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Q. 人はなぜ煉獄に行くのか

Q. 私が煉獄に行くとすれば、どのような理由が考えられますか。

A. まず、受け入れるにはつらい真実から始めましょう。至福直観の栄光と輝きに余すところなくあずかり、神と顔と顔を合わせてまみえ、神との完全な交わりに入るためには、あらゆる罪をゆるされること、そして、罪へのあらゆる執着から清められること、その両方が必要です。これは栄光に満ちた招きであると同時に、厳しい努力を求める歩みでもあります。

あらゆる罪と、罪へのあらゆる執着から清められることは、任意に選べるものではありません。あらゆる点で完全になって初めて、聖人たちが「神との一致」あるいは「霊的結婚」と呼んできたものに入る準備が整います。次のように考えてみてください。生活の中で罪に、たとえごく小さな不完全さにでも執着しているなら、その執着を神の前に持ち込むことはできません。神はまったく聖なる方であり、純粋な愛そのものです。神はあなたがご自分と一致することを望んでおられますが、あなたの罪深い執着を受け入れることはなさいません。

第一の段階はゆるしですが、これは容易なほうです。私たちが罪を悔い、ゆるしを願うなら、神はいつくしみによって私たちの罪をゆるしてくださいます。第二の段階は、罪のあらゆる名残から完全に離れることです。たとえば、他人を批判する言葉を口にする習慣があり、それを告白したなら、過去に犯した批判の罪はすべてゆるされたと確信できます。しかし、ゆるされたからといって、その罪への「執着」から清められたということにはなりません。この場合、批判する罪への執着とは、他人のあら探しをする、秩序を欠いた傾向のことです。執着は誘惑とは異なります。執着とは、自分の意志で身につけた習慣なのです。

清めとは、自分にある罪深い習慣を一つ残らず断ち切り、習慣となったあらゆる罪から、さらには不完全さからも離れ、ただ神とその聖なるみ旨だけに結ばれるようになる過程です。しかし、いったいどうすればそのようなことができるのでしょうか。結局のところ、それは独りですることではありません。そうではなく、神を自分の魂にお迎えし、罪深い習慣や執着のすべてから清めていただくのです。そこには痛みが伴います。しかしそれは、清めをもたらし、自由へと導く痛みなのです。

煉獄とは、死ぬときになお残っているあらゆる執着から清められる過程を指します。理想を言えば、死を迎える前に、この地上で清めの過程を歩み、今ここで神との一致を味わうことができればよいのです。しかし、この地上でその過程を終えられなかった場合には、死後、煉獄でその過程が完了します。

これを暗い話のように感じるかもしれませんが、そうではありません。理解し、受け入れるなら、それは美しいものです。さらに詳しく知りたい方は、このサイトに掲載されている次の本に関心を持たれるかもしれません。 『神との一致への神秘の旅――十字架の聖ヨハネに学ぶ霊的な知恵』。


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