10月28日
イエスは祈るために山に登り、神に祈りながら夜を明かされました。夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び、使徒と名づけられました… ルカ 6:12
シモンとユダは、イエスご自身によって使徒として選ばれた、ごく少数の人々の中にいました。今日記念するシモンは、シモン・ペトロとは別人であり、今日記念するユダも、イスカリオテのユダとは別人です。この二人の使徒について知られていることは、わずかです。シモンは福音書の中で熱心党の人と呼ばれていますが、これはユダヤ教の中でも、より急進的な一派に属していたことを意味するのかもしれません。ユダは、絶望的な状況にある人々の守護聖人として広く知られています。その理由について、初代のキリスト信者たちは、ユダがイスカリオテのユダと同じ名であり、彼に祈るとあの裏切り者を思い出すため、しばしば使徒たちの中で最後にユダに祈ったからだと考える人もいます。もしそうだったとすれば、神の摂理のうちに、ユダは祈りをささげる最後の使徒となったことで、多くの人にとって最後の希望ともなり、こうして真に絶望的な状況にある人々の守護聖人となったのです。
ある伝承によれば、聖シモンと聖ユダがローマ典文でともに名を挙げられ、同じ祝日を持つのは、二人が同じ日に、ともに殉教したからだとされています。その場所はシリア、レバノン、あるいはペルシアだった可能性があります。しかし、二人の宣教の旅と殉教の実際の詳細は明らかではありません。それでも、この二人について確かなことが一つあります。それは、二人が使徒であったということです。二人は主に選ばれ、教会の最初の司教たちのうちの二人として主によって任命され、地の果てに至るまで福音を伝える使命を与えられました。
今日のわたしたちの視点から見れば、選ばれたあの十二人の一人であることは、計り知れない特権です。最初のキリスト者共同体を築いた彼らの奉仕は実を結び、今や全世界に広がる普遍的なカトリック教会へとつながっています。彼ら自身は、自分たちの忠実な奉仕が世界にどれほどの影響を及ぼすことになるのか、おそらく気づいていなかったでしょう。
この二人の使徒をたたえるとき、わたしたち一人ひとりも、出かけて行って地の果てに至るまで福音を告げ知らせるよう招かれていることを思い起こします。それぞれが、キリストから託された召命と使命に固有の仕方で、そうするのです。わたしたちは皆、自分が仕える人々の人生に、永遠に及ぶ変化をもたらすよう招かれています。そして、自らの使命に忠実であるなら、わたしたちの使徒的な奉仕の実りは、世の終わりまで、数え切れないほど多くの人々の人生に及ぶと確信することができます。
今日、イエスがこの二人を選び、使徒に任命されたことを黙想しましょう。その際、あなたにも語りかけておられる神の声に耳を傾けてください。イエスから与えられる使命を受け入れることの大切さを、軽く見てはなりません。この二人の使徒に倣って、イエスに「はい」と答えましょう。そして、このように主に仕えるというあなたの選択は、自分の人生に大きな影響をもたらすだけでなく、多くの人々の人生にも永遠にわたって影響を及ぼすことを心に留めてください。
栄光に輝くわたしの主よ、あなたはシモンとユダという二人の普通の人を、使徒となるように召されました。あなたは二人を恵みで満たし、みことばによって教え、地の果てまで宣べ伝えるために遣わされました。愛する主よ、あなたが選ばれる人のもとへ、わたしをも遣わしてください。わたしをあなたの道具として用い、いつも忠実で熱心であり続け、助けを必要とする人々、とりわけ人生に信仰と希望を持てずにいる人々に手を差し伸べることができるよう、助けてください。聖シモンと聖ユダよ、わたしたちのためにお祈りください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
すべての聖人をたたえて
諸聖人の祭日、11月1日
イエスは群衆をご覧になると、山に登られました。腰を下ろされると、弟子たちがそばに来ました。そこでイエスは口を開き、こう教え始められました。「心の貧しい人々は幸いです。天の国はその人たちのものだからです。」マタイ 5: 1–3
今日、わたしたちは教会の中でも、とりわけ栄光に満ちた祭日の一つを祝います。列聖されているかどうかにかかわらず、すべての聖人を今日、たたえるのです。今日の福音の箇所は、これらの聖人が天に入るために歩んだ道を示しています。この偉大な男女は地上にいた間、心の貧しさ、聖なる悲しみ、柔和さ、義への飢え渇き、憐れみ、平和、清い心、さらには迫害にさえ満ちた生涯を送りました。真福八端の一つひとつは、こうしたあり方を生きた人々が受ける報いを告げて結ばれています。それは、天の国、慰め、満たされること、憐れみ、神を見ること、神の子となること、そして神の国において想像を超える報いを受けることです。
真福八端は、わたしたちを聖性の高みへと招きます。それは、気の弱い人や、生ぬるい霊的生活を送る人のためのものではありません。真福八端は、聖なる生き方の頂点を示し、わたしたちの生き方を根底から問いかけます。しかし、真福八端を生きるために重ねるあらゆる努力は、この地上においても、究極的には天においても、それに値するものです。この真福八端のうち、二つを簡単に見てみましょう。
真福八端の二つ目は、「悲しむ人々は……慰められる」と告げています。これは興味深い教えです。悲しむことが、なぜ聖なることなのでしょうか。簡単に言えば、この聖なる悲しみとは、自分自身の罪を聖なる心で悲しむだけでなく、この世界にある多くの悪を目にしても、その同じ悲しみを抱くことです。今日、これは極めて大切なことです。まず、自分自身の罪を聖なる心で悲しまなければならないことは、きわめて明らかでしょう。そうすることは、良心が働いているしるしです。そして、良心が働いているなら、この聖なる悲しみに促されて、神に対する自分の過ちを認め、変わるために懸命に努めるようになります。しかし、この世界にある多くの悪を目にするときにも、聖なる悲しみを抱かなければなりません。今日、あらゆるものを無条件に受け入れることを善として示し、この教えを骨抜きにしようとする傾向が、あまりにもよく見られます。わたしたちは、人を裁いてはならないと言われます。他の人の心を裁くことについては、確かにそのとおりです。しかし、この世俗的な「美徳」を世の価値観に沿って説くことは、罪が客観的に持つ性質を軽く見るよう、わたしたちを誘導しようとします。世俗化した世界は、神がわたしたちをあらゆる真理へと導くために用いられる、多くの客観的な道徳的真理を無視するよう誘惑します。しかし、キリスト者として、わたしたちがまず取るべき姿勢は、主が客観的に道徳上の悪であると教えられたすべてのものを憎むことです。そして、不道徳な生き方に実際に直面したとき、ふさわしい応答は、重大な罪を受け入れることではなく、聖なる悲しみでなければなりません。他の人の誤った選択を悲しむことは、その人に対する真の愛の行いなのです。
真福八端の四つ目は、「義に飢え渇く」ようわたしたちを招きます。これは、自分の罪や世界にある客観的な悪を聖なる心で悲しむだけでなく、真理と聖なる生き方への飢え渇きに、自らを満たしていただくことも意味します。この内なる衝動は、神の国をあらゆるところで広めるために、できることをすべて行おうとする、燃えるような動機とならなければなりません。この教えは、無関心を乗り越える力を与え、どのような反対に直面しても変化をもたらすよう、わたしたちを奮い立たせます。そして、この内なる衝動を燃え立たせるのは、愛と、それに伴うほかのあらゆる徳です。
今日、あなたが聖人になるよう招かれているという、美しい真理を黙想しましょう。そして、聖人になるための最も確かな道は、真福八端です。その一つひとつを注意深く読んでください。それらを黙想し、神がどのように生きるようあなたを招いておられるかを、それらが明らかにしていることを心に留めてください。どれか一つが特に心に響くなら、時間をかけて、そこに心を向けましょう。これらの恵みが自分の内に深く根づくよう努めてください。そうすれば、神はあなたの人生に驚くべきわざを行い、いつの日か、教会のこの祭日を、あなたがよく生き抜いた生涯を真に祝う日としてくださるでしょう。
この上なく聖なるわたしの主よ、あなたは今天で治めておられ、栄光に満ちたみ国が地上に堅く打ち立てられることを望んでおられます。心を尽くして聖性を求め、とりわけ、あなたが真福八端を通して示してくださった教えを、わたしの歩む道とするために必要な恵みをお与えください。この世で真の聖人となれますように。そして、今も永遠にわたっても、み国を広げるためにわたしを用いてくださいますように。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
すべての死者を追悼して
亡くなったすべての信者の記念(死者の日)、11月2日
「わたしの父の御心は、御子を見て信じる者が皆、永遠の命を得ることであり、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」ヨハネ6:40
昨日の諸聖人の祭日は、わたしたちに先立って世を去った数え切れないほどの人々が、今、天の栄光を享受しているという事実を祝い、喜ぶ機会を与えてくれました。これらの信仰深い霊魂は、神の恵みに根ざした生涯を送り、あらゆる罪から完全に清められています。今は、いつくしみ深い神を顔と顔を合わせて仰ぎ見ています。
今日、わたしたちは、恵みの状態で亡くなる多くの人々が、神の栄光の玉座の前に立ち、顔と顔を合わせて神を見るための用意が、すぐにはできていないという事実を心に留めます。それが可能となるのは、あらゆる罪と、罪へのあらゆる執着が、わたしたちの魂から清め除かれている場合だけです。天の永遠の栄光に入るためには、わたしたちの内に、純粋な愛だけが生きていなければなりません。しかし、そのような状態で亡くなる人が、どれほどいるでしょうか。
教会は、その知恵と聖性に基づき、比較的軽い罪への執着をなお抱いたままこの世から次の世へと移る人は、天国に入るために完全に清められる必要があると、幾世紀にもわたって明確に教えてきました。これが煉獄です。『カトリック教会のカテキズム』は、次のように述べています。「神の恵みと神との親しい交わりのうちに死んでも、まだ完全に清められていない人々は皆、永遠の救いを確かに保証されています。しかし、天国の喜びに入るために必要な聖性に達するよう、死後に清めを受けます。教会は、選ばれた人々のこの最後の清めを煉獄と呼びます。それは、永遠の滅びに至った人々が受ける罰とはまったく異なるものです」(#1030–31a)。
煉獄という考えに、恐れを感じ、戸惑いさえ覚える人もいるでしょう。限りないいつくしみをお持ちの神は、なぜ、神に従って生きたわたしたちの愛する人々を皆、そのまま天国へ迎えてくださらないのでしょうか。答えは単純です。神は、まさにそうしてくださるのです。そして、その人々を天国へと導く道こそ、最後の清めという、この驚くべきいつくしみなのです。
わたしたちの魂の内にある、罪へのあらゆる執着が清められることは、想像を超えるいつくしみです。この最後の清めを通して、神は、亡くなった聖なる魂たちが永遠の喜びにあずかれるよう整えてくださいます。この清めが必要なのは、神がその愛のゆえに、どの魂にも、罪へのわずかな執着さえ抱えたまま永遠に生きることを望んでおられないからです。神は、わたしたち皆が自由になることを望んでおられます。実際、わたしたちの魂にある罪は、どれほど小さなものであっても、天国から締め出される十分な理由となります。ですから煉獄は、神からの最後のいつくしみとして受け止めなければなりません。それによって神は、完全な愛を妨げる重荷を最後の一つまで取り除き、わたしたちの永遠のいのちを、この上ない自由と歓喜に満ちたものにしてくださるのです。神は、わたしたちが永遠に、ただ純粋な愛だけで満たされることを望んでおられます。そのため、死を迎えるとき、わたしたちは、あらゆる小さな罪から清められる最後の厳しい清めに入る恵みを受けます。それは、栄光に満ちた神を仰ぎ見るとき、わたしたちが招かれている完全さをもって神を見るためです。煉獄は賜物であり、恵みであり、いつくしみです。どのような罪を克服するにも痛みが伴うように、煉獄を経ることにも痛みが伴うでしょう。しかし、罪からの自由というよい実りは、わたしたちが耐え忍ばなければならない最後の清めの一つひとつに、百倍にも、それ以上にも値するものなのです。
今日、神があなたに聖人となることを望んでおられるという霊的な真理を黙想しましょう。もしあなたが、あらゆる罪から清められた状態で死を迎える数少ない人の一人であるなら、すでに地上で自分の煉獄を終えたのだと確信してください。しかし、あなたや愛する人が、死を迎えるときにも罪へのわずかな執着をなお抱いている多くの人々の一人であるなら、神があなたに対する働きをまだ終えておられないことを喜んでください。待ち受けている最後の清めを深い感謝のうちに待ち望み、その清めが最終的にもたらす自由を楽しみにしてください。
いつくしみ深いわたしの主よ、あなたは、わたしの魂とあなたを信じるすべての人の魂が、あらゆる罪から、さらにはごく小さな不完全さからも清められることを望んでおられます。煉獄といういつくしみに感謝し、今ここで、その清めに向かってたゆまず努めることができるよう祈ります。また、わたしに先立って世を去り、なおこの清めの火を必要としているすべての人のためにも祈ります。その人々にいつくしみを注ぎ、天の聖人たちのうちに数えられるようにしてください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
主に衝撃を受ける
ローマのラテラン大聖堂献堂の祝日、11月9日
イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿を壊してみなさい。三日で建て直してみせる。」ユダヤ人たちは言った。「この神殿を建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか。」しかし、イエスが語っておられたのは、ご自分の体という神殿のことであった。ヨハネ 2:19–21
今日、わたしたちは、ローマ・カトリック教会全体の母なる教会である、ローマのラテラン大聖堂を祝います。この大聖堂は四世紀にローマ司教に与えられ、ラテラン大聖堂が荒廃しつつあった時代にサン・ピエトロ大聖堂が建てられるまで、教皇の主な住まいであり続けました。しかし、ラテラン大聖堂は正式にローマの司教座聖堂であるため、今日に至るまで世界で最も重要な聖堂であり続けています。
この聖堂を敬うとき、わたしたちは単なる建物以上のものを敬っています。ラテラン大聖堂は、イエス・キリストの唯一の真の教会の象徴です。その内部の美しさと荘厳さは、キリストの神秘体である教会そのものの、想像も及ばない美しさへと、わたしたちの目を向けさせてくれます。
今日の福音は、イエスが神殿に入り、鞭を使って両替人たちと、彼らが利益のために売っていた動物を追い出される姿を描いています。その際、イエスは大声で言われました。「これらのものをここから運び出しなさい。わたしの父の家を商売の場所にするのはやめなさい。」続いて、詩編69が引用されます。あなたの家を思う熱意が、わたしを焼き尽くす。
イエスは、ご自分の教会をご自身の体として愛しておられます。教会は、まさにその体だからです。キリストの体として、教会の一人ひとりは、キリストの道具として働き、その救いのわざを担う者となるよう召され、遣わされています。今日、わたしたちが敬うのは、単なる聖堂の建物をはるかに超えた、教会そのものです。つまり、あなたがキリストの体の一員であるかぎり、わたしたちはあなたを敬っているのです。そして、今日の祝日のこの福音箇所に照らして、わたしたちは、ご自分の教会を清めるために主が抱いておられる熱意を思い起こします。
教会はどのように清められるのでしょうか。教会に属する一人ひとりが清められることによってです。それは、イエスが完全な熱意をもって、あなたの魂からあらゆる罪を追い出し、ご自分の体の一員としての欠かせない役割を果たす妨げとなっている汚れを清めたいと望んでおられる、ということです。
わたしたちは時に、自ら清められようとする取り組みを怠ることがあります。自分の犯す罪にたやすく慣れ、断ち切りがたい習慣を身につけてしまうこともあります。そのようなときには、この神殿を清める物語を深く思い巡らし、そこに、わたしたち自身の魂を清めたいというイエスの望みを見ることが助けになります。時には、主の心にある揺るぎない熱意によって揺さぶられ、挑戦を受け、自分自身と向き合わされ、励まされる必要があるのです。
今日、神殿を清めるイエスのこの力強い姿を黙想しましょう。そして、それを自分の生活に当てはめてください。神殿で売り買いしていた人々は、イエスの熱意と行動に衝撃を受けたに違いありません。もし自分の罪に安住しているなら、この聖なる衝撃によって、自分も目覚めさせていただくよう努めましょう。主の熱意に心を動かしていただいてください。そして、主の清めのわざは、あなたを解き放ち、ご自分の聖なる教会の一員として、より十分に役割を果たす者とすることを望まれる、愛のわざであると知ってください。
熱意に満ちたわたしの主よ、あなたのみ心は、わたしとあなたのすべての子どもたちを罪から清めたいという深い望みに燃えています。その熱意は、あなたの深い愛と、わたしをあなたのからだである教会のより十全な一員とするために、できるかぎりのことをしようとするお心を表しています。愛する主よ、あなたがわたしに語ろうと望まれるすべてのことに、わたしの思いと意志を開いてください。そして、わたしの人生におけるあなたの清めの働きに応える恵みをお与えください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
計り知れない祝福への感謝
感謝祭(米国)
「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかには、神に感謝するために戻って来た者はいないのか。」それから、その人に言われました。「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」ルカ 17:17–19
この人は、感謝を表す信仰によって救われたのです。国民の祝日である感謝祭を祝う今日、黙想するのに何とすばらしい物語でしょう。
感謝祭は教会の祝日というわけではありませんが、感謝は確かに、わたしたちのキリスト者としての信仰の中心にあります。そのことは、重い皮膚病を患う十人がイエスにいやされる今日の福音にも示されています。この人々がそれぞれどのように応えたかに、心を留めましょう。九人はいやされると、自分たちの日常へと戻り、いやしてくださった方のもとに戻って感謝することはありませんでした。しかし、一人だけは戻って来ました。重い皮膚病を患っていたこの人は、突然その病から解放されると、イエスのもとに戻り、イエスをたたえ、その足もとにひれ伏して感謝しました。この人は外国人であるサマリア人でしたが、わたしたち皆が見倣うよう努めるべき信仰を示しました。このサマリア人の信仰は、いやしの恵みに感謝するだけでなく、その感謝を表す必要もあると分かっていたことに、はっきりと表れています。
感謝祭を祝うにあたり、感謝すべきあらゆることの中でも、神が与えてくださった計り知れない恵みへの感謝ほど大切なものはないことを、わたしたちは思い起こします。しかし、この物語が示すとおり、神の祝福に応えることの大切さは、実に見過ごされやすいものです。重い皮膚病をいやされた人々のうち、そのように感謝を表して応えたのは、わずか十パーセントでした。ですから今日は、感謝すべき多くの理由を振り返り、その感謝を神に表すよう努めることが役に立ちます。
第一に、神は愛からわたしたちを創造してくださいました。これは決して小さな賜物ではありません。神がわたしたちに与えてくださった最初の賜物でありながら、わたしたちはしばしば、それを当たり前のことと受け止めています。神には、わたしたちを創造する必要はありませんでした。あなたを創造する必要もありませんでした。それでも、創造してくださったのです。いのちという賜物、不滅の霊魂という賜物を、わたしたちは決して見過ごすことなく、いつも喜ぶべきなのです。
第二に、神は聖なるおとめマリアの胎内で受肉することにより、堕落したわたしたちのあり方の中に入って来られました。そうすることで、堕落したわたしたちの人間の本性を、それまで知られることのなかった高みへと引き上げてくださいました。人となられた神の子、また人の子である方の位格において、人性と神性が結ばれたのです。わたしたちは、自分の功績によらず与えられた、この畏敬の念を起こさせる賜物に感謝しなければなりません。
第三に、わたしたちはこの物語の続きを知っています。神は、人となられた御子の位格において、苦しみを受け、死んで、復活されました。そうすることで、わたしたちのあらゆる罪が消し去られる道を開いてくださいました。わたしたちはキリストとともに死ぬとき、キリストとともに復活するよう招かれています。そして、キリストとともに復活するとき、天におけるその栄光にあずかるよう招かれているのです。
最後に、一人ひとりの人生には、日々与えられている数え切れない恵みがあります。しかし、甘やかされた子どものように、わたしたちはしばしば、こうした祝福を見過ごし、当たり前のものと思ってしまいます。ここで例を挙げるだけでは十分ではありません。感謝する心を持ちたいと願うなら、自分自身の人生の中にあるこうした祝福に気づくことを学ぶのが不可欠です。わたしたちはあまりにも頻繁に、自分の苦闘や痛みにばかり目を向けてしまいます。しかし、祝福は豊かに与えられており、すべてをゆだねて主に向かうほど、祝福はいっそう豊かに注がれるのです。
今日、神が与えてくださった多くの祝福に対して、自分がどのような姿勢でいるかを黙想しましょう。まず、神による創造と、愛による救いのわざという、根本的な祝福について考えてみてください。そこから、神が日々のささやかな出来事の中で、どれほど多くの形でともにいてくださり、導き、力づけ、豊かに祝福してくださったかを思い巡らしてみましょう。それがはっきりと見えないなら、今日という日を、意識して耳を傾けるために用い、神がそれを示してくださるようにしましょう。自分に与えられた祝福に気づいたなら、重い皮膚病をいやされたあの一人のように応えてください。イエスに向き直り、イエスをたたえ、祈りのうちにその足もとにひれ伏して感謝しましょう。そうすることで、あなたも、この人に与えられたのと同じ、救いをもたらす信仰に満たされるでしょう。
この上なく惜しみなく与えてくださるわたしの主よ、あなたはわたしの想像を超える祝福を授けてくださいました。あなたがわたしにどれほどよくしてくださったかを、決して十分には理解できず、感謝を十分に言い表すこともできないと悟っています。どうかわたしの心を感謝で満たしてください。わたしの人生におけるあなたの働きを認め、重い皮膚病を患っていたあの一人の人のように、あなたに応えることができるよう助けてください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
主のまなざし
11月30日 聖アンデレ使徒の祝日
イエスはガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレの二人が、湖に網を打っているのをご覧になりました。二人は漁師でした。イエスは二人に言われました。「わたしについて来なさい。あなたがたを人間をとる漁師にしよう。」 マタイ 4:18-19
今日、わたしたちは使徒の一人、聖アンデレをたたえます。アンデレとその兄弟ペトロは漁師でしたが、まもなく新たな形で漁をすることになります。イエスが言われたように、まもなく「人間をとる漁師」になるのです。しかし、主からこの使命のために遣わされる前に、まず主に従う者とならなければなりませんでした。それが実現したのは、主がまず、この二人をとる漁師となってくださったからです。
この福音で、イエスが通りかかり、仕事に励んでいるこの二人の兄弟を「御覧になった」ことに注目してください。イエスはまず二人を「御覧になり」、それからお呼びになりました。この主のまなざしは、深く黙想するに値します。
主は、あなたがご自分に心を向ける瞬間を待ち望みながら、神の愛をもって絶えずあなたを見つめておられます。この深い真理を思い描いてみてください。そのまなざしは絶えることなく、深いものです。そのまなざしには、あなたがほかのすべてを捨てて主に従い、優しい招きに耳を傾けることへの切なる望めが込められています。それは、ただ主に従うだけでなく、さらに出かけて行き、ほかの人々をも信仰の旅へと招くようにとの呼びかけです。
この待降節を始めるにあたり、アンデレとペトロへの呼びかけを、わたしたち自身への呼びかけとしても受け入れなければなりません。イエスがわたしたちを見つめ、わたしたちがどのような者であるかを見抜き、わたしたちのすべてをご存じのうえで、招きの言葉をかけてくださることに、心を開いて気づかなければなりません。イエスはあなたに、「わたしについて来なさい……」と言われます。これは、あなたの生活のあらゆる面に浸透すべき招きです。イエスに「ついて行く」とは、ほかのすべてを後にして、主に従うことを人生のただ一つの目的とすることです。
悲しいことに、多くの人は、自分の人生におけるこの呼びかけにほとんど注意を払いません。主の語りかけを聞く人は少なく、それに応える人はさらに少なく、自分の人生をすべて委ねて応える人は、なおさら少ないのです。待降節の始まりは、主の呼びかけに自分がどのように応えているかを、もう一度見つめ直す機会です。
今日、イエスがこの言葉をあなたに語りかけておられることを黙想しましょう。まず、あなたは魂の力を尽くして、イエスに「はい」と答えてきたでしょうか。この問いをじっくり考えてください。次に、この旅へあなたが招くことを主が望んでおられる人々について黙想しましょう。イエスは誰を招くためにあなたを遣わしておられるのでしょうか。あなたの周りで、誰が主の呼びかけに心を開いているでしょうか。イエスはあなたを通して、誰をご自分のもとへ引き寄せたいと望んでおられるのでしょうか。この使徒たちは、その答えに伴うすべてをすぐには理解していなかったにもかかわらず、主に「はい」と答えました。その姿に倣ってください。今日、「はい」と答え、この栄光に満ちた信仰の旅で次に何が待っていようとも、進んでそれに取り組む用意をしましょう。
愛するわたしの主よ、今日、わたしはあなたに「はい」と申し上げます。わたしを呼んでおられるあなたの声を聞き、あなたの聖なる完全なみ旨に、限りなく惜しみない心と全き委ねをもって応えることを選びます。あなたに対しても、わたしの人生におけるあなたからの召しに対しても、何一つ出し惜しみしないために必要な勇気と知恵をお与えください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
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