聖ペトロの使徒座の祝日、2月22日
「そこで、わたしはあなたに言う。あなたはペトロ。この岩の上に、わたしはわたしの教会を建てる。陰府の門もこれに打ち勝つことはない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは、天でも解かれる。」 マタイ16:18-19
この箇所は、わたしたちに大きな慰めを与えてくれるはずです。なぜでしょうか。ここでイエスは、ご自分の教会の礎を据えておられるからです。イエスはペトロに天の国の鍵を授けられます。そして、そうすることによって、後に「無謬性」の賜物として知られるようになるものを定めておられるのです。
考えてみてください。「天の国の鍵」を授けられるとは、どういう意味でしょうか。これは実に重大な言葉です。しかしイエスは、それを明確に、決定的な言葉として語ることによって、驚くべき霊的な力をペトロに委ねられました。当時のペトロには、それが正確には何を意味するのか分からなかったかもしれません。それでも、そのような権威を委ねられることで、彼は変えられたことでしょう。
ここでいう「無謬性」とは、信仰と道徳の領域において、ペトロが真実であることだけを教えると保証されていた、という意味です。信仰と道徳は天の国で永遠に存続するものであり、それゆえペトロには、これらの領域における権威が委ねられているのです。
さらに、使徒たちには後継者がいたことを、わたしたちは知っています。ペトロはローマに赴き、ローマの司教となりました。その後をリノ、次いでクレト、そしてクレメンスが継ぎ、今日のローマの司教に至るまで続いています。2013年、フランシスコ教皇は聖ペトロの265代目の後継者となりました。このことに注目するのは重要です。イエスがペトロに授けられたこの霊的な権威は、ペトロの死とともに終わったのではないからです。むしろ、それは後継者たちへと受け継がれ、世の終わりまで続いていくのです。
今日、聖ペトロの使徒座という偉大な祝日を祝うにあたり、わたしたちは教皇を敬うだけでなく、教皇に委ねられた霊的な権威をも喜びます。そして、天の国の鍵に伴う確かな教導の権威を通して、イエスがこのように生きておられることを知り、地獄の門も決して教会に打ち勝つことはないと知ることで、慰めと平安を得るはずです。教皇たちも罪人ですが、その聖なる務めを果たすたびに、キリストご自身の目に見える、誤ることのない道具ともなるのです。
今日、教会に対する自分の信仰について黙想してください。わたしたちが信仰を置くのは個々の人間ではなく、キリストとその教会、そして教会に委ねられた霊的な権威です。この点について自分自身の信仰を振り返り、何か足りないところがあるなら、この偉大な聖ペトロの使徒座の祝日を記念して、その信仰を新たにしてください。
主イエスよ、あなたはご自分の力と権威を、聖ペトロとそのすべての後継者に委ねられました。わたしたちに教皇という賜物を与えてくださったことを感謝します。教皇のために祈り、あなたが導き、守ってくださるよう、教皇をあなたにおささげします。教皇という賜物への信仰と、教皇を通していつもわたしたちを導いてくださるというあなたの約束への信仰を新たにします。わたしたち皆が救いの目標である栄光に満ちた天の国へと歩む中で、あなたの教会へのわたしの信仰が、わたしに慰めと希望をもたらしますように。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
混乱の中でも揺るがない信仰
聖マリアの配偶者聖ヨセフの祭日、3月19日
ダビデの子ヨセフ、恐れずに妻マリアを家に迎えなさい。マリアの胎に宿っている子は、聖霊によって身ごもったのだから。マリアは男の子を産む。あなたはその子をイエスと名付けなさい。この子が自分の民をその罪から救うからである。 マタイ1:20
聖ヨセフは、なんと祝福された人だったことでしょう。神の御子の地上の父、そして神の母の夫となるよう召されたのです。この責任に畏れを抱き、これほど偉大な召命を前にして、時には聖なる畏れに震えたに違いありません。
しかし、注目すべきことに、この召命の始まりには、一見すると不祥事と思われる出来事がありました。マリアは身ごもっていましたが、それはヨセフによるものではありませんでした。どうしてこのようなことが起こり得るのでしょうか。人間的に考えれば、マリアの不貞としか説明できませんでした。しかし、それはヨセフが知っていたマリアの人柄とは、あまりにも相いれないことでした。このように、どうにも解決できそうにない事態を前にして、彼はきっと大きな衝撃を受け、ひどく戸惑ったことでしょう。いったいどうすればよいのでしょうか。
ヨセフが初めに何をしようと決めたのかを、わたしたちは知っています。彼はひそかにマリアと離縁しようと決心しました。しかし、その後、天使が夢の中で彼に語りかけました。そして、眠りから覚めたヨセフは、「主の天使が命じたとおりにして、妻を自分の家に迎え入れた」のです。
この状況について思い巡らすべき一つの点は、ヨセフが信仰をもって妻とその御子を受け入れなければならなかった、ということです。彼のこの新しい家族は、人間の理性だけでは理解しきれないものでした。頭で考えて解き明かそうとするだけでは、理解することはできませんでした。信仰をもって向き合う必要があったのです。
信仰とは、良心のうちに語りかける神の声に頼らなければならなかった、ということです。確かに、ヨセフは夢の中で天使が語ったことに頼りました。しかし、それは夢だったのです。人は実にさまざまな奇妙な夢を見るものです。人間としては、この夢を疑い、本当のことだったのだろうかと思うのが自然だったでしょう。これは本当に神からのものだったのでしょうか。この子は本当に聖霊によって宿ったのでしょうか。どうしてこのようなことが起こり得るのでしょうか。
これらの問いも、聖ヨセフの心に浮かんだであろうほかのあらゆる問いも、信仰によってしか答えを得ることができませんでした。しかし、喜ばしいことに、信仰は確かに答えを与えてくれます。信仰によって、人は人生の混乱に、力と確信と確かさをもって向き合うことができます。信仰は、不確かな状況のただ中で、平和への扉を開きます。恐れを取り除き、神のみ心に従っていると知る喜びで、それを満たしてくれます。信仰には力があり、人生を生き抜くために、わたしたち皆が必要としているのは信仰なのです。
今日、目の前にある困難に直面するときの、ご自分の信仰の深さを黙想してみてください。今、人生の何らかの難題に取り組むよう神から招かれていると感じるなら、聖ヨセフの模範に倣ってください。神が「恐れることはない」と語りかけてくださるのを受け入れましょう。神は聖ヨセフにそう語られ、あなたにもそう語りかけておられます。神の道はわたしたちの道をはるかに超え、神の思いはわたしたちの思いをはるかに超え、神の知恵はわたしたちの知恵をはるかに超えています。神は聖ヨセフの生涯に完全なご計画を用意しておられました。そして、あなたのためにも用意しておられます。日々、信仰によって歩んでください。そうすれば、その栄光に満ちたご計画が展開していくのを見るでしょう。
主よ、日々、信仰によって歩めるようにしてください。わたしの思いが人間の知恵だけにとどまることなく、それを超えて高められ、すべてのことのうちにあなたのご計画を見いだせますように。聖ヨセフ、ご自分の生涯を貫いたその信仰にわたしが倣うことができるよう、わたしのためにお祈りください。聖ヨセフ、わたしたちのためにお祈りください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
神が人となられる――クリスマスの九か月前
神のお告げの祭日、3月25日
すると天使はマリアに言いました。「恐れることはありません、マリア。あなたは神の恵みを受けたのです。見なさい、あなたは胎内に子を宿し、男の子を産みます。その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な者となり、いと高き方の子と呼ばれます。神である主は、その父ダビデの王座を彼にお与えになります。彼は永遠にヤコブの家を治め、その国には終わりがありません。」 ルカ 1:30-33
祭日おめでとうございます。今日は、一年のうちでもとりわけ栄光に満ちた祝いの日の一つです。今日はクリスマスの九か月前に当たり、御子である神がおとめマリアの胎内で、わたしたちの人間の本性をお取りになったことを祝う日です。わたしたちの主の受肉を祝うのです。
今日、祝うべきことは数多くあり、永遠に感謝すべきことも数多くあります。何よりもまず、神がわたしたちの一人となられるほどにわたしたちを愛しておられるという、深遠な事実を祝います。神がわたしたちの人間の本性をお取りになったという事実は、限りない喜びと祝いに値します。このことの意味を理解できたなら、どんなによいでしょう。歴史におけるこの驚くべき出来事がもたらすものを理解できたなら、どんなによいでしょう。神がおとめマリアの胎内で人となられたという事実は、わたしたちの理解を超えた贈り物です。それは、人類を神的な領域へと高める贈り物です。この栄光に満ちた出来事において神と人が結ばれたことを、わたしたちは永遠に感謝すべきなのです。
また、この出来事には、神のみ心に完全に従うという、栄光に満ちた行為も見られます。それを示しているのは、聖母ご自身です。注目したいのは、聖母が「あなたは胎内に子を宿し、男の子を産みます……」と告げられたということです。天使は聖母に、その意志があるかどうかを尋ねたのではなく、これから起こることを告げたのです。なぜそうだったのでしょうか。
それは、おとめマリアが生涯を通して神に「はい」と答えておられたからです。神に「いいえ」と言われたことは、一瞬たりともありませんでした。ですから、絶えず神に「はい」と答えておられたからこそ、天使ガブリエルはマリアに「あなたは子を宿します」と告げることができたのです。言い換えれば、天使は、マリアがすでにご自分の人生において「はい」と答えておられたことを告げることができたのです。
何とすばらしい模範でしょう。聖母の「はい」という応答は、わたしたちにとって驚くべきあかしです。わたしたちは日々、神に「はい」と答えるよう招かれています。しかも、神が何を求めておられるのかを知る前にさえ、「はい」と答えるよう招かれているのです。この祭日は、神のみ心にもう一度「はい」と答える機会を与えてくれます。神があなたに何を求めておられるとしても、正しい答えは「はい」なのです。
今日、すべてのことにおいて神に「はい」と答えるようにとの、ご自分に向けられた招きを黙想してみてください。あなたも聖母と同じように、わたしたちの主をこの世にもたらすよう招かれています。聖母がなさったように文字どおりの意味でではありませんが、この世界で絶えず続く主の受肉の道具となるよう招かれているのです。この呼びかけにどれほど全面的に応えているかを黙想し、今日、ひざまずいて、あなたの人生のために主が用意しておられるご計画に「はい」と答えてください。
主よ、わたしの答えは「はい」です。はい、わたしはあなたのみ心を選びます。はい、あなたのみ心のままに、わたしをお用いください。わたしの「はい」が、聖母の「はい」のように清く聖なるものでありますように。あなたのみ心のとおりに、わたしになりますように。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
福音を告げる者として生きる
聖マルコ福音記者の祝日、4月25日
「信じる者には、次のようなしるしが伴います。わたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語ります。手で蛇をつかみ、たとえ毒を飲んでも害を受けません。病人に手を置けば、その人たちはいやされます。」 マルコ 16:17-18
イエスは、これを文字どおりの意味で言われたのでしょうか。そうです。確かにそのとおりです。そして教会の歴史を通して、さまざまな時と場所で、神がお望みになったとおりに、イエスに従う人々がその名によって大きな奇跡や力ある業を行ってきたのを、わたしたちは見てきました。ですから、確かにイエスは、言われたとおりのことを意味しておられたのです。
しかし、見逃してはならない、もう一つの次元の意味もあります。これが信じるすべての人のうちに文字どおり実現するわけではありませんが、より深い霊的な意味では実現するのです。
ここでイエスが起こると約束しておられることは、基本的に四つあります。信仰を持つ人々は、1) 悪い者に打ち勝ち、2) 新しい仕方で語り伝え、3) この世の危険に直面しても守られ、4) 他の人々にとって癒やしの源となる、と約束しておられます。
第一に、悪い者は実在し、絶えずわたしたちをおびえさせ、圧倒しようとしています。しかし、たとえて言えば、悪い者は体重3ポンドの犬のようなものです。獰猛で耳障りな声でほえますが、かむ力はほとんどありません。その「ほえ声」が恐ろしく感じられることはあっても、キリストの力は、この脅威にたやすく対処できる、つま先に鋼鉄の入った靴のようなものなのです。
第二に、わたしたちは「新しい言葉を語る」ように招かれています。それは、生まれ持った能力を超える仕方で、神の言葉と真理を伝えるように招かれているということです。わたしたちは神の言葉で語り、伝え、助けを必要とする世界に向けて神の言葉を語る口となるように招かれています。
第三に、この人生でわたしたちは多くの戦いに直面します。それは悪い者から来るだけでなく、この世から、また、わたしたち自身のゆがんだ内なる葛藤からも来ます。ここでもイエスは、わたしたちがただご自分にお任せするなら、人生で直面する多くの危険や戦いを乗り越える恵みを約束しておられます。
最後に、イエスは、特にわたしたちの魂を癒やすために来られました。そして、わたしたちが日々出会う人々にとって、癒やしの道具となることを望んでおられます。
今日わたしたちが敬い記念する聖マルコは、キリストの偉大な福音宣教者でした。今日、わたしたちは皆、福音宣教の使命にあずかるように招かれていることを黙想しましょう。上に述べた人生におけるこれらの招きについて思い巡らし、そのうちの一つが特に心に留まり、自分に向けられたものとして響くなら、注意深く耳を傾けてください。それは、ご自分の神聖な使命により深くあずかるようにとの、神からの招きかもしれません。
主よ、わたしは確かに信じ、あなたの恵みの道具としてお使いいただくことを自ら選びます。あなたが与えてくださった信仰が、助けを必要とする世界にとっても恵みの源となりますように。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
弱い者を招かれるイエス
聖フィリポ・聖ヤコブ使徒の祝日、5月3日
フィリポはイエスに言いました。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば、わたしたちは満足します。」イエスは彼に言われました。「フィリポ、こんなに長くあなたがたと共にいるのに、まだわたしを知らないのか。」 ヨハネ 14:8-9
今日わたしたちは、二人の使徒、フィリポと小ヤコブを敬い記念します。ヤコブについては、主が使徒の務めのためにお選びになったということ以外、ほとんど分かっていません。また、彼の手紙が一通、新約聖書に収められています。復活の後、イエスはヤコブに現れました。ヤコブはやがてエルサレムへ行き、数十年にわたって教会を導いた後、ついには石打ちにされて殉教しました。
フィリポは、信仰の弱さを示しているように見える、いくつかの発言で知られています。上の発言に加え、イエスが魚とパンを増やそうとして、フィリポに「この人たちに食べさせるには、どこで十分な食べ物を買えばよいだろうか」とお尋ねになったときのことを思い起こしてください (ヨハネ 6:5)。フィリポは、「二百日分の賃金に相当する食べ物でも、一人ひとりが少し[ずつ]食べるには足りません」と答えました (ヨハネ 6:7)。しかし、イエスはフィリポを試しておられたのであり、残念ながら、彼はその試みに応えることができませんでした。
しかし、フィリポは信仰においてつまずき続けたわけではありません。伝承によれば、フィリポはやがてギリシャ、フリギア、シリアで宣教しました。彼と聖バルトロマイは、逆さに十字架につけられたといわれています。フィリポは逆さにかけられた十字架の上から、死ぬまで宣教を続けたと伝えられています。
最後には、ヤコブもフィリポも、何一つ惜しむことなく、キリストのために自らの命をささげました。しかし、イエスへの信仰と信頼を深めるには、時間が必要でした。これは、わたしたちの人生にとって大切な証しです。
理想を言えば、イエスへの日々の応答は、ご自分にすべてをゆだね、その神聖なみ心を完全に信頼するものであるはずです。理想を言えば、わたしたちの信仰に欠けるところはないはずです。
しかし、おそらくわたしたちは皆、これまでの人生の多くの場面を振り返り、主への信仰と信頼が揺らいだときを思い当たることでしょう。これは罪ですが、こうした弱さの時を、神のいつくしみの光のうちに見つめることはよいことです。イエスはフィリポの弱さをご覧になり、それに向き合われました。それでも彼を愛し続け、彼のために選ばれた道を歩むよう招き続けられました。イエスはわたしたち一人ひとりにも同じようにしてくださいます。
今日、使徒フィリポの疑いや弱さに、自分と重なるところがないか黙想しましょう。その弱さを、ありのままに、自分の罪として見つめてください。しかし、フィリポとヤコブを敬い記念する今日、希望のうちに成長していきましょう。主は彼らを決して見放されませんでしたし、あなたを見放すこともありません。主は彼らを聖なる尊い奉仕の務めへと招き続けられました。そして、あなたにも同じようにしてくださいます。
主よ、わたしが罪を犯し、あなたに背を向けるときにも、決して見放さずにいてくださることを感謝します。あなたへの信仰を貫き、どこへ導かれようとも徹底してあなたに従うという招きに応えられるよう、お助けください。聖ヤコブ、聖フィリポ、わたしたちのためにお祈りください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
使徒の務め
聖マチア使徒の祝日、5月14日
ペトロは言いました……「ですから、主イエスがわたしたちとともに生活された間、すなわちヨハネの洗礼から始まって、わたしたちのもとから天に上げられた日まで、ずっとわたしたちと行動をともにしていた人たちの中から、一人がわたしたちとともに主の復活の証人となる必要があります。」そこで人々は、ユストとも呼ばれるバルサバというヨセフと、マチアの二人を候補に立てました。そして、こう祈りました。「すべての人の心をご存じである主よ、ユダが自分の所へ行くために離れたこの使徒の務めを受け継ぐ者として、この二人のうち、どちらをお選びになったかをお示しください。」それから二人にくじを引かせると、マチアに当たり、彼は十一人の使徒の仲間に加えられました。使徒言行録 1:21-26
こうして、最初の新しい司教が誕生したのです!
聖マチアの祝日は、使徒の奉仕職が受け継がれていくことを祝う日です。聖マチアを敬うことによって、わたしたちは、イエスが最初の使徒たちに、叙階によって受けた聖なる権能を自分たちの後継者へと伝えることができるようになさったという事実をたたえます。聖マチアはユダに代わってその務めを担いました。そして教会が成長し続けるにつれて、ほかの人々も選ばれ、司教として叙階の恵みを授けられました。今日、わたしたちの司教は一人ひとり、一人あるいは複数の使徒へと直接さかのぼる継承の系譜を持っています。この途切れることのない継承こそ、教会に受け継がれるイエスの祭司としての奉仕に、わたしたちを直接結びつけるものなのです。
これは、なんとすばらしい賜物でしょう! 確かに、すべての司教や司祭が聖人であるわけではありません。そのことは、わたしたち皆がよく承知しています。しかし、すべての司教と司祭が、キリストの祭司としての奉仕というすばらしい賜物にあずかっていることも、また真実です。そして、この奉仕は彼ら自身のためではなく、皆さんのためにあるのです。
イエスは、ご自分の奉仕を、具体的に、一人ひとりと関わり、人間を通して続けることを望まれました。洗礼、堅信、聖体拝領の一つひとつに、ご自身が現存することを望まれました。ご自分の民にこれらの恵みを授けるために、自らそこにいることを望まれたのです。そして、司教や司祭の奉仕を通して、実際にそこにおられます。
大切なのは、その奉仕のうちにキリストを見ることです。すべての司祭や司教は、それぞれ固有の仕方でキリストを表しています。一人ひとりが、その人柄と聖性のうちにキリストを映し出しています。しかし、さらに重要なのは、キリストご自身の位格において働くことによって、キリストを表しているということです。イエスは彼らを通して、赦免と聖別の言葉を語られます。ですから、わたしたちは表面的な姿の向こうに目を向け、キリスト・イエスを見る必要があります。信仰をもって神に仕える奉仕者たちに近づくなら、それは十分に可能なのです。
今日、神に仕える司祭や司教に、どのような姿勢で接しているかを黙想してください。彼らについて、どのように話していますか。彼らのうちにキリストを求めていますか。彼らを通して奉仕してくださるキリストに、心を開いていますか。彼らがあずかる使徒の奉仕職は、キリストからの真の賜物です。キリストご自身を受け入れるかのように、それを愛し、受け入れなければなりません……なぜなら、わたしたちがしているのは、まさにキリストご自身を受け入れることだからです。
主よ、叙階された奉仕者という賜物をありがとうございます。わたしにあなたのみ言葉を伝え、秘跡を授けてくださった司教とすべての司祭のために感謝します。今日、彼らのために祈ります。彼らが、あなたの愛の聖なる道具であり続けることができますように。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
あなたは女性の中で最も祝福された方!
聖母の訪問の祝日、5月31日
エリサベトは聖霊に満たされ、大声で叫んで言いました。「あなたは女性の中で祝福された方、あなたの胎内の子も祝福されています。わたしの主の母がわたしのところに来てくださるとは、どうしてこのようなことが起こるのでしょうか。」ルカ 1:41b–43
わたしたちの母である聖母、イエスの母が、わたしたちを訪ねてくださるとしたら、なんと光栄なことでしょう。エリサベトはこの栄誉を深く自覚していたので、霊感を受けて声を上げ、そのことを言い表したのです。
自分の主の母が訪ねてくださることは、エリサベトに与えられた特別な賜物でした。しかし、神の母を日々の生活の中にお迎えする機会によって、わたしたちも皆、同じように祝福されていることを理解しなければなりません。
母マリアはすべての聖人の元后ですが、すべての罪人の元后であり、聖性を目指して励む人々の元后でもあります。マリアはすべての生きる者の母であり、教会の母です。神の摂理のうちに、マリアは日々、助けを必要とする人々を訪ねるという、ご自分に固有の役割を果たし続けておられます。その訪問は、エリサベトへの訪問の場合よりもはるかに深く、人を変える力を持つ仕方で行われます。今、母マリアがその子であるわたしたちを訪ねてくださるのは、恵みの秩序においてなのです。
わたしたちの母である聖母が、恵みの秩序においてわたしたちを訪ねてくださるとは、どういう意味でしょうか。それは、聖母との関わりが、神のみ旨とご計画に基づいているということです。それは、聖母との関わりを持つことができ、その関わりを通して、聖母が御子からの数え切れないいつくしみをわたしたちに伝えてくださるということです。それは、聖母がわたしたちにとって、この世がかつて知った中で最も力強い恵みの仲介者となられるということです。それは、聖母がわたしたちの生活にもたらす働きが、深く、奥深く、わたしたちを変え、一人ひとりの内奥にまで及ぶものであるということです。
わたしたちの母である聖母との関わりで難しいのは、それが身体的・外面的な次元ではなく、霊的・内面的な次元でなされなければならないという点です。しかし、そうであるからといって、聖母を知り、愛することがそれだけ難しくなると考えるべきではありません。実際、恵みによって今わたしたちが聖母と持つことのできる関わりは、エリサベトが聖母の訪問によって持つことのできた関わりよりも、はるかに深く、奥深いものなのです。
今日、神の母とのあなたの関わりを黙想してみましょう。マリアは遠い昔にエリサベトを訪ねましたが、今は、御子の恵みといつくしみをあなたにもたらすために、あなたの魂を訪れたいと望んでおられます。恵みの秩序において、マリアとのこの美しい関わりを築くよう努めましょう。マリアを迎え入れ、その声に耳を傾け、もたらしてくださる恵みに心を開きましょう。そして、あなたの主の母があなたのもとに来てくださることを、エリサベトとともに喜びましょう。
最愛の母マリア、わたしはあなたを愛し、母としての配慮と仲介を信頼して、わたしの生涯をあなたに奉献します。愛する母よ、御子イエスからわたしにもたらしたいと望んでおられるすべてのものに、心を開くことができるよう助けてください。わたしを心にかけ、御子イエスのみ心のいつくしみをわたしにもたらしたいと望んでくださることを、光栄に思い、へりくだった心で受け止めます。母マリア、わたしたちのために祈ってください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
聖霊の降臨
聖霊降臨の主日
突然、激しい風が吹きつけるような音が天から起こり、彼らのいた家全体に響き渡りました。すると、炎のような舌が現れ、分かれて、一人ひとりの上にとどまりました。彼らは皆、聖霊に満たされ、聖霊が語らせてくださるままに、さまざまな言葉で語り始めました。使徒言行録 2:2-4
聖霊が初めて注がれたこのとき、本当に「激しい風が吹きつけるような音」がしたと思いますか。また、本当に「炎のような舌」が現れ、皆の上にとどまったと思いますか。おそらく、本当にそうだったのでしょう。そうでなければ、なぜ聖書にそのように記されているのでしょうか。
聖霊の到来に伴う、感覚で捉えられるこれらの現象が起こったのには、多くの理由がありました。その一つは、聖霊の豊かな注ぎを最初に受けた人々が、驚くべきことが起こっていると具体的に理解できるようにするためでした。聖霊によるこれらの現象を見聞きすることで、神が畏敬すべきことを行っておられると理解するための心の備えが、いっそう整えられたのです。そして、これらの現象を見聞きした彼らは、聖霊に触れられ、すっかり捉えられ、満たされ、燃え立たせられました。彼らは突然、イエスがなさった約束が自分たちの内に実現していることに気づき、ついに理解し始めました。聖霊降臨は彼らの人生を変えたのです。
わたしたちはおそらく、聖霊の注ぎに伴うこうした現象を見聞きしたことはないでしょう。それでも、聖書に記された人々の証しを頼りに、聖霊は実在し、同じようにわたしたちの人生に入って来たいと望んでおられるという、わたしたちを変える深い信仰へと導かれていくべきです。神は、ご自分の愛と力と恵みによってわたしたちの心を燃え立たせ、世界に変化をもたらす生き方を実際にできるようにしたいと望んでおられます。聖霊降臨は、わたしたちが聖なる者になることだけに関わるのではありません。出かけて行き、出会うすべての人に神の聖性をもたらすために必要なすべてのものを、わたしたちが与えられることにも関わっています。聖霊降臨によって、わたしたちは、人を変える神の恵みの力強い道具となることができます。そして、わたしたちを取り巻く世界がこの恵みを必要としていることに、疑いの余地はありません。
聖霊降臨を祝うにあたり、聖霊の主な働きの実りを、祈りのうちに思い巡らすことは助けとなるでしょう。以下に、聖霊の七つの賜物を挙げます。これらの賜物は、わたしたち一人ひとりにとって、聖霊降臨の主な実りです。これらを手がかりとして自分の生き方を振り返り、聖霊の力のうちにどの点でさらに深く成長する必要があるのかを、神に示していただきましょう。
主よ、わたしの人生にあなたの霊を遣わし、その賜物によってわたしを燃え立たせてください。聖霊よ、わたしの魂をあなたに委ねます。どうぞ、そのすべてを治めてください。聖霊よ、来てください。来て、わたしの人生を変えてください。聖霊よ、わたしはあなたを信頼します。
聖霊の七つの賜物
敬畏:この賜物によって、キリスト者は神との関わりを傷つけかねないあらゆるものに、鋭く気づくようになります。この関わりを傷つけることへの聖なる「畏れ」が生まれ、どんな犠牲を払ってでもそうしたものを避けるための恵みが与えられます。
上智:この賜物によって、キリスト者は、思弁的理性を用いて「神に関わる現実を思い巡らす」ための特別な恵みを与えられます。わたしたちは全体像を見渡し、この世界で平和と調和の道具となるための最善の道を知ることができます。
聡明:これは、信仰に関わる事柄について、超自然的な確信を持つことのできる力です。人生の意味が分かるようになります。啓示のより深い部分の意味を捉え、苦しみの意味を理解し、疑いへと誘うものを理解することができます。この賜物によって、人生のすべてが神の計画に従って善のために働き得ることが、分かるようになります。
知識:この賜物によって、キリスト者は、どちらかといえば実践的知性を通して、それぞれの状況における神のみ旨を知るようになります。わたしたちは日々の生活の中で、どのように生き、どのように神のみ旨を識別し、どのような決断をすべきかを知るのです。また、この賜物によって、過去の過ちから学ぶこともできるようになります。
賢慮:この賜物によって、キリスト者は自分を、教会全体を形づくる鎖の一つの輪として見るようになります。神は、わたしたちが旅路で互いに助け合い、支え合えるよう、一人ひとりを用いてくださいます。わたしたちは、互いを育て上げるために自分の役割を果たせるよう、何を語り、どのように行動すべきかを知るのです。
剛毅:簡単に言えば、善を行い、悪を避けるための、心と精神の揺るぎなさです。いわば、キリスト者の勇気です。福音は、わたしたちすべてを、徹底した愛の生き方へと招きます。剛毅は、その生き方を貫くために必要な力を与えてくれます。
孝愛:この賜物によって、わたしたちは、まず神を敬い、愛することができるようになります。それだけでなく、互いの尊厳を認め、神の子どもとして互いを敬うこともできるようになります。
十字架、聖体、そして聖母
教会の母聖マリアの記念日—聖霊降臨後の月曜日
イエスは、母と、そのそばにいる愛する弟子をご覧になって、母に言われました。「婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です。」それから弟子に言われました。「ご覧なさい。あなたの母です。」その時から、この弟子はイエスの母を自分の家に迎え入れました。ヨハネ 19:26–27
2018年3月3日、教皇フランシスコは、聖霊降臨の主日の翌日の月曜日に、「教会の母聖マリア」という新しい記念日を祝うことを発表しました。以後、この記念日は一般ローマ暦に加えられ、全教会で祝われることになりました。
この記念日の制定にあたり、典礼秘跡省長官ロベール・サラ枢機卿は、次のように述べました。
この祝いは、キリスト者としての生活の成長が、十字架の神秘、聖体の食卓におけるキリストの奉献、そして神にご自身をささげるおとめであり、あがない主の母であると同時に、あがなわれた人々の母でもあるかたに、しっかりと結ばれていなければならないことを、わたしたちが心に留める助けとなるでしょう。
「しっかりと結ばれる」べきなのは、十字架、聖体、そして聖母マリアです。聖母は「あがない主の母」であると同時に、「あがなわれた人々の母」でもあります。教会のこの聖なる枢機卿の言葉は、なんと美しい洞察に満ち、心を奮い立たせてくれることでしょう。
この記念日のために選ばれた福音は、御子の十字架の前に立つ聖母の聖なる姿を、わたしたちに示しています。そこに立っていた聖母は、イエスが「渇く」と言われるのを聞きました。イエスは海綿に含ませたぶどう酒を与えられ、それから「成し遂げられた」と告げられました。イエスの母であり、あがない主の母である聖母は、御子の十字架が全世界のあがないの源となる、その証人として立っておられました。イエスは、その最後のぶどう酒を口にされたとき、新しく永遠の過越の食事である聖体の制定を成し遂げられたのです。
さらに、息を引き取られる直前、イエスはご自分の母に、今や母が「あがなわれた人々の母」、すなわち教会の一人ひとりの母となることを告げられました。イエスの母が教会に贈られるというこの賜物は、「ご覧なさい。あなたの子です……ご覧なさい。あなたの母です」というイエスの言葉によって象徴されていました。
教会全体で祝われる、この新しく美しい記念日を迎えるにあたり、十字架、聖体、そして天の母とご自分との関わりを、思い巡らしてください。進んで十字架のそばに立ち、わたしたちの聖母とともに十字架を見つめ、イエスが世の救いのために尊い血を注がれるのを見届けようとするなら、あなたもまた、「ご覧なさい。あなたの母です」というイエスの言葉を聞く恵みにあずかります。天の母のそばにとどまってください。母としての慈しみと保護を求め、その祈りによって、日々いっそう御子のもとへと引き寄せていただきましょう。
最愛の母マリア、神の母、わたしの母、そして教会の母よ、わたしのために、また、世をあがなうために十字架から注がれた御子のいつくしみを切に必要としている、あなたのすべての子どもたちのためにお祈りください。わたしたちが十字架の栄光を仰ぎ見、この上なく聖なる御聖体をいただくとき、あなたのすべての子どもたちが、あなたと御子にますます近づくことができますように。母マリア、わたしたちのためにお祈りください。イエスよ、わたしはあなたを信頼します。
ペーパーバック版 & 電子書籍版もあります
このシリーズのその他の書籍
「カトリックの日々の黙想」シリーズは、典礼暦年全体を網羅する全4巻から成ります。このシリーズの書籍は次のとおりです。
「カトリックの日々の黙想」シリーズ
日々の福音を黙想するこの4冊に加え、神のいつくしみについての日々の黙想を収めた、次の書籍もお勧めします。
『神のいつくしみについての日々の黙想――聖ファウスティナとともに歩む365日』
カトリックの信仰の全体を、『カトリック教会のカテキズム』に記されている内容に沿って概観するには、わたしたちの信仰をまとめた全3巻の次のシリーズをご覧ください。
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